目覚めよ!

文明批判と心の探求と

『大乗仏教』を再読してー壱ー

其の他力救済とは現象を現象としての迷いの侭に救うと云うあり方のことであり他方自力救済とは現象其れ自体の抹消を図る本質的救済である訳です。

よって他力救済にて其の生命の自己矛盾としての負債と申しますか或は罪と云うか煩悩と云うかともかく其れが隠滅される訳ではおそらくは無い。


尤も大乗各宗派は逆に信じて且つ御経なり宗派の教義などを讃えればみんなが必ずや成佛出来るなどとも言われて居ますがハッキリ言って其処は???ですね。


其処をあくまで理性的に申せば成佛ー自力救済ーと他力救済はまた別物であり他力救済を選べば結局成佛などは無いのです。


其処でもしも自力救済を目指し修行に励み兎に角生きて居るうちに成佛したらうと頑張りたとえば今日は何世帯かを勧誘して来ただとか、またどんだけ新聞をとって貰っただのそんなことでは無く孤独に頑張り山の中で座禅を組み其れも飯も食わずに組み挙句の果てには🐍に噛まれまた🐵にも引っ掛かれさらにさらに🐗に突進され大怪我までしました。


其れでも成佛などには程遠いのですが果たして其れは何故ですか?



ズバリ其れはアナタの認識がそも曇って居るからです。

そもアナタの認識が曇りガラスのやうに不透明でつまり清澄でなく要するに汚れて居るのだ。


だから幾ら禅定をしたにせよそも其の認識がダメなので幾ら頑張っても成佛など出来やう筈も無い。

アンタ此の際もう滝から飛び降りた方が良いのやもしれんよ。



また恐ろしいことを言う。


でも宗教とはね、結局は其の認識を正すことこそが正教となるべきことでありまさに其れこそが人間の生の最終目的ともなることではありませぬか。

要するに心のあり方を正さねば幾ら頑張るにせよ其の目的がそも間違って居る訳ですから善くなりやうがありません。



でもアンタみたく頑張らず価値放棄して居るのが良いなんて云うのはほとんどルンペンさん並の価値観ではないか?

いやさうでは無い。

むしろルンペンさん達の方が我よりはずっと前向きにさうして頑張って生きて居られるではないか。


第一かっては大勢居た宗祖様方でも成佛など出来ぬのだと云うのに一体何でアンタみたいな凡夫が成佛など出来るのだ?


むしろアンタはアンタの侭で良い。

馬鹿で👩好きでしかも大酒のみのアンタこそがむしろ一番幸せだらう。



何故ならインテリと云うのはな、兎に角苦しいのだぞ。


インテリにも弐種があり、

1.頭のインテリ

2.心のインテリ


とのことである。


其処ではどちらも苦しいのだが心のインテリの苦しさは生易しいものでは無いぞ。


つまりは、


頭⇔心


と云うことです。



要するに理性に与えられる苦痛は並大抵のものでは無いと云うことを私は今是非此処に訴えておきたい。



「他力救済を選べば成佛など無い」などとまた今回はイキナリ恐ろしいことを申しましたがあくまで理窟上はと云うことですので是非余り深く其処を追求しないで頂きたい。


勿論其れは成佛は無いが救済はあると云うことです。


其の救済を神に救って頂くか其れとも阿弥陀佛だのまた大日如来だの薬師如来だのエル・カンターレだの何だのに救われるのか、でもそんな区別など實はどうでも宜しいやうなことで要は何かにお縋りして救って頂けば其れで宜しいのです。


でも邪教ではダメなのだらう?


だからドレが邪教だなんてまだ一言も述べては居ないですよ。



但し佛陀になるなんてのはもう其れはほぼ不可能なことでせう。

不可能なので他力救済としての宗教の形がまたあり故に其れは否定されるべきことでは無いが、只余り其処でもって大法螺を吹き過ぎると何か恐ろしいことになるのではないかと云う虞だけは御座ります。


尚現代では宗教其れ自体が掲げる目的がまさに錯綜して居ますが概ね自己利益を目指す宗教が多く即ち現世利益として宗教団体を維持継続させて居る宗派乃至は団体が多い。

其の点から鑑みるにむしろ私は現世利益を求めない宗派なり宗教なりが本物の宗教ではないかと考えましたのです。



ちなみに本質の反対語が何と現象であるさうです。

また本質的の反対語が末梢的となるさうです。


だったら現象其のものが或は末梢的なものなのでせうか?

其の末梢的で且つ些末なもの、要するに眞に価値としてはあり得ず虚構化して居るものこそが我我のとる其の認識世界のことなのです。


もっと噛み砕いて言えば其の虚としての価値ヒエラルキーにこそ心が捉われて仕舞って居る訳だ。

まさに其れが迷いであり即ち煩悩であり且つ罪であり魔であるものの正体でせう。



要するに凡夫の心のあり方其のものがまずは間違って居ます。


また其れは普遍的に間違って居るのでおそらくは何処の星に生まれやうが凡夫は皆間違って居るのでせう。

生まれる即ち生きて居ると云うことは實はさうした一種悲しく辛いことなのでもある。



だからこそ何とかして其の心のあり方を正そうとするのが宗教の目的なのだらう。

我我が其の現象である限りは不完全な者でしかあり得ず、つまりは本質的本来的な心の者では無く謂わば末梢的な利己主義者であるより他は無い。


即ち其れが本質的認識では無いからこそ虚的でしかも不安定な世界だけを認識して居ることとなりませう。


しかも其れをワザワザ好んでさうして居る訳です。

社会的な所謂しがらみが多い程に其の傾向はむしろ増しても参ります。


だから其れに拘ることはむしろ自らを好んで苦境へと陥れて行くと云うことです。




さて我は今NHK出版新書 572 大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向かうのか | NHK出版 (nhk-book.co.jp)と云う本を読んで居る。

此れは二年前に出された本で今回で読むのは三度目となる。


尚私は其の佐々木  閑 氏ー私より三歳上ーの佛法解釈が好きである。

何故なら其れが相当に理性的な解釈だからなのだ。


其の理性的な解釈こそがまさにこれからの時代に求められて居る佛法解釈なのだらうとさう思う。


何せ現代はすでに大學、短大への進学率が何と六割弱にまで達して居るのだと云う。

でも我我還暦世代の頃の其の進学率は多めに見積もっても凡そ三割弱であった。


即ちむしろ多くの人が高等教育を受けられなかったのである。


だからみんながとりあえずは頭が悪くはない状態へと至って居る訳なので御坊様方が文盲を諭すやうなことを今後もやるとするならばもう其れこそ逆に皆に無視されるのがオチなのだ。

ー但し今の大学生達は確實におバカ化して来て居り要するにバカでもチョンでも大學へ行けるやうになったので其処ではとんでも無く頭の中身のレヴェルが落ちて仕舞っても居やうがー



其の『大乗仏教』は兎に角面白い本である。



大拙のいう仏教は、釈迦の創始した仏教とは似ても似つかない。それは仏教よりもヒンドゥー教に近い。いづれにしても本物の仏教ではないと言うのだ。そこは佐々木も賛成していて、大拙の仏教は大拙教と言うべきかもしれないなどと言っている。ー


ー総論として佐々木は、釈迦の仏教と大乗仏教とでは、根本的に異なると言っている。釈迦の仏教は、一部のエリートたちのためのもので、厳しい修業を課すことを特徴としているが、大乗仏教はすべての人間の救済を目的としており、また厳しい修業を要求したりはしない。にもかかわらず、同じ仏教という言葉を使っているのは、世界観・人生観が共通しているからだという。ー

大乗仏教は、西暦起源前後にインドで成立したが、それを中国人が受け入れるにあたっては、中国流に変容された。中国流の変容がもっとも顕著なのは、浄土宗の流れであって、これは釈迦の仏教とはもっとも対極に位置する。その他の宗派も多かれ少なかれ、インド起源と中国で変容されたものとでは、かなりな違いがある。それが日本に来ると更に変容され、日本独自の仏教が生まれた。禅宗にしろ、浄土宗にしろ、いまでは日本にしかないものであるという。同じ名前のものはあるが、中身が全く違うということだろう。


仏教では、「一切衆生悉有仏性」という言葉がある。これは「涅槃教」の言葉で、あらゆる生き物に仏性が宿っているという意味である。仏教は、そのスタートラインにおいては、悟りをひらいて阿羅漢になることをめざしていたが、大乗仏教においては、仏になることをめざすようになった。


佐々木は、仏教の将来は、いまとは大分違ったものになるだろうと考えているようだ。信仰の基礎になっている世界観とか人間観が、そのままの形では維持できない。だから壮大な世界観を含んだ宗教体系としては、存続できないだろう。ではどういう形をとったら宗教として生き残れるのか。どんな時代においても、人間の悩みは尽きないだろうから、その悩みにストレートに向き合うような形の仏教のあり方が主流になるだろう。

以上佐々木閑「大乗仏教」 (hix05.com)より


 


此の本に就いて細かく述べてみることもまた意義あることなのだと思われるのだが今回の場合はむしろ大枠にて此の本の再読後の感想を述べてみやうかと思う。


まず佐々木氏は京大の理系から文系へと途中から変わったと云うまさに変わり種での佛教研究者である。

なのでまさに理系的で所謂合理的な佛法解釈をなされる方なのだと思われる。


また其処こそが本を読んで居て面白く且つ痛快な部分なのだ。

彼はそも大乗佛法に対し相当に批判的なのだしもはやグダグダ言ってられぬ部分へと日本の佛教各派が追い込まれて居やうことなどもまた視野に入れられた上でまさに其れに就き述べられて居る。



まず大乗佛教が釈迦による教説とは大きく変わって仕舞って居ると云う部分こそが最も気になる点だ。

其の釈迦の佛法が部派佛教を経てやがて大きく変わって行くこととなりまた次第にヒンドゥー教化したりまた私が指摘するやうに一神教化しても行った訳である。


また上にもあるやうに其の中國流の変容の流れこそが最も影響が大きかったのだと思う。

まさに其の中國流の佛法を我が國が移入した訳でだから其処では元々当初の佛法とは似ても似つかぬやうなものとなり果てて居る可能性がまた高くある訳だ。



大乗仏教』には其の辺りの経緯が結構詳しく述べられて居り、其の鈴木 大拙による著書である『大乗仏教概論』への批判や馬鳴による大乗起信論』に対する批判などが結構辛辣な表現でもって述べられて居る。


だが最終的には大乗佛法の全体をあくまで學問的に整合性を持った形で論じられて行く姿勢には好感を持つ事が出来た。

其れも大乗各宗派のメンツやプライドなどは抜きにして大乗佛教としての眞實の姿を追及したいと云うまさに理性的に正論でもってして直球勝負の部分こそが私の心を強く打つ。


また江戸時代の學者の富永 仲基による「加上の説」論義のことなどもあと書きにて論じられて居り此れなどもまさに面白い部分である。

富永はまさにウソコキな大乗佛説を痛烈に批判し要するに後代の創作物である位のことを述べた訳であり其れが当時の佛教界に非難の嵐を巻き起こしたものであったさうだ。


なので当時の僧侶の多くが富永は👿の所業をなしたとさう見做しイザ彼が若死にをしますとまさに「悪業の報い」を受けたなどとして罵倒したともされて居る。



其の部分を読んで居るとまるでかの信長公のやうだなと思われましたものです。

信長公もまた佛教界とは激しく対立し当時の寺より👿のやうに思われて居たやうだ。-事實黑🐀などと罵られ兎に角寺からは嫌われて居た-


当時キリスト教をすんなりと布教させて仕舞った信長公もまた信長公ですが、其れはむしろ政治的な意味合いー鉄砲の調達の為かーや何と言っても仏教界の腐敗、また一向宗などの危険極まりない浄土思想の蔓延と云うことがあり其処で一概に信長公が悪かったとは言い切れぬものでもまたあったことだらう。


其の富永による『大乗非佛説論』は然し明治以降は學會の主流ともなって行ったのださうな。

しかも今でも我が國の佛教界が其れを完全に受け容れて居る訳では無いとも書かれて居る。


其れはさうで、誰しも自分等のことをウソコキだとかまたインチキだとか申し立てられれば腹も立ちませうし其ればかりか其れを言った奴をブチ殺してやりたくもなるものです。


だが幕藩体制下に於ける檀家制度のもとさうした或る種の自己防衛の度が強過ぎ只でさえ難解な佛法を余計にややこしいものとして仕舞って居るきらいなどもまたあることだらう。

また自己中心的に宗派の開祖を完全無欠のまさに釈迦に匹敵する人間に祀り上げて仕舞って居る様などに就いても述べられて居りそもさうした傾向こそが本来の學問としての佛法解釈を歪めて居るなどとも書かれて居る。



要するに此の京大出の僧侶の佐々木氏もまた矢張りと言うべきか可成に潔癖な方です。

例えば東大出の學者は幕府ー政府ーやら宗教的権威に逆らうことなどはおそらくご法度なのだと思われますが流石に京大出の學者のボケー批判ーは一流であったと云うことなのだらう。


でも最終的に佐々木氏は決して大乗佛教を否定して居る訳では無くむしろ「釈迦の佛法」ではなし得ぬ救済をこそ是非目指すべきだとさう論じられて居ます。

何故なら佐々木氏御自身が真宗高田派の僧侶でもまたあるからなのです。


其の点では私も全く同感で結局現代人は其の他力での救済を目指す他は無いと思われる。

ですが現代人が今持って居る価値観としての顛倒の部分はもはや大乗佛教では治せない段階へとつまりはより酷い病の領域へとすでに至って居るのやもしれぬ。