万年筆秘話ー壱 幻となりし日本壱の手作り万年筆ー
さうしてペン趣味と云うものは至極理性的に展開されるもので猶且つ平和な世界でのものです。
ですが其の理性を成り立たせて居るものこそがむしろ此の世界との格闘であり戦闘ですらある。
むしろ其の位のことをやった上で初めて「僕は理性的な人間です。」とさう言えるのだ。
理性とは常にさうした苦しいものであることを知った上で其れと是非付き合って行くべきだ。
また其のことは文系であれ理系であれまるで関係無いことかとさう思われる。
兎に角トコトンさうして御勉強した上で何ぞものを言う立場に初めてなれる訳だ。
だから御勉強は例え還暦にならうがどうしやうが時には日に拾時間程はやらねばなるまい。
でも御勉強が過ぎると體を壊したりもまた致しませう。
そんな眞面目過ぎる方には文房具にて気を紛らわすこと、即ち文房具と戯れ時の経過を忘れることなどもまた大切な時間であらう。
そんな御勉強人間のわたくしですが、たまにはさうして文房具巡りをして気を抜いて居たりもまた致します。
即ち其の文房具巡りこそがむしろわたくしにとっての癒しの時其のものなのだ。
ですがまさにケモノのやうな世間の人人は大酒を飲んだりギャンブルをしたりまた姐ちゃんの尻などを触りに行くことこそが其の癒しの時なのだ。
ですが其れはわたくしに限りまるで合わぬのです。
そんなわたくしも昔は悪友に唆され悪いことなども色々とやりましたのですが結局人間としての性質が至って御上品なもので藝術だの御勉強だの植物園だのそんなみんなにとってはつまらぬものこそがわたくしにとっての愛♡の対象であり神佛よりの贈り物其のものなのです。
でもってまた今日もイオンへ行きアノパイロットの変なペンの変わった色のものを買って来た。ーインク色が赤系のものをー
其れも大體15本に壱本位の割合で最高の書き味の壱本と出合えるだらうことが分かって来た。
其の帰りにニトリへ寄り初めて買い物をした。
ニトリの家具や日用品はまさに合理的に考えられ造られて居て壱種洗練されて居ます。
其れ等は決して高級品では無いが所謂「意識の高い」品を扱って居ると云う感じです。
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此のペン立てなども可成に良いと思われます。ー材が肉薄でスッキリして居るー
但し我はもっと安いー五百円程ーものでもう少し肉厚の材のものを選んだ。
此れよりも高さがあり長いペンなども入れられる優れ物です。
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かうしたタイプの品も勿論使えさうです。
ですが我が今机の上に置いて居るのは書道用の筆筒ばかりです。
さうして我がペンは軸の長いものが多いので書道用で丁度良い位である。
また万年筆類は、
1.保管用には桐箪笥
2.使用する分には書類収納ケース
とに分けて入れて居ます。
使用する分だけでおそらく百本以上はあります。
其れもDip Penだの鉛筆だのを入れればおそらく弐百本を超えることだらう。
ところで其の書類収納ケースを探し出すのに凡そ参拾年の年月を要しました。
此のケースには筆記具が弐百本位は入ります。
桐箪笥の中には漆塗りの文箱が五つ程入れてあり其の其れぞれに万年筆が弐、参拾本も入って居る訳だ。
此の桐箪笥は廿代の頃に親が買って呉れたものですが何故其れを買って呉れたのかが今となってはまるで分かりません。
其れと鉱物の方の標本箱もまたある訳ですが其れも何故か家にあったもので四拾歳位の頃に自分の部屋に持って来たものだ。
そんな訳で筆記具との長い付き合いの中で試行錯誤しつつかうした保管法に辿り着いたのがまさに五年程前のことでした。
尚ペン立てはさうして木製であることがより好ましい訳ですが其処には問題が壱つあり其れは蓋が付いて居ないと云うことです。
其の蓋が付いて居ないとペン立ての中及びペン其れ自體が汚れるつまりは埃を被ったりするので實は至極不衛生です。
特に使って居るペンの本数が多い我我筆記具愛好家などはさうしたことが屡で結局は筆筒やペンを洗う羽目にも陥る訳だ。
なので最近我が考えて居りますことは蓋付の硝子製の容器にペンを入れることです。
其の瓶の底にクッション材を入れてやれば其れで全く問題は無い訳だ。
ですが百円ショップではなかなかさうした物を探し出せずに居りました。
ところが本日其のニトリにて使えさうな蓋付きガラス瓶をようやく探し出せたのでまさに其れを買って参ったところです。
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此れの縦に長いタイプがあり其れを求めました。
文房具趣味、其れも筆記具趣味の世界とはかうして様様に物を探し出して行く世界のことだ。
ですが其の自分に合う物は人によりまるで違うものとなる筈です。
要するに何が合うかと云うことは値段だけでも無くまた作りだけでも無い。
筆記具でもまた藝術でもさらに人間でも自分にとっての合う、合わないと云う大前提がさうしてしかと存して居る。
まさにさうした部分こそが實存的に規定されて居る価値なのであり要するに其れが強くある人程オンリーワンのものとなる可能性がまた高く存する。
また物には限らずとも其れこそ藝術やスポーツの分野では自分を持ってる人程オンリーワンとしての価値に恵まれて居るのである。
さて今日はかってピーカンさんがヤフオクに出して居られた万年筆のことに就き是非触れて置きませう。
此れ等はもはや弐度と手には入らない幻としての筆記具の価値である。
【竜宮庵 手作り万年筆】オリジナル中軸新品Jowo 珊瑚色レジン軸
かうして至極綺麗な軸色です。
さうして黑いところはエボナイト製かもしれません。
此の方の万年筆はまさに個人としての趣味の域を超えて居て或は大メーカーの製品よりも良い可能性すらもがあった。
其れに落札価格は此のペンの場合壱万円台でした。
此の方の万年筆は皆同じ形でもって軸が長くむしろ軸の前部の方が太く作られて居た。
今思えばまさにわたくし好みの万年筆だった訳だ。
【竜宮庵 手作り万年筆】オリジナル中軸 新品 Jowo 青系レジン軸
こちらはまた美しいブルーの軸色です。
此れもまた壱万円台の落札価格でした。
ちなみにオプションとして金ペン先も選べたやうです。
尚我が此れ等のペンの出品に気付いたのは2017年の春先のことでした。
其の後半年程でしたか、次から次へと出品される手作り万年筆をチェックはして居ましたが応札は出来て居ませんでした。
其の頃は銘木ボールペンの蒐集の方が特に忙しくさらに海外オークションの方にも参加して居り気分的に余裕が無かったのです。
ですが、ピーカンさんー長崎県の方ーがさうして手作り万年筆を出されて居ることに対し万年筆コレクターとしての私はもっともっと眞面目に向き合うべきでした。
ふと気付けばピーカンさんがもはや筆記具を出されることなど無くなって居た。
要するに其の短い期間に集中して作品を発表され製作を止めて仕舞われた万年筆製作者さんだった。
尤も今はどうされて居るものなのやら我はまるで存じ上げて居ない。
だが大抵の場合幻のペンは幻のものとして其処に終わって仕舞って居るものです。
さて35年以上に亘るコレクター人生を歩んで来たわたくしには其のことがすでに身に沁みる形にて分かって来て居る。
其の物、特に自分に取っての此れはと云う物、即ち良い物との出合いはまさに其の場限りでのもの、所謂壱期壱會となることが多いのです。
さうして壱期壱會とは人間関係に限らず物でも動植物でも何でもさうです。
であるからこそ其の出遭いの機会を大事にし且つ其れを逃さぬやうにしなければならない。
かく言うわたくしめはもうどんだけ自分に取っての良い物を逃して来たことか。
其れも壱番大事なものに限り何故かかうして逃して仕舞う訳だ。
つまりは其処でもって自分の認識が甘く且つ悪いのです。
其の時に考えて居ることがそも間違って居る。
嗚呼、仕舞った、ついやってもうた。
馬鹿、もう弐度と機會は無いぞ。
其れもどんだけ馬鹿なのだ、お前と云う奴は…。
でも其の己の馬鹿だけが何故か治らぬのです。
さうして良い大學も全部落ち、しかもピーカンさんの得難い万年筆もついぞ得られなかった我ですので…。
【竜宮庵手作り万年筆】オリジナル中軸新品Jowo14K金ペン レジン
かうして金ペン付きですと落札値は弐万円を超えますが其れでも参万円までは行かなかったものだ。
いやあー、でも惚れ惚れと致します。
長い軸に厳選された素材を用いさらに工作精度はおそらく完璧に近いものだったことでせう。
何せ銘木ボールペンの作り其れ自體がほぼ完璧なものであった訳なのですから。
【竜宮庵 手作り万年筆】オリジナル『浮舟』中軸新品:すべて同一緑系レジン軸+象牙リング:JOWO製14Kペン先
其の後さらにこんなものまで出ました。
流石に此の御品は参万以上の落札値が付いた。
此のペンは然し我の為にあったかのやうな手作り万年筆だった。
其れも今思えば…。
かうして大好きな緑色の軸でもってしかも白いリングは象牙を細工したものです。
では君は此れに応札して居たのかい?
いいえ、全然。
其の時は何か他事に夢中でかうして記録だけを取って居たのでした。
【竜宮庵】手作り万年筆『浮舟:黒烏帽子杢CE』アカシア瘤軸+黒エボナイト+真鍮CAPリング:ドイツJowo製ペン先(18Kオプション可)
最期の方にはこんなものまで出ました。
此れなどもむしろわたくしの為にピーカンさんが作って下さったかのやうなアカシア瘤軸の万年筆だった。
他にも珍しい素材であるベークライトを使った物なども出されて居たものだった。
本日述べた此れ等の万年筆は今はもう幻の物となったアマチュアのペン製作者による幻の遺作のやうなものである。
其の幻としての過去に拘る必要などは元より無いことだらう。
過去はすでに済んだことであり弐度と取り戻せない価値なのであらうから。
だが其れは其処に確かにあった。
さらに今も此れ等の万年筆を愛用されて居る方方に取り其れは継続中の価値なのだ。
なのだけれども其れをもはや得ることが出来ぬ我我に取り其れはあくまで失われた価値でありまさに幻のペンである。
わたくしは今其の種の「過去に存在した凄い価値」に就き思いを巡らせることが何故か多い。
其れは有ったのであり無かった訳なのでは無い。
また其のやうに此の世にはむしろ最高と目されるあらゆる価値が眠って居ることだらう。
たとえ其れが失われた価値であるにせよまさに其れは有ったのだから。
さらに其れは物質的次元に限らず精神的にもさうだった可能性すらもがある。
例えば釈迦やキリストの精神とは無いのでは無く確かに有った何ものかなのだ。
確かに其れは有ったのだから空でも無く且つ無なのでも無い。
但し過去の幻に対し何時までも拘って居てはダメだ。
ちなみに完璧なものは概して壊れ易い。
ピーカンさんのペンはどうも其の種の物なのではなかったか。
逆に不完全極まりないさうして愚鈍なるもの程壱般に長生きをする。
つまりは感度が鈍く藝術や學問には縁が無い方がむしろ寿命が長くあるものと相場は決まって居る。
だが其の長生きのペンを見詰めて居るにせよよもや感動は湧き上がって来ない。
感動するのは矢張り決まってゴーギャンやゴッホの絵を観た時でありまたこんな手作り万年筆をこそ思い返す時なのだ。
其の感動が有る限り確かに其れは有ったのだ。
其の有の経験を積むことこそがおそらくは此のつまらぬ生の中での最終目的なのだらう。