ソノ東山の薔薇の苑にて薔薇のニオイを嗅ぎまくる變態ジジイとは?ーアノ懐かしい「膳棚教會」をナゼカイマ再発見すー
あらゆる動物は「死ぬと消えるかすかな光」を発しているという研究結果
さう生きて有るものは常に光を纏って居る。
逆を申さば死んで居るものにソノ光は決して宿らず。
そんな光とは「神」であり且つ「大日如來」となるがドチラに観えてもまた宜しい。
だがソレ等をちゃんと敬わねばならんのだぞよ。
ナゼナラ我我は元元コンナ💩垂れのニンゲンでしかにゃーのだから。
ADHDの人がもつ「高い創造性」をより発揮させるためには?『スマホ脳』著者が解説「ADHDの子どもが含まれるグループのほうが課題にうまく対応できていた」
ソノ「創造性」とは言わばコダワリの強い生まれのニンゲンがおおまさに生まれ付きに持つものであり所謂萬人が為の認識世界には非ず。
例えば藝術の世界、さらに學問の世界また宗教の世界などで天才的な人人が居られやうが元元さう云う人の為のものです。
さう云う人は運さえ良ければさう「天才」として世にソノ業績を遺すことが出來やう。
でも所謂「不遇な天才」の人人もまた多いですからあくまでワタシの場合はまさにソノ部分への応援歌としてココにて発言を繰り返して來ました。
だからワタシの場合は少なくとも「普通の人」が「天才」並みにやれるやうになるとは考えて居ない。
逆を申せば天才的な人に取りむしろ壱番分らぬ認識なのが所謂「普通の人の認識」とならう。
ですがまさにソノ「普通の認識」に問題が生じて仕舞う(矛盾化する)ので世界のバランスを狂わせ破壊に至らしめて仕舞うのですから無論のことそんな「天才」の発言には常に耳を傾けて居てしかるべきでせう。
が、「普通の人」がイザソレを聞いてもナニを言って居るものやらほぼ分かりません。
ま、さう云うものである、とのことでせう。
また例えば宗教的天才だった御釈迦様やイイエス様の教義は當時ナニを言ってるものやらまるで誰にも分かりませんでした。
なので「分からない」のがそも「罪」であり且つ「煩悩」なのですがイザさう言われてもそんなケモノの耳にはナニも入って來ぬのがむしろ當たり前のことじゃらう。
でもむしろソレが「分かる」人は心理的に至極苦しいですので分からない方がむしろシアワセでせう。
分かる=明らかにする=究明される
さうまさにソノコトこそが至極苦しいのだから。
イーロン・マスクに少なくとも14人の実子 米メディアが警鐘「出生奨励主義」に潜む女性差別や優生思想のリスク
さうカネを持ってれば「優生ニンゲン」であり且つ特権階層なのであらうや?
むしろソノ子澤山のマスク氏は少なくとも釈迦の考え方とは逆方向ですね。
御釈迦様なんぞはあんなシャーキャ族の御世継様でしたのに「コノ世でナニかを遺すのは✖だ」とさう考えられ結果家族も國も同時に御捨てになられる。
でもってしてソノ捨て方が余りにも凄かったが故にさうニンゲンではタダ壱人「解脱」されることに成功せり。
さうかでは御釈迦様が正しい訳だ。
ところでイイエス様に子などは居りましたのでせうか?
御釈迦様には實子が居たが彼はほぼ勘當され結局坊主の壱人とされて仕舞いました。
全く酷い扱いですが壱言で申せば「眞理」とは常にさうしたものでせう。
レオ14世、就任ミサで貧困層の搾取を非難 カトリック教会の団結を呼び掛け
さて新教皇猊下のレオ14世の発言内容がかうして如何にも過激です。
まさにソレがワタシ好みでありよってもう嬉しくて毎日舞い踊って居るところだ。
ところでコノ方はもしや「左翼」なのだらうか?
いいやさうでは無くあくまで全能神の認識の次元より世の有様を睥睨され惡い奴を惡いとさう述べて居られることであらう。
さて先の月曜にまずは区役所へ行った。
アノマイナンバーカードをもうイイ加減作らんと健康保険証の方が期限切れとなるのでイヤイヤ書類を貰いまた写眞を撮り書類を郵送す。
ソノ帰りに膳棚の方を通ると教會が有った。
ソレがまさに自分が小学生の頃に通った教會となる。(かってココで英會話を習った)
うわっでも何て綺麗な教會なのだ、しかもこんなに薔薇の御🌸に囲まれた!
さうソコはまさに薔薇の🌸🌸に囲まれしカトリックの教會である。
表の掲示板を観ると何とかミサがどうのかうのと書いてある。
また新教皇のレオ14世猊下がまたナニかを述べられたとのことである。
だがワタシは佛教徒ですので中には入りません。
いつもさうして教會の周りを行ったり來たりしタダ様子を窺うのみ。
あわよくばソコに神父様でも居ればゼヒ神学上の論議を挑みたいところなれど我はむしろ變質者にしか見えないので警察にでも通報されると困る。
ああするとアンナところにマリア観音像が!!
またソノマリア様が大抵は薔薇の蔓の中に埋まる形にて置かれて居り兎に角眞っ白だぞ。
でも観音様の場合もまた白い像がもしや多くはないのか?
さうしてカトリシズムの場合は所謂「マリア信仰」が盛んに行われるやうだ。
だが御釈迦様の母に限ればまさか信仰などはされて居らん訳です。
故にかってコノ「マリア信仰」はオカシイとさう考えて居たが最近はむしろソノ「マリア信仰」にハマっても居ります。
ナゼナラさう薔薇の蔓の中のマリア像が兎に角清らかで且つ美しいのだから…。
ソレはせいぜい五分程のことであったがかの「膳棚教會」を発見したことがまずは嬉しかった。
だがナゼコノ半世紀程の間ソレが観えなんだのだらう?
さう不思議なことにソレが何時もソコに有ると云うのにまるで気が付かなんだのだった。
寺もまた多いがさう教會があちこちに有る。
また自分の場合は幼い頃にカブスカウトをして居ましたのでナゼカ教會とは縁が深く有った。
さらに父親が独逸カトリックの大學を出て居ましたのでソコもまた縁が有ると言えば有る訳だ。
ですがワタシが若い頃に學んだのはむしろ佛教でありソレも禅宗と法華経であった。
さて昔友人がケッコンすることとなりソノケッコン式に参列致しました。
ココはまたデカい教會でしてナゴヤ人には有名なところです。カトリック布池教会巡礼記 : 教会巡礼記
ココでワタシは「輝きながら」と云う歌を歌って参りました。ー實は相當に練習を致したー
が、ソノ後友人は弐度に亘り會社を設立しドチラも潰し最終的には「夜逃げ」を致しましたのです。
ソレもちっこい女の子弐名と女房を抱えての夜逃げであります。
だからそんな様を観るにつけ次第にワタシは「世間」を信じなくなりましたのです。
さらに工業大出の壱歳下の従弟が華華しく壱流企業へ入りさらに美人の嫁を娶りました。
ワタシもソノ折に披露宴へは出ましたがソコでは「踊れ!ポンポコリン」なる流行歌が彼の會社の同僚により歌われておった。
だが彼はすぐに會社を辞めまた美人の妻とも離婚したのです。
以來彼は半世紀に亘りプータロー状態です。ーある意味ではソレもまた凄いがー
だからワタシは「ケッコン」も「👪」もまるで信じなくなりました。
いやさうでは無く御釈迦様の思想にすでにかう洗脳状態ですので…。
ですから御釈迦様の思想に完全にコミットすると次第に「ニンゲン離れ」して行きますので。
ソレも本職の坊主でしたらソレがむしろイイこととなるがワタシのやうに非僧非俗の身の者ですと逆に周りに理解されなくなって仕舞う。
だからまるで息抜きのやうな気分でもって正直カトリシズムの世界にもかうして張り付いて居ります。
なので「マリア観音菩薩」がさうキレイで有ればまさにソレでヨイのでありましてつまりはアノ薔薇の御🌸を愛でるとの感じだらうか。
いずれにせよソノ南山教會や布池教會は大教會ですが實はちっこい教會の方が親しみも涌くのだしほんたうに行きたくもなるものなのだ。
自宅から壱番近い教會がこちらとなり大體1.5キロ位でせうか。
中根小学校(ワタシが第壱回卒業生)への通学路の途上に有る。
こちらで大體弐キロ位でせうか。
ワタシが通った萩山中学校の北側の瑞穂ラグビー場の際に有る。
コチラは我が通った幼稚園(曹洞宗の寺)の近くで山の上の最高級住宅街の最中に有る。
ここら辺りは何せ大金持ちが多く家が兎に角デカい。(ほんたうに御城のやうな邸宅がまた有り)
小学生の頃にココの👩の子を好いて居りまたいつもソノ子を笑わせて居て實は好かれてもおった。
だが家を観に行くと次元が違うので「逃げた」のではなかったのですが家格の違いからか次第に縁遠くなったものでした。
ちなみにソノ子の名前はズバリSACHIKOちゃんです。
小学生の頃には他にも南区の教會へも何だかんだで通って居りでも何でソコへ行ったのかがもはや分からない。
ココは家から参キロ程と離れて居るがナゼカ幼い頃に屡通った。
ソノ折りにクリスマス・プレゼントとして何かを貰った覚えが有る。
おそらくソレは1960年代後半のことであらう。
1960年代と言えばすでに大昔のこととならう。
薔薇の教會のかの「膳棚教會」の方もまた家から参キロ程は離れて居る。
だがカブスカウトでもまた行ったやうな気がするがすでに記憶が定かでは無い。
ソノ日にワタシはカブスカウトの集会で組長として「宣誓」をやらされソレを大勢の人の前で言ったのだが内容をまるで覚えて居ないのに言えと云うのはほぼ無理である。
だがなんとなくソレをやってのけた彼は當時なかなかのニンゲンだったのだらう。
ソノ折りに確か従弟とソノ母親(叔母)も居たが叔母はソノ後若くして亡くなり従弟はさう問題の有る人間へと變わって行く。
だがコノ社會自體がむしろ問題ダラケですのでむしろソノことを思い悩む必要などは無い。
さう生きて還暦迄イケばむしろソレだけでニンゲンは御の字なのだ。
さうクリスト教は特に「生きて有る」ことを大事にする宗教かと思う。
但しソノ点ではソレこそヒンドゥー教やイスラーム教などもまたさうであるのかもしれん。
無論のことこと宗教的次元では「より善く生きて有ること」が望ましくはなるのであらうがでもたとえ権力者であれまた金持ちであれさらにヒエラルキーの上位者であれソノことがやれて居るかどうかはむしろまるで分からず。
いやむしろソノ強い社會的な力こそが「搾取」を生み出し利己主義を完遂させんが為の道具ともなりかねぬ。
故にソレこそ本質的には「社會的な力」=「権力」に擦り寄ることは最も危険である。
であるからこそ出家=脱世間=聖なる世界がコノ世に用意されるのでありソレは基本的に世俗の価値観を離れるだらう意思決定の場であることをまずは忘れてはならない。
尚コノ種の宗教論議はワタシに取ってのまさに「遺書」である。
さてさう区役所で順番を待つ間に石原 慎太郎先生の「新・堕落論」を読んで居たがソコにはコレを「遺書」として書いたとさうハッキリと述べられて居た。
ですが政治的・思想的次元でもって世に對し「正論」を訴えるのはまずムリなのだ。ーたとえ石原先生であれ無理だー
なんとなればソノ世俗の価値観にはそも「正論」など有り得やう筈も無い。
さう世俗の価値観の次元に於いて皆がソレゾレに正論を振り翳すからこそさう「對立」が生じ結果破壊が齎されることとならう。
故にこそ世俗の価値観をあえて離れ宗教的な価値の次元より物事を論じて行かねばやがて世界は滅びの場と化して行かざるを得なくもならう。
ちなみにこちらなどもゼヒ訪れてみたい教會の壱番手となる。
尚教會こそがまさに「祈り」の場となる。
さうクリスチャンの方方は兎に角日日祈る。
ソコで果たしてナニを祈るのか?
うーん、もしや神の全能性に對し祈るのか?
だって文明の持続可能性に就き祈るのだとすればどうもソレはオカシイ。
ナゼナラ文明=神ならソレが滅ぶことは無いがイザクリスト教では世界は壱遍神に滅ぼされるのではないか。
じゃあ文明よ滅べ滅べ、さうみんなが滅ぼされた後で俺等クリスチャンダケが神の國へと再生するのだ!!
てな感じでもって祈るのですか。
でも表向きにはソレこそ「世界平和」だとか「人類はみな兄弟」だとかまた「地球愛♡」だとかそんな風に多分言うのでせう。
うわあーまさにそんな「愛と平和」の世界観の押し売りですか。
でも個人的には宗教者こそがまずは率先し「威張る」ことを止めさらに「施し」をなし弱い立場の人人を救うべきことが肝要かとさう存じます。
つまるところソノ「愛と平和」はまず自分にコソ鞭打ちあえて塗炭の苦しみを舐めてみるとのおおまさにそんな「力」としての謙虚な姿勢のみが生み出すことなのではないか。
さう如何にも左翼教師的な結論となりましたがまあソレはソレで確かに「正論」です。
さて20日の火曜日に昼過ぎから東山植物園へと出向き「薔薇園」を観て参りました。
さう兎に角彼🌸詩人はさう薔薇の御🌸が咲く苑こそが大好きなのだ。
結果的には最後の見頃と云ったところでコノ日に訪れたのはまさに正解でした。
尚ソノ薔薇の苑には當然ながら👩が多く來て居るが實はジジイがナゼカ多く來ておる。
ソレもカメラを携えし爺共が多く來ておる。ーさう五人程も観たー
だがいずれにせよワシに限ればソノ写眞には興味が無い。
親類に写眞家もまた居る(なんとかの立木 義浩の弟子)のですが別に自分を撮って欲しいなどとは思わぬ。
どだいわたくしはニンゲンのココロは常に醜いとさう思う者ですのでそんな外見にコダワルやうなことはまさかしない。
あれでもこんなところにまるでマリア様のやうな白い像が…。
さう確かに薔薇と西洋の文化文物とがまた實に良く合うものだ。
だが西洋文明は多分直に滅ぶのやもしれん。
無論のことソレは「神の怒り」に触れることによりさう滅ぶのだ。
でも共産主義の中國の方は助かるのやもしれん。
ではTEMUにてマリア像でも買って置くか。
さうちっこい木製のマリア像を買ってから東山へと出向いたのでした。
アアでもこんな薔薇は何時観てもキレイだわな。
では早速ニオイを嗅いで置かう。
クンクン…。
どう考えてもソレは恥ずかしい行為なのだがソコはあえて気にせずさう薔薇のニオイを嗅ぎまくって居りし。
でもって今回は主にソノ薔薇園の観賞のみに絞った。
だからソコに壱時間程も居た。
…クンクン。
おはあまたエエ香りだわや。
ソレは御気に入りの薔薇の原種となる「ハマナス」の香りである。
さう初めて「ハマナス」の芳香を知ることが出來た。
尚薔薇の香りは🌸の中でも強い方だがソノニオイに指向性が有るのか幾ら嗅いでもまるで匂わぬことすらもが有る。
だから🌸のニオイを満喫することはまた存外に難しいのである。
さう薔薇園の中をうろつき回ると「AIKO」だの「MASAKO」だのさらに「MICHIKO」だの所謂皇室関連での品種が多いことに気付かされる。
だがイザ神道と薔薇は余り合わないやうな気がしてならぬ。
また「アンネの薔薇」なども発見せり。
尚先に述べた岳見の聖イエス會の教會にはソノアンネの薔薇が咲く。
かのアンネ・フランクはさう政治の犠牲となりしそんな薔薇のタマシイなのか。
だからイヤなんだってもうそんな政治や思想の世界なんぞはもう金輪際イヤなんだ。
尤もボクの場合はソレをやり切った上でさう思うのだから御勉強して居ない若い奴等とはまるで違うぞよ。
兎に角ワシはかう生涯に亘り御勉強をしたのだからもはや何も思い残すことなどは無し。
だからボクにはもう御勉強は要らずタダかうして宗教的世界と戯れつつ最期の時を迎えるのみ。
そんな訳で兎に角さう宗教とこそ格闘し且つソコに「愛」をこそ育みたし。
はあー、宗教詩人様、またアンタはエライ!!
いやさうでは無く単にクリスト様と御釈迦様の双方にイイ子だとさう思わせて居るダケのことよ。
エエッ?するとまさか本心では惡い子だったので?
はいだいぶ惡い子(👿)ですがむしろ惡人であるが故に聖なるものへの希求がかうしてとても強く有る。
…確かにさうですね。
こんな風に毎回宗教的希求の部分を書き描くことはさうした本心が無いとそもやれまへん。
東山の薔薇の苑はさう最後の時を迎えて居るかのやうであった。
だがあくまで詩人に取りコノ薔薇の香りと光景こそがそれこそ永遠の記憶にすら等しくなることだった。
現世にてさう不断なる御勉強を重ねついに世間を捨て内面世界に生きる詩人がたったイマ辿り着きし境地こそがまさにソノ光景と重なる。