目覚めよ!

文明批判と心の探求と

エピクロス派の「アタラクシア」とストア派の「アパテイア」の違いに就いてー+墨子の思想ー

哲學8

 

 

さて我は反体制の思想が何故か好きです。

保守だとさう言って居た割に實はバリバリの反体制派だった訳だ。

 

さうして僕には人の意見とは正反対のことを言うクセがある。

 

で、孔子の思想は結局東洋の体制派となりましたのです。

孔子の思想は過去を大事にする点で個人的に良く理解出来る。

 

でもあくまで👪主義なのでソコが問題だと思うのだ。

ところが其の点をかの墨子がすでに批判して居た訳だ。

 

 

「一連のやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨翟に誓った。こうして墨翟は宋を亡国の危機から救った。それにもかかわらず、楚からの帰り道、宋の城門の軒先で宿りをしていた墨翟は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。」

墨子 - Wikipediaより

 

かやうに墨翟は自由な思想家でありおそらく其のなりは乞食のやうなものだったのであらう。

此のやうに地位や名誉の椅子になどは座らぬ人こそが眞に贅沢且つお上品な知性の持ち主なのだらう。

 

墨子はまず幸福な生活の根本は人々が互いにひとしく愛しあうことにあるとした。兼愛の説がそれである。愛の普遍を求めるならば当然平和を求める。そこから、侵略を非とする非攻が主張された」半藤一利さんは、なぜ「墨子を読みなさい」 と言い遺したのか|じんぶん堂 (asahi.com)より

 

墨子儒家の説く其の👪主義の欠点を指摘し其れが所詮「偏愛」に陥る旨を述べて居る。

其の「偏愛」こそが天皇制を基に展開される我が國の封建的👪主義に対する批判点ともまたなり得る部分であらう。

 

 

事實大日本帝國は其の「偏愛」の度が過ぎたが故にかって國を滅ぼして居る。

かくして👪主義には限界がありされど其の立場からは壱般に抜け難いものだ。

 

👪が大事だとする思想には保守的な意味での生に対する愛が其処に確かにある。

だが其の愛は利己的なものとなり易いことだらう。

 

また共同體への愛、郷土愛の如きものにも其の限界が常に潜んで居て其れが昂ずるとむしろ全体の破壊へと歩を進めて仕舞うことが多い。

故に天皇制への愛もまた同じやうなものなのやもしれぬ。

 

よって保守思想は其の保守としての愛に拘り過ぎるとむしろ破壊を生み出すのである。

 

 

「兼愛の根拠として、墨子は主宰者としての天を認め、神の存在を認めた。そして、万物の主宰者として天があるように万民の主宰者としての君主を認め、天が万物を平等に育成するように、君主が万民にひとしく福利を与えることが、天の意志であり、神の心にそうことであると説いた。これが天志の論であり、明鬼の説である」半藤一利さんは、なぜ「墨子を読みなさい」 と言い遺したのか|じんぶん堂 (asahi.com)より

 

其の天のあり方や神はそれぞれの文化、それぞれの集合的無意識のタイプに応じてありまさに其の多様性を認めるべきなのであるし神は居ないよりも居る方が人間は遥かに生き易くもなると云うことを忘れるべきでは無い。

 

〈福は得ようとしても得られるものではない、禍いは避けようとして避けられるものではない、うやま われるようなことをしても大して益はない、乱暴をしても破滅をまねくとはかぎらない〉と、そんな風に世の宿命論者はいうが、これは大間違いだ、こんなバカな話があるもんか、なぜならば……と墨子は説くのである。半藤一利さんは、なぜ「墨子を読みなさい」 と言い遺したのか|じんぶん堂 (asahi.com)より

 

さても幸福とは所詮人間の心が生み出すものだ。

故に幸福とは客観的な状態ー評価ーのものでは無い。

 

つまりはあくまで自分が幸福であるか否かと云うことなのだ。

 

 

 

保守思想、其れもナショナリズムは必然として其の「偏愛」に傾き易い。

また宗教ですら其の「偏愛」に傾き易い訳だ。

まずは其のことを述べた墨翟には勇気があったのだと思います。

 

其の「父」や「主君」ひいては「御先祖様」を偏愛することなどもまたどうなのかと思われる。

其の矛盾を解決する為に私の場合はかう考えて居た。

 

我我保守的な人間が愛すべきものとは人でも無く制度でも無く土地としての記憶である。

何故なら人や制度は永続することの無いものだ。

然し此の土地ばかりは半永久的に存続し得るものだ。

 

だから保守派とは其の土地の記憶を受け継ぎ且つ其れを次代へ伝えて行く者のことを言う。

なので人がどうあらうがまた体制がどう変わらうが其れをやるのがまさに保守としての人格なのだ。

 

 

非攻は戦争による社会の弱体化衰退と不義を非難し、経済や生命等の利益を損なうという考え方です。一方で敵の侵略に対する防衛戦は否定していません。そのため、墨家侵略戦争に対しては頑強に抵抗しました。守城の技術を発展させ、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加しました。ー【墨子とは】人物・思想・墨家の活動までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

其のナショナリズムでの応戦は結局人間の「心の平和」を搔き乱すばかりである。

つまりは其れでは「アタラクシア」も何も無い。

 

然し防衛を否定すれば國を奪われ属國となる他は無い訳なので防衛はしますと云う立場である。

だが個人的にはそんな社會のことなどはまた別の話でありとりあえずは社會が維持されて居る限り自己としての「心の平安」をこそ追い求めて行くべきだらうと思う。

何故なら其の防衛は自衛隊の任務であり我我庶民の仕事では無いのであるからして。

 

 

節葬論は葬儀を簡素にして、浪費を防ぐことを説いています。

親兄弟など家族に対する礼を重んじる儒家にとっては、親類の葬儀を手厚くすることが重要でした。そのため、墨家の節葬論は儒家の主張とは対極に位置します。葬儀を手厚くすると、副葬品など豪華な品々を埋めなければならず、これを死んだ人ではなく生きた人に活用しようと述べています。墨子は葬儀については、明確に方法を定め、墨者に徹底したと伝えられています。【墨子とは】人物・思想・墨家の活動までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

尚此処は案外大事なところです。

保守派に取り過去は常に大事ですが過去はすでに過ぎ去ったものでつまりはすでに現象しては居ないものです。

 

ちなみに私は佛教徒ですが墓や葬儀などの儀式的慣習に関しては概ね否定的です。

ズバリ申せば其れは要らないものでせう。

より潔癖に申せば御本尊だの御経だのも不要な位です。

 

何故ならお釈迦様が説かれたとされたところでの初期経典のひとつばかりがあれば其れのみにてより純粋な信仰が保たれやう筈ですので。

 

 

さてかうして墨子が節約を説いたことはまさに特筆すべきことです。

特に社會的な存在である人間に取り最も難しいことが物理的また精神的に節制することです。

 

現代文明はまた特に其の節約のことを忘れて居ます。

 

環境問題を解決へと導くにはまずは其の節制と云う概念を広めて行かねばなりません。

其れを科学技術として物理的に何とかして行く前にまずは其の節約ー限定ーの気持ちこそが大事です。

 

人間の社會はかうして古より無駄なことばかりにむしろかまけて来て居ます。

其の無駄なことの集積が我我をかうして追い詰めて来て居るのだと私は思う。

 

ですので、節約は過去の智恵の集積を反故にすると云うことではむしろ無い訳だ。

むしろ其れを現在に生かす為にこそ余分な儀式などは必要ありません。

 

 

非命論とは、人の気力を奪ってしまう運命論を否定する考えです。

天から与えられた定めはなく、自分の力と努力次第でどうとでも変わっていくと説きました。これも、貧富等は、宿命として決定しており、脱却不可と主張する儒家とは真っ向から対立する考えです。

人の勤労意欲を促進することが、富を生産して国の運営予算に投資できるとしています。ー【墨子とは】人物・思想・墨家の活動までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

さて此処からは逆に墨子の思想が持つ合理性への批判と云うこととなります。

何故なら私は今運命論的なものの見方を肯定する立場へと傾いて居るからだ。

逆に申せば運命論的なものの見方により初めて全てが「限定」的に捉えられるからだ。

故に其の富の生産や人間の社會的努力に対しても矢張り限定的とならざるを得ない。

 

非楽論は、人の労働意欲を削ぐような音楽や舞楽は否定する理論です。

音楽について人を現実逃避させてしまう根源として否定し、より実用的なものに注力するように説きました。これも、音楽を重視する儒家とは対立する考え方ですが、感情を表現するような音楽については、何も触れていません。ー 【墨子とは】人物・思想・墨家の活動までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

より合理性に基づく思想例えば共産主義に於いても此の部分と同様のことが語られる訳ですが私はむしろ藝術を重視して居ります。

何故なら「逃げて」生きる立場をこそ重視するからです。

また同様の理由でもって宗教もまた重視して居るのです。

文學や哲學、また音樂や絵画はむしろ人間の心を平安な状態に誘うものとして必須のものでせう。

 

天志論は天(上帝)を絶対的なものとして位置づけ、人格神としました。

そのため、天意に反する戦争や殺戮を否定する兼愛論にも繋がる考えです。天を人格神として扱う墨子は他の諸子百家とは一線を画すもので、ここに墨家の宗教的な特色が色濃く反映されているとも言えますー【墨子とは】人物・思想・墨家の活動までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

 

個人的に其の人間の崇拝には大反対です。

元より人間は信ずるに足らぬ不完全な存在ですので其れへの崇拝乃至信心は神と佛を畏れぬ悪の行為でせう。

 

かうして墨子の思想の内容を辿りますと素晴らしい面もあればまた納得出来ない部分もあると云ったところでした。

 

 

ー侵略行為を否定する一方、城と民を守る防衛任務のプロフェッショナル集団として

儒家と対抗するほどの一大勢力を誇った墨子でしたが、

秦の始皇帝による全土統一以降、忽然と歴史上の表舞台から姿を消してしまいました。ー墨家(ぼっか)が滅んだ理由と創設者 墨子はどんな思想だったの? | はじめての三国志 (hajimete-sangokushi.com)より

 

始皇帝の時代に墨家が突然途絶えてしまった原因は集団自決であったとする説も存在します。

始皇帝の志向した政治は、墨家の思想とは相容れないものでした。

秦の統一を阻むことができなかった自分たち墨家は罰せられるべきであると彼らは考え、

最終的に集団自決しのではないか……

孟勝の主張と決断を考えると、それもありえない話ではないように思えます。ー墨家(ぼっか)が滅んだ理由と創設者 墨子はどんな思想だったの? | はじめての三国志 (hajimete-sangokushi.com)より

 

かうして 墨家始皇帝の時代に滅びたさうです。

然し侵略主義を否定する面と合理性を重んじる面でまさに現代的な思想でもまたあった訳だ。

 

結局思想とはかやうに壱長壱短があるものです。

其れは言語により構成される思考其のものに完全性がそも無いからなのではないでせうか。

 

つまりところ概念は皆壱長壱短であり其の完全性を獲得出来ぬものなのです。

 

なのですが、「アタラクシア 」へと至る方法はあくまで限定的に存在するのではなからうか。

何故なら「アタラクシア」とはあくまで主観的に達成される心理的幸福なのであらうから。

 

 

エピクロスは、人間の本当の楽しみ(快楽安楽)というのは、結婚することは避け、子供を作らず、「隠れて生きよ」(ギリシア語λάθε βιώσας, lathe biōsas, ラテ・ビオーサス)という方針で生きる時にはじめて得られる、とした[1]。そのために、アタラクシアの境地(外界にわずらわされない平静不動なる心の状態、心から動揺をとり除いた境地)を実現するのが哲学の究極の目標・理想だとした[1]

後世に「快楽主義」と同一視されるエピクロス主義の祖エピクロスでさえ、結局のところ、酒や異性に溺れて苦を招く生活よりも、「パンと水」と表現された、アタラクシアの生を追求したのである[4]。ーアタラクシア - Wikipediaより

 

「隠れて生きる」=隠者、仙人のこと

 

隠れて勉強する=隠れて頭の中身を磨く

 

生殖を否定する=現世否定=佛教或はキリスト教的=ショーペンハウアーの厭世哲學

 

物質的快樂を慎重に避け外界にわずらわされない平静不動なる心の状態即ち精神的な快樂に至ることこそが 「アタラクシア」の眞の意味だらう。

 

 

ーピュロンとその流れをくむ懐疑派(ピュロン主義)にとっては、アタラクシアというのは、心の乱れの原因となる判断を停止すること(エポケー)で得られる心の平静を言った[1]

ピュロン主義者にとって、知覚に基づいた印象のうち、どれが正しくどれが間違いかをいうことができないので、根拠がないのに独断的な答えを出すような判断は保留することから生まれるのがアタラクシアである。[注 1]アタラクシア - Wikipediaより

 

さても其のピュロン主義とは何だ?また其のエポケーとは?確かに何処かで聞いた覚えがまたあるのだが何のことやら意味不明だ。

 

 

エポケー(英語:Epoché 古代ギリシア語ἐποχή epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。

懐疑主義においては、エポケーは“suspension of judgment“「判断を留保すること」を意味する。もし真理が到達不可能なものだったり、到達しにくいものだったりするなら、判断を急ぎすぎるとかならず誤ることになるであろうからである。

フッサールおよび現象学においては、エポケーは世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。

精神分析学において、エポケーは現実に対するあらゆる判断を留保することを意味する。これによって治療者の幻想無意識の世界をうまく航行できるようにするのである。ーエポケーより

 

 

其の停止又は中断と云うことは止めると云う方向への思考なのだから何ぞ良いものなのかもしれない。

尚、其の世界の實在に就いては、

 

實在⇔現象

であり、同時に、

現象=被實在=観念的形式

であり、

 

観念的形式=理性のクセ=錯誤

 

なので、

そも物自體を我我が認識することは出来ない。

 

とあくまでカント的に私は捉えて来て居る。

 

 

但し物自體に神佛を置くことはむしろ人間の現象を継続させると云う意味に於いて有効である。

要するに神佛は人間にとってむしろどうしても必要なものとなる。

 

尚其の懐疑主義に関してはまたじっくり考えてみなければならないと思って居る。

 

 

釈迦は最初懐疑主義者のところで修行したが其の懐疑論を否定するに至ったともされて居る。

其のやうにそもそも理性とは何らかの概念を疑うことでありおそらくは其れを永遠に続けて行くものなのだらう。

 

ですが其の点に関しても私は限定論者なのだ。

即ち永遠の思考は無く感覚もまた思考も全ては限定されたものであるに過ぎない。

 

時間もまた限定であり空間もまた限定されて居る。

 

現象其れ自體がそも其の限定なので自己に対する認識其のものも是非限定して置かねばなるまい。

逆に其処に∞を夢見ることこそが妄想であり洗脳なのだ。

 

 

ではキリスト教もまた妄想なので?

 

いやだからキリスト教徒は皆死んでから天國へ行く筈だ。

なので其れはあくまで現象への限定でせう。

 

また佛教は煩悩を限定し最終的に現象其れ自體を滅する訳だ。

まさに其れは現象への大限定ではないですか。

 

 

 

ーストア派もまた、心の静穏を求めており、「アタラクシア」を望ましいものとみなしてこの用語を用いた。ストア派にとって「アタラクシア」は、ストア派の賢者が到達する「アパテイア英語版」とほぼ同義語であった[4]、または同義語に過ぎなかったともされる[6]

アパテイアとは、理性ロゴスにしたがって生きることで得られる状態、すなわち「パトス情動)が無い状態」であり、エウダイモニア(幸福)というのはこうしたアタラクシアやアパテイアがあって初めて成立するものとされた[1]。ーアタラクシア - Wikipediaより

 

 

其のストア派もまた曲者であり此の辺りからまた御勉強してみないといけない。

 

 

ストア派が否定しているのは、欲求や欲望、一時の感情に振り回されてしまうことだ。アパテイアは自分の情念をしっかりコントロールすることで、心の平穏を実現しようとする思想なのであるー【ストア派のアパテイア】心の平穏の実現が自由と幸福をもたらす。 | Philosophia (zinsei-hack.com)より

ーしかし、自分の身に降りかかる出来事の大半は、自分ではどうすることもできない。ストア派のアパテイアでは、そうした外的な出来事、自分でコントロールできない出来事に振り回されるな、と戒めている。ー【ストア派のアパテイア】心の平穏の実現が自由と幸福をもたらす。 | Philosophia (zinsei-hack.com)より

 

ストア派のアパテイアは、自分にコントロールできないことは潔く諦め、自分にコントロールできるものにだけ力を注ぎ、欲求や欲望、感情といった情念を手懐けることで心の平穏を実現するという思想だ。

一方、エピクロス派のアタラクシアは、できる限り世間から遠ざかった隠遁生活を送り、自分にとって本当に大切な人たちと友情や愛情を育み、心と人生の充実を実現するという思想である。ー【ストア派のアパテイア】心の平穏の実現が自由と幸福をもたらす。 | Philosophia (zinsei-hack.com)より

 

ー基本的にストア派のアパテイアもエピクロス派のアタラクシアも、根本的な核としての部分は共通しており、どちらも「心の平穏」「人生の充実」を目的としている。そしてこの潮流はソクラテスから影響を受けたものだ。

ストア派の人々もエピクロス派の人々も、「人生をより良く生きるためにはどうすればいいか」を追求し、アパテイアもアタラクシアも人間として理想的な生活を送るために役立つ。ー【ストア派のアパテイア】心の平穏の実現が自由と幸福をもたらす。 | Philosophia (zinsei-hack.com)より

 

 

其の心の平穏こそが幸福な状態なのだと今のわたくしは思う。

自己の生に於いても此れ迄に色々なことがあり、樂しさや辛さもまた多くを経験して来ざるを得なかったのだが今はむしろ心が搔き乱されぬことをこそ望んで居るのだと言える。

 

また其のことはあくまで内面的にさうなのだとも言えやう。

尤もひとつにはわたくしの気性には多分に厭世的気分がある故上の解説の部分では特にエピクロス派のアタラクシアの方に大きく魅力を感じて仕舞う。

 

但し其のストア派の論理としての事象に対するコントロールの有無と云う部分に関してはまさに其の通りでのことなのだらう。

此の世にはさうして自らでは如何ともし難い運命と言うか或は宿業とでも言うのかそんなものが確かにあり否応なく人間は其れに巻き込まれて行くものなのだらう。

 

 

だからどうも現状では共に参考としたい考え方なのであるが、わたくしの場合は世間ー文明ーを兎に角批判的に見詰めて居る訳なのでエピクロス派の快樂主義の方こそが兎に角魅力的に目に映ずる訳だ。

然し最近良く思う事なのだが社會が悪い状態にある時は特に其の自分ではコントロール出来ないものの大きさがしかと實感されても来る訳だ。

 

で、其の個の力の及ばぬ巨大な運命に対し我我還暦世代のやうにそれほど時間が残されては居ない場合が良いのか其れとも今の若い方々のやうに其処に四拾年も五拾年も時が残されて居る場合が良いのかと其ればかりを實は考えて仕舞う。

でも其処でどう考えても時間があり過ぎる方がより不幸である。

 

だから結局嗚呼、昔は良かったなあと云うまさに爺の思考に凝り固まって仕舞いしかも其処から次第に脱け出せなくなりつつある。

 

いずれにせよ我我は考えて行かざるを得ぬ理性的な生き物であり其の考えた内容のことはかうしてかっての主義主張、哲學の分野ですでに語り尽くされて居るのだと思う。

ところが日頃から忙しくして居る我我には其れと接して居られるだけの物理的、心理的な余裕が無いのである。

 

 

なので私は今其れと接することが出来内心喜んで居るのである。

だからまさに其れが世間で言われるところでの肉体的物質的な快樂では無い知的愉樂の世界なのだ。

 

其の知としての満足と云うか充實とでも云うかそんな時間をまさに今過ごしつつあるのだと言って良い。

兎に角左様に古い思想と云うものの凄みと云うか切れ味の鋭さを今初めて私は感じて居る訳だ。

 

で、結局其の主義、主張の為に処刑されたソクラテスのことを調べたくもなって来た。

其のソクラテスはどうもブ男だったやうだが多分物凄く観念的には潔癖だったのだらう。