目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

聖なるものと俗なるものの認識上の違いに就いて

聖なるものと俗なるものの認識上の違いに就いて

 

 

 

 

千の扉~Thousand Doors | NHK みんなのうた

原由子 千の扉~Thousand Doors 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)

 

さてこちらは文明に對し壱種懐疑的な良い歌詞である。

曲の方はむしろどうでも良いが兎に角此の歌詞が良い。

 

 

 

道理をわきまえたうえで、断念する。
 
そうすると、
 
軽快に生きることが出来るようになる。
 
 
これって
 
 
究極のプラス思考なんじゃないかと、
 
 
 
僕は思います。

 

『大河の一滴』〜仏教はマイナス思考なのか?〜 | ダンスインストラクターteppeiのブログ (ameblo.jp)

 

此の方は人生に就き深く非常に良く考えられて居る方なのだと思う。

 

其の断念乃至は諦念のあり方こそが人生に於いてはほぼ正論である。

何故ならば此の世は矛盾律をこそ自己に課す場なのだから。

 

要するに不足の生ずる場でありまた何処まで行っても満足させられることの無い場其のものなのだ。

つまりは其の場、「現象」と云う生のステージ其れ自體が矛盾律の場であり苦痛を齎すであらう場なのだ。

 

まさに其れは「智慧」の光により此の闇としての場を照らし出すとさう見えるのである。

なのだがまた其れは「智慧」の光の無いところに其れを望み得ることでも無いのである。

 

 

無駄な思考をやめる  - 日本テーラワーダ仏教協会 (j-theravada.net)

 

其の点でこちらの方には為になる考え方が示されて居るのだと思う。

まさに其れが世俗の世界と聖なる世界の考え方の其の対比としての部分である。

 

さうして世俗の世界ではある意味で「外界を自己化」せんとしてまさに其の為の「克己努力」を行う。

また其のことが「正しい」認識であり行為であるとさう頑なな迄に信じられて居る。

 

だが聖なる世界の側からすればまさに其れが「無駄な努力」であり「無駄な自己化」の過程であるに過ぎぬ訳だ。

嗚呼まさに近代参百年に亘る文明に於ける努力とは其の種の無駄な抵抗であり利己化の流れであった。

 

ではどうすれば「正しく」思考し且つ行為されるかと云うことであるが其れはむしろ「外界を放棄」し「内面を磨く」ことでしかあり得ない訳だ。

つまりは「外界」其れ自體が悪いのでは無く己自身の認識の仕方こそが悪いのだ。

 

 

即ち神と👿、佛と魔で言えば自分が其の👿であり魔、なのだ。

まずは大衆はまさに其の理に気付いて居ない、いや決して気付けはしない。

 

でもって自分とは何かと云うことをより深く考えてみると其れは其のほとんどが社會的に齎されるところでの価値観に従う自我のことであることが分かって来る。

だから結局のところは其の部分にこそ皆は洗脳されて仕舞って居る。

 

だったら少なくとも其の洗脳を解かないと眞の意味での自己の姿には気付けぬこととなる。

 

尚其の後に合理化云云の話が続くが其の点に就き我は以下の如くに考える。

 

1.確かに釈尊は人類壱「合理的」な方

2.但し壱方通行の「合理化」はむしろ現象を破壊する

 

合理性⇔非合理性

合理化⇔非合理化

 

尚御釈迦様は「人間其れ自身を此の世から永遠に消し去る」ことを眞理とされた程につまりは究極的に「合理的」な方である。

でもって世俗の世での所謂科学的合理化はあくまで外界を改変し「自己化」する試みに過ぎずよって其れは實存としての現存在に取っての眞理でも何でも無く要するに「世界の欲望化」のことであるに過ぎぬ。

 

なので其れは必然としてむしろ實存としての現存在を窮地に陥れて行くこととなる。

だが其の欲望はゼロでなくてはならない訳では無い。

 

小さく欲望するつまりは其処で理性による箍を決して外したりしてはならない訳だ。

だが現代社會にはすでに歯止めが効かない。

 

要するに其の社會に於ける意思決定過程其のものがバカだからもはや如何ともし難い状態へと潜り込んで行く、つまりは落ちる。

其れも今世紀に至り肥溜めにでも落ちたのか?

 

全く困った奴等だが彼等の頭の方がそもイカレて居るのでボクなんかが幾ら何と申しても其れは馬の耳に念佛であり🐈に小判であらう。

 

 

合理性⇔非合理性

合理化⇔非合理化

 

但し非合理性の部分が全部悪いと云うことなどは實は出来ない。

其の概念對立の部分に於いて価値が相剋しつつさらに相即する関係性が築かれるのでごく簡単に言えば其処に相互依存の関係が成り立ちつまりは他を決して否定出来ない訳だ。

ーもしも他を否定すれば自己否定に陥る、まさに其のことを「自己矛盾」と云う訳だー

 

なので「両者のバランスを保ちつつ慎重に事を進める」ことこそが理性、其れも人文理性の面から言える眞理なのである。

其の「慎重に」と云うことこそが抑制的にと云うことであり抑制的なものは自己批判や過去の理性としての堆積物=過去の學問的成果を否定したりはしない。

 

なのでまさに其の関係性の構築に於いて彼オルテガが述べた如くに「永遠の微調整」を繰り返して行く責務をこそ理性が担って居る。

ですので常に反対方向を向きつつ「合理化」に勤しんで行かねばならない。

 

よって瑞穂区の緑陰広場の木立を全部根こそぎ伐ったのは愚か者の行いなのであり要するにバカのやることである。

はあー、かうしてみんながバカで困る、いつもボクだけがかうして悩んじゃう。

 

 

ー「これを考えたら私のためになりますか、幸福になりますか」と、自分に問いかけることです。何か考え方を引きずって悩んだり落ち込んだりするのではなく、こう考えてみてください。

この思考は
・自分のためになるか、ならないか
・役に立つか、立たないか
・幸福になるか、ならないか
・他人の役に立つか、迷惑をかけるか
このように自分に問いかけると、思考はそこでストップするのです。ー無駄な思考をやめる  - 日本テーラワーダ仏教協会 (j-theravada.net)より

 

 

此処に「思考」すべきものの為の重要なヒントが示されて居るのだと思う。

其のやうに「思考」はプラスの価値構築の為にのみなされるべきものでは無い。

 

でも會社でも町内會でもまた学校でもみんなが「自分のためになり」「役に立ち」「幸福になり」「他人の役に立つ」価値をこそ築こうと躍起ですよ。

だからそも其の概念の設定の仕方其のものが間違って居るのだ。

 

エエッ?

じゃあ宗教詩人さんは、「自分のためにならず」「役に立たず」「幸福にならず」「他人の役に立たぬ」価値をこそ築こうと躍起なので?

 

まあ極論を言えばさうですがむしろ両面に亘り価値を再確認しつつ意思決定して居る訳だ。

そんなややこしい考え方はアンタ以外には誰もやって居ない。

 

だからアンタだけが牢に入れば此の世はまさに安泰だ。

さうですか其れではコレから入牢させて頂きますが其の中で「獄中記」をものし是非お前を強制収容所送りにしてやるからせいぜい樂しみにしとくんだな!

 

くれぐれも申して置きますが「世間での思考」は「眞理」に對する思考では無い。

また宗教活動に於ける思考にせよ生半可なものでは上での例の如き洗脳思考と何ら変わるものでは無い。

 

 

ーお金の場合はそんなに厳密になる必要はないのですが、思考に対しては厳しくならなければなりません。なぜでしょうか? 生き方はすべて思考から現れるからです。思考は一番ケチったほうがよいものなのです。皆さんは、考えることは無料だと思っているようですが、実はものすごいお金がかかっています。お金を無駄に使っているのは、思考のせいなのです。たとえば日本の経済状態を見てみますと、表面的には景気が回復したと言っていますが、現実を見るとあまり回復していないと思います。かつては経済的に世界のトップにいたにもかかわらず、立ち直らないところまで堕ちてしまったのはなぜでしょうか? これは思考の問題なのです。思考でものすごい損をしています。無駄な思考ばかりで、役に立つ思考はありませんでしたし、今もありません。関係者の方々の思考を観察してみると、国や国民のことよりも、自分の立場や権力のことを考えている人がほとんどです。ですから立ち直ることが難しいのです。ー無駄な思考をやめる  - 日本テーラワーダ仏教協会 (j-theravada.net)より

 

其の「思考」こそが大事です、「思考」こそが現實を象る鍵の役割を果たすものでせう。

其の「無駄な思考」とは何かと云うことをまずは考えてみますと、

 

1.社會的な価値に對する思考はほぼ無駄である

2.實存的な価値に對する思考はほぼ有意義である

 

との解が得られませう。

 

なので究極的には、

「實存的な価値に對する思考」を我の場合は目指したいと思う。

 

ですが、其処もまた、

 

實存的な価値に對する思考⇔社會的な価値に對する思考

 

となって居るので、

 

矢張りと言うべきか其の双方のバランスを考えながら思考して行かねばならない。

但し考えて置かねばならないのは其の眞理領域ー眞理レヴェルーと世俗領域ー社會レヴェルーとでは往往にして異なる方向性での価値観が呈示されて来ること其のものでのことです。

 

何故なら、まさにそんな「自分のためになり」「役に立ち」「幸福になり」「他人の役に立つ」価値に就き皆様は疑ったことがありますか?

僕でさえ其れこそ五拾歳位までは其のことこそが正しいとさう考えて居りましたものです。

 

要するに眞理などとさうして壱言で申しますが實際には其れは現存在に取り常に疎遠であり且つ荊の道としての精神的目標なのだと申せませう。

なんですが最終的に眞理はまさに個としての認識に沿う形にて下りて来るものなのではなからうか。

 

其れは己が内面的世界の完成が近づくにつれさうして天から下りて来る感じでのものです。

 

 

ーそこで、情報を受け取る側の私たちも、ニュースで言ったからといってそのまま鵜呑みにしてはなりません。この人にはデータがあるのかないのか、データをどのように解説しているのか、と考えることも大切になるのです。

とにかく私たちは無駄な思考をしているため、頭が混乱していて、何も考えられない状態になっています。私たちが二十四時間考えていることというのは、ほんとうは二十四時間かかりません。ほとんど二、三分で考えて終了することができます。ですから「役に立たない思考は絶対しません」と決めて、思考をケチったほうがよいのです。ー無駄な思考をやめる  - 日本テーラワーダ仏教協会 (j-theravada.net)より

 

結局は其の現存在の「思考」は「限定」されて居ざるを得ません。

なので余分な思考ばかりが自分の頭の中に流れ込むと其処でもってすでに思考する余地が奪われ自立的思考どころかほぼ刷り込みを受け容れる態勢へと脳味噌が必然的に至って仕舞う。

 

そんな「洗脳」を解く為には心の余裕、思考の余裕を保つ為に情報の選択を自律的に行う必要が是非ある。

でもってわたくし自身の實感としての眞理方面に向いた思考とはむしろ世間的な意味での価値観に對し思い切りに逆らうものでありまた其れは佛教であれキリスト教であれまたイスラーム教であれ基本的にはまるで同じことです。

 

結局は其処でもって、

世俗としての価値観⇔聖なる価値観

となって居るので、

 

世俗としての価値観を大事にした侭でつまりは其の左側の価値観ー👪主義や郷土愛、同士愛などの普通正しいものとされて居る価値観ーを大事にした侭でそんな聖なる認識のことなんぞが分かる筈が無いではありませんか。

つまりは釈迦もまたキリストももう最初から全然普通の人間ではありませんでした。

 

だから其れを我我ボンクラ人間共が理解しやうとしたって元元理解など出来る筈が無いんです。

なので其処をあえて理解したがる方に對しては、

 

1.酒色を避け身を清める

2.常に御経乃至は聖書に親しむ

3.白装束を着込み寺か又は教會を詣でる

 

との精神的な且つ外見的な「限定」を施しまた最低限風呂に入り歯を磨いた上で其の聖なる世界を是非垣間見て参りませう。

すると其の我我の其れも汚れに汚れた其の我我の醜い心のあり方即ち誤った認識が必ずや清められ嗚呼まるで心がすうーっと軽くなって行く感じさえもがまた致しますものです。

 

 

カトリック南山教会 | Facebook

 

カトリック南山教会の紹介 - YouTube

 

私たちは

共に祈り

救いのわざを記念し

共に働き

共に祝い

話し合い

神の言葉を学び

イエス・キリストによって集められ

神の国を目指して旅する

神の民です

私たちと共に

頂点まで

旅をしませんか

 

お待ちしています

 

ー以上よりー

 

 

南山教會の中に入ったことは無いが南山中学だったか、其処でもって小学生のわたくしは模試を受けたことだけはあった。

尚クリスマス・イヴの時に南山教會の近くへ行ったことがあるがツリーのイルミネーションなどは確か行われて居なかった。クリスマス・イヴ - Wikipedia

 

でも近くの高級住宅街ー名古屋でも壱等地の高級住宅街ーにてかってはイルミネーション合戦が行われて居り其れを何度か観たことはあった。

 

 

ー現代の消費社会の中で、この時期が商業主義にいわば「汚染」されているのは、残念なこと。このような商業主義による「汚染」は、降誕祭の本来の精神を変質させてしまう恐れがある。降誕祭の精神は、「精神の集中」と「落ち着き」と「喜び」であり、この喜びとは、内面的なもので、外面的なものではない。— 教皇ベネディクト十六世の2005年12月11日の「お告げの祈り」のことばカトリック中央協議会

クリスマスには聖書を読んで学ぶべきだ。政治や株式市場など俗世のできごとにどう関わるべきかの啓示は、聖書の中に見つけられる。……
……貧困と闘わなければならない。資源を公平に分かち合い、弱者を助けなければならない。強欲や搾取には反対すべきだ。……
……クリスマスはとても楽しいが、同時に深く内省すべき時でもある。私たちはつつましく貧しい馬小屋の光景から何を学べるだろう。— A time for Christians to engage with the world(キリスト者が世界と繋がる時)

クリスマス・イヴ #商業主義に対するローマ教皇の懸念- Wikipediaより

 

其のやうにキリスト者はクリスマスの日に何ぞ美味いものでも食って大酒を飲むのでは無く是非「聖書」を學ばねばならぬのだそうだ。

またさうだ、強欲や搾取には是非反對すべき!

 

クリスマスはな、さうして内省の日だ、内省の日。

だから結局はキリスト教の場合でもかうして聖なる認識は世間の認識とはまるで違うではないか。

 

 

【公式サイト】大本山永平寺ホームページ (daihonzan-eiheiji.com)

 

参拝時間・参観料のご案内 (daihonzan-eiheiji.com)

 

うーん、拝観料が五百円、か。

何と東山動植物園と同じだぞ!

 

修行体験 (daihonzan-eiheiji.com)

 

かうして修行しやう。

修行して是非佛にならう。

其れもまず不可能ながら…。

 

永平寺はほんに良いところです。

要するに山の中の大伽藍です。

 

禅の里「永平寺」の拝観がもっと楽しくなる!見所全て紹介します│観光・旅行ガイド - ぐるたび (gnavi.co.jp)

 

其の「魚鼓」なるものも廿年程前に永平寺を訪れ見て参りました。

永平寺の御本尊は釈迦牟尼佛とのことで其処は明らかに正統的な佛法の場であると言えることだらう。

 

いや別に阿弥陀佛や大日如來がさらに久遠實成の佛などが胡散臭い佛だとはまさか言うては居ない。

言うては居ないが矢張りと言うべきか釈迦牟尼佛の方がイイですよ。

 

但し御釈迦様はかって像など造るなと、つまりは偶像崇拝などしてはならぬとさう仰せでしたのでむしろ壱番怒られるのは永平寺の方なのやもしれません。

また個人的には大日如來が何かかうウルトラマンぽくって嫌いでは無い。

 

何かかう密教の佛像は超能力的、👽的であり其処が面白い訳だ。

 

 

また永平寺の近くには土産物店が連なる所があり要するに観光名所みたいなところにもまたなって居ます。

ですが永平寺の唐門の前には杉の大木が立ち並び其れを眺めますれば其れだけでもう身が清められる気さえ致します。

 

其のやうに「聖なる」世界での認識と世間での認識ー常識的価値ーはそもまるで違うものです。

我我市井の宗教探究者がまずは気にかけて置くべきことこそがまさに其の点なのです。

 

要するにそも其の寄って立つ価値観が違うのだ。

なので世俗の価値観の侭に其処へ少し宗教的な教義なり活動なりを積んだとて其れは単なる社會活動であり宗教其のものを理解に至った訳ではまるでありません。

 

確かに我もまた御勉強の方が足らないのですが例えばネット上のブログなどで結構威張って宗教のことを論ずる俗人がたまに見受けられるが其れは違うだらうとさうもまた思います。

まあかく言う我もまた其の俗人なのですがね。

 

但し人嫌いの度だけは徹底して居るので彼等彼女等とはまた違う筈なのですが。