さうして東山植物園を歩き回りつつ考えたことー文明が望むところでの「無限性」の罠に就いてー
8年ぶりに公開された名古屋市東山植物園温室前館。“東洋一の水晶宮”はいかに復原されたのか。 - YATTOKAME LIFE丨やっとかめライフ
さて昨日はまた久し振りに東山植物園へと出向き園内を歩き回って來た。
御陰で疲労困憊し帰り大河ドラマ「徳川 家康」の続きを視早早に寝たのである。
逆に運動して來たので體調はむしろ良い。
左様に現存在はあくまで動物であるから自然の中を歩いて來るのが当然ながら壱番良い。
其れをビルの壱室に閉じ込め何ぞ訳の分からぬ仕事をやらして御座る文明の方の価値観こそがオカシイ訳だ。
また自分はすでに其のことに就き理解不能である。
「東洋一の水晶宮」重要文化財「東山植物園 温室前館」(名古屋市)が約8年ぶりに一般公開 | 紡ぐプロジェクト (yomiuri.co.jp)
「東洋一の水晶宮」国内最古の公共温室、改装され8年ぶり一般公開 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)
愛知)「東洋一の水晶宮」雄姿再び 東山動植物園の温室:朝日新聞デジタル (asahi.com)
さて其の「東洋壱の水晶宮」なる植物園温室前館にはむしろ最初に入ることとなる。
が、観たところ其処は別に以前と變わって居た訳ではなかった。
此処の樂しみは東際の温室にハーブ系の植物が集められて居ることだ。
其処にレモン系の香りがする植物が世界中から集められて居り其れ等の香りを逐次確認するのが個人的な樂しみである。
次に薔薇園を観に行く。
何とか時期が間に合いまだまだ薔薇が咲いて居りなかなかに良かった。
とても香りの強い「剣弁高芯」の薔薇があり其の香りを嗅ぐと姿ばかりか其の匂いまでもが凄かった。
クンクンとさうして🌸の匂いを嗅ぐのが我が癖である。
カッコイイ! 剣弁高芯咲きの花 | 植物とあなたをつなぐPlantia (hyponex.co.jp)
HT種で「剣弁高芯」の花型を確立した歴史的名花 – オフェリア | 姫野ばら園 八ヶ岳農場 (himenobaraen.jp)
薔薇園の東側は高台となって居り其処にオーストラリアのユーカリやらまたどぎつい色の「ブラシノキ」と云うのが植えてあるがどう考えても其れは所謂「日本的」な🌸なのでは無い。
しかも其の「ブラシノキ」には赤とピンクがあるのだ。ブラシノキ | Callistemon speciosus | かぎけん花図鑑 (flower-db.com)
🗾人はどうも此の種の熱帯性のどぎつさには慣れて居ないのであるが自分に限りまた其れが好きである。
其の「ブラシノキ」の群落から東側の坂を下るとまずは巨樹の林がある。
其の巨樹の林には中國産のセコイアだのまた米國産の杉だの兎に角巨樹が林立して居り壱種荘厳な空気が張り詰めて居り我がお気に入りの場所であるが他方で皆はむしろ此処には立ち寄らぬものらしい。
左様にどうも大衆と自分の好みは異なるものらしい。
其れも本質的な意味でまさにさうなのだ。
其の巨樹の林からもずっと東側に散策路が延びて居りまた此処もほとんど誰も來ぬところなのでまさに自分のお気に入りの場所である。
其れで結局昨日はとても暑い日であった。
だが園内はあくまで新緑であり絶好の季節である。
其れでもって「万葉の散歩道」を辿る形で山へ登る。万葉歌碑マップ探訪:名古屋 東山動植物園 万葉の散歩道 - 飛鳥への旅 (goo.ne.jp)
此の山は「お花畑」へと続いて居るが實は舗装されて居らずつまりは石が幾らでも転がる採集ポイントなのだ。
だが此処で石を探して居る馬鹿は自分以外には居ない。
ところが其の石を観る目がまた違うが故に其処に💎鉱物がまた出て來るものとなって御座る。
でもまず誰が観ても何も無い。
要するに目だけが違うのである、其の目其のものだけが。
仕舞った!
すでに此の目が人間界を離れおおまさに自然と同化しちゃった。
さう言えば昔此処で野良🐈にサンドウィッチを半分やったことがある。
其の野良🐱はもはや生きては居らぬことだらう。
御花畑には展望台があり其処ではカラスがやりたい放題である。
何故なら今御花畑は工事中でよって誰も來ないのである。
人間が居ないとさうして動物共はやりたい放題である。
イザ文明が崩壊すればかうして地球は動物共のやりたい放題である。
もしや文明はヤバいのかもしれんなと其の展望台に上りつつ考えて居た。
何故なら気候変動の度がどうも酷い。
おそらく弐拾年、参拾年後に此の種の動物園や植物園は全て閉園となることだらう。
何故ならそも野外活動が出來なくなる可能性が高くあるからなのだ。
多分冬場が夏場と化し夏場はまさに灼熱地獄と化すのではないか。
其のやうな気候の変動に於いて文明の諸価値は破綻を迎えることしかおそらくは出來ぬことだらう。
などと相變わらず文明に取っての暗い暗い未來のことなどを考えつつ其の癖チャッカリと石は拾う。
あれ、何だこりゃ。
デカくてしかも準💎質の石英が其の展望台の横の地べたに転がって居た。
いやあしかしながら暑い。
では伊右衛門を買おう。
150円か、また妙に高いな。
だが金を入れたのに何故か出て來ない。
さう云う時自分の場合は面倒なので泣き寝入りをし其れで終わりである。
其の後植物園の表の方まで歩きまた150円を自販機に入れ伊右衛門を買った。
さて本日は家に居るが兎に角すでに暑い。
さうして人間も暑いが🐱などはまた毛に覆われて居るが故にほぼ間違い無く熱中症となるのではないか。
こんな気候変動を引き起こした文明はもうどんだけ謝っても謝り切れぬ。
其の文明の本質的意義とはさても何ぞや?
其れも人間共とはそも何の為に生きとるのだ?
其れは植物やまた動物の方方と仲良くやり彼等に感謝せんが為にこそ其の「今」があるのだらう。
だが御前等のやってることはむしろ「自然界に對するテロ」其のものだらう。
其の「今」を即刻止めよ!
御前達はこれからドンドン熱中症化するぞ。
だが伊右衛門を買おうとしても其の伊右衛門はまさか壱本も出て來ない。
馬鹿野郎!
とさう御前達は怒り決まって其の150円を取り戻さうとする。
だが結局其の150円は戻らない。
いや150億だらうが150兆だらうがそんなもんはまるで戻らん。
さても大TOYOTAよ早う冷却都市を創れ。
そんな冷却都市を創り其処に愛知県人を漏れなく入れて仕舞うのだ。
其れ以降は🗾がどうならうが知ったことでは無い。
そんな関東と関西のことなんぞ知ったことでは無い。
家に帰ると顔と腕が眞っ赤である。
自分は肌が白いつまりは白人系の肌なので灼けるとさうして決まって赤くなる。
さて問題は今此の地球は何でこんなんなって仕舞ったのかと云う点にこそ尽きて居る。
環境問題の本質 – 一般社団法人 ECO (earthcitizen.jp)
12. 地球環境問題の本質 | 地球環境問題とはどのようなことか【第1章】―中道宏 | Seneca 21st (coocan.jp)
所謂「人間中心主義」は確かに其の元凶として考えられる思想的側面である。
其の「人間中心主義」も前近代迄はより緩やかな流れのものだったが所謂「プロテスタンティズム」が勤勉であり且つ實直な勞働を〇の価値と見做し結果西洋文明はやり過ぎて行くこととなった。
人間中心主義⇔アニミズム
と云うことがひとまずは考えられやう。
但し所謂佛法は案外人間中心主義であり元來釈迦の佛法に於いて畜生道としての生命は解脱出來なんだのである。
其れが修験道などの山岳宗教や神道の自然崇拝の面が習合しまさに密教の如き自然派での佛法が生まれたのであらう。
ではどちらがより「地球に取り優しい」考えかと言えば無論のこと「アニミズム」に近い考え方の方がより地球に對しては優しくなれる。
やる⇔やらぬ
其の「アニミズム」にせよまた古代中國の老荘思想にせよむしろ「やらぬ」思想であり要するに「デタッチメント」して居る考え方での思想である。
ところが其の「プロテスタンティズム」と結託した近代がまさに「やる」方を選んで仕舞った訳だ。
だが「やらぬ」思想ばかりではむしろ近代以降の文明の発展は無かったのだと言える。
なので別に人間に取り近代が惡かったのでは無くむしろ良かったのである。
ところが其れは結果的に「自然」に取り惡いこと其のものだった。
左様に現存在とは矛盾化された生き物なのである。
だが其のことに気付く人は常に限られて來た。
大體全人口の壱パーセントとか弐パーセントだとかそんな類での数である。ー但し其れは邪教の教祖を除く数字であるー
現存在の矛盾化を何とか直さうとされたのが御釈迦様でありイエス様である。
さうしてどちらの場合にもまさに「効く」処方箋を示されて居るが其の後の弟子達の出來が惡く正しく其の教えが伝えられなんだ。
ではどーしたら良いのですか?
だから自称詩人の如くに東山植物園ばかりをさうしてうろつき回り遊んで居れば此の世は永遠に平和だったことでせう。
ところが文明がやっちまったのですでにやっちまったものは治りません。
自分の認識はまさに其の辺りを標榜する訳ですがおそらくは其の認識と大衆の認識との間には乖離が生じて居ることと思われる。
よって詩人は其の認識上の乖離をこそ示さんとして此のブログの内容を書き綴って來た。
さてこちらはなかなか上手く纏められしかも要点がしかと押さえられた至極為になるところです。
されど問題はズバリ「社會」と「個」の関係性の部分にこそある。
何故なら其の「近代科学」を生み出したものは基本的に「社會」です。
勿論「個」もまた無関係では無いが最も責任がありつまりは仕出かしたことの罪を負うべきなのは当然に「社會」なのです。
問題は其の「社會」は其の罪を認めるどころか逆に益益増長し滅多矢鱈に進んで行く=進歩することでせう。
と云うことは基本的に「個」が「社會」を批判の俎上に乗せること其れ自體が難しい。
個<社會
何せかう云うことですのでもはや誰も文句など言えません。
まさにさう云うのをこそ「全體主義」とさう言うのである。
だから其れをあえて「言うたれ」と思い自分は兎に角何でも言っちゃいました。
さうして言っちゃいますと何だかスッキリとは致します。
だから其のスッキリなのこそがまさに自分が此の世でやりたかったことなのでせう。
さてデカルト流の弐元論はかの梅原 猛先生が常に批判されて居たことです。
尤も個人的には、
物質⇔精神
其れは矢張りさう分かれるのだと思います。
但し「物質」其のもので物質は成り立たず且つ「精神」其のもので精神は成り立たず、です。
つまりは其処に「相剋し且つ相即する」関係が認められるが故に常に相互作用を及ぼすとのことである。
だが其の「相剋し且つ相即する」関係其れ自體は眞理では無い。
「相剋し且つ相即する」関係其れ自體を棄て去るのが御釈迦様の御考えでありイエス様の場合は其れを神の認識へと全て棚上げされます。
また自分の場合には其の「相剋し且つ相即する」関係をむしろ徹底して維持する訳だ。
文明⇔自然
此れもまた「相剋し且つ相即する」関係をむしろ徹底して維持するべきだとあくまで個人的には考える。
徹底して維持すると云うことはむしろ違いが無い程に双方が双方を認めることです。
ところが現代文明特に戦後の文明は進歩主義を加速させまさに「文明の独り勝ち」状態を生み出して行った。
要するに文明が勝たんが為に自然を根本的に搾取し尽くして行った。
だから其れは完全に誤った思想のあり方です。
でもって完全に誤った思想に基づき歩む現代社會が崩壊するに至るのはむしろ当たり前のことなのでせう。
また「自然の生存権」なる概念が上のところには出て來ます。
となりますがどちらもまた大事な要件です。
でも、
となる場合にはむしろ「文明」が潰れる方がバランスは回復されるのです。
イザ「文明」が潰れるとなるとかの『マッドマックス』だとかそんな原始的な暴力の世界と化しさうですがまあ其れもまた仕方の無いことではないか。
要するに「近代文明」は潰れる方が「自然」に取りより望ましい状況を實現させることとなる。
では動物園や植物園はそも要らんので?
動物園や植物園の代わりに「人間園」なるものを創り其処にてみんなを展示してみてはどうか?
さすれば此のクソ暑いさ中に狭い檻の中に閉じ込められ小中学生にジロジロ観られることの辛さが本質的に分からうと云うものだ。
もしや小中学生は動物園や植物園へ行き動植物を観てはイカンとさう仰るので?
さうです、まずは自分自身が檻の中に是非入るべきです。
さても其れが人間共の見世物のことですか?
いやひょっとすれば此の文明は巨大な檻であり我我現代人は其処に囚われし「洗脳人間」其のものなのやもしれません。
そんな「洗脳人間」がそこいら中に居るぞ!
アナタ其れ普通の認識ではまるでありませんよ。
さうでしたね、どうも少し言い過ぎたのかな。
其れと「有限性」に就いての認識はまた大事な観点です。
「有限性」とは肉體性即ち物質のことです。
對する非有限性であるところの「無限性」とは観念性即ち精神のことです。
有限⇔無限
此の對立命題に於いて「相剋し且つ相即する」関係性をむしろ徹底して維持すべきだ。
「相剋し且つ相即する」関係とはむしろ其の對立関係を打ち消して行くことであり其れ即ち優劣を其処に生じさせぬ関係性のことである。
ところが現存在はまた文明は逆に其の「無限性」に於いて「正」と化す価値観を其処に組み上げて居る。
だが其の「無限性」に於いて「正」と化す価値観はイエス様がまさにあの世で達成せんとされる価値観のことでありそんな🐵に毛の生えた如き人間共にやれる筈の無いまさに「倒錯の価値観」其のもののことなのだ!
此の🐒めが!!
其の文明と云う🐵めが!!!
ついに文明が其の🐵其のものになりましたね。
ところで動物園の方には🐒などもまた居るのでせう。
確かに壱杯居ますね。
でも🐵は「自然破壊」しないので結局偉いです。
また🐻や🐼なども「自然破壊」しないので偉いです。
さらに🐅や🐊や🐗や🐍も決して「自然破壊」しないので偉いです。
其の環境問題の本質部とは文明を規定することであらう近代思想上の誤りにこそ存して居る。
其の誤りは即罪である。
個は直接其の罪を背負うものでは無い。
だが社會との関係を通じて等しく人間は其の罪を背負う。
ならば社會との関係を自らの力で制限して行かねばならぬことにやがて人人は気付くことだらう。
詩人はむしろ率先して其れをやりこんなクソ暑い中を好んで壱日山中にて遊んで來るのである。
企業に「永遠に成長を強いる」絶望的なメカニズム 「複利的成長」を求め続ける資本の暴力的な力 (msn.com)
其の近代的価値を根本より支えるものが所謂「資本の論理」である。
されど「資本の論理」はまた暴力的で且つ破壊的ですらあるものだ。
どだい地球がすでに壊れかかって居ると云うのに此れ以上壱體何を儲けやうとさう企むのか。
そんなに儲けたいならむしろ自分を動物園の檻の中にでも入れ見世物にでもして儲けたらどうか。
昔親友の友達ーN大卒ーが銀行へ就職すると云うので「止めた方が良い」と自分は思ったが勿論表向きにはあくまで「おめでたう」とさう言って置いたものだった。
つまり自分はそんな札束を数えつつ過ごす仕事なんぞはまるで嫌いだ。
自分はかうして自然派なので東山植物園でかうして歩きつつ野垂れ死ぬのがむしろ夢なのだ。
「資本の論理」はさうして搾取に搾取を重ねつつ世界を破壊し尽くして行くのである。
其の「資本の論理」が齎す「無限性」の地獄のさ中を文明はむしろ笑いながら灼熱の底へと沈んで行くのである。