目覚めよ!

文明批判と心の探求と

“大河の一滴”と“下山の思想”

ー時代が“大河の一滴”に重なってきたという実感があります。時代の変化の流れのなかで、深いふちもあるし、浅瀬もあります。最後は大河の一滴として、海に向かって動いていくという、この時代を精一杯生きるしかないというのが僕の考えです。ー

 

昨今の文明のあり方につき個人的には時代の抽象性が破れ具象的な實相が浮かび上がりつつあると云った印象を持ちます。

文明に於ける抽象的武装の部分の化けの皮が剝がれみんな動物としての本性が曝け出されて行くと云ったところでせうか。

 

ちなみにわたくしの場合は五木先生よりも多分より根性が悪ひと申しますか何せ正直ですので全部ほんたうのことを曝け出して仕舞ひますよ。

 

悲観⇔楽観

絶望⇔希望

過去⇔未来

男性⇔女性

内向⇔外向

維持⇔変化

保守⇔革新

 

 

わたくしが述べて来て居ることとは人間の抽象的思考が齎す矛盾による破壊、其の本性としての破壊的所業への本質的論議である訳だ。

さうした意味ではわたくしは世の問題への捉へ方を文學的哲學的にー人文科学としてーすると同時に佛法による世界解釈を其処に加味して来ても居る。

 

 

ー僕はすごくネガティブな人間だから、世の中はひどいものだと思っています。努力は必ず報われるとは限らず、正義が必ず通るとは限りません、そのなかで一分でも二分でも、何か自分の思うことが可能だったとしたら、それは奇跡みたいなことだからと、自分の欲望のレベルを低く置いています。ー

 

戦争体験をも含め五木先生はある意味で過酷な人生体験をされたことかと思ふ。

人間は人生の過酷さを体験するにつれ次第に其れに多くを期待せぬやうになるつまりはある意味で悟り諦めて行く。

 

わたくしもまた個人的には苦しひ体験ーあくまで個人的にーを多く重ねて来て居る。

さう其れはあくまで社会的に苦しひ体験なのでは無く個人的に苦しひ体験ばかりであった。

 

さうした体験を重ねた人間は人間其のものにつき懐疑的にならざるを得ぬことだらう。

 

 

ー希望とか未来とか明日を求めて、顔を上げているだけでは、なかなかそういうものは、実感はできません。もし逆に、うなだれて視線を落として、自分の足元を見たときに、もしもそこに自分の黒い影がくっきり落ちていたら、大きな光が自分を照らしてくれているからこそ、影ができているんだと思うこともできます。ー

 

ー希望とか未来とか明日を求めて、顔を上げているーだけでは物事の一面しか見ておらぬこととなる。

生活至上主義=現世利益主義にせよ軍國主義にせよ家や國家と云ふ社会単位の繁栄のみを求め続けて行く点でまさに片手落ちなのだ。

 

人間にとっての正しひ認識とはさうしたものでは無く常にマイナス面をも見詰めて行くことなのだ。

さうした負の要素を見詰めて行かねば価値観が正されずまさに魔道へと陥って行くのである。

 

現代社会に於ける進歩至上主義にしても、進歩によるマイナス面をより深く切實に見詰めぬからこそかうした感染症の蔓延などが齎されるのだ。

 

わたくしがかって文學に親しんだことで分かったこととはまさに其の逆の価値観を見詰めることの大事さだった。

 

太宰がまた安吾が、さうして三島がまた芥川が身をもって其れを我我に指し示して呉れたのではなかったか。

さうしてまた五木先生も同じことをされて居るのだと思ふ。

 

但し五木先生は長生きをされこれまでに多くの著作を世に出され多くのことを述べられて来て居る。

 

 

ー世の中は昔に戻らないと思います。これはすごく大きな転換点だと思います。人と人とが直接顔を突き合わせ語り合うことが、少なくなっていくだろうと思います。

 

スペインの思想家・哲学者のオルテガ・イ・ガセットは“Together and Alone”と言っています。みんなと一緒に何かをやりながら、そのなかで自分というものを失わずに、「和して同ぜず」というか、「みんなと一緒」にいながら「孤独」であるということです。

 

今度はそうではなくて、“Alone and Together ”だと思います。「ひとり」でいて、それで「みんなと一緒」にいるという、肩を組み、腕を組み、一緒に行進するような「きずな」を大事にする連帯感ではなくて、バラバラで、オンラインでしゃべりながらも、そこに通い合うものが生まれるかどうか、そういう意味では「ひとりでいてもみんな一緒」というカルチャーが生まれてくると思います。ー

 

 

むしろ自然科学の観点から述べれば文明の今後はまさに絶望的だ。

其れは抽象的欲望が自己矛盾に陥るからなのだとわたくしは思ふ。

 

或は肉体の具象性をも破壊して行くやうな抽象的欲望の暴走がすでに引き起こされて居る可能性すらあらう。

 

わたくしはむしろ「個」を重視する即ち孤独の力を見詰めるべきだとさう考へて来て居る。

 

尚みんなー大衆ーがいつも群れて居たひのは其れは自分を確立して居なひこと即ち眞の自我に目覚めて居なひことによるものだ。

眞の我の場合實は抽象的にそんなに大きく欲して居るものでは無ひ。

 

せひぜひ飲み食ひが出来不細工な女房が居りまた出来の悪ひ子が居れば大抵は其れでもって満足な筈だ。

 

また不細工な女房と出来の悪ひ子は要らぬので美の世界と常に連なって居たひと云ふ性質の人も居る訳だ。

 

 

ところが社会は常に抽象的に欲望を遂げやうとする。

 

営業マンがまた工場の労働者がそんなことを望むべくも無ひ筈なのに結果として文明の営為が自然を破壊し抽象的な利益ばかりを追求して行く。

 

だからわたくしは社会が悪ひとさう言ふておるのだ。

 

最終的には人間其のもの、其の現象其のものが悪ひのでもはや其れは宗教にでも救って頂く他は無ひ。

 

但しほんたうの宗教とは現世利益を目指すものでは無くむしろ其れを捨て去って行くもののことだ。

 

 

ー「和して同ぜず」ー

和する必要などもう何処にも無ひではなひか。

 

ー「みんなと一緒」にいるという、肩を組み、腕を組み、一緒に行進するような「きずな」を大事にする連帯感ー

まさにコレこそが軍國主義であり体育会系のノリであらう。

 

だからこそわたくしは運動部など嫌ひなのだ。

ところが意外なことに野球とゴルフがまた大好きなのだ。

 

でも思想的にはどんな成果主義も利益追求主義も其の全部が嫌ひなのだ。

 

 

其の人間の「我」の力、其れも物事のあり方を深く考へたり多方面から考へられる人が次第に減って来ることだらう。

 

まるで生に洗脳されるとでも云ふのか、現代の思想其のものに頭がやられて仕舞ふとでも言ふのか、兎に角其の社会的な洗脳による人間の変化が世界の物理的な破壊と同時に引き起こされて来ることだらう。

 

尤も近代思想にせよ当初はむしろ正負の両面を併せ持って居たのだと言へる。

戦後生が良ひこととされ科学が神になり替わったことで逆に人間が次第に浅薄となり特に最近は明らかにおバカ化して来て居ることだらう。

 

おバカ化するともう人間は仕舞ひだぞ。

そんなものは野っ原を笑ひながら突き進んで行くことと同じで第一いつかは地雷を踏むのだし肥溜めにも落ちるぞよ。

 

 

 

『下山の思想』に次の指摘がある。私たちは、すでにこの国が、そして世界が病んでおり、急激に崩壊へと向かいつつあることを肌で感じている。それでいて、知らないふりをして暮らしている、と。この認識は大部分は真実と認めないわけにはゆかない。ではこの現実にどう立ち向かうのか。
 登山にたとえれば、21世紀のこの時代は従来の登山重視の時代から下山重視の時代へと大転換を遂げつつある。だから「登頂」後の下山の時代をどう認識し、どう生きるかが新しいテーマとして登場してきた。言い換えれば、日本人一人ひとりの時代認識と生き方そのものが歴史的変革を迫られているのだ。(2012年1月14日掲載)

 

『下山の思想』(幻冬舎新書、2011年12月刊)は多くの読者を得ているらしい。毎日新聞(2012年1月4日付)の派手な記事広告には日本史上著名な仏教思想の先達である法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、日蓮(にちれん)、道元(どうげん)など、すべての人々は山を下りた、とある。この指摘自体も興味深いが、私(安原)にとっては同じ記事広告の中の「成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的な思想」という文言に心が動いた。だから読んでみる気になった。

五木寛之著『下山の思想』を読んで -変革を迫られる「登頂」後の生き方-より

 

 

尚、実際に今手元に其の『下山の思想』がある。

以前母ー五木先生と同年齢ーに貸し出したところ何処かへ行って仕舞ひ一昨日掃除をしたところ出て来た。

 

まずはイキナリ、「いま、未曽有の時代がはじまろうとしている。」と書き出される此の本のまさに最初の一文にわたくしはやられて仕舞った。

無論のこと以前は数度読み返して居る本なのだが兎に角此の五木先生の危機感とは一体何処より来たりしものなのだ?

 

これは、わたくしの持つ危機感のおそらく倍程もあらう性質のものだ。

 

 

まず本書の大要を紹介する。その上で感想を述べたい。

(1)なぜ下山に関心をもつのか。
 登頂したあとは、麓(ふもと)をめざして下山する。永遠に続く登山というものはない。この下山こそが本当は登山のもっとも大事な局面である。
 これまで登山行きのオマケのように考えられていた下山のプロセスを、むしろ山に登ることのクライマックスとして見直してみたい。

 登山が山頂を征服する、挑戦する行為だとする考え方は、すでに変わりつつあるのではないか。そしていま、下山の方に登山よりもさらに大きな関心が深まる時代に入ったように思われる。
 安全に、しかも確実に下山する、というだけのことではない。下山のなかに、登山の本質を見いだそうということだ。下山の途中で、登山者は登山の努力と労苦を再評価するだろう。下界を眺める余裕も生まれてくるだろう。自分の一生の来し方、行く末を思う余裕もでてくるだろう。

 その過程は、人間の一生に似てはいないか。壮年期を過ぎた人生を「林住期(りんじゅうき)」とみて、そこから「遊行期(ゆぎょうき)」にいたるプロセスを人間のもっとも人間的な時代と考える。下山は「林住期」から「遊行期」(注)への時期だ。そこに人生のつきせぬ歓(よろこ)びと、ひそかな希望を思う。
 (注)古代インドに人生を次の四つに分ける思想がある。「学生期(がくしょうき)」「家住期(かじゅうき)」「林住期」「遊行期」の四つ。

(2)再生の目標はどこにあるのか
 いま、私たちは未曾有の大災害に見舞われ、呆然としてなすすべがない有様だ。福島原発が直面する現実は、数年で解決されるような問題ではない。しかし私たちは二度の核爆弾の被災のなかからたくましく立ち上がってきた民族である。どんなに深い絶望からも、人は立ちあがらざるをえない。

 しかし、とそこでふと思う。私たちの再生の目標は、どこにあるのか。なにをイメージして復興するのか。それは山頂ではない、という気がする。ふたたび世界の経済大国という頂上をめざすのではなく、実り多い成熟した下山をこそ思い描くべきではないのか。
 戦後、私たちは敗戦の焼け跡の中から、営々と頂上を目指して登り続けた。そして見事に登頂を果たした。頂上をきわめたあとは、下山しなければならない。それが登山というものなのだ。

 下山の時代、ということは、言いかええれば「成熟期」ということではあるまいか。戦後の半世紀は、「成長期」だったと思う。
 私は沈む夕日のなかに、何か大きなもの、明日の希望につながる予感を見る。日はいやいや沈むわけではない。堂々と西の空に沈んでいくのだ。それは意識的に「下山」をめざす立場と似ている。
 そのめざす方向には、これまでと違う新しい希望がある。それは何か。

(3)新しい物差しをもって
 「少年よ、大志を抱け」というクラーク先生の言葉(注)は、私たち世代には耳になじみのある声である。彼の考える「大志」とは、末は博士か大臣か、といった出世主義をめざす生き方ではなかった。神の御前(みまえ)に、それにふさわしい生き方をめざせ、と熱烈なクリスチャンであるクラーク先生は若者たちをはげましたのだろう。
 (注)ウイリアム・スミス・クラーク(1826~1886)は米国の教育家。1876年(明治9年)来日、札幌農学校の初代教頭となり、内村鑑三新渡戸稲造らの学生に深い感化を及ぼした。離日の際、残した「Boys, be ambitious」(少年よ大志を抱け)は有名。

 大志にもさまざまな目標がある。私たちも大志を抱くべきだ。しかしそれは果たしてどのような国の姿だろうか。経済力ではあるまい。軍事力でもないだろう。国力の物差しはどこにあるのか。
 この国が中国にGDP(=国内総生産)で抜かれるまで、米国に次ぐ世界第二位の経済大国であったことはじつにすごいことだった。しかしそこには相当な無理があった。その証拠が年間3万3、4千人の自殺(注)が十数年も続いていることだろう。
 以前、ブータンを訪れたとき、現地の人から「日本の経済発展に心から敬意を表する。しかしどうしてあれほど自殺者が多いのか」と聞かれて返事に困ったことがある。
 (注)2012年1月10日、警察庁によると、昨年2011年の自殺者数(速報値)は3万513人と14年連続で3万人を超えた。自殺者数は1998年に3万人を突破してから、2003年に過去最高(3万4427人)を記録し、ずっと3万人台で推移している。

 私たちは、新しい社会をめざさなければならない。経済指数とは別の物差しをさがす必要があるだろう。
 節電の運動が普及して、街は暗い。しかし最近ようやく夜の濃(こ)さを再発見したような気がして、節電の街があまり不安ではない。
 このあたりで一休みして、落ち着いて下山のプランを練り直すこともできそうだ。どこへ下山するのか、その先に何があるのか。さまざまに想像すると、かすかな希望の灯が見えてくるような気がする。

(4)第二の敗戦と「下山のとき」を生きる
 いま私たちは戦後最大の試練に見舞われている。原発事故の行方は不明だが、どんなに好意的に見ても、あと半世紀は後遺症は続くだろう。この国は二度目の敗戦を迎えたのではないか。国対国の戦争ではない。
 今回の東日本大震災が、この国の第二の敗戦だと、みな心の底では感じているはずだ。このところメディアは「自粛ムード」から一転して、反「自粛ムード」へと方向転換した。いつまでも頭をたれてばかりはいられない、という考えだろう。復興の第一歩は、全国の消費を活性化することだ、という意見には一理ある。
 活性化することは重要で、それは生きる者たちの責任でもある。しかし同時に、私たちは災害の実態と、その責任を明らかにする義務も負っている。

 時代は「下山のとき」である。登山といえば山に登ることだけを考え勝ちである。しかし下山に失敗すれば、登山は成功とはいえない。急坂を登り、重い荷物を背負って頂上をめざすとき、人は周囲を見回す余裕はない。必死で山頂をめざすことに没頭しているからだ。
 しかし下山の過程は、どこか心に余裕が生まれる。遠くを見はるかすと、海が見えたり、町が見えたりする。足もとに咲く高山植物をカメラで撮ることもある。岩の陰から顔を出す雷鳥(らいちょう)に目をとめるときもある。

 私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。実りある下山の時代を、見事に終えてこそ新しい登山へのチャレンジもあるのだ。
 少子化は進むだろう。輸出型の経済も変わっていくだろう。強国、大国をめざす必要もなくなっていくだろう。ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。

 ー五木寛之著『下山の思想』を読んで -変革を迫られる「登頂」後の生き方-より

 

 

わたくしの感想ー壱ー

 

五木先生に逆らふやうでまことに申し訳御座りませんのですが、わたくしは日本が経済大國化したことを必ずしも登頂だともまた大成功だとも捉へては居なひ。

わたくしにとっての文明の成功とは文明がまさに理性的に統御され持続可能な状態となって居ることでありたとへばTOYOTAが壱社だけ大儲けするだとかネット産業ばかりが発展するだとか石油成金ばかりが幸せになることだとかさうしたことでは元より無ひ。

 

要するに全体的に欲望が統御された状態でなくてはならぬのにホモ・サピエンスの頭が悪く生命の意義及び地球圏の俯瞰視がならぬので其処に🐵及び🐶が兎に角増へお山の大将だの忠犬ハチ公だのまさに訳の分からぬ動物人間共により此の世が駆動され全部がグズグズに腐らされ且つ破壊されて行く様のことよ。

 

おおまさに其の様こそが怖ひ。

 

人間と云うものはさうしたものでは無くもっともっと慎重でもって且つ良く考へた上で行動すべきものだ。

 

尤も五木先生や我が母のやうに戦争を体験した人々の言ひ分はまた少し違ふ。

彼等にとり大事だったのは兎に角飢へから解放されることでありまた自由に意思決定が行へることだった。

 

だからこそ戦後に於ける経済成長と民主化こそが至上の価値となって行ったのだ。

 

されど我我の世代は其の経済成長と民主化に於ける虚の部分をも見て来ざるを得なかった。

 

我我が小学生、中学生の頃は兎に角公害が酷く川は濁り魚は死に絶へまた空気は悪く喘息になるはでまるで生きた心地がしなかったものだ。

其の後バブル経済でもってアホ姐ちゃん達がお立ち台の上で踊っておったところ突如として其のアホ踊りもまた崩壊する。

 

其の1960年代、70年代と90年代は然し今思ふとまだしもまともな時代であった。

狂っては居るがまたアホではあったが文明其れ自体は今ほど圧迫されて居らずおおらかな部分さへもがまだまだ存して居た。

 

だが今世紀に入ると世界は大きく変化して行く。

 

911のテロだのリーマンショックだの大震災だの自然災害の頻発だのさうして今回のコロナ惨禍でもってして。

 

此れはむしろ文明を崩壊させやうとする力ー持続不可能性ーが文明に対し恒常的に働ひて居ると見て置くべきなのだらう。

 

其の文明による破壊と文明に対する破壊の双方の視点からわたくしは其の危機をこそ此れ迄此処にて語って来て居たのだ。

 

尚文明を論ずるには文學だけでは無く宗教、哲學、藝術、また自然科学の視点を盛り込んだ幅広ひ視点が要求されて来やう。

幸ひなことにわたくしは其れ等には悉く強ひのでまた其れに加へ自身の哲學のやうなものもまた持って居るので屡其れも披歴して来て居る筈だ。

 

 

わたくしの感想ー弐ー

 

ー「少年よ、大志を抱け」というクラーク先生の言葉(注)は、私たち世代には耳になじみのある声である。彼の考える「大志」とは、末は博士か大臣か、といった出世主義をめざす生き方ではなかった。神の御前(みまえ)に、それにふさわしい生き方をめざせ、と熱烈なクリスチャンであるクラーク先生は若者たちをはげましたのだろう。

 

大志にもさまざまな目標がある。私たちも大志を抱くべきだ。しかしそれは果たしてどのような国の姿だろうか。経済力ではあるまい。軍事力でもないだろう。国力の物差しはどこにあるのか。ー

 

 

かのクラーク先生の言葉はさうして出世主義では無く神の御前にそれにふさわしい生き方をめざせ、とのことだったさうだ。

其の出世主義と云ふのは、現實主義即ち現世利益主義=俗なる生き方の典型例なのだ。

 

わたくしは最近其の俗調=生活至上主義に嫌悪感を抱ひて居る。

 

より正確には三十歳位まではまさにさうだったのが、其れがまた還暦を過ぎてから復活し👪主義も会社主義もまた現實主義即ち現世利益主義=俗なる生き方も否定的に捉へて来て居る。

ー普通は爺ともなれば孫が可愛く其の逆となり易ひものだがわたくしの場合はさうはならぬ、何せかうして美を論ずる詩人であり持ってる価値観がまるで違ふのでー

 

神の御前又は佛の御前に相応しい価値観をこそ文明及び個は確立して行かねばならぬことだらう。

 

 

さうか其れでは神の御前にて特攻し他宗を攻撃しやう!

 

其れではテロリストだらう。

 

さうか其れでは人類をいっぺん抹殺したれ!

地下鉄や空港で毒を撒かう!

 

まさに其れではオウム教だらう。

 

大志とは、逆に小さな志のことである。

小さな志とは、たとへば身の回りを綺麗に整理整頓=断捨離することであり且つ知的にも極力其れを行ふことだ。

 

 

さうして不必要なものを物的にまた観念としても断捨離し文明の危機に対し常に備へて置くべきだらう。

 

尚わたくしはセキュリティの確りした別荘地に住みたひ訳だがもし其の夢が叶へば食料と飲料を最低十年分、他に様々な防災グッズ、寝袋などを倉庫に是非保管して置きたく思って居る。

 

其れは北朝鮮から弾道ミサイルを撃たれた時の対策などでは無く文明の自己矛盾から文明が崩壊する虞が多分にあるのでさうして備へて置きたひのだ。

 

だから五木先生などはとっくに其の位のことはされて居られる可能性もまたある。

だが五木先生御自身にとっての最大の敵とはもしや寿命のことなのやもしれぬ。

 

 

ー私たちは、新しい社会をめざさなければならない。経済指数とは別の物差しをさがす必要があるだろう。ー

まさに此の点こそが文明にとっての最大の課題だったのだった。

 

だが其の新しひ社会は訪れず、また別の物差しをも探し出すこともならなかった。

 

果たして今後は其れが成るのか?

 

 

だが正直期待薄だらう。

 

其の新たなまともな社会を創ることこそがホモ・サピエンスにとっての永遠の課題である。

 

でも其れは結局出来ぬ。

 

では絶望ですか、まるでショパンの感傷の旋律、感性の悲劇へと没入してでの諦めなのですか?

 

まあ社会科詩人としてはほぼ絶望して来ても居ります。

 

 

然し生きてる限り飯は食ひたひ訳だ。

 

石もまた拾ふので?

 

いや最近はなかなか其の心理的な余裕が持てずでもってして。

 

 

新しひ社会は今度の内閣の🐵や🐶がやってくことでせうが其処にほとんど期待などは出来ぬ。

何故なら其れが古ひ体制其のものででしかなひのだから。

 

其れも79歳の凶悪な顔をした爺が🐵の後ろに見へ隠れしつつもやっておりますがな。

 

 

此の際日本共産党にでも相談してみるべきなのではありませんか?

確かに其れもまたひとつの手だ。

 

 

しかして社会は変はらずまた変はりやうが無ひ。

さうして時だけが刻々と過ぎて行く。

 

人間の認識は結局変はらなひ。

だからこそかうして無軌道な生存を繰り返して仕舞ふ。

 

 

逆に言ふと人間の其のしぶとさがわたくしには理解が出来ぬ。

さうして阿呆にも矛盾地獄としての生のステージに自ら好んで立ちかうして腐った世の中をしぶとく生き抜ひて行くのだ。

 

嗚呼、ヤッパリ何だかバカバカしくなって来た。

 

さうだ、魂の浄化にまたショパンでも聴くこととしてみやう。

 

CHOPIN - Nocturne Op.9 No2 (60 min) Piano Classical Music Concentration Studying Reading Background欧羅巴の夜景とショパンの調べー

Frederic Chopin - Romanceー自然とピアノ協奏曲ーPiano Concerto No. 1 in E minor, Op.11: II - Romanza ー