目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ハイデガーの思想から學ぶことーハイデガーによる本来的自己と非本来的自己ー

41.ハイデガーによる本来的自己と非本来的自己

 

 

 

ーそんな調子で精神的にかなり追い込まれた時、「世界一不安になりやすい民族」であり、なおかつ「短気な国民」である日本人はどうなってしまうだろうか。これはあくまで筆者の勝手な想像で、科学的根拠もないが、攻撃的になってしまう人もいるのではないか。

一緒になって叫べば不安も少なからず解消されるかもしれない。ただ、過去の負けパターンに学べばあまり頭に血が上るのは危ない。熱狂の時こそ少し落ち着くべきだ。中国やロシアに屈しないためにも、まずは「挑発」に乗らない冷静さが必要なのではないか。ー在日ロシア人排斥、ウィル・スミス擁護…日本にはびこる「正しい暴力」の幻想 (msn.com)より

 

其の「暴力」の本質とは、實は祖國防衛だの👪を守るだのと云う所謂右の論理からはまるで見えて来ない問題なのだ。

またさらに其れを大きく捉えれば其れは所謂人間中心主義では地球環境問題の本質面を捉え切れぬ部分とまるで同じことだ。

 

さうした正邪か又は善悪の問題はむしろ哲學的には規定し得ぬことなのであり逆に申せば所謂バイアスのあるところでのみむしろさう規定されて仕舞う価値なのでもまたある。

いずれにせよ社會的に齎される何らかの価値に対しどれだけ冷静で居られるかと云うことこそがまずは理性的な態度なのだと言えやう。

 

其処では常に社會の方が悪いのであり自分の考えは正しいとさう思って居る位で丁度良いのだと思う。

つまるところ所謂全体主義として社會的に頭に血が上ると其れこそ取り返しのつかない不利益が生み出されるとさう理性は常に見詰めておくべきだらう。

 

 

其の中國や露西亜は社會を革命し人類史に取り新たなる歴史を築かうとした實験國家である。

其の逆の方向性を模索したのが民主國家として革命された米國流の實験國家である。

 

つまりはどちらも革命的實験國家なのだ。

 

其の革命國家はどちらにせよ日本のやうな封建國家にはそも似合って居ない。

 

米國流の實験に付き従い金融資本主義だのまた性の解放だのそんなことをして居れば封建的👪主義國家としての日本國の精神は次第に蝕まれて行くのだと言っても良い。

其のことがかの三島 由紀夫先生をして蜂起せしめたところでのまさに根本のところでの理由であった。

 

 

以前から述べて居ますが、今露西亜は頭に血が上りまるで理性的では無く対するウクライナの方も頭に血が上りまるで理性的では無い。

だから僕の場合は双方とも「頭が悪い」とさう述べて来たのである。

 

さう云うことを言うと、「お前は男らしく無い奴だ!」とさう言われかねぬのだが我はあくまで其の👨でも無く且つ👩なのでも無い。

つまりは言わば「中性の悩める實存」なので男や女、さらに正義と不正義以前のところでより根本的な精神の闘いを行って来て居る。

 

要するにさうした思想的なバイアスの部分を抜きにした形にて現象としての人間の馬鹿さ加減に就き常に考え続けて来た訳だった。

 

 

僕が此のブログにて書き続けて来たこととは人間存在としての正しい認識のあり方こそが正義を形作るのであり其のことはむしろ其の種の思想的なバイアスなりまた祖國防衛だの👪主義だのと云った熱狂的で且つ本能を擽るやうな価値観にはむしろ背を向けた上で自分の頭でもって考え己が価値観を醸成すると云うことなのだ。

 

此の世での全てのことはむしろさうして全部を自分でもって組み立てて行くより他は無い。

と云うことはまさに其のことが主體性の確立と云うことに繋がる訳だ。

 

其の主體性を確立するからこそ其れこそ宗教の選択や政治思想の選択が初めて可能となるのである。

だがおそらくは多くの日本人が其の個としての選択をむしろ人任せ、其の場の雰囲気任せにして仕舞って居ることだらう。

 

でもさう云うのはむしろ壱番危険である。

兎に角もう何でも良いから自己を中心にして物事を見且つ考えさらに選択すべきである。

 

 

でもって、何せ僕は頭が良いので不安が強くあるのです、なのでほんたうは華厳の滝から飛び降りたいのです…。

 

いや僕も出来れば飛び降りたいところながら、もう毎日がやることだらけで其れどころでは無い。

だから確かに僕もまた鬱病なのだらうが兎に角やることだらけでもう其れをやるしか無い訳だ。

 

なので其れはまさか鬱病だとは言えないのである。

まあ社會の価値観を否定し其処から逃げ回ると云うのも明らかに異常なのだがいざ其れをやるとなると至極忙しくてー其れも御勉強の方が特にー悩んで居る暇がもう何処にも無くなる訳である。

 

 

ハイデガー“存在と時間” (3)「“本来性”を取り戻す」 - 100分de名著 - NHK

 

ちなみに今教育TVの方でハイデガーの哲學が講じられている。

 

さうして社會関係に於いて人間は常に非本来的なー創りもののー自己を生きて居ざるを得ない。

だから常に何かに圧迫され解放されぬやうな感じーまるで檻の中に居るやうな感じーを受けて居ざるを得ない。

 

ー但しさう感ずる人もまた居ると云う話であり逆に本来的な自己になどは怖くて向き直れないと云うタイプの人間が案外多いものだー

 

 

社會関係に於いて演ずる其の悲劇ー喜劇ー的な役割がイヤでイヤでたまらぬ人は其れこそ藝術家となるか又は宗教家となるか其れともハイデガーのやうに哲學者となるかである。

だが大多数の人人はソコまでの才能なり能力に欠けるのでむしろみんなでもって歩むことを選ぶ。

何故ならみんなでもって歩んで行けばたとえ何かが引き起こさるにせよ自分だけが責任を背負い込まずとも良い訳なのだ。

 

さうだ、みんなでもって行かう、さすればもう何も怖くは無い!

ドッカーン。ー広島と長崎に原爆が落ちた音ー

ぎゃああー、壱體何だ、コレは?

 

さうだ、みんなでもって行かう、さすればもう何も怖くは無い!

ドッボーン。ーみんなでもって宇宙の肥溜めに落ちた音ー

ぎゃああー、壱體何だ、コレは?

 

 

ハイデガーは「死の先駆性」に於いて社會に吸い取られて居る實存的な価値の奪還は可能だと述べて居る。

 

其の「死の先駆性」であるが、こと宗教や藝術の分野ではむしろ理解し易い概念である。

例えば宗教家は生きながらにして死んで生きて居たりもまたする訳だ。ーさうした欲望が限定された地平をあえて生きるー

 

また多くの藝術家は矢張り作品に命を捧げ半分位は死んで生きて居たりもする。

 

學者の方方にせよ観念に命を捧げ半分位は死んで生きて居たりもまたする。

だが大衆レヴェルでは此の概念を理解すること程難しいものはまた無いことだらう。

 

 

 

「死の先駆性」とはある意味で精神的に「死ぬ気で生きる」ことなのだと思う。

また其れは眞の意味でのインテリ即ち精神の貴族としての生き方なのではないか。

 

さうした死を生きることでのみ人間存在は社會と云う軛を離れ本来的な自己を其処に取り戻すことが出来る。

此のハイデガーの考察こそはまさに正しいものであることだらう。

 

 

尚「死ぬ気で生きる」こととは例えば女房子供を養う為に「死ぬ気でもって働く」などと云うこととはまた違う価値認識のことだ。

さう云うのは精神的な価値では無くむしろ肉體的で且つ本能的な価値である。

 

精神的な価値とは其の種の👪主義には還元し得ぬまさに個としての孤独な精神の価値のことだ。

だがおそらくはより多くの人人が其の肉體的で且つ本能的な価値である労働の価値を第壱義的に奉じて居る筈なのだ。

 

だから其れだけをやればまずは合格だ、とついさう考えて仕舞う。

ですが其れは社會に隷属して得られることだらう見せかけとしての価値ー虚としての価値ーであり其ればかりにかまけて居ればむしろ自己を空しうして行くより他は無い。

 

であるからして元元さう云うのが嫌いな心の持ち主はまた別の生き方を好んでするものなのだ。

 

 

ではアナタは其れがやりたいのですか?

やりたかったのですが結局は力及ばず其れが出来なんだのです。

 

どだい僕はほんたうは哲學者にでもなるべきでした。

其の生まれつきに得意なところを反故にしてさうしてずっと日銭を稼ぐ毎日だったことこそが僕の悲劇だった。

 

さても其の「世間に認められる形にて労働すること」によりむしろ精神の自由は奪われ其ればかりか主體性を破壊されて行くことに就き我我現代人は是非壱度考えて置く必要がある。

其れは世間ー社會ーの価値観其のものが誤って居る可能性すらもがまたあるからなのだ。

 

 

ー「存在」とは何か、その定義が当初の問題だったはずなのに、ハイデガーが人間の、じゃなかった、現存在の「本来的な生き方」「非本来的な生き方」にこだわるのも、正しい「認識」は正しい生き方につながるものでなければならない、そう考えていたからだったのですね。

でもこの「本来性」「非本来性」という言い方も、一般的には非常に評判が悪いですよね。自分だけが真理を知っていて、無知な一般人に「本当のこと」を教えてやる、という、まさに知識人の典型的な「上から目線」。

 

たしかに「非本来性」、つまり「ダス・マン」(ひと、世人<せじん>)を論じているところは、「ひとがそうしてるから」、「みんながそうしてるから」という大衆の右にならえ的なあり方をよく捉えているような気がします。ー

 

さっき「各自はそれぞれが『自分だけの』現実に直面しているのであって、現実問題として、その『現実』に対応することができるのは私以外にはいない」という話をしたでしょう。それをあなたは「シビアな現実認識」とおっしゃいました。

でもシビアというより重たいんですよ、こうした「現実」に直面させられていること自体が。だからこの重荷から「逃避する」のが、非本来性の根本的な意味なんです。

なにごとでも、判断は他人に委ねた方が楽でしょう? 組織に所属していれば、「上」の命令に従っていればいいわけだし。もちろん、それですべてがOKだというのは幻想にすぎないのですが、あまりにも自分という存在が「重い」ので、そういった気休めに、ついしがみついてしまう。これが「非本来性」、つまり他者に埋没した「ダス・マン」というあり方です。ー結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか(轟 孝夫) | 現代新書 | 講談社(2/5) (ismedia.jp)より

 

個は常にさうした交換出来ない現實性を背負わされて居り其の重荷から解放されるには参種のあり方しか無いのだと我は思う。

1.構築

2.逃避

3.洗脳

 

である。

1.の構築とは眞の自己の構築である。

逃避して構築するのであれば、其れは壱種の自己哲學に生きて自己解放を図ると云うこととなる。

 

ところが其の逃避は洗脳を受け容れることでも成し遂げられやう。

洗脳、即ち社會的な価値を全的に受け入れることで逆に自己を曖昧に保つか消し去ることである。

 

通常インテリは其の2.と1.を組み合わせた上で自己の価値観を開拓して行く訳だ。

逆に大衆は人生を認識する重荷に耐え切れず大抵は判断を他人に委ねて行く。

 

なのでこちらでは2.と3.の様態が組み合わさり何とか其の本来的な自己から逃避して行く訳だ。

其の逆にインテリー精神の貴族ーはあくまで自意識による価値観の構築を人生の最終目標に定め此の世での生を成り立たせて行く。

 


他者に埋没した「ダス・マン」=非本来性を生きる末人

 

わたくしが近頃大衆批判をなしみんなでもって生きることを否定して居るのは其れが容易に全体主義を成立させ結局は其れが社會的に良く無いことばかりを呼び込むであらうからなのだ。

大衆は概ねさうして何かに埋没した形で言わばのらりくらりと生き自己に割り当てられし責任を回避するのである。

 

だからこそ僕はむしろそちらの方が樂で良いなどとも述べて居たのである。

但しもし其れを続けて居れば勿論自立的な精神は破壊し尽くされやう。

 

 

さらに言えば精神の貴族とは精神として世と闘うことを自覚した人人のことだ。

つまりは其れが「目覚めた」精神の持ち主のことなのだ。

 

対して洗脳され盲目的となった精神は眞の意味で逃げ続ける訳だ。

其れもみんなでもって逃げるものだから意外と目立たなくて良いのである。

 

逆に精神の貴族の方方は何せ目立つのだしまさに人とは逆のことばかりを言うので周りからはまず評価されはせぬ。

なんですが精神つまり理性の方向性とはあくまで本来的なものであれば其れをこそ選び取る筈なのだ。

 

 

でも彼等は断じてジャニーズに熱狂したりしたくは無いのである。

さう洗脳されればされたでむしろ樂なのであらうが。

 

でも精神を自立させて居る人人に限り其れはケモノへの堕落を意味するのである。

尚我はどちらかと言うとさうした堕落への嫌悪感が強くある方である。

 

故にかより堅固に自分の観念の城を築いて仕舞う方なのでそもまるで成佛など出来ないタチの人間なのだ。

 

 

ーなにごとでも、判断は他人に委ねた方が楽でしょう? 組織に所属していれば、「上」の命令に従っていればいいわけだし。もちろん、それですべてがOKだというのは幻想にすぎないのですが、あまりにも自分という存在が「重い」ので、そういった気休めに、ついしがみついてしまう。これが「非本来性」、つまり他者に埋没した「ダス・マン」というあり方です。

Q: 非本来性はまあそれでいいとして、「本来性」に則った生き方は、結局どうなるのですか?

A: 今言った非本来性の逆の生き方です。自分だけの現実に直面させられているというその重荷をきちんと真正面から引き受けること。「ひと」に判断を委ねるのではなく、自分のあり方を自分で責任をもって選択していくこと。「おのれ固有の存在を気遣う」とハイデガーが言うのはそのことです。キリスト教だと「神に忠実に」というところが、ハイデガーでは「自分の存在に忠実に」──となるわけです。

 

先ほどお話しした、「自分」、「私」の本質を思い出してください。自分だけの現実に直面させられて、自分の責任でおのれのあり方を選び取っていかなければならない、というのが「私」の本質でした。だから「自分の存在に忠実に」とは、今述べたような自分のあり方を直視して、そこから逃避しないことになるわけです。

思い切って言うと、孤独であることを恐れないというか、孤独を引き受けるという感じでしょうか。「嫌われる勇気」、というと言い過ぎかな。でもまあ、ひとに嫌われることは確かでしょう(苦笑)。

結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか(轟 孝夫) | 現代新書 | 講談社(3/5) (ismedia.jp)より

 

わたくしの考えでは人生の重荷に対し逃避しない考えーニーチェハイデガーへの精神の流れーは至極危険である。

故に我の場合はまず2.逃げ、しかるべき後に1.構築する。

 

但し最終的には其れは孤独を怖れるやうなものとはならない。

其れはすでに精神が自立するが故に独りで居る事が怖くは無く、また同時に誰に嫌われやうが知ったことでは無い。

 

其れでも意外と人に親切に出来るのは結局まずは逃げて居り其処で人の心の痛みを知って居るからなのだ。

まあ親切ばかりでは無くこっぴどく人の批判もまたするのだけれども…。

 

其の「自己本位」と云うことは人に嫌われやうがどうしやうが己の選択を貫き認識を曲げぬと言うことなのでもまたある。

 

Q: ものの「存在」は、ただそれをボーッと見ているだけでは理解できないということですね。

A: そういうことです。さっき本来性について説明したところで、われわれは「自分だけの現実」という重荷を負わされていると言いました。具体的に言うと、われわれは自分とは異なる「存在」を負わされていて、それに対してしかるべき関係に入ることをつねに求められている。ー結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか(轟 孝夫) | 現代新書 | 講談社(4/5) (ismedia.jp)より

 

其の實存の背負う重荷の大多数が實は社會関係に規定されしことなのだ。

 

だが詳細に吟味するに其の社會関係の価値の大部分がほぼ本来の自分とは無関係なものであることが分かる。

でもたとえ分かったにせよ止められない。

 

何故なら人間は他者によりさう規定され続ける存在なのだから。

然し其のさう規定される部分の中でむしろ「要らない」と思える部分が意外と多いことにまたいつか気付く筈だ。

だから其れは要らぬとさう言える精神的態度を培うことこそが人間として理性的に生きると言うことなのだ。

 

 

Q: ハイデガーの非本来性と本来性の議論が、煩悩によって支配された「無明」の生と、それを脱した「悟り」という仏教の教えに似ている。そうした点も、日本人のハイデガー愛好の理由になっているのではないかという話でした。

A: ええ、さっきもお話ししたように、キリスト教の教えから「神」や「来世」といった超越的な要素を徹底してそぎ落としていった結果、もともとそうした超越的存在を認めない仏教に、構造的に近くなったのではないでしょうか。ー結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか(轟 孝夫) | 現代新書 | 講談社(4/5) (ismedia.jp)より

 

元元其の實存主義の流れこそが超越的な神による救済の思想からまさに實存としての個的な救済にパラダイム・シフトして行くものなのであらう。

でもって佛教、其れも禅宗や原始佛教の流れは其の種の超越的存在を排した上での實存的超克をこそメイン・テーマに据えて居る訳だ。

 

だから確かに壱面ではハイデガーの哲學は佛教思想にも通じて居るのやもしれぬ。

但し佛法は實存としての主體をそも認めては居ない。

 

むしろ其れを非我として排斥し何ものにも拘らぬ精神的な放棄にこそ生きる訳だ。

なので所謂インテリ的な佛法理解をむしろ禅宗などは激しく嫌うのである。

 

なのではあれまさに「眞の意味での自己」に目覚めると云う意味では両者の精神の方向性は矢張り同じなのであらう。