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デヴィッド・ボウイ語録

デヴィッド・ボウイ語録

 

 

 

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さて今夜と明日の秋の夜長はこんなものでも視やうかとさう思って居る。

だが我は別にグラムロック - Wikipediaだとかそんなものが好きなのでは無くあくまでクラシックの其れもピアノソナタ - Wikipediaのファンである。

 

但し昔U2 - Wikipediaの曲だけは好きだった。

 

デヴィッド・ボウイ - Wikipedia

 

そんなわたくしがデヴィッド・ボウイ氏に興味を持ったのは實は彼が相当な理性の持ち主で何と禅宗などにも精通して居たことを知ってからである。

彼は69歳で死んだがむしろ天才としては長生きだったのではないか。

 

天才がさうして還暦以降を生きられればむしろ凄く長生きだ。

何故なら普通は40歳位で大抵天才は死ぬのである。

 

 

【衝撃】『イルミナティはヤバい』デヴィッド・ボウイが人類に警笛!最後のメッセージとは? - YouTube

 

かうしてまた色んなことを言うて居られます。

藝術家の直観はまた常に重視すべきものだが其れは學問的な内容とはまた違うものかもしれない。

 

我はむしろ學問的に世界は危ないとさう感じて居り其れはむしろ直観としての解釈によるものでは無い。

但し直観的にもまた世界は危ないと言えるのやもしれぬ。

 

だが我は所謂「陰謀論」には与せず。

 

David Bowie - Blackstar (Video) - YouTube

 

まさに不可思議な趣のするボウイ氏の遺作である。

また此れが嫌いでは無い。

 

David Bowie - YouTube

David Bowie "My way" - YouTube

 

 

尚以下は6年前にヤフーブログの方で書いて居た記事を若干直し載せたものである。

元来自分は藝術家を論じたり藝術論などを論じたかったのだけれど結局は「社會」の御粗末さに足を引っ張られ其れでもって余り気の進まない社會批判などをまたする羽目にもなった。

 

だが当時から現代社會に對し大きく危機感を抱いて居たことだけはまた確かなことだった。

 

 

 

デヴィッド・ボウイ語録

 
 
 

デヴィッド・ボウイ語録


ー芸術の間に境界は無い。音楽をやり始める前、まだ僕が絵や彫刻をやってた頃から、僕は自分の絵と音楽を結び付けたいと思ってたんだ。

画家に当てはまることはミュージシャンにも当てはまる。特にスタジオでは、音楽も絵の一形式だと考えることが出来るね。それぞれの音を色と考えれば、音を作り、録音することは、色を混ぜ合わせ、絵を描いていくようなものなんだ。

アーティストというものは、表現手段として世界とか人類とか、普遍的なものを使うが、本当に表現しようとしているのは自身の内面だ。僕が世界を絶望的に描いているとしたら、それは僕自身が絶望していたからだ。

僕の曲からはある種の孤独感が漂ってるよね。僕が曲作りを始めたころから、その辺はあまり変わってないと思う。常に同じインスピレーションから生まれたものだね。

僕が主に書くのは個人の孤独な感情であって、毎回違った視点からそれを探求するんだ。僕がやっているのは、そこまで知的なことじゃないんだよ。僕はポップシンガーに過ぎない。素の僕はそんなに複雑な人間じゃないってことさ。

音楽のお陰で人生の苦痛が弱まり、悲劇が薄まったとは言えない。でも音楽があったからこそ、孤独な時に仲間がいてくれたし、人々と触れ合いたい時にコミュニケーションの為の崇高な手段を持てた。音楽は知覚の扉であり、僕の住む家でもあるんだ。

物事を極端にまで推し進めない限り、誰も君を信じてくれないし、注意を払ってくれない。人々の頭をひっぱたかないといけないんだ。そして、過剰な装飾というのはその為に有効ってことだね。ー



ボウイ氏がここで語って居るように、藝術の各ジャンルとは共通の精神性を保つ何かなのであり、彼が自分の音楽と絵を結び付けたいと語りし如くにたとえば詩と絵画、詩と音楽といった融合なども不可能ではないのである。またアーティストが表現し得るものは確かに自身の内面そのものである。其の内面こそが孤独に満ちた感情であり同時に自分以外の何かから齎される直観である。

音楽や絵画或は文學などのある種有機体質の表現は本質的には人生の苦痛や悲劇への感受性から齎されて居るものだ。だから藝術への気質を有する者の心の中は常に孤独である。謂わば孤独ではない表現者は居ないのであり、また孤独を自覚しない表現者も居ないのである。さらに現実的には藝術家の域にまで達しては居なくとも藝術の方向を向かざるを得ない性質の人々も世の中には居られよう。そしてわたくしも確かに其の一人なのだ。



尚元々わたくしが好きなのは絵画の方である。絵画は言葉よりもより直接的と言いますか感覚的にパッと捉えられる部分があり好きだ。わたくしは今でも時折無性に絵を描きたくなることがある。幼い頃に色んな色の洗濯バサミをセーターにくっつけて歩いて居たことで有名であった私。其の後小学生の頃に描いた水彩の薔薇の絵で何かの賞を受賞したが其れも中学生になるとスッカリ文學少年になっていったのである。

生前のボウイ氏のあの奇抜な格好は彼が絵や彫刻をやって居たことと無関係ではあるまい。ちなみにわたくしも意外と奇抜なことが好きで、たとえば自分の部屋を真っ白に塗って仕舞ったり家具を青や赤に塗って仕舞ったり真っ赤な綿パンを穿いていたりと今思えば若い頃のわたくしは結構奇抜であった。

然し美術の方で真に才能のある奴は中学生位からもう本当に全然違うのである。ボウイ氏もおそらくは其の才能のある人だったのだろうが、いずれにせよ音楽の方で歴史に名を残す人となったのであるから其の生のすべてを藝術に捧げたということなのだろう。


ー僕が5歳の時、ちょうどこんな風に、リビングルームのテーブルに乗って、夢中になって本を読んだり絵を描いたりしてたんだ。

僕は小さい頃、本当に内気だった。そんな自分が人前で歌うことなんてできないと思った。だからこそ、僕は変装することにしたんだ。 ー


ボウイ氏の根本のところはどうやら暗い人のようである。暗い人は藝術家になるのが一番向いて居る。暗い=捉え方が深い、なのであり、所謂気難しい、神経質、とっつきにくいといった性質も暗い人には往往にしてあるものだ。暗い人には時に妙に明るくなる、時に異様に目立つ、でも普段は突き抜けて重い、などといった性質もある。


ボウイ氏は奇抜な服装やパフォーマンスでもって其の二元性の極に位置されるだろう反対の部分を演じてみせた訳である。


ーボウイという芸名は僕が若かった時にボウイ・ナイフから着想したのです。16歳の頃、僕は重い哲学的な物に熱中していて、嘘やらそうしたもの全てを切り裂く真実性を求めていたんです。✳︎ボウイ・ナイフ:19世紀前半、米国で開発された大型ナイフ

偏執的なまでに本が好きなんだ。コンラッドが好きでね、凄いもんだと感激したなぁ。特に「勝利」が卓越してたね。--ジョゼフ・コンラッド:英小 説家。海洋文学で知られる。代表作は「闇の奥」「ロード・ジム」「密偵」等 ー

 


矢張りそうであったか。哲学なども好きか。ならば重い人間である。根本のところが重く、誤魔化せない人間である。そして常に真実を追い求める。何に対してもそうした真摯な追求を行う。何、本も好きか。本が大好きでひょっとしたら頭がおかしくなりそうだったのか。ちなみにボウイ氏は煙草も大好きだったそうである。要するに繊細かつ神経質過ぎるので、其のニコチンでも無いとやっていられないのである。ー其処は我などもまさにさうだー

然し、後に世界的有名人となりし彼はクスリの方にも走りほとんど中毒状態に陥って仕舞った。まあ確かにミュージシャンの方々は昔からクスリの方へ走り易いものと相場は決まって居る。のみならずボウイ氏は女の方へも走り、其処で数限りなく経験されたようだが其れで本質的に癒されたという訳ではなかったことだろう。つまり人間はクスリや女では本質的に癒されやしないのだ。

だがそんな彼も女房は結構大事にして居たようである。矢張り自分の妻だけは大切にしておくべきである。


ー言葉はコミュニケーションにおける最も不明瞭な方法です。

三島由紀夫について)三島の生き方は大変な苦労と困惑の産物だと思いますが、彼の生き方そのものには全く感銘を受けていません。彼の文学に非常に心を動かされているのです。ー


言葉は必然として其処に論理性が加わるので、一種理窟臭くもなりかつまどろっこしい。言語による表現は必然的に絵画や音楽の表現よりも理窟っぽくなる筈だ。対して色や形には理窟など元より無い訳です。然し厳密には其処にも何らかのメッセージ性=象徴性のようなものがある。たとえば赤い色と黒い色では明らかに心に生じるものの温度差がある。また球と立方体とでは、矢張り其処から与えられることだろう印象が異なる。

絵画や音楽の方がより原初的で遡行されたーインスピレーションに対してのー表現であることは明らかである。事実絵画の天才の幼稚園児や天才演奏家、天才作曲家の小学生というものは屡あり得るものだが、幼稚園児や小学生でもって芥川賞H氏賞を取ることなどはまず不可能なことなのである。

尚このように言葉は理屈に繋がり易くわたくしが日頃述べて居ることなども何だかとても理窟臭いのだが其れは元々言語の性質上のこともあるので其処は是非割り引いて非難して頂きたいものだ。



ー人間はあまり利口じゃないよね。自由が欲しいなんて言っておきながら、いざそのチャンスが回ってくると、ニーチェではなくヒトラーを選んでしまったり。

僕達はまっすぐな道を生きていると教えられたけど、実は何周もグルグルと回っているだけなんだ。もちろん、旅なんてありはしない。到着と出発を同時に行っているんだから。

僕には世界全体の事なんて考えられない。考えられるのは、こうやって手が伸ばせる範囲の事ぐらいさ。今の世界は考えなければならない事が多過ぎるね。でも、小さな範囲を正しく捉える事が出来れば、結局大きな範囲も正しく捉えられるんじゃないかな。ー


人間が馬鹿なのはむしろ当たり前のことなのであり、むしろ其の馬鹿を治すが為に我々は今を生きて居るのである。然し近代以降は其のバカの度がドンドン増して来て仕舞って居ることが不気味と云えば随分不気味である。また仰る通りに元々世界なんて考える必要の無いものである。本来ならば考えてはいけないものなのである。然し近代以降、いつのまにか世界は大スケール化し且つ観念化して仕舞った。

本来ならば表現者にとって世界全体の事なんてまさにどうでも良いことなのである。藝術家は身の回りの素材のみで宇宙を感じることが出来るので、内面に於いてあえて世界を拡大して見たりする必要は無い。しかも其の大スケール化された世界とは実はとても狭い範囲での世界のことなのである。其れは近代という狭い範囲での人間の生のことなのだ。狭いのだけれど、むしろ其れが巨大になり過ぎて居るのである。だからそんなものは藝術家にとってあくまで不必要な領域なのだ。小さい処をこそ愛する、これが表現にとっての最も快適な範囲であり居場所である。


ー「神の存在」と聞くと、僕はそれが実在するものじゃなくて、架空のアイディアと見る傾向が有るんだ。どちらかというと知的構造物だと自分では 思っている。僕達が「神」というコンセプトを創り上げたのは、自分達の存在の理由づけの為じゃないかな。

「神の存在」という考え方は、僕達人間が毎日を生き延びていく為の精神安定剤のひとつなんじゃないかと思うんだ。ー


仰る通りに神とは観念なのだと思われます。観念ではない実在としての神は把握しようがないので其れは在ろうが無かろうがどちらでもよろしいことです。ただし、あくまで現象世界に於いては神は必須のアイテムです。より正確には人間という観念存在にとっては必要であるということです。ーただし仏教徒に限れば仏こそが必須のアイテムともなりましょう。でも自然にとっては其の限りではありません。だがいずれにせよ人間にとっては、たとえば無神論は神の全能性を人間に刷り込んで仕舞うという点で可成に危険です。もっとも仏教も無神論の一種ですが、其処では仏という極が結果的に成立するのであくまで見かけ上の構造的には一神教的二元論とそう変わらないものです。ー

もっと危険なのは科学技術や資本主義経済を極限まで推し進めつつある現代文明に於ける一種の合理主義的宗教です。コイツこそは本当に恐いもので、多分あと百年程で地球を破壊し尽くすだろうことが必定です。この合理主義宗教は地球を破壊する前に藝術つまりは表現をも抹殺していきます。謂わば破壊の為の破壊を最後までやり遂げ人類は自滅していくのでありましょう。ボウイ様はそんな恐ろしい結末をみることなくお亡くなりになられたのですから、あくまで藝術家としてはとてもお幸せです。ボウイ様のみならずかのレノン様なども、其の様な地獄の様をみることなくお亡くなりになられたのでまだしもお幸せな方です。嗚呼、そう言えばレノン様も元々は美術学校で絵を描かれていた方なのでした。美術の方の人は、むしろ音楽の方で何だか凄いですね。


ー僕は若い頃、禅に深く惹かれた。物事の儚さや諸行無常というものに強く感銘を受けたんだ。それは僕の書く曲にも通じるところが有った。万物流転という概念がぴったりあてはまると思ったんだ。

寒い朝、目を覚ますと、ここが京都あたりで、禅の修行場だったらいいのになと思うことがちょくちょくある。ベッドを出て煙草に火をつけて、近所をひと回りして、ようやくその感覚が振り払えるんだよ。

96年のツアーでは日本全国をまわった。なかでも思い出深いのは京都。デヴィッドと一緒に苔寺を訪れて、禅の導師とデヴィッドによる芸術や宗教についての対話を聴いてとても感動したよ。--ザッカリー・アルフォード(ドラマー) ー

 

ボウイ様は若き日にチベット仏教に傾倒され、是非チベット仏教僧侶になりたいとそう思われて居たのだそうな。其れと共に禅宗にも深く惹かれて居たらしい。日本へは屡来られ、上にもあるように京都で禅の導師とも対話を重ねられて居たらしい。要するに其の位の知識は元々持って居られたということである。だからこの方は只のぶっ飛んだミュージシャンではないのである。ヤク中毒でSEX中毒のタダのアホでは断じてないのだ。禅宗のお坊様とサシで対話が出来る程の仏教者ー仏教徒かどうかは知らぬがーなのである。

尚、ボウイ様に女との交渉が随分あったということは、或はタントリズムの方の影響を受けたものであるのやもしれぬ。



ー今の世の中って、余りにも沢山の情報が溢れてる。本当なら何が適切なものなのか選択して生活の中に取り入れていくべきなのに、それが不可能になってるよ。それを解決するには、僕達がもっとシンプルな生活スタイルに戻らなくちゃいけない。(83年)

僕は特に信心深いわけではない。だけど、精神的信条を僕達は失いかけていると思う。理知的な部分をどんどん自分達で破壊している。だから全ての事柄がどんどん薄っぺらな、極端に単純な方向に向かっているような気がするんだ。(02年) ー

 

 
何と!、ボウイ様はここでまるでわたくしと同じことを述べられて居ります。精神的信条を失う我らは自ら理知性を破壊しつつある。全ての出来事が軽薄短小化しむしろ原始的退行が其処に生じ即ち本能勝負での世界になりつつあるとそう感じたのはわたくしだけではなかったようです。
 


ー僕は物事に執着しないんだ。この世の中に執着できるものなんて何も無いんだよ。

変化とは、とめどなくなく動き続ける物事をありのままに受け入れること。

人間の最大の欠点は、知識ではなく確実性を求めるということなんだ。だけど、確実なものを求めるなんて、犬が自分の尻尾を追いかけてるようなもの で、到達不可能なんだよ。 ー

 

嗚呼、この方、もはや全てをお分かりなのですね。いや、無論のことあくまで悟って居られたなどとは申せませんが、兎に角根本の所は分かっておいでです。其の様にこの世は無常でありかつ仮象の世界なのでありましょうから何ひとつとして其処に執着すべきものは無い。かうして諸行が変化し何ものをも固定出来ない世界なので其れを否定もせず肯定もせずただありのままに其の瑕疵性、負債性を受け止めて居れば良いんです。然し其れが出来ないのが人間というものですので、其の馬鹿の様を馬鹿としてありのままに見つめフフンとバカにして居たって良いのであります。ただし逆に尊敬して居たとしてもよろしかろうが。馬鹿として馬鹿を全う出来得ることの其の素晴らしさをこそ。



ー生きることは難しくて、色々なものが僕達を少しずつ追い詰めているのは否定しようのない事実だけど、「この世はタフで厳しい所だ」という事実を受け入れてしまうと、遠くに光が見えてくるものなんだよ。

「今」、そして「今日」を大切に生きるべきだと思うね。あまり先ばかり見つめていると、間違いなく己の死に行き当たる(笑)。 ー

 

まあ、まさに仰せの通りなので御座いまして、人類の未来、地球の明日を心配ばかりして生きて居ることは実は随分と辛う御座います。時に近く死んじゃうのかなー、わたくし、などとも思わぬ訳では御座いません。それこそ逆に今日の幸せ、今の満足、是こそを見つめそして追い求め生きるべきなのかもしれませぬ。ところで「色々なものが僕達を少しずつ追い詰めている」などといったくだりはいかにも藝術家らしい直観で素晴らしいとわたくしは思います。表現者というのは、元々勘が良いのでたとえ奇妙奇天烈な格好をしてようが、或はヤク中毒だろうが女たらしだろうがそんなことは実は表面上のことであるに過ぎないのである。どんな分野であれ表現者は己の内面の真実をこそ表現していかねばならぬのだ。でも早死にはしたくないのでわたくしは近いうちに万年筆の方にでも戻ろうかと思って居ます。もっとももはや戻れぬのかもしれないのですが。

 

animist7 6年前

 

 

 

でもって結果的には其の万年筆の方へは戻れなんだ。

逆に社會にやられまくり其処に藝術的感性の部分が損なわれたやうに感じて居る。

だから其の社會のことなんざどうならうが知ったことでは無いが美味しいものや欲しいペンやまた學術書にしてからもが皆其の社會にこそ何故かある。

 

社會を捨て去り眞の藝術の世界を是非展開したいところながら結局は金がねえので其れも出来やせぬ。

と其のやうにむしろ愚痴と不満を述べる場と何時の間にか此処は化して居るがどっこい我が批判精神だけは生きて居り其れでもってまた我も色んなことをかうして言っては来たが結局は其れもウンコ垂れ共には伝わらぬことなのか。

 

なのでむしろグルメリポーターの方を是非させて頂きたく思いますのです。

但し唯物論ばかりに傾きますと其れこそ内容的に下品と化しませうから其処は適当に哲學や宗教の分野などを織り交ぜ書いて行けたらむしろ他では味わえぬやうな濃い味の場となるのではないでせうか。

 

David Bowie - Lazarus (Video) - YouTube

 

此のヴィデオを製作した時にボウイ氏はすでに自分に近く死が訪れることを知って居たのだそうだ。

彼の最後のアルバムとは其のやうにまさに彼自身に取っての死への通過点其のものだった。ブラックスター (デヴィッド・ボウイのアルバム) - Wikipedia