そんな職人としてのイイ仕事が我が國をば救うーイイ仕事がやれる職人はどんな時でもさう正しく有れるー
さて本日は久久の雨の日でソノ雨の日は読書か又は思考に向いた日ともなる。
尤も皆様がさうであるのかどうかソレはワシにもまるで分からん。
ワシにはかうワシの視野が開けて居るダケのことですのでワシ以外のことが分かったら即ちソレは奇跡か又は超能力と言うものです。
ですが神頼みでは無くまた超能力でも無く自分の頭で考えることこそが自分の長所であり同時に短所です。
さてほんたうは今日石原先生の本の続きを読む積もりであったがナゼカまたココへと戻って來た。
石原先生の批判力は言わば全面的に言葉が立っておりソレはソレは物凄いものです。
流石はアノ三島 由紀夫先生の嫡流としての方なのだ。
尚自分はそんな右翼文人ではまさか御座りません。
けれど革命家なのでも實は御座りません。
要するにイデオロギーの放棄を説くアノ中國の文人=仙人(仙道修行者)のやうな者なのです。
ソノ仙人さんの頭の中は始終目壱杯に働いて居りよって毎日色んなことを考えたりもするが實はソレが樂しい訳には非ず。
つまり考えることはむしろシアワセでは無く逆に苦痛でありではナニが樂しいかと申せば無論のことソレが「遊ぶ」ことです。
考えること=抽象的に悩むこと⇔遊ぶこと=具體的に何かを愛でること
ではナニを愛でるかと云うにソレは森羅万象に亘るものともなる。
つまりは何でも良いから「他」を眺めて居ることのみが面白くもあらう。
ナゼナラ自分の心と向き合うことはあくまでむしろ苦しいことなので。
さて本日はまた🗾論の続きをやり出來得ればソレを結論付けて置きたし。
まずは今朝目が覚めてから暫くして御託宣が下りソノ内容に付き書かせて頂きます。
實體としての國民主権(戦後民主制)
まずはコノ弐重構造に🗾國の體制としての秘密が隠されて居る。
また無論のこと戦前であれ権力構造の要素が異なるのみで實はコノ弐重構造自體に變わりはない。
要するに所謂「建前」と「本音」との弐重構造がかの國には居座って居る。
つまるところ、
天皇制は古臭いとさう思いながらも「建前」としてはソレを続けて行くこと。
また「本音」ではこんなアホな自民党を許せぬにせよ「建前」としてはソレを続けて行くこと。
こそが實はかの國では大事な価値なのだ。
でも「本音」バカリをまくし立てる左翼をかの國の人人は決して認めず。
まただから兎に角「革命」は大嫌いなんだな。
かと言って結果的に「革命」を断行せしコイズミ政権は米國の家來ですのでソレはソレでヨシ。
でも奴のドコがエエんだ?
どう考えても🗾共産党の方がまともではないか、ソノ頭の内容が。
うーん、もうナニがナニやら分からんやうになって來たわい。
つまりはかうして「政治レヴェル」、「體制レヴェル」ではまるで訳が分からぬやうになるのがココ🗾國での定めなのだらう。
また危機管理能力のことを考えるに、
大衆レヴェルでは所謂「職人技」が危機を回避する能力を保つ
政治、行政レヴェルでは観念性の欠如より危機を助長させる能力を逆に保つ
とのことが導きだされ、つまりは、
コノ國は大衆レヴェルでは逞しく〇ですが政治、行政レヴェルではむしろ訳が分からず✖である。
とのことと相成った。
「職人技」=生きる術=イイ仕事
さてコノ職人技とはつまりが「現世利益性」=「現實性」=「具體性、具象的行為」とのことなのだ。
だからかってかの國での物作り(物造り)は須らく良かった。
即ち戦後の高度経済成長はソノ具體性を帯びたところでの「イイ仕事」により支えられしものだった。
ところが近代世界が物の生産→情報の生産へと移り變わり即ちソコで求められるものが「具體的な技術」から「革新的且つ抽象的な技術」の方へと大きく変貌を遂げる。
すると壱挙に🗾のイイ仕事がむしろ役立たずとなる。
ナゼナラ職人はタダ黙って物を作るのが上手いダケなので。
だが、です。
だが實は内需を中心に近代的な生活を営むのであれば今現在でもむしろソレが壱番大事なこととなる。
すると🗾の職人としての庶民が今を生き抜く術は有るのだと?
さうおそらくは鎖國した上で諸諸の自給率を高める方向性に進めば逆にソレが明らかに有利とならう。
尚ソノ職人と云うのはたとえ灯油の販売員であれまた🍱の配達者であれイイ職人さんが必ずや居るものだ。
すると職人とは生き甲斐として勞働する人人のことなので?
さうボクとは違い喜んで毎日働き頑張って居られる人人のことですよ。
じゃあ何でアンタはさう頑張り働くことがキライなのか?
だってこんな文人ですもの、かうして命を懸け日日考え作文し世に提言することの方がずっと役立ちませう。
だがどうも半分位は遊んで書いて居られませんか?
いいえまさかそんなことが有る筈は無い。
ではソノ「イイ仕事」の集積がココ🗾の底力となりつまるところ本質的にはGDPだの何だのとのそんな数字のことでは無いとさう仰って居られるのですか?
まさにさうしたことです。
しかもアノ中國にはたとえ数字でもって負けてもイイ。
ナゼナラ中國の人口はココ🗾の何倍居ることだらう。
中國は元元大國でありココ🗾はむしろ彼等の属國でした。
だからソレをまた妙に観念化し🗾を神國化した明治藩閥政権の頭の中身こそがキチ外染みておった。
なる程、ソノ観念化がそも不得意な筈の日本の體制が「大東亜共榮圏」をやらうとしたこと自體が大きな間違いなのだと。
いやでも「大東亜共榮圏」がもしも成って居たらボクは今頃東南亜細亜にて大富豪となり酒池肉林でもってウハウハの生活にこそ興じておることだらう。
ではソノ帝國主義化した🗾國の末路はむしろ最初から決まっておったのだと?
さうだねもしもボクが戦前に生まれていれば多分ソレを言って即憲兵につかまり牢屋行きでしたでせう。
ふーん、するとココ🗾の政府はそもアタマが惡いのだと?
アタマが良い、惡い以前に「観念化するとむしろ危ない」んです。
ナゼナラ我我🗾の民人は本質的に皆職人気質なのですから。
うーんさうか、だからみんな眞面目に日日働き現實的且つ實質的に生活を組み立てて居るのですね。
さうです、ソコから外れるのが文人や画家や音樂家などです。
ソレと學者や教師、また宗教がかった人などもまたさうなのかも。
ではアナタ個人はそんな職人気質では無い?
いえソレは観念的な意味での生産者だとのことでせう。
故にソレもまたある意味では「職人気質」とさう言い得ることだらう。
尚以上で述べました如くに我が國の政府や行政はまともなことがそも考えられぬと云うある意味では情けない構造に陥って仕舞うものなのだ。
故に幾らソノ態を批判するにせよソレは本質的に直らん訳なのです。
ならばどうするかと言えばむしろ職人技ー庶民としての生活力ーの側から「制限」をかけ例えば修行として壱冬暖房を抜いてみたりまた肉を食うのを止めてみたりSEXを止めたりまた公共交通機関の利用を止め🚲での移動に努めるなどのそんな自助努力での方向性をこそ是非自らに課して行かねばなるまい。
ほうするとつまりが御上による革命(救済)では無く自力での革命(救済)のことなのですか?
いや革命では非ずしてソレは言わば😣です。
つまりはソレが禅僧の😣にも繋がることだらう「制限」であり「限定」です。
またソノことでこそ「正しい生き方」が担保されることだらう。
でも國や自治體をまるでアテにしないとのことであるか?
いえナゴヤ市は結果金持ちですので高齢者は公共の施設の利用料が百円となりつまりは遊び放題です。
だが國の方は相變わらずこんなにダメでせう。
すると首都圏ソノモノがもはやダメなので?
まあダメでせうがソレを言えば「村八分」がより酷くもなりませう。
でもアノオオサカやキョートだって多分ダメです、コノドチラにもほんたうは首都などとても任せられん。
じゃあナゴーヤがいっそのこと🗾の首都にでもなれば?
いやだから河村元市長の弟子しかもうココには居ないのでもしも彼等が🗾を牛耳ると民は皆ほんたうに樂とはならう。
すると河村元市長の考えとは國家や行政に厳しく民には優しいとのそんな考えなのですね?
さうなんですが何せ御本人の癖が強いのでソノ本質部がまるで理解されてなど居らぬ訳です。
いやあーさうかー、するとクセの強い社會科詩人のアナタ様とまるで同じやうな理解され難さなんだ。
さて「建前」と「本音」との弐重構造を🗾の精神は保ち権力が例えば「建前」側へ寄れば國が強くなり「本音」側へ寄れば民が救われやうが實はいまだかってかの國にて民が本質的に救われたことなどは無かった。
なんとなればソレは民としての本音が常に政権側の都合にかき消されて仕舞うからなのだ。
だがいま壱度ソコにてよーく考えてみて頂きたし。
即ちかの國を動かし得るのはむしろ民人としての生活力の方なのだ。
さうソノ職人としての生きる技こそがココ🗾のむしろ全てを形成する。
故にソノ民を助くこと無くばかの國の體制はまさにソノ根本より崩れやう。
うーん、まさに立派な御高説にて。
ソレを拝聴したった今確かに感激致しました。
いや奴の言う事を眞に受けてはならん。
奴はさう偉さうなことを言いつついつも心の中でペロッと舌を出しておる。
でも奴ってアナタのことだよ。
違うよワシじゃなくて第参の人格のことぞ。
また何ですか、ソノ「第参の人格」とは?
そんな「第参の人格」とは非常に扱いにくい高知能犯のことぞ。
ええっ?ではアナタの中にそんなもう壱人の彼が居るので?
さうじゃ奴は極めて知能が高くしてしかも狡賢い。
ソレもまるでサイコパスみたいなニンゲンなのだ。
おお怖い、もしやそ奴が🗾の善良なる民人を今後壱人、また壱人とソノ毒牙にかけて行くのですか?
でもそりゃあワシにはまるで分からん。
具象的限定(非合理的職人技世界)⇔抽象的拡張(合理的進歩史観)
つまるところ今後我我🗾人はコノ弐面の世界をば生き抜いて行かざるを得ぬ。
ソノやうな引き裂かれるが如き世界に於いて我我🗾人が常に振り向いて居なければならぬのが「花鳥風月」としての世界である。
「花鳥風月」の世界ソレ即ち自然界の静謐さのことぞ。
ではこれから我我は果たしてどーすれば宜しいので?
いや何も變えずにタダ職人技のみを日日磨き込んで行きなされ。
さすればまた自ずと道は拓けやう。
職人技=具體的行動力=物質的自立性=神佛を頼らぬ力
じゃあ何でもイイから職人になればイイのですか?
例えばパン職人や工場の機械工のやうに。
だったら大學生は壱人も要らないのでは?
だから學位持ちもまた御勉強の方での職人なんだ。
また営業マンであれ店の経営者であれ皆ソノ職人だよ。
じゃあひょっとして主婦や主夫もまた職人なので?
そりゃどう考えても家事の職人だらう。
ではナゼ政治家や官僚が國家の職人と成り得ぬのか?
だからソノ原理をこそ今日社會の先生が説明したでせう。
つまるところ職人気質の現世利益主義者である🗾人は政治や行政と云った近代型の統治システムにそも向いては居ない。
また前近代型としてソレをやるのであればむしろ鎖國した上で地方自治を行うとの例の鎖國體制の場合に限り上手く行くのです。
兎に角左様にデカい問題(國際情勢や地球温暖化の問題等)とちっこい問題(仕事を含めての個としての衣食住の問題)とは別問題なのだ。
但しデカい問題がちっこい問題を否応なく規定するとの部分はまた往往にして有らう。
されど比率で言えばむしろちっこい問題の方がより大きくならざらざるを得ぬのが我我庶民の常となる。
またソノことは下品なことでも現金なことでも無くむしろ當然のことでとどのつまりは全くに正しいことなのだ。(さう具象的に限定を生きることこそがまさに實存の意義ともならう)