目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『哲学と宗教全史』を読んでー壱 かってエピクロス派が唱えた「アタラクシア」とは?ー

書評1

 

 

さても次第次第に世界は変わりつつあるやうな気がどうしてもしてならない。

此の文明は果たして何処へ行かうとして居るのだらうか?

 

其のことが私にはまさに直観的に認識されるのである。

或は感覚的に捉えられるのだと言っても良い。

 

つまりは全体的に其れが捉えられるのだ。

或は其れは概ね滅びへの予兆のやうなものなのではないか。

 

 

だからと言って私は世界を只否定的に見詰めて居るのでは無い。

けだし世界は最終的に否定されて行くべきものなのだ。

 

なんとなれば佛教とキリスト教は共に其のことを説いて居るのであるから。

佛教やキリスト教は其の意味で現世を肯定しないマイナスの思想であり宗教だらう。

 

では其の逆にプラスの思想であり宗教とは何か?

おそらくは其れが近代思想と云うことにならうかと思われる。

 

近代とは其のやうにして神佛を否定した上で人間の力のみを崇拝する認識上の流れのことだ。

 

だが其の人間の力のみを崇拝する認識の流れ程危ういものは無い。

何故なら其処には必然として「悪」の力が蔓延し且つ其れが増幅されるからなのだ。

 

 

今私が感じて居る其の滅びへの流れはしかしながら何処かで食い止め好転させるやうなものでは無いのやもしれぬ。

其れも所詮我我人類とは結局其の流れの内にのみ安住し得る生命であり他のどんな認識上の選択でも有り得ないからなのだ。

 

我我は其のー倒錯せしー認識を好み且つ其処でこそ人間であることをかうして発揮して行く。

 

其のことをむしろ諌めて居るのは其の現世利益を否定する宗教のみだらう。

 

 

さうして世界を只否定的に見詰めず壱體何をされて居るので?

嗚呼、其れは只戯れて居れば良いのだ。

 

其れも此の世界の美しさと戯れて居れば良い。

 

此の矛盾に満ちた世界の壱體何処が美しいので?

 

美⇔醜

 

となるからそも其処に美が生ずるのだ。

幸福もまた其処にはある。

 

幸福⇔不幸

 

すると詩人をはじめとする藝術方面の方々は其の美と醜を同時に語ると云う訳ですか?

まさに本来なら其れが藝術としての責務である。

 

だが大抵は生の生々しい醜怪さのどぎつさに辟易し美の方へだけ逃げて行くので其れ即ち其れはほんたうの美とはならない。

 

 

ではアナタ自身の感性もまたそんなものなので?

まるでそんなものだらう。

 

しかしながら我が望むのは何より「心の平安」なのであり其の「心の平安」とは美に接して居られるだけの心の余裕を持ち続けることだ。

さても其の「心の平安」こそがアナタにとっての中心点なので?

 

さう其の「心の平安」だけが大事なのだ。

だが其の「心の平安」を決まって社會は搔き乱す。

 

だからまずは其の社會的な欲望をこそ滅して行くべきなのだ。

 

 

すると脱俗系、仙人系の思想へと必然的に至る訳だ。

さう、超俗した部分が何かと出て来るのでまさに其れにしがみつく訳です。

 

でもアナタ壱体何の為にさうして日々筆記具だの石だのと戯れて居るのですか?

其れは本質的問題を論じることでは無くまるで役に立たない遊びであるに過ぎないだらうに。

 

だから逆に其の役に立たない遊びとしてかうして美と戯れ生きることこそが「放棄の思想」としての完成形なのだ。

なので役に立とうとはあえてせずつまりは社會的営為の全てを超然として眺め其れに対し価値判断せず己の見出す美に対し耽溺することこそが私の見出した「心の平安」の世界なのだ。

 

なる程、壱種自閉的ではありますがむしろ其れでこそ「前向き」に生きて行けると云うさう云うことなのか。

 

つまるところ、信仰とは壱種社會的に齎されるものなのだ。

 

お釈迦様の教えやイエス様の教えもまた其の最初期の頃は信ずるに足るものだったらうが時を経るに従い其のものからは変成、変質して仕舞って居る。

私は今其れを宗教の社會化の過程として捉えて居る。

 

其の社會化の過程が必然として全体主義を生みむしろ其れを信じることで他の不幸をも生み出して行く訳だ。

まあ其れでも苦しみもがく本人様が救われるのであれば其れでも良いともまた言える訳なのだが…。

 

 

だから私が問題とするのは其の所謂宗教以前の段階で如何に「心の平安」を取り戻すのかと云う課題である。

 

ではかっては「心の平安」を皆が持って居た?

おそらくは其の分離される前は。

 

其処は旧約聖書でもって語られて居る其の通りなのだと思う。

結局観念的に分離されることー智慧の實を食うことーで👿と神とに分かれ地上界としての人間界では悪が蔓延らざるを得なくなる。

 

其の悪とは煩悩のことでもまたある?

まさに煩悩其のもののことだらう。

 

なのでお釈迦様の教えやイエス様の教えは結局同じこと、つまりはまるで壱緒です。

只其れを違う概念にて説明して居るだけのことで結局は同じことです。

 

でも君は今お釈迦様の教えやイエス様の教えに寄り掛からず何か別のことをやらうとして居るのか?

さうです、實は今物凄い本を読んで居る最中なのだ。

 

其れは壱體何だ?

いやさう簡単に答えたくは無い。

 

 

莫迦、お前は今其の事を書く為に今此処に出て来て居るのではないのか?

さう言えばさうでしたかね。

 

では今壱度ズバリ聞くがお前は今壱體何を読んで居るのだ?

 

 

實はコレを読んで居ります。哲学と宗教全史 | 書籍 | ダイヤモンド社 (diamond.co.jp)

 

さうして此の本こそが物凄い教養書です。

 

此の本に対する世人の評価はこんなものです。哲学と宗教全史 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

ーこの本は、BC1000年前後に生まれた世界最古の宗教家・ゾロアスター、BC624年頃に生まれた世界最古の哲学者・タレスから現代のレヴィ=ストロースまで、哲学者・宗教家の肖像100点以上を用いて、世界史を背骨に、日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説したものだ。
なぜ、今、哲学だけではなく、宗教を同時に学ぶ必要があるのか?ー哲学と宗教全史 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

何故なら其の哲學と宗教こそが實は似た者同士だからなのです。

故に日本人が此れ等を共に苦手にして居る理由は自分自身で物事を考える癖が無いと云うことだ。

 

逆に僕は哲學と宗教だけに強いと言っても過言では無い。

つまり社會的活動としての保身だの結婚だの子孫だの墓守りだのそんなことには壱切興味が無くかうして湯水の如くに本とペンと石とにだけカネを使って参りました。

 

 

だから無論のこと此の本もまた弐年程前にしかと購入し本棚に置いてあったのだった。

其れがまた見栄えがする大著なので本棚に其れがあるだけでまるで大學教授にでもなったやうな気がするのです。

 

でも實際に僕には大學の先生位の考える力があるのでそんなものはまるで放って置きました。

いや其れも正直に申せば此の本に向き合う心の余裕と時間が無くとても此の大著を読めやしなかったのだった。

 

其れで此の秋を迎えようやく其の心の余裕が出来ましたので今貪るが如くに読んで居るところです。

 

 

尚「哲学と宗教全史」記事一覧哲学と宗教全史 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

と云うところは今回初めて知ったところで私もまだ読んで居ませんのですがおそらくは可成に勉強になるところでせう。

 

何故なら『哲学と宗教全史』と云う本自體が恐ろしく勉強になる本だったからなのです。

さて此処には全てに行き詰まり差し迫った課題を抱える現状の否定では無くむしろ内面を磨いて行く方向性こそがありむしろ其のことでこそ生に対する積極性が担保されることであらう部分がしかと示されて居ます。

 

つまり人間の社會がダメなのはむしろ古よりの当たり前のことなのであり其れは何も今に始まったことでは無いと云うことが其処に歴史的に俯瞰されても参ります。

でもって其の社會は結局個としての無知が其れを決定付けて居るのだともまた言えやう。

 

 

社會⇔個

即ち其れは相剋し且つ相即する関係にこそある。

 

だから實はどんな個もまた社會を否定し切れぬ訳だ。

何故なら社會の否定は即個の否定に繋がる訳なのだから。

 

但し社會との結びつきが強いと其処での洗脳の度もまた酷くなりがちです。

 

だから己が理性に自信がある方に限り其れを否定的に捉えてもまた良いのではなからうか。

まあ言ってみれば其れが私の立場なのですがそんな訳で其れをみんなには御勧めして居りません。

 

余程に個として自立出来る精神を持つ方々に対してだけ其れを御勧めしたいところです。

で、此の本に対する個人的な感想が以下のものです。

 

1.まるで思想の博物館みたいでもって實際に読むだけで楽しい

2.読むだけで自分が利口になった気がする

3.自分で考える為の人類の思想史としての素材が其処に網羅されて居る

 

 

ですがいつものことですがまだ半分しか読めて居りません。

平易な言葉で書かれた非常に読み易い本ですが何と454頁もあります。

 

結局のところ哲學と宗教にだけ強いわたくしにはまさにドンピシャリの本であり心の底から出合えて良かったと思える著作なのだ。

 

ですので、其の「心の平安」とはわたくしの場合むしろかうしたことを言うのです。

此のやうな良書に出合い其れを丹念に読み込むだけの心の余裕を持つ事まさに其のことこそが私の心を落ち着かせ且つ知的な喜びへと導くのだ。

 

 

元々頭の良い人々には多くのことが見え過ぎても居る訳だ。

其れは無知無明であることとはむしろ正反対での悩みを抱えると云うことなのでもある。

 

つまりは見え過ぎちゃうことこそがむしろ辛く苦しい訳だ。

 

なのですが、かうして包括的に人類の知の記録を示して頂きますと、うわあー、矢張り上には上が居るものだ、此処までやられると僕などはもうまるで敵わないなー、ヘッヘッヘッヘッのへー。

と云ったまるでお手上げの状態がまずはやって来次に貪るが如くに其れに喰らいつき其処から養分を吸収致します。

 

さうだ、まさに其の知の養分を吸い尽くすのだ!

 

でもってまず吸収したのがエピクロス派の哲學のことでした。

尤も其のエピクロス派に就いて私は以前何処かで書いても居ります。

 

 

エピクロス派の快楽主義は、隠遁した生活から得られる心の平穏、「アタラクシア」を達成することで快楽を得るというものである。現代人が追い求めるのが物理的な快楽がほとんどだが、エピクロス派の場合は間接的な快楽、その中でも心の平穏状態から快楽を獲得する生き方である。ーエピクロス派の快楽主義とストア派の禁欲主義【快楽主義者と禁欲主義者】 | Philosophia (zinsei-hack.com)より

ーしかし、そうした事柄から得られる快楽は刹那的なものであり、本当に心を満たしてくれることはない。物理的な快楽は長続きはせず、トレッドミルを走るかのように次から次へと快楽を満たしていないと満足できなくなってしまう。物理的な快楽にハマることの怖さはここにあるのだ。ーエピクロス派の快楽主義とストア派の禁欲主義【快楽主義者と禁欲主義者】 | Philosophia (zinsei-hack.com)より

 

元よりエピクロス派の快楽主義は誤解されて居り、即ち其れは決して物理的な意味での「酒池肉林」の世界の成就を目指すものなのでは無い。

つまり其処で目指すのはむしろ隠遁し「心の平穏」を生きることにより達せられる「快楽」のことであり逆に現世利益に対し否定的であり壱面ではまさに道教や佛教にも通じることだらう考え方のことだ。

 

またわたくし自身が到達した境地にむしろ最も近いものである。

「心の平安」即ち「アタラクシア」とはそんな価値を内面化した上での放棄こそが可能とする快楽の世界のことなのだ。

 

 

例えば佛法に置いても抜苦与楽と云う言葉が屡語られるがまさに其れが苦を抜いた後に心が樂となることであり其れは物理的に満足を得ることとはむしろ正反対のことである。

そも其の樂と云うのは凡夫が思いがちなー積極的=現世利益的にー物理的な存続や繁栄のことでは無くあくまでー消極的に=現世利益を離れてー余分な欲望を消し去ることで得られる精神的な境地のことなのだ。

 

よって凡夫ー大衆ーは主に👪関係や社會関係に置いて雁字搦めであるが故にほんたうの意味での「心の平安」などまるで得られては居ない訳だ。

逆に其れを放棄しかかって居る我にせよ観念欲や物欲には逆に強く縛られて居るので其処ではハナから解脱など無理である。

 

でもってわたくしはむしろ其の「心の平安」即ち「アタラクシア」を得られればむしろ何も要らないとさえ其処で思うのだ。

だからもしさうなればペンも石もまた美への執着も断ち切ることが出来る。

 

 

でも其れは所謂「解脱」ともまた違う訳だ。

其の「心の平安」を得やうとする欲望其れ自體がまた佛法の放棄とも違う訳なのだらう。

 

だが人間の出来ることとして其の仙人化への道こそが事實上最も高い境地なのやもしれぬ。

 

其れをどう批判されやうが狂った「教祖」を信じたり文明の奴隷としてコキ使われることよりはむしろどんだけマシなことだらうか。

だからわたくしは此の際「エピクロス派」宣言を是非せねばらなぬのではあるまいか。

 

ですが「エピクロス派」はとっくの昔に消滅して居りませう…。

だがそんなものは復活させるだけの話だぞよ。

 

此の際「エピクロス派」の復活だ!!

出たな、此の新エピクロス派の教祖めが!

 

だから、現代に於いてもむしろ、

「アタラクシア」「アタラクシア」「アタラクシア」

なのです。

 

 

ところで子孫繁栄や國家安泰が何でまた物質的快樂の追求に当たるのですか?

だって其れがまさに現世利益の追求其のものではないか。

 

例えばキリスト教では個としての救済が其処に常に考えられて居る筈だ。

だから其れは現世利益の追求には当たらないのだ。

 

また佛陀はあくまで個として内面的に救われやうとした訳だ。

即ち社會救済なんぞはハナから無理な話なのだ。

 

 

其処からも社會救済を説く宗教とは矢張り邪教だらう。

よって現代文明の救済もほぼ絶望的である。

後は科学技術にてどう其の破滅をソフト化して行けるかと云うことのみだ。

 

また實存として与えられる個としての苦悩には明らかに個体差がある。

つまりはアナタとワタシの苦しみの内容は異なり同じなのは人類が共通して持つ種としての破壊に対する苦=文明の罪深さの部分だけなのだ。

 

だが君とワタシばかりは壱心同體だ。

でも其れだけはイヤだ。

 

幾らイヤでも所詮は同じ穴の狢だよ。

お前も結局其の「アタラクシア」へと我と共に引き摺られて行くのだ。

 

何だかとても怖い。

でも何だかとても樂しさうだ。

 

さうだ、其の調子で我と共に仙界へと昇らうではないか!!!

 

 

うわあー、間違ってどうも変な宗教団体に入っちゃったな。

お前のやうな非常識な人間の壱部として生を受けた余りにかうなったのだ。

返せ―戻せー、早う娑婆世界へと戻してお呉れよ!

 

いやもう戻れぬぞ、其れもすでにお前は「アタラクシア」の虜なのだ。

とのことでわたくしにとってはむしろ其の「哲学と宗教全史」を読む心の余裕を持つことこそが「心の平安=アタラクシア」の實現なのだった。

 

 

 なぜ、今、「哲学と宗教」を
 同時に学ぶ必要があるのか?
 現代の知の巨人・出口治明が語る

 

まあ其のビジネスの成果と教養はまた別次元での話だと個人的には思いますのですが。

ちなみに僕は多くを儲ける奴は基本的に馬鹿だとさう思って居るのでダイヤモンド誌にはまるで興味は無いのですが燦然たる知性としての出口学長のことだけはしかと認めても居ります。