イザ仙人化せんが為の認識論的転換のことーかの宮澤 賢治氏が最期に目指したことだらう「仙境」とは?ー
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うん多分今後はコノ種での「自然」と「文明世界」の衝突が数限りなく起きることであらう。
要するに近現代文明に欠けて居るのがまさにソノ「自然」との對話であり価値の擦り合わせの部分となる。
近現代文明は正直申して「自然」に對しほぼ盲目的だ。
ソレはルネサンス以降の人文主義がまずは「ニンゲン中心主義」を生み出しさらに近代に至り科学技術が主に自然を「略取」することに及びさうなったとのことであらう。
故にまず言って置きますが「文明滅亡」は大いに有り得ることだらう未來の事實です。
もしやアナタはさう「文明滅亡」を望む方なのですか?
ほい最近はむしろ「文明が滅亡」した方が良くはないかとそんなこと迄をも思い始めた。
だが彼は眞面目に新聞を配達してるダケなのに何でまた🐻に食い殺されなイカンので?
いえ眞面目な人程災難の標的にはなり易い。
逆に面の皮の厚い惡人はスイスイとコノ世を渡ってくものとさう相場が決まっとる。
じゃあアナタなどもまた北海道で新聞配達をして居ると矢張り🐻に食い殺されたりもするのですか?
まあこんな根っからの善人ですのでね。
實はソコが非常に危険なんだな。
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いずれにせよソノ「地球灼熱化」の大問題はニンゲンのニンゲンによるニンゲンの為の社會的営為がそも根本より間違って居たとの証拠なのだ。
ではどーすれば良いのですか、とのことです。
1.社會の価値観を疑う
2.社會の価値観を切る
3.田舎へと逃げる
が、實はソレ以前に、
0.社會による洗脳を解く
とのことをやりませんとなかなか1.の方へイケません。
でもって1.と2.の間のところで例えば四拾年程もかけてしこたま御勉強を致す。
すると近現代文明社會の正體が突き止められるので後はもうアノグレタ氏のやうに文明を貶すかでももう年老いてソレがやれぬ場合にはまさに3.でイイんです。
尚、もはや明らかに三河の山奥へ逃げた方が、
4.ソノ森林にて「暑さ」が和らぐ
5.食費が抑えられる
6.空気が良く水が清い
のでむしろ長生きが出來る。
ですが、
7.医者無し
8.ピンサロ無し
9.🐗や🐻には是非気を付けるべし
とのことでまあ何時死ぬか分からんやうな部分などもまた御座りませう。
すると常に🐗や🐻やまた大🐍や野🐶やまた物の怪の類などに気を付けねばならんのか。
いえでも奥三河には時折🐵が出る位で🐻や🐗はまず出ません。
ソレと👩もまず出ない。
さうまず拾キロ四方に👩が居ない。
とのことでソノ山奥の暮らしでもって不自由するのはズバリ医者と👩でせう。
尤も今や食料の方は何とかならう。
ならばソレでもイイではないか。
うんむしろソノ方がヨイ。
では自然派詩人様はたとえ🐻や🐗に食い殺されやうとも都會よりも⛰が御好きなので?
だって🐻や🐗に食い殺されるのだとすればまさにソレは「捨身飼🐯」との佛法の上での理想的な生き方なのですぞ。
佛法の場合はさうどちらかと申せば「生きる喜び」には与せぬ価値観を持つ。
ソレは佛法がそも「解脱」を目的とする教義となるので「生きる喜び」どころか普通に飯を食い最低限の暮らしをするダケでもまず解脱するのは難しいとのソノハードルの高さが常に存するからなのだ。
ですがワタクシは個人的にそんなキビシイ原始佛法の世界を独學した折に思った。
確かに「解脱」を目的とする修行ならばソレはほぼ不可能なことながらあえて「解脱」を目的としない修行の壱環としてソレを精神世界に位置付けたならばまさにソノ方が樂だらう。
ですがさう運惡く🐻や🐗に食い殺されるのであればソレは彼等の役に立つヨイ死に方なのであり即ち菩薩行のことなのだ。
でもさう仰いつつもアナタはさう毎日モノまみれではないか。
…痛いところを突かれ申した。
確かにモノ詩人はかうモノまみれです。
ですがソレは👩まみれやまた酒まみれなのよりもさらにギャンブルまみれとのそんなおぞましい趣味よりもずっとヨイではにゃーか。
だがなさうモノまみれではあれドーブツに食われる時は大人しく食われます。
ナゼナラおおまさにソレぞ菩薩行だからなのだ。
なる程、するとアナタの場合はソノ物質との交流をむしろ捨て去らない?
だって、
精神⇔物質
であり縁起関係は必ずやソコに「相剋し且つ相即する」関係をば組み上げる。
ソノ縁起関係ソレ自體が虚妄分別ながら「相剋し且つ相即する」関係性ソノモノは高次元の認識へと棚上げすることがおそらくは可能となる。
するとソノ虚妄分別ソレ自體を例えば全能神や神神に御預けするので?
まあさうしたことであらう。
なので最終的には「佛」と「神」のどっちをも向きつつでも「佛」にはなれないし「神」にもなれる訳が無い。
要するに壱ニンゲン、壱實存としてソレを拝むばかりでのことでせう。
精神⇔物質
兎に角コノ縁起関係に於いて極否定は致しません。
むしろドッチもトコトンやったります。
はあー、確かにでもアンタはやっとるわ、まさにさう。
でせう?
だからドッチもまたやるんですう。
じゃあ何時迄さうやるんですか?
もう四拾年以上さうやって來ましたよね、では果たしてドコ迄イクのか?
さう言えばまー少し長くやり過ぎても來たのか。
さう佛法に於いて壱概に「死ぬ」のが惡い訳ではないのだらう。
逆に「生きて喜びを貪る」のが惡いのだ。
あれ詩人様はもしや「生きて喜びを貪る」ことを生きるコトの主としておいでなのでは?
いいえまるでソレをしては居ません。
つまるところワタシが佛法を語る時にはすでに根暗モードに入って居りよって非常に👩嫌いでまた酒も壱滴も飲まぬ、ましてやパチンコなんか金輪際やるものか!てな感じにて實に慎み深い壱學僧と化しておるのです。
ですがワタシは元來とても幅広い精神世界を生きる人間ですのでソノ守備範囲が佛法のみには限らず例えばクリスト教やまた他の新興宗教、さらにカルト宗教や自民党批判などと云ったつまりは何でも屋ですので實際何でも御話することが出來やうぞ。
まあさう何でもイケる壱學徒であり壱修行者なのだな。
するとアナタは「否定」をしないのか?
いいえ自由民主党を主に否定しては居りますが。
ですがワタシの佛法は無我論では無く非我論であり同時に現世利益をも全否定はせず。
また漢で有り同時に👩なのです。
するとアノ「阿修羅男爵」のやうなキャラクターなのでありますか?あしゅら男爵
さうですね、かう何だか気持ちの惡いニンゲンですぞ。
ではそんな變態詩人様は果たしてドコ迄イクので?
まあそのうちに多分野垂れ死ぬことでせう。
ええっ?すると🐻や🐗にソノ體を捧げることはしない御積りなので?
だってワタシは他人に體を触られるのが極端にイヤなのさ。
うわあー、また凄い自己本位性ですね。
だってこんな腐った肉なんぞはそもマズいですよ。
さうかコノ御人はまるでもって菩薩には非ず…。
菩薩で無いとすれば彼は壱體何なのだらう?
アアさうだつまりがアノ声聞であり縁覚だったのか…。
さてコノ際ですがかの宮澤 賢治氏がソノ晩年に語って居たとされる「後悔」の部分に就き御話をして置きます。
さう天才詩人である宮澤 賢治は所謂「菩薩行」の實践に生きた人だと語られることが多い。
されど病に倒れた賢治が語って居たのはむしろ自らの幸せのことであった。
さう自己を厳しく律し、妻帯や👪主義に走ることなく東北の農民生活の向上の為に奔走し且つ法華経の広宣流布壱筋に生きし詩人が晩年望んだこととはむしろ普通のシアワセだった。
「菩薩行」の實践としての自己犠牲=「捨身飼🐯」
「菩薩行」の實践としての自己犠牲=「捨身飼🐱」
「菩薩行」の實践としての自己犠牲=「捨身飼🐶」
「菩薩行」の實践としての自己犠牲=「捨身飼🐦」
「菩薩行」はしないので自己犠牲もせず=声聞、縁覚=独覚。
さても果たしてドレが正しいのか?
無論のことワタクシにやれるのは最後の独覚道のみです。
さてもソノ「生きて喜びを貪る」のはクリスト教に於いてさえ✖だらう。
ナゼナラコノ世は👿の世なのでさうやりたいことをやるだけですと即地獄行きでせう。
なんですが「クリスマス」ではクリスチャンもまた「生きて喜びを貪る」のだった。
いや實際ナニ教徒であれみんな遊ぶ時には遊んでますがな。
でもまたソノ遊びと「捨身飼🐯」や「焼身自決」との間にはまたエライ違いがありますね。
遊ぶ⇔眞面目
ソレもまた常に両方を是非やらねば。
どだい大乗佛法が「自己犠牲」の精神を説くのはソレが大乗佛法の教義であるからなのだらう。
ですが宮澤 賢治なんぞは手帳にメモッたダケの「雨ニモ負ケズ」なる詩をかって軍部に利用されさう雨にも負けず風にも負けず🗾の民が壱丸となり鬼畜米英に戦いを挑まねばならぬのだ、だなどとつまりは國家に作品を惡用されて仕舞いましたのです。
尚「雨ニモ負ケズ」なる詩は「デクノボウたる野の師父」の理想の暮らし振りを語ったものとなる。
ソノ「野の師父」とは「役立たずながら高潔なる精神性に生きる文人」=仙人のやうなものとなる。
さう「仙人」は世の為人の為に動くやうで居て實は役立たずである。
なので個人的に眞面目壱本槍ではむしろダメなのだと考えます。
眞面目な人は世界を良く見詰め何でもほぼ分かってる。
ですので「人類滅亡」だの「諸行非常」だのさらに「諸法非我」だのとさう信じ込み易い。
また常に己を殺し社會や他己の為に奉仕しつつ生きる=さう常に菩薩であれ、などともまた思い込み易い。
ところが實際のコノ世はまさに母ちゃんの股の間からポコッと生み出されし善惡混濁であり清濁混淆でありつまりは逆向きの要素が組み合わせるところでの矛盾世界なのだった。
なので案外エエ加減なものでも有りマジメで頭の良いアナタの考えのやうにさう潔癖にはまさか造られて居らぬ。
だからこそ眞面目な人人にこそ「遊び」の部分が是非必要なのだ。
ちなみに宮澤 賢治氏はかって色んな物のコレクターをして居ましてソレは實家が裕福な質屋でしたのでやれたことなのでした。
おそらく彼はソノことをむしろ喜んでして居たことでせう。
ですがソレも「菩薩行の實践」へと進んでからはおそらくやれては居らなんだ筈なのです。
ですので我が結論と致しましては、まさに「両方を同時にやる」とのことに尽きておる。
精神⇔物質
遊ぶ⇔勉強する
さうコノどちらをも同時にやるのです。
ですが實存にはそれぞれに得手不得手が有りますので惡の道や惡い遊びに手を出す必要などは無い。
ではどちらをもやらうとしてところが力不足にてドチラも中途半端になった場合には果たしてどうするの?
そりゃアンタの力不足なのだから仕方がねえよむしろさう中途半端でもって終わっちまいな。
地球(自然)⇔文明
ではコノ場合にはドチラを優先すれば宜しいのですか、社會の先生。
うんコレもまた本來ならばドチラもやるべきでせうがもはや21世紀なのだしソコはまたよーく考えた方がエエ。
はいワタシは文明を捨て早う奥三河へと逃げたし。
するとアノ宮澤 賢治は最終的に菩薩行的な自己犠牲をも捨て去り「野の師父」的な達観の境地にこそニンゲンとしての理想像を見詰めて居たのですか?
はい少なくとも「野の師父」は教師である賢治やまた肥料のセールスマンとしての賢治よりも役に立たなかった筈です。
つまるところソコには役立たずとも自己としての理想を生きるとの賢治自身としての内面の變化が観て取れるのではあるまいか。
はあーするとソノ面がある意味では「社會関係の放棄」のやうなものに繋がるとさう自然派詩人は観ておいでなのか。
いいですか、ニンゲンは皆不完全でありさらに様様です。
故に様様に不完全でイイのでありつまりは解脱に至る程精神的に潔癖でなくとも良くまた菩薩行を行わんが為に🐱や🐶に食われんでもイイのだ。
…🐱や🐶に食われる?
まさかソレは🐻や🐍や🐊の間違いなのでは?
いいや時にニンゲンは🐱や🐶にも食われるのです。
サアたったイマさう食われてみ給え!!
でも果たしておみゃあはナニを食ってんだ?
…つい自分の腕を強く強く噛んで仕舞いました。
つまりが「人の為に役立ち生きる」ことバカリが實存の目的ではないのだと?
「人の為に役立ち生きる」こと以前にまずは自分をこそ生きませんと最終的に人生の目的が自己矛盾するのでせう。
自己⇔他己
故にコノ縁起的自他對立に於いてもむしろ両方を同時に尊重すべきでせう。
但し両方を同時にやるのは優れた認識力が常に求められるのでむしろ多くの人はソレがやれずに要するに「中途半端」に終わって仕舞いがちなのだ。
さう兎に角徹底して両方をしてみて下され。
イザさう両方をするには「非有非無」では無く「有」としての認識が必要ですのであえてわたくしは成佛を目指さずほんたうのほんたうは「野の師父」化することを即ち「仙人」化することをこそ目論んで居ることだらう。