理想的萬年筆壱号及び弐号の金ペン先を具體的に示し且つ幻の廿号石川金ペン先の画像をもココに貼り付けるぞよ
さうあくまで個人的な意味での思い込みの世界こそが所謂「コレクション」の世界であり且つコレクター人生です。
ですがソノ独善的な領域はむしろ社會的領域に於ける「思い込み」に比して危険度がより少ないとモノ詩人はさう申して居る。
例えばかう「進歩せよ、シンポせよ」、「でないと御前等の國は即滅ぶぞよ!」などと近代と云う狂った社會認識が常に我我をして急き立てて御座る。
ですがソレって果たしてまともなんでせうか?
自分はむしろソレこそが異常であり且つ「破壊」でありつまりは「キチ外」だとさう思うのです。
と申しますのも自分は所謂共感覚者でありつまりは「天才」が半分位は入るニンゲンです。
まあソレを自分で言うのもまた變ですがでもほんたうはソレを是非隠して生涯を終えたかったがイザ世界がこんなに狂って來ますとつい😣がならずに言っちゃう訳ですね。
だからボクはこんな天才作家なのに何でまた三文ライター、いや零円ライターなんだらう?
まあでもソコはエエか。
兎に角重要なのは我我の生きる世界には毒毒しい価値バカリでは無くイイ価値、おお愛すべきモノの世界がしかと拡がって居ることなのだ。
さて本日は昨日の御話の続きをさせて頂く。
まずは萬年筆の金ペン先の御話を致す。
弐年前つまり2023年にわたくしは萬年筆に於ける「最後の蒐集」に挑みました。
ソノ折に随分と御金がかかりよって限定🖋を可成の数東京の店(キングダム・ノート)に売り払いつつソレを行った。
でもってソレを後悔してなどは勿論して居ない。
まあ今頃は関東人が自分のレアーな限定🖋をウハウハ言いながら使っておることじゃらう。
ではソノ「最後の蒐集」に於いて果たしてワタシはナニをして居たのか?
ズバリソレは古い萬年筆に於ける巨大なる金ペン先の収集でした。
じゃあそんな「古い萬年筆に於ける巨大なる金ペン先」には価値が有る?
まあ有ります。
1.大きな金ペン先は金がタップリ使われて居る
2.金ペン先がデカいと概して書き心地が良くなる
3.金ペン先がデカいとリッチな気分にてソレを使える
とのこととならう。
どだいイマ金相場が高くなってるので實はそんな巨大なる金ペン先壱ヶで5~10萬程もの価値となるのやもしれません。
さらに金ペン先が大きいことで書き心地は明らかに向上します。
またソノことはソノ硬軟に限らず向上するとのこととなる。
だったら結局デカい金ペン先付きの萬年筆が壱番なので?
まあ自分の場合にはさう結論付けられたので特に古く鍛金の良い巨大なる金ペン先を追い求めてみた訳だ。
ですが🖋の愛好家の中には大きな金ペン先を嫌う人人もまた居られるやうだ。
だがあくまでワタシの場合は最終的にまさにソノ部分へと走りましたのでした。
でも以前ワタシはペン先派では無く軸派であり🖋の書き心地を左右するのはつまりは軸です、などとさう掲示板の方で専ら述べておりました。
ソレが最終的にはほぼペン先派になったとのことでありませう。
では少しく画像を観てみませう。
「理想的萬年筆壱号」の金ペン先
コレがソレです。
コレは本質的にフレキシブル・タイプの金ペン先となる物だ。
ところがペン先が軸へ入り込み過ぎて居りつまりは書き辛かったので昨日セットし直しました。
すると矢張りと言うべきか「線描」がやれるのでした。
「線描」と言うのは線幅の變化を積極的に行う硬筆筆記に於ける書き方のことです。
例えば分かり易く申せば所謂西洋で行われる「カリグラフィー」のこととなる。
彼等欧米人はソノ「カリグラフィー」による筆記をこよなく愛しつまりはひとかどの愛好家ならばまずソノ「カリグラフィー」の技術を會得して居りますものです。
わたくしもかって世界を股にかけて活躍して居た折にはそんな「カリグラフィー」によるアルファベットが書かれた挨拶状を幾つか頂いたものでした。
またソレは心底より感動し得る美しい筆跡によるものであった。
だが實は🗾人もかって(戦前の頃迄)はそんなカリグラフィーによる筆記を毛筆にて屡行って居たのでした。
ところが戦後はソノ毛筆による書写技術が廃れまた学校教育でもってして合理的書写が推進されるに至りそんなグニャグニャな線でもって文字を書くのは變だとされるやうになりよって何時の間にか平板で且つ無表情な文字を書く🗾人バカリとなって行った。
でも時折すっげえ綺麗な字を書く方が居られたりもまたする。
Ⅰ.硬筆書道の履修者
Ⅱ.毛筆書道の履修者
コノドチラでもさう字が上手い、つまりはとってもステキな字を書いてる人が居られやう。
尚かく申す自分もまた字が上手でキレイです。
が、普段はほぼミミズが這い回るかの如き字を書いておる。
なんとなれば作家に取り大事なことはあくまで字の綺麗さでは無く考えたことの内容なんだから。
もう物凄く綺麗な字を書かれる人などが居ればもうソレだけで惚れちゃいますよね、誰しも。
さう兎に角綺麗な字が書けると云うことはまさに壱つの価値である。
ですが個人的には綺麗な字にばかり拘って居るのでは無くむしろ書き心地や線の出方の方により強く関心が有る。
尚作家でもって字がキレイな人はほぼ作品の方がダメなのだ。
但し例外は居られソレはかの三島 由紀夫先生です。
三島 由紀夫先生が書かれた原稿や手紙などの字はまさに端正で且つ完璧にキレイだ。
でもアタマの方は可成にオカシカッタ訳でした。
あれワシなどもまずはソレに気を付けて置かないとイケないのかな?
「理想的萬年筆弐号」の金ペン先
さてコノ14金ペン先ですが何と廿号サイズです。
ですが戦前のダンヒル・ナミキの五拾号14金ペン先や現行のNAMIKIの五拾号18金ペン先に比せば大したことは無い大きさの物だ。
ソレでも大きいのですが例えばアノNo.149のデカい18金ペン先よりは少し小さくなる。
こちらの金ペン先はモノが惡い感じにて當初より余り重視して居なかったのですが昨日しかと書き込んでみたところなかなかに良くつまりは無視出來ぬレヴェルの物であることにようやく気付きました。
さてこちらの廿号金ペン先はフレキシブル・タイプでは無く「長時間筆記タイプ」となります。
どちらの金ペン先にもJISマークが刻印されて居るので戦前のモノでは無くおそらくは1950年代位迄の物であらう。
されどソノ筆記感には明らかに「本格性」の部分が有る。
さう大まかに申せば萬年筆の金ペン先は大體1950年代位迄ですでに完成され且つ終わって居ます。
…終わってる?
そりゃまた酷い物言いで…。
いや事實としてさうなのだ。
また1960年代位からは所謂「宇宙時代」となりまさに宇宙船やロケットの如き變な萬年筆バカリとなって行きましたのです。
やがてそんな變な万年筆はイヤだとの愛好家の意見が取り入れられ1970年代の後半~1980年代にかけ所謂懐古調のモデルが作られるに及び例えばプラチナ社では本格性を持つ懐古モデルである#3776が作家の梅田 晴夫氏によりプロデュースされまたペリカン社の♯800モデルなども明らかにさうした流れを汲み誕生したものでせう。
さらに1980年代の終わり頃より所謂「限定万年筆」が開発され次次と売られるやうになって行く。
そんな「限定万年筆」の流れもまた現行の🖋がまさに合理的に堕落の途を辿ったことへの反省と🖋に於ける新たな価値の創造を目指したものであった筈。
ところが次第に「限定万年筆」の質が落ちつまりはどーでもイイやうな腐ったモデルばかりとなりしかもソレ等は頗る高価なのでした。
尚ワタシ個人は「限定万年筆」が惡いばかりでは無くむしろとっても良いモノが有るとさう信じて疑わぬ方なのだ。(ソレも概ね初期物に限るが)
だけれども先にも述べたやうに最終的にワタクシは過去の価値の方を向きソコでもって🖋を探して居る。
またソノコトは主に現行の🖋に於ける金ペン先の弱さに大きくギモンを抱くうちに自然とさうなって仕舞ったことなのだ。
ついでに壱級品の巨大な14金ペン先の画像をまた貼り付けて置きます。
コレがつまりはアノ石川金ペン先でありしかもソノサイズは廿号となるものです。
コレなどもまた2023年に得た物となる。
さて🖋は売れますがでもヤフオクとかが面倒でしかも店に売るやうな程度が無い場合には買取りショップへ売りに行くのですがソノ場合に売れるのは🖋の評価分としての価格では無く要するに金や銀等の貴金属の含有量となるのです。
つまりはそんなデカい金ペン先こそが壱番高く売れるのですぞ。
ですがそんな所謂現金な御話バカリなのでは無くデカい金ペン先は「書き心地」の方もまたイイのです。
でも君は確か拾五年程前にアノ特大の金ペン先が付いたペリカンのM1000をヤフオクにて売ったよね?
ならばソノ君の論理とはまるで整合性が取れて居ないのではないかいな。
だからそんなことをよりによりイマココで言いますかね?
そんなことを言うのは「意地惡」以外のナニモノでもない。
はい分かりました、ソノ行いは明らかに間違って居た。
もう兎に角ワタシが全部惡かった。
もはやソノ罪は誰にも償えず。
うんソレでイイ、君のソノ如何にも🖋が分かったやうな態度がどうにも鼻に付きよって最後に壱発かまして置きたかったまでのことよ。
ソレにしてもイヤな奴だなあ、こんな奴とこれから死ぬる迄壱緒に居るのはもはや耐えられない…。
さて気分を變え壱週間位前に得たペン軸のこともまた述べて置きませう。
ソレがコレだ。
コレは面白い形状でつまりは多面体軸です。
ペンを持つところがさうなって居ります。
またかうして🖋のペン先も付けることが可能となる。
だけれども普通のスチール・ニブもまた付きます。
さうして🖋のペン先の方が實は「書き心地」が良くなる。
またソノコトは🖋のペン先の方がより大きいしさらにイリジウム合金のペンポイントが付くことによる。
されどdip penの筆記に於ける本質的要素とはあくまで「線描」にこそ有り。
要するに「書き心地」云云などでは無いのであります。
さてかってわたくしは現役時代に現代の万年筆観を批判しても居りましたものです。
ソレはどう云うことかと申せばそんな「書き味中心主義」はそもオカシイぞ。
とさう申して居りましたのでした。
ですがソノコトを単にアタマで考えさう述べて居たのでは無くちゃんと戦前~🖋黄金期~1910年代以前の萬年筆迄全てを調べ上げた挙句にさう「オカシイ」と述べて居たのであります。
まあ確かにイヤな奴です。
イヤな奴ですがさうグレタさんのやうについほんたうのコトを言いましたのです。
も、もしや君こそが万年筆界のグレタさんなので?
さうもうこんなグレタちゃんでーす。
おいジジイ、果たして御前のドコがグレタちゃんなんだ?
はいこんなに可憐で且つ可愛い物言いをするところがまさしくソノグレタちゃん以外のナニモノでもあるまい。
おいグレタジジイ、そんなに調子に乗ってるとまたドーンと惡いことが起こるぞよ!
分かりました、どうもすみません。
かうしてもうドコ迄も反省すること頻り。
でもな最後に壱言ダケ言わせてお呉れ。
さう筆は筆ダケはウソを付かないぞ。
筆ダケはもう目壱杯に正直でまさかドコにも逃げては行かないぞ。
果たしてソレでナニが言いたいのだ?
いやだから地球から逃げるのでは無くソノ病んだ地球をこそ是非救わねばならんのだよ我我ニンゲンは。
なる程さうかー、そんな筆がウソを付かぬことつまりはモノはウソを付かない、とのそんな有り難い御話だったのですか。
さう我我が得るモノは常に我我と共に有る。
いいや我我が壱人、また壱人と世を去るにせよちゃーんとさう歴史を引き摺りつつまさにソコに有る。
まさにソノことこそがそんな現に有るモノとしての価値世界では無くして何であらう?