85.今日本の小学生の躾がなっていないことへの苦言ー『羅生門』より考える人間の生の哀しみへの共感力のことー
さて本日もまた此の社會は騒騒しい限りですが、兎に角僕が言いたいこととはある程度此の社會の動向とは距離を置き個個に取り自分のやりたいことを進めることこそがむしろ壱番の幸福であると云うことです。
されど「正義のミカタ」でも今朝やって居りましたのですが行き過ぎた自由化政策でもって電力の安定供給が切迫して居りよって今年の夏は節電を強いられる虞がまたあるさうですが其れなどはまた酷い話ですね。
では高齢者や暑さに弱い人人、其れに🏥などは果たしてどうするのでせうか?
此の点壱つを取ってみても与党の政策はまるでダメでした。
尚公明党に関しては個人的には頑張って来たかと思いますのですが、但し其れも自民党の其の悪の體質に何時の間にか宗教政党としての心の清さが汚されることになる故にズバリ自民党とは縁を切り左翼政党と肩を組むべきです。
世間の實相はかうして今や須らくが恐怖化して居ります。
尚資本主義社會や民主制への拘りが強くあればまさに正義の味方だとさう勘違いして居る人が多いやうですが其の考え方はズバリ誤りです。
正しくはさうしたイデオロギーには拘ること無く其の場に応じむしろ己の幸福を追求すべく其のデカいイデオロギーの方をこそ放棄することこそがむしろ正解なのだ。
其れは「逃げ」であるかのやうに見え實は至極理性的な選択なのだ。
イデオロギー対立はかうして常に此の世に「不幸」を生み出しますので其れに就き御勉強を重ねるにせよ最終的には其れを是非放棄して行くべきものです。
要するに認識の方は大でも行動乃至は意思決定は小でもって行かねばならず要するに小欲知足でもってして生きるのが人間にとっての最も理性的な精神の段階なのです。
但しオレは左翼でもって社會主義としての思想闘争をやるんだとかオレは右翼でもって天皇陛下万歳でもって是非特攻したい!などと云うのもまあやってみる価値が無いとは思いません。
またオレは宗教家だとかオレは藝術家だとかまあ其れ其れに言い分はあることでせうがでも所詮其れはわたくしには敵わないのだから余りさうは言わぬ方が良いです。
だが最終的に其の社會的矛盾による被害は實際に我我個が被ることとなる。
其れと今後の米中対立の様はまさに深刻です。
個人的にはどちらの社會のあり方もまた悪いと思います。
また日本の社會のあり方は其れ以前に至極危ういです。
例えば昨日歯医者へ行く折に丁度小学生の下校の時間と重なった訳です。
すると其の小学生の下校の仕方が余りにも酷いと云うか醜いつまりはダラケて居る。
即ち我我還暦世代が小学生の頃は所謂分団にて規則正しく並び登下校する訳だ。
其れは昭和四拾年代初頭の頃であり考えてみればまだ戦争が終わって弐拾年と少し程しか経って居ないのです。
だから其処に何か統制が取れて居ります。
では今の小学生は果たしてどう下校するのでせう?
1.歩道壱面に拡がり所謂みんなで下校する
2.また御喋りをしたりプロレスごっこなどをしつつ下校する
3.自転車に乗ったオッサンが来ても誰もまるで道を譲らない
4.小学校の先生にはそも其れを指導する心のゆとりが無い
5.要するに少年少女への躾の面がまるで出来て居ない
とのことで我は其の様には常にショックを受け続けて居ます。
其の点では戦前の教育にもむしろ學ぶべきところが多多ある。
でもって、其れが實は小学生だけでは無くむしろ男女のカップルやまた知人の集団が歩道を移動する時などでもほとんど同じなのです。
だから我は其れに対し怒ることが多いのですがすると大抵は追いかけられますがとりあえずはこちらは自転車なので逃げ足だけは何せはやい訳だ。
かうして此の社會はもはやダメ、其れも根本でダメになって居るのではないかとさう思うことが頻りである。
其の種の危惧はまたイデオロギー以前での人間としてのケジメであり躾の次元での御話です。
ですので其の種の次元での精神の整え方の方が我我に取りむしろより重要な課題なのです。
さらに其の電力供給の問題にせよ論点は同じところにあり要するに其れは危機に対しまるで備えて居ない政策のあり方がむしろ危機其のものを生み出して行くのです。
だから此処日本國が今抱える問題とはウクライナに於ける戦争の問題でも無くまた台湾での有事の際の問題でも無くまずは國民への躾の話であり政治としての政策上の誤りに対する反省其のものでせう。
なんですがイザ長い時間をかけさうして壊れて来て居る訳ですので其れもすぐに治ることではありません。
なのでなるべく世間とは違う意見を是非汲み取り自己防衛へと勤しんで置くこと位しか個に取っては出来ません。
問題は現在日本の政党政治其のものがポピュリズム化して来て居り其れに洗脳されし大衆が自分の頭にて考えること無く件の亡國政党を選んで仕舞うことだ。
さて現代文明に於ける全ての問題がまさに其の「やり過ぎ」と云うことです。
其れは人間の獣性に対しまるで歯止めが掛かって居ないと云うことです。
なので歯止めを掛ける思想がむしろ求められて居るのであり其の観点からすれば戦前的な右の思想と共産主義思想はむしろ〇として考えられやう。
怖ろしいことにさうして思想さえもが弐元分離して仕舞います、あくまで現實的には。
あくまでさうした観点からは盲目的な親米政策の流れや盲目的な民主制至上主義はむしろ壱番悪い思想的な流れとなる。
またTVに出て来るやうな大學教授や評論家の類は何故かそこんトコに嵌り込んだ輩が多い訳だ。
だから僕は其れを馬鹿だとさう断じて居る訳です。
ですので兎に角僕が今皆様にお伝えしたいこととは「御自分の世界」をあえて構築し其処から何でも判断して行って下さいと云うことです。
其の結果右翼とならうが左翼とならうが其れはアナタ方の自由であり我が関知するところでの価値ではありません。
また自力救済を選び取らうが他力救済を選び取らうがまた無宗教者とならうが其れは其れこそ「信教の自由」なのでありドレが正しいとは言えぬことです。
なのですが、其処にもまた最低限でのケジメと申しますか其れとも躾と申しますか其のことは國籍やさらに宗教や思想、信条の違いとはまた別の次元での人間としての責務です。
我はまさに其の部分の崩壊をこそ危惧して来て居る。
また其のことが偉い筈の日銀だの政府の人人にもむしろ壱番欠けて来て居る部分なのではないか。
ですのでさう云うのは普通偉い人間だとはまさか言えぬ筈なのです。
「偉い」とさう言えるのは理性的な分別を持って生きる人人のことをこそ言う。
ではさうしてすぐに🌸に飛びつくお前がそんなに偉いのか?
すいませんが其れは偉いとしか言いやうが無いですよ。
さうして自ら限定して🌸の匂いを嗅ぎまくる訳ですので其れはとても理性的な行為なのだとさう思う。
なんでもさうして自分が壱番のお前は逆に文學地獄へと堕ちて居やあせぬか?
文學地獄?
果たして何だ、其れは。
ほれ、かっての文豪連中が皆堕ちたアノ観念の地獄のことだよ。
うーむ、確かに彼等は其の地獄へしかと堕ちたのでせう。
ですが我はむしろ今其の地獄をこそ天國化して来て居る…。
何?
地獄の天國化?
其れはどう云うことか、早う説明せよ。
だから純文學はさうして常に人間の生き様の醜さを赤裸々に描き続けて来ました。
まあ其れは人間の生としての壱種の極限状況の描写です。
例えばかの芥川 龍之介などはかって『羅生門』にて其の極限としての生の本質的意義を問うて来ている。
ーすると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、
下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな
「成程な、
老婆は、大体こんな意味の事を云った。ー芥川龍之介 羅生門 (aozora.gr.jp)より
其の老婆が今まさに為しつつあるのは生きんが為の生のあがきであり闘争である。
人間はまさに其の種の哀しきあがきなり闘争世界に常に晒されて居ざるを得ない。
但し個人的にはそんな極限での生の闘争を其れこそ理性的に見詰めて行く眼差しが他方にあらうかと思う。
また其れは此の有名な短編作品である『羅生門』の作者としての芥川 龍之介の視点である。
ー老婆の話が
「では、
下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった
其の生の不条理さと矛盾の様を芥川は此の短編作品壱つでもって描き切った。
さうして誰もが本質的には悪を行うことでこそ己が生を成り立たせて行くのだ。
其の様を潔癖に見詰めれば見詰める程に生はまさに生きるに値せぬ修羅場と化すのである。
要するに其れが地獄へと変質して仕舞う訳だ。
だけれども其れはあくまでほんたうのことなのだ。
純文學はさうしてほんたうのことだけを見詰め続けて来た。
また其れが余りに苦しくもあり其の故にかって多くの文士が自決に追い込まれても居る。
勿論其れはまた生を正直に見続け過ぎて居ると云うこともまたある。
文學者はさうして生の眞相を見た挙句に生の全てに対し絶望しがちである。
其の意味では我も亦同様に絶望して居るのだと言っても良い。
だがこと宗教に限れば其れは絶望に値することなのでは無いとさう答えて呉れやう。
其れも佛教にせよさうしてキリスト教にせよ其れは絶望其のものでは無いとさう必ずや説かれる筈だ。
文學と宗教の違いこそがまさに其の点にこそ宿って居る。
但し佛教各宗派やキリスト者が此の話の筋にどう評価を下すものかはまるで計り知れぬことだ。
或は其の罪は赦され其の煩悩を悪とは断ぜられぬのやもしれぬ。
ではあっても壱つだけ其処に言い得ることがある。
其れは生は哀しいことだと云う事實であり實相である。
個人的に文學とは其の哀しみを直に感じつつ生きることであるかとさう思う。
だから文學とは陽の下での希望だの期待だのの御話では無くまるで月夜の下での怪談話のやうなものなのだらう。
其れももう長くそんな怪談話に付き合って来たやうな気がどうしてもする。
だけれども今思えばそんな怪談話であったが故に其れがまた何か美しいものであったやうにも見えて来るのである。
ちなみに先日Eテレの方で中國人には此の『羅生門』の話がそも理解不能となる旨が解説されて居て其れを面白く視て居た。
何故なら中國人に取り「老婆」とは「妻」と云う意味なのださうだ。
だからこそ此の短編小説の意味合いがまた全然違ったものとなり多くの中國人はむしろコレを変な小説だとさう思うのださうな。
ー平安京の計画の大枠(平面計画)は基本的に中国の隋・唐の長安城を手本としたものであり、またやはり長安を模した日本の平城京を踏襲したものでもある。ー平安京 - Wikipediaより
かうしてかっては中國が我が國に取り全ての御手本であった。
だから中國を否定的には扱わぬのが我が精神のスタンスなのである。
だが純文學でもって扱うこととはまさに其の普遍的な意味での生の哀しみである。
其れは何処にありまたどんな體制にせよさうして哀しくも苦しいものなのであり決して樂なものなのでは無い。
まさに其の点では純文學にせよ宗教にせよ其の視点は同じところにある。
だけれども現代の日本の小学生が陥って居ることだらう洗脳と云うかまたは勘違いと云うかさう云う部分は其の純文學や宗教による本質的視点よりはまさに最も遠い視点なのであり要するに其れは近代的な意味での倒錯の論理としての精神的な意味での合理化が其れに当たることなのではないか。
人間の精神がさうして合理化されるに及ぶと利己主義に陥りさうして生の哀しみへの共感力が失せて行くのである。
よって現代の日本の小学生の精神のあり方は至極危ないと我はさう見詰めて居ざるを得ない。
さうしてみんなでもって歩んで行く誤った道筋程怖いものは此の世には無い。
其れはまさに戦争や紛争、侵略などよりもより怖い話なのであり要するに今日本の小学生の躾其のものがなって居ないと云った御話である。