今後自分を待ち受けて居ることだらう参位壱體での宗教的な展開のことー今後の我が宗教的、思想的スタンスに就いて
さてコノ「煩悩即菩提」との概念を自分の場合は以下の如くに解釈する。
煩悩(欲望)⇔菩提(悟り)
「煩悩」と「菩提」はさう相對的に規定されざるを得ぬ故に實體では無く相對的現象となる。
相對的現象の實相とは仮象であり仮象とは認識上の誤りであり倒錯のことだ。
とは言え事實上我我ニンゲンがコノ世にて認識し得るのはまさにソノ認識上の誤りであり倒錯のことでしか無い。
イザソコのところを正さうとすればソレは御釈迦様の如くに中道なる弐重否定論理にて否定を重ねる他は無し。
ですがあくまでソノ幻と申すか虚妄の認識の最中ではソレー概念的對立ーがあたかも存在するかのやうにさう観えて御座る。
つまりがさう「違うもの」として分別ー区別ーされ常にさう感ぜられて居やう。
とのことはナニよりもまずはソレが「縁起関係」による現象化ー虚妄分別による幻の現實化ーであることがしかと分かる。
同時に縁起関係なのだから単独概念としてソレは存立し得ずつまりはさう価値が對になることで初めてソノ幻の現實化は成立し得る訳だ。
コノ對立的認識=生來のニンゲンの認識はコノ侭にやるとむしろ自己矛盾し破壊乃至は崩壊を生み出す。
つまるところニンゲンの認識をソノ侭にやりますと結果として世界を破滅へと導いて仕舞うのでした。
おお怖い。
むしろソレがアノオウム教によるテロ以上に怖くはないか?
なので御釈迦様の場合はコノ弐元性ソノモノを含めて同時否定致します。(中道の論理)
またクリスト教の場合はソレをソノ侭に神の認識へと上昇させ(高次元化し)ニンゲンの認識による世界の破壊を食い止めます。(ですがニンゲンの行いがあくまで惡いと神が怒り逆にソノ御怒りにより世が滅ぼされる)
でもってしてイザワタシのリクツですと、
煩悩(欲望)⇔菩提(悟り)
コレ等をむしろ徹底してやりさうやりますことで「達観」に至りもうどちらへも自由に出入りする境地をこそ目指します。
さても昨日は煩悩全開だ!
でも今日は菩提全開ぞ!
てなものでせうか。
兎に角「全開」でもって行きますのです。
つまりはさう「幻としての認識」の中にあえて「有的価値」や「實存的価値」を見詰めるとの考え方のことなのだ。
たとえばアノ「マトリックス」と云う映画の中で眞實は何かと言えばソレはネオのトリニティーに對する「愛」でせう。
ですのでアノ映画はソレが描けて居るので根本的にはクリスト教の映画なのか。
いやだがネオのトリニティーに對する「愛」が「アガペー」だとはまさか言えませんか。
その「實存的価値」はたとえ死んでも消え去らぬ「有的価値」となる。
例えば君が此の世に於いて仕出かした「惡の行為」やまた「善なる行為」は必ずやコノ世界の記憶に残り死んでもまるで消え去らぬ。
ええっ?ではソレこそが「有」とのことなので?
でも佛法では常に「無」だとか「空」だとかさう言われて居りますまいか?
本質的にはさう観えて居る現象界は所詮虚妄世界でありソノ意味では「無」だとか「空」だとかさう言わざるを得ぬ。
ですがソコをあえて「有」だとか「實存」だとかまた別次元での価値を持ち出しさう設定しちゃう訳だ。
さう設定しちゃうことで「眞理」の世界とは壱旦離れますが「實存」=眞我には気付くとのさうしたカラクリですな。
アナタのそんな有我論はでも釈尊の教えとはまるで違うものですよ!
…ですから釈尊の説かれた法はそも高尚過ぎ且つ潔癖に過ぎて我我凡夫にはやれんものなのだから。
ですから我我はさう煩悩にまみれにまみれたタダのバカでアホウでしかも💩迄垂れたドーブツのやうなものです。ーさう垂らした大問題の尻拭いがやれずー
またニンゲンの社會の方はむしろソレ以上にバカでアホウでしかも💩迄垂れたドーブツのやうなものです。ーさう垂らした大問題の尻拭いがやれずー
どうでもイイけどそんな云い方は無いでせう、まるでアナタはサイコパスかソシエパスのやうだが。
なのでそんなアホやバカにはむしろアホやバカに向いた教えと云うものが必要なのではあーりませんか。
あっ、分かった、ようやく分かった君は所謂外道の壱人なのだな。
あれっ、よりによりたうたう我が正體を見破られたか。
もしや君は古代印度より連綿と続く異端の思想家の壱人だったのだね?
はい實はナニを隠さうさう異端の思想家であり邪教の教祖なんだが…。
生死⇔涅槃
尚コノ場合にもまた同様に考えます。
「生死」ソノモノと「涅槃」ソノモノは単独で存立し得ずよって虚妄分別をあえてしませんと「現象界」ソノモノがむしろ否定的に扱われて仕舞う。
むしろ「現象界」ソノモノを否定的に扱うことこそが眞理なのだがソコをあえて否定に至らずそんな相對的虚妄世界の中にさえ咲くだらう花の美しさをこそ見詰めて行く。
ー1966年、仏教学者のエドワード・コンツェはメディアン会議において、アイザック・ヤコブ・シュミットの初期の提案を受けて執筆された論文「Buddhism and Gnosis」の中で[1]、大乗仏教とグノーシス主義との現象学的な共通点を指摘している[2]。克服されずに残っている、あるいは克服するためには特別な霊的知識を必要とする邪悪な傾向の存在を釈迦が説く限りにおいて仏教は、「反宇宙論」・「反宇宙的二元論」で知られているグノーシス主義の一派だとしている[2]。
グノーシス主義は物理的世界、肉体的世界から「霊的知識・認識」によって救済されるとする反宇宙的二元論、極端な霊肉二元論をとる[3][4]。人間が肉体、宇宙等の非本来的なものによって阻害されているという反宇宙的二元論の立場から、物理的な宇宙を超える超越的存在と人間の本来的自己の本質的同一の「認識」を救済とみなす[5]。コンツェの8つの類似点に基づいて、ホーラーは解放のための洞察であるグノーシスとジュニャーナ、智慧をソフィアと般若として擬人化すること、洞察力の欠如であるアグノーシスと無明によって、この世に閉じ込められるなどの類似点を挙げている[6]。
仏教の宇宙論では極楽、東方浄瑠璃世界、妙喜世界、八大地獄、十界等の物理的宇宙には存在しない複数の超越的世界を規定することがある。密教におけるパーターラ等もある。ー二元論 - Wikipediaより
引用部の内容はまた滅茶苦茶に面白い。
なる程大乗佛法とグノーシス主義は同じやうなものなのか。
佛法はそも反宇宙的な思想と云うか教えです、但しソコに弐元論の形を取る限りは。
ー古代インドにおいては、自我を自己の内部に追求し、呼吸や思考や自意識の背後に心臓に宿っている親指の大きさのプルシャを想定し、アートマンとこれを呼び、現象界の背後にある唯一の実在をブラフマンと呼んだ(アートマンとブラフマンの二元論)。だが、このアートマンとブラフマンの二元論は、小宇宙と大宇宙の照応観念を背景としたウパニシャッドの神秘主義的なウパーサナ(upasana、同置)の直感のなかで、アートマン=ブラフマン(梵我一如、ぼんがいちにょ)として、一元論に還元されることになった。
サーンキャ学派[7] は、人間に内在するアートマンの超越性を強調し、精神原理のプルシャと物質原理のプラクリティを抽出し、体系的な二元論を構築した。その体系は、普遍のプルシャと結合したプラクリティから、統覚機能、自我意識、思考器官、10器官、5微細元素、5粗大元素へと分かれる、25原理の図式を備えている。これを今述べた順に降下する方向で理解すると宇宙論となる。反対に上る方向で辿ると、ヨーガの深化に対応する、人間存在が備えている重層的な主観/客観の二元論構造を示すことになる。つまり、精神/外界、思考/対象、自我意識/表象、意識/無意識、自我/非自我といった二元論の広いテーマを内包している。さらに究極の二元はプルシャの解脱のために結合し、世界を開展するとされる。目的論的に結合する。この二元は、さらに高次の存在により統合される一元論を内に孕んでいる。
『バガヴァッド・ギーター』においては、サーンキャ学派の二元論をベースとしつつ、クリシュナ神が至高の存在と宣言される。また、タントラにおいても、シヴァ神とシャクティ神妃という二元が合一し、一元となることで解脱する。
神秘主義(神秘論)においては、世界を大きく二つの範疇(分類)に分けて認識・理解するという人間の性質を意味している。例えば、人が木を認識する際に、周りの木でないものと分かつものとして木を認識する、また世界と自己を分かつものとして、自己を理解するということである。ー二元論 - Wikipediaより
こちらもまた實に面白い記述となる。
元來佛法は「壱元化」=神化?する教えでは決して無い。
ですが大乗教説には屡神化した佛なるものが登場する。
要するに弐元論の侭ですと神は登場しないがイザ壱元化されると神が登場し挙句には梵我壱如ともならう。
ー中国を中心に発達した陰陽思想では、世界は陰と陽の二つの要素から成り立っていると考える。具体的には光と闇、昼と夜、男と女、剛と柔などにそれぞれ陽と陰の属性が対応すると考えられた。この場合二つは必ずしも対立することを意味せず、むしろ調和するもの、調和すべきものと捉える。そして、一元化はしない。そういう点では善悪二元論に陥りがちな、一神教が唱える究極的には一元化するものと考える二元論とは、大きく違っている。
関連項目
- 道教(タオイズム)老子は相待を説く。例えば、美は醜があるから、相反するものと比較するから、美しいのであるとする相対である。相互いに待っているとする。男と女のようなものでの二元論だ。善も悪があるからである。比較しながらも必要とする二つのものだ。ー二元論 - Wikipediaより
むしろワタシの考え方はコノ陰陽思想ー仙道思想ー的なものに近いのだと言える。
まさにソノ「相待」なる概念は大事である。
つまりは違ったものがそも對立ばかりして居るかと言えばさうでは無い。
對になるものはむしろそれぞれに大事で有り且つ他を必要として居る。
さうして元元違って居て同時に和合するものなのだ。
さうしたことをかって述べた大哲學者が我が國にもかって居てソレが西田 幾多郎氏である。
陰⇔陽
彼はまさにソノ関係性より所謂「絶體矛盾的自己同壱」なる概念を導き出した訳です。
要するに違って居て果たしてドコが惡いのか、ソレは對立する以前にむしろ調和して居りませんか?との考え方のことなのだ。
でもってしてさう對立する以前にむしろ調和して居るのでそも壱元化する必要などは無く要するに神などは要りません。
なのだとしたら自分が仙人化するだけのことで神や佛に救いを求めることとはまた違う。
また老子は兎に角ちっこく生きることこそがニンゲンの長持ちの秘訣だともかって述べて居りましたものだった。
ちっこい社會活動⇔デカい社會活動
どう考えても我我ニンゲンの社會は近代以降後者の方での価値を追求しつつ突き進んで來し。
でも老子に言わせればまさにソレぞ間違った社會の進み方なのです。
また老子は何と「機械」を否定的に見詰めてもおった。
すると「機械」物はむしろ全部✖なので?
さう彼によれば✖✖✖ソノモノでありましたのです。
じゃあアナタ宗教詩人は仏教徒だと言いつつほんたうは仙人様の方なのかい?
さうほんたうは仙人様の方なのだわい。
仙人様即ちかの加島 祥造先生の御弟子さんー自称のーと云うことでもあり。
兎に角、です。
兎に角問題はコノ現代社會がかうして脇目もふらずに頑張り果たしてドコへイクかとのことではないでせうか。
ドコって世界のみんながより豊かで便利な生活をするのですから…。
するのですからってそんなもんを勝手に決めてはそもアカンでせう。
そんなもんを勝手に決めて置いて實際にはかうして近代全體主義をやり刻壱刻と地球を破壊しにかかって居るのではあーりませんか。
すると「近代」物はむしろ全部✖なので?
さう實は✖✖✖ソノモノでありましたのです。
さてむしろ危ないと申すかヤバいなとさう感ずるのはコノ種での壱元化論のことだらう。
鉄器時代の南アジアでは、ヴェーダ時代[14] に一神教への傾倒が見られた。『リグヴェーダ』では特に比較的後期の第10巻[15] にブラフマンの一神教の概念が見られ、宇宙開闢の歌(Nāsadīya Sūkta)などは鉄器時代初期のものとされている。古代ヒンドゥー教の神学は一神教であったが、一人の最高神ブラフマンの側面として想定される多くの神々の存在を依然として維持していたため、厳密には一神教的崇拝ではなかった[16]。
ヒンドゥー教の宗教文書であるヴェーダには、存在なき存在、息(生命)なき息(生命)、宇宙的存在に自己投影される単独の力への言及がある。ヒンドゥー教の中で最初に明確に絶対的一元論を唱えたのは、シャンカラの唱道するアドヴァイタ・ヴェーダンタである(アドヴァイタは「不二」すなわち非二元論の意)。これはヒンドゥー教の6つの哲学体系のうちの一部で、ウパニシャッド哲学を基礎にしており、究極的なモナドとしてブラフマンと呼ばれる無定型で神聖な基底があると見なす(梵我一如)。こうした一元論的な思考は、ヨーガや非二元論的タントラといった他のヒンドゥー教流派にも広がっている。
別のタイプの一元論はラーマーヌジャ学派やヴィシシュタ・アドヴァイタによるもので、世界が神(ヴィシュヌ)の一部であるとする。汎神論ないし万有在神論の一種であるが、この最高存在の中に魂や実体が複数含まれるとする。このタイプの一元論は一元論的有神論と呼ばれる。ヒンドゥー教では、内在的かつ超越的で普遍万能の最高存在としての人格神の概念が優勢である(一元論的有神論を絶対的一神教と混同しないこと。絶対的一神教は神を超越的とのみ考えるから、全てに現前する内在的な神の観念は不在である)。ー一元論 - Wikipedia#東洋より
さてクリスト教がさう壱元化するものなのかどうかはまた別の機會に考えてみたい。
されど問題はソノヒンドゥー教に於ける「梵我壱如」思想のことであらう。
だけれども先に述べた「仙道思想」はまた「梵我壱如」的な側面をもしや持つものなのではないか?
まあイザソノ辺り迄考え込みますと不安にもなりますので止めて置きませう。
ー仏教では、梵(ブラフマン)が人格をともなって梵天として登場するが、本来のインド思想にあっては、自然そのもの、あるいは遍在する原理、または真理を指していた。我(アートマン)とは、身体の中にあって、他人と区別しうる不変の実体(魂のようなもの)として考えられ、「真我」と漢訳される。
すべての行為、すべての愛欲、すべての香、すべての味、このすべてを包括しているものは、言い表せることなく気づかない。これが心の中の我がアートマンであり、これがブラフマンである。この世を去って後、われはこれと合一すべしと思う者には、実に疑いあることなし。— チャーンドーギヤ・ウパニシャッド,3,14,4 [1]
ヴェーダ(ウパニシャッド)における究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、宇宙に遍在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、あらゆる苦しみから逃れることができるとする。ー梵我一如 - Wikipediaより
さうヒンドゥー教に於いてソノ「眞我」とはアートマンのことだとされて居りますがワタシの言う「眞我」とはつまりが個的實存のことなのです。
また「個的實存」がさう梵天だの梵だのとくっつく訳には非ず。
さてナゼナラ「個的實存」はたとえ神ですら覆したり否定したりし得ぬ「たった壱つの価値」のこととなる。
「たった壱つの価値」つまりがソレはかのマルクス主義以上に個としてのニンゲンの価値を持ち上げるものとなる。
但し正しいニンゲンの価値を持ち上げるのであり大企業だの自治體、さらに國だのと云うデカくて強い組織からはなるべく価値を略取してソコから入るカネの分をみんなで分けて樂しく暮らしたいね、との多分に未來的な人権志向を持つものとなる。
では「個的實存」は神佛を必要としないのだね?
ならばソレは共産主義とのことなのであるか?
ですがコノアナキストが特殊なのは神佛を信じてもソレは自由だとのこととなりませう。
す、すると「仙人様」であると同時に「アナキスト」でありまた同時に「神佛」を信じても居るとのまさに参位壱體とでも申すべきか訳の分らぬ外道の思想なんだ。
あーエエですよ、どうせこんな根っからの外道ですから。
まーワタシなんぞは近くおっ死ぬんでせう。
しかもココのみを世に遺し死ぬることとなる。
ですがちゃんと言うといたりますわ。
何でかと言えばワシ思想詩人の教義こそがサイコーの教えだからなのだ。
「サイコーの教え」だと言いつつ自分の欲望を撒き散らす教祖のまたなんと多いことか!
どうだおめえもまたさうだろ、宗教詩人様よ。
いやワタシの思想は兎に角優しい。
さうしてカンタンだし誰にだって必ずや益になるものだよ。
但し御布施の額だけはどうか参桁をゼヒ御願いしたい。
いや弐桁でもイイ、たとえば君が今ビンボーで月給が手取りで15萬だとする。
ならばむしろソレには手を付けずに「ボーナス」の分を手渡しして頂けますれば即君が我が教団の幹部ともなれる。
いやコノ「シャンカラ」の思想は壱種凄いのだしソレを理解することも出來る。
ソレにコレは矢張りと言うべきか仙道思想的に齎される「解脱」の方なのではないか。
だがイザワタシの思想は「解脱」を目的とするものには非ず。
ワタシの思想はそもナントカ「地球」を救い人人を目覚めさせるー洗脳より解くーが為のものぞ。
ですのであくまでワタシの思想は、
1.眞我なる個的實存の価値を平等に認める
2.陰陽思想ー仙道思想ー的な面を持ち目指すのは「佛」では無くむしろ「仙人」の方
3.だけれども神佛にもまたゼヒ御助け頂きたいー宗教や宗派の別によらずー
とのこととなる。
おそらくはそんな参位壱體での宗教的な展開が今後自分の場合には待ち受けても居らう。
また最終的に今回のコノ信心の目的とは「弱き自分を強くしたい」とのそんな現世的利益としての切實なる部分より発するものとならう。