さても此の際文明は要るものと要らぬものの区別を付けて行かねばならぬことでせう。
要らぬものとはまさに行き過ぎた都会化であり金融資本主義であり危機意識の無さです。
要るものとは生活であり精神であり備へなのです。
さうして若干の文化的余裕と學ぶ癖です。
特に庶民は何時の世にもまさに生活に追はれー社会による搾取が酷ひが故にー思考や文化とは縁遠くなりがちです。
ですが個の選択にとり其の思考や文化こそが大事なのです。
其れと縁遠くなりますともはや大衆は衆愚と化し要するにアノイワシの群れのやうに何も考へずみんなで同じところをグルグル回って居るだけのことです。
其の様をかって坂口 安吾は「阿呆の健全さ」であるとさう手厳しく述べて居たのです。
社会と云ふものは我我のやうに長く其れを學んで来た者にとっては信用ならぬものでもまたある。
其の社会が要求する個への従順さに対し確固たる意見を自分で選択し持てるやうにならねばなりません。
社会はむしろ誤った方向へ進み易ひものである、とさう理性の面から喝破して其れに対抗し得るだけの知力を醸成せねばなりません。
宇津井健が演じるスーパージャイアンツ
スーパージャイアンツ
ー宇津井健さん主演の「スーパージャイアンツ」は作品が大ヒットしてシリーズ化となった。
「スーパージャイアンツ」の全作通して宇津井健が演じた。
『怪星人の魔城』『地球滅亡寸前』(1957年10月1日・10月8日):地球を侵略しようとする怪星人カピア人の攻撃にスーパージャイアンツが立ち向かい、UVガスを用いた地球人と協力して壊滅させる。
『スーパージャイアンツ 人工衛星と人類の破滅』(1957年12月28日):三ツ矢歌子が共演。巨大な人工衛星(むしろ、宇宙空間を自由に飛行する宇宙船と言った方が適切)から地球を攻撃しようとする地球人の悪の組織との戦いを描く。
『続スーパージャイアンツ 宇宙艇と人工衛星の激突』(1958年1月3日):前作の続編。
『スーパージャイアンツ 宇宙怪人出現』(1958年4月28日):悪の組織が、人工的に作り出した細胞を、怪力で空も飛ぶ宇宙怪人に成長させ、それを使って大規模な破壊行為を行なう。スーパージャイアンツが宇宙怪人と戦って倒し、悪の組織も叩き潰す。
『続スーパージャイアンツ 悪魔の化身』(1959年3月27日):戦争で死んだ愛娘の脳から幻覚のような魔女を作り出した科学者が、犯罪組織と手を握って次々に殺人を犯すが、スーパージャイアンツの活躍で事件は解決する。
『続スーパージャイアンツ 毒蛾王国』(1959年4月24日):これまでの作品と違ってSFの要素はない。アフリカ産の毒蛾の毒を用いて要人暗殺を図る犯罪組織をスーパージャイアンツが叩き潰す。ー
其の宇津井 健氏のモッコリタヒツ姿が兎に角素敵である。
だが結局👽は地球には来なひ。
いや来て居るのやもしれぬのだが多分馬鹿人類とは価値観が違ふので放って置かれて居るのだらう。
人類は今自然其のものーコロナ禍と温暖化ーと戦って居りだが其れは本来ならば戦ふべきものでは無ひ。
其処からも人類の愚かさは一目瞭然だ。
かやうに情けなひ地球を救う為にはスーパー文人の力が是非必要だ。
やうし其れでは今より我はスーパーな現代の信長ンに変身し地球を守る。
さうだ守るのだ!
コロナ禍と温暖化より地球を救ひ出し人類を滅亡させたる。
何かが違ふのでは?
あ、すみません、つひ逆価値になってました。
ノブナガンは地球の良ひ子を守りかうして金持ちや社会の特権層と本気で戦ふのだ!!
頭の中の価値観が倒錯してグダグダになってる其の悪人共と戦ふのだ!!
但し其の悪人共の中には善人共もしかと入っております。
恐ろしひことながら「阿呆の健全さ」の価値にて生きる善人ぶった奴等も皆其の攻撃対象であり敵なのだ。
ノブナガンは決して負けませぬ。
ノブナガンは左様に潔癖です。
尚、「スーパージャイアンツ」は信長好みの名前ではありません。
信長好みのスーパー超人の名はズバリ「スーパードラゴンズ」です。
でもドラゴンズは最下位。
ありゃ痛ひな。
ノブナガン連隊の一人は今将棋の戦をしております。
🚙を造ってる世界一のノブナガンも居り其れがTOYOTAです。
尤もTOYOTAはスーパー将軍怪人マツダヒラ―である可能性もまた高く御座りませう。
かうしてTOYOTAは正直凄ひ。
TOYOTAよ是非金をバラマキ日本國の窮状を救へ!
まあさう云ふことなのではなひでせうか。
織田信長と城
信長公が城フェチだったのはほぼ間違ひ無ひことでせう。
立派な城の普請により武家による統治の権威を或は高めやうとしていたのやもしれませぬ。
また天主=天守は信長公の発明によるものだとされて居ます。
兎に角集権的な統治を進める上では其のやうな外見的な権威としての要素が不可欠でもあった訳だ。
ー織田信長の考案した政策である「楽市楽座」「関所の廃止」「兵農分離」ー
と上にありますが、此の記述には疑問があります。
ー市場の特別性を広くアピールするために制札には「楽市楽座」の文言を用い、市場の発展を企図した[2]。
楽市楽座は一見上は規制緩和を掲げながら、実態は大名による新たな商業統制策であって江戸時代の幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。ー楽市・楽座より
何故なら楽市楽座は信長公だけが推し進めた政策ではありませんので。
ー戦国時代には、各地の戦国大名が領国の一円支配を強めた結果、多様な主体が銘々に設置する関所は否定され、次第に減少していった。天下統一事業を遂行した織田信長は、関所の廃止を徹底して実施した[7]。
江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。このためこれらの関所では中世の関所とは異なり、関税を徴集することは無かった。ー関所 #中世より
また関所の廃止は此のやうに次第に減少して行ったものを信長公が徹底し実施したまでのことです。
ー天正10年(1582)に羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の後継者になった際、まず着手したのが太閤検地だった(実際は、それ以前から萌芽が見られる)。そもそも検地とは、農民支配と年貢の徴収を目的に実施される土地の測量のことだ。 太閤検地では、(1)兵と農を分離し、兵は農業に従事しない、(2)武士(兵)は村落から離れ、城下に集住する、という兵農分離策を推し進めた。同時に刀狩りなどが行われ、農民は兵士としての性格を失ったといわれている。ただ、実際に兵農分離は一足飛びに定着したのではなく、江戸時代以降にわたって少しずつ定着する。ー織田信長は城下に家臣を住まわせ、兵農分離を成し遂げたか!?より
兵農分離に関しては、矢張り太閤検地以降に次第に定着して行ったものと見て置くべきなのでせう。
再三述べましたやうに信長公は根の部分が不器用な藝術家タイプですので實はそんなに大きく世界を変へやうとして居た訳ではなかった筈です。
が、城だとか茶碗だとかさうしたモノには結構凝って居て要するに一種のヲタク気質なのでもまたあります。
ー19日、信長は摠見寺で幸若太夫に舞をまわせ、家康、近衛前久、梅雪、楠長譜、長雲、松井友閑に披露させた。信長は大変に上機嫌で、舞が早く終わったので翌日の出し物だった能を今日やるようにと丹波田楽の梅若太夫に命じたが、見る見るうちに機嫌が悪くなり、不出来で見苦しいといって梅若太夫を厳しく叱責した。その後、幸若太夫に舞を再びまわせ、ようやく信長は機嫌を直したと云う[103]。
29日、信長は安土城を留守居衆と御番衆に託すと、「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」[2]と命じて、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し、同日、京での定宿であった本能寺に入った[注釈 27]。
このことから毛利攻めの中国出陣は早くとも5日以降であったと推測され[129]、安土より38点の名器[129]をわざわざ京に運ばせていたことから道具開きの茶会を開いて披露するのが直接的な目的だったと考えられる。博多の豪商島井宗室が所持する楢柴肩衝が目当てで、信長は何とかこれを譲らせようと思っていたとも言われる[129]が、別の説によればそれはついでで、作暦大権(尾張暦採用問題)など朝廷と交渉するための上洛だったとも云う[130]。
6月1日、信長は、前久、晴豊、甘露寺経元などの公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で茶会を開いた。名物びらきの茶事が終わると酒宴となり、妙覚寺より信忠が来訪して信長・信忠親子は久しぶりに酒を飲み交わした[46]。深夜になって信忠が帰った後も、信長は本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁の対局を見て、しばらく後に就寝した[131]。ー本能寺の変より
かやうに信長公は藝術が大好きですが、其処は天才なのか気分の変動が激しくかうしてすぐに機嫌を損ねたりもする訳です。
其処はむしろ情緒不安定で気分の安定した家康公型では無ひのです。
本能寺での茶会も道具開きの茶会を開いて披露するのが直接的な目的だったと考へられて居るので要するに實にマニアックな名器の陳列並びに鑑賞會です。
信長公はそんなアスペルガーでもってしてしかもマニアックな武将ですのでところどころで考へに飛躍もありまた人の扱ひなども實は上手くは無ひ。
根本のところでは人嫌ひだった可能性すらあります。
其の反対なのが人たらしの秀吉公で、其の人嫌ひと人たらしを全部抑へ込んで人文理性化したのが家康公による幕藩体制なのです。
家康公の幕藩体制は人文理性化されて居たので太平の世の構築に成功しましたが結局は其れも米國の黒船の圧力に屈し以降近代化して行く他はなくなりました。
尚かの明智 光秀の子孫が書ひた本があり其れがコレです。【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)
かってわたくしも読みましたが其の内容はすでに忘れて仕舞ひました。
ー明智 光秀が本能寺の変を起こす前に詠(よ)んだという有名な句があります。「時は今 あめが下しる 五月かな」という句で、これは「時=土岐(とき)氏(明智家も含まれる名家のこと)が天下(天はあめと読める)を取る」という決意を歌ったものだといわれています。
ところが、私の研究によって、この句は秀吉に改竄(かいざん)されたものだと判明しました。正しくは「時は今 あめが下なる 五月かな」。正しく解釈すれば「土岐氏は今、この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる(この状況を脱したい)」となります。
この句は天下取りへの野望などではなく、一族の苦境を救いたいという願望の表れなのです。ー明智光秀の子孫が独自に研究 本能寺の変の真相は「唐入り阻止」より
──そういった創作ではない"事実"をひとつひとつ積み重ねていったわけですね。ではズバリ聞きます。なぜ光秀は信長を討ったのでしょうか?
明智 自らの一族、そして土岐氏を救いたいという思いからです。実は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが「(信長は天下統一後に)明(みん/現在の中国にあたる)を武力制圧して日本は息子たちに分け与える」という構想を持っていたことを書き記しています。
そうなると、光秀をはじめとした家臣たちは、現在の領地を取り上げられ、異国の地に送られてしまいます。後年、秀吉の唐(から)入り(朝鮮出兵)が失敗したことからもわかるとおり、異国の地での戦や生活は、一族を滅亡させかねないほどの危険をはらんでいますよね。
ようやく天下統一が近づき、一族も安寧を手に入れられると思っていた光秀は、自らの死後も一族が無事に過ごすためには、信長を止めなくてはいけないと決意した。信長への怨恨(えんこん)などではなく、一族を救うための謀反だったのです。
さらにその裏には、同じ土岐氏の流れをくむ長宗我部(ちょうそかべ)氏との意外な関係や、協力者としての徳川家康の存在があるのですが......。ここではとても伝えきれないので、詳しくは拙著をご覧ください。ー以上より
嗚呼次第に本の内容を思ひ出して来ました。
「(信長は天下統一後に)明(みん/現在の中国にあたる)を武力制圧して日本は息子たちに分け与える」という構想を持っていた。
こんな信長公のアスペルガー振りからすれば其れもあながちウソでは無ひことだらう。
事實秀吉公が行った朝鮮出兵は元々信長公の対外政策であった。
信長公の考へ方はどうも二元分裂的なので天下統一して其れで済むと云ふものでは無くひょっとすれば世界制覇までをも目論んで居たのやもしれぬ。
其処がちょっと頭がオカシヒ訳であり、第一明になど勝てる訳が無ひのであるがやってまへと思ふ其の部分こそがかのヒトラー総統とほとんど瓜二つなのだ。
ああー、危なひ、危なひ。
兎に角藝術家は政治には関はらぬ方が良ひ。
ところで石原 慎太郎先生はまだ生きて居られますか?
まだアノ「厚化粧の👩」が都知事をやって居りますが其れでも良ひのでせうか?
天正7 (1579) 年5月中旬,織田信長の命により安土浄厳院で行われた浄土宗と日蓮宗の間の法論。ー安土宗論より
まず、其の法論なのですが、特に日本で行はれたものは釈迦の教へとはほとんど関係の無ひまさに無意味な教義問答だったのだらうと個人的には考へて居ます。
根本のところを言っちゃひますと日本には哲學的思考と云ふものが無くあるとすれば其れは禅に於けるものだけでせう。
ー問答の結果,日蓮宗が負けて,建部,大脇,普伝ら処罰者を出し,浄土宗に対し法難をしないという証文を出して終った。ー安土宗論より
… のちに日蓮宗(法華宗)が謗法折伏(ほうぼうしやくぶく)を標榜して台頭してくると,中世後期の宗論は,日蓮宗と他宗との宗論が中心となった。1338年(延元3∥暦応1)備後の守護屋形で対決した本願寺存覚と日蓮宗の宗論,1501年(文亀1)管領細川政元の命で京都で行われた日蓮宗と浄土宗の宗論(文亀宗論),1536年(天文5)天文法華の乱の起因となる叡山の僧と1人の日蓮宗信者との間で争われた〈松本問答〉,75年(天正3)ごろ,阿波一国を皆法華に改宗させようとして三好長治の命で行われた日蓮宗と真言宗の宗論,79年(天正7)織田信長が安土城下の浄厳院(じようごんいん)で浄土宗の玉念らと日蓮宗の日珖(につこう)らを対決させた〈安土宗論〉,1608年(慶長13)江戸城中の家康の面前で行われた浄土宗源誉らと日蓮宗日経らによる〈慶長宗論(江戸宗論)〉などは,その社会的影響にはかりしれないものがあった。
以上のうち,大原談義,文亀宗論,安土宗論,慶長宗論を,ときに〈日本四箇度宗論〉という。…安土宗論【宗論】より
で、日蓮宗系は兎に角布教が強引な訳です。
なのですが、日本に伝来した大乗佛教其れ自体が實は可成に不純なる佛教でさう細かくどれが大事でどれが上だなどと決められるものでは御座りません。
たとへば仏壇や墓に就ひて申せば仏壇や墓は元来實は要らぬものなのです。
仏壇や墓を👪単位にて設へ其れに祈ったり墓へ霊を招き入れるなどと云ふ考へ方其れ自体が謗法の可能性が高く存するものです。
正しくは佛法は祈るものでは無く自らの心のあり方を自らが正すもののことです。
だから其の祈る佛教である日蓮宗と浄土宗が幾ら法論を戦はせるにせよそんなものは元々まるで無意味だと云ふことともなりませう。
学會は金ピカの仏壇を捨て御本尊の御題目だけをかけた仏壇にて唱題するがまさに其の様や異常な佛教だなどとも屡耳にしたりも致します。
でも實はまだしもそちらの方が大人しく金ピカ佛像はほぼ確實に謗法の域であることだらう。
が、日本の佛教はたとへ禅宗でも仏壇があり墓もありますので其処はなんでもありの不純佛教なのだとさう思って置ひた方が宜しひのです。
そんな不純佛教なのを懸命に教義上細緻かつ丹念に仕上げ其れを信仰して行くのですから傍目にはもう笑って仕舞ひます。
いや、金輪際笑ってはイケません。
かうしてみんな苦しひのですから、さうしてみんなが神佛に祈るより他は無ひのだから。
わたくしなどは一時期日本の大乗佛教宗派を概念的に全否定して居りましたが最近はまた心理的に丸くなり逆に全肯定して来ても居ります。
さうして全肯定はして居りますが、先に述べた如くに仏壇や墓に拘ることは佛法上可成に不純なることですのでむしろお経の内容などに注目し写経などして行かれることを是非御勧め致します。
唱題や念仏などは発声のトレーニング程度にしておき後はお経の内容をこそ學んで行かれるが宜しからう。
わたくしは其の御経の内容を哲學的に理解するのが得意で其ればかりか實は御経其のものを直観して仕舞ふ能力にも實は長けて居りますのですが最近はむしろさうした特殊能力の持ち主であるが故に観念的に苦しむことが多ひが故にさう云ふのをあへて止め山の中で禅定を組んで来やうかとさうも思って居るところです。
尚、ほんたうは佛像に祈ったり頭を下げたりすること其れ自体が無意味なことなのです。
あくまで解脱を目的とする上での佛道修行の上での本質的な意味に於ひては。
ですが、我我🐵はそんなものでしかあり得ぬ訳だ。
我我は人間では無ひのでお釈迦様のやうに解脱することなど出来やしなひ。
🐵は何でも盗んで食ひメスを追ひかけ決まって其れを孕ませるのです。
そんな🐵共にほんたうは何を説ひても無駄です。
ですが、イエス様やお釈迦様は其処をあへて我我に眞理をお説きになった。
何故イエス様が突然出て来たのだ?
其れはイエス様の教へでも🐵共は救はれるからなのです。
キリスト教はおまへのやうに人間を🐵扱ひなどはしては居らぬぞよ。
いや、佛教でもまさか人間を🐵扱ひなどはして居らぬ。
おまへだけが人間を🐵扱ひしさうして見下し根本からバカにして居るのだ。
おまへは一体何様のつもりだ?
わーはっはっはっはっはー、じつは我こそがスーパー宗教詩人ノブナガン様だー。
ーかねてから京都や堺の町衆に大きな勢力をもっていた法華宗弾圧を意図していた信長が,当初から計画的に仕組んだものとみられる。ー
ー安土宗論を契機として、日蓮宗では従来の強引な布教態度が姿を消すとともに、寺院を離れて活躍する伝道僧の行動が著しく制限されるようになった。それは、のちに江戸幕府が行う仏教統制への第一歩として、重要な意味をもっている。ー
其の法華宗弾圧と先の話での信長公の法華宗との密接な関係の部分に矛盾が生じて仕舞ひ個人的に困って居る訳です。
ひとつの可能性としては法華宗弾圧では無く法華宗の改革、綱紀粛正を目的として居たものであったのやもしれぬ。
信長公は其の安土城の天主にまさに宗教的な障壁画を多く描かせて居ました。
宗教をもし嫌って居るのだとすればそんなことはあり得ぬことでせう。
むしろ宗教を大事に扱ひ其の精神の世界により日本と云ふ國を統一しやうとして居たからこそ其のやうなこととなって居たのでせう。
ー詩文には「信長は京を鎮護して二十余国を領したが、公家を蔑ろにして万民を悩まし、苛政や暴虐は数え切れない」「(本能寺の変で)死亡して人々は拍手し、天下が定まった」といった意味の記述があった。さらに信長について「黒ねずみで平清盛の再来」とする一方、光秀を「勇士」と表現したと見られる記載も見えた。
信長が1579年に築いた安土城に触れ「天守は(高さ)百尺(約30メートル)」「苦役で民が汗を流し、ぜいたくな城を築いた」と解釈できる部分もあった。信長の比叡山焼き打ちにも言及していた。
島田教授は2014年に高崎住職から依頼を受け調査を進めていた。島田教授は「信長が仏教界から尋常ではないほど恨まれていたことが伝わってくる」と話した。ー<古文書>本能寺の変、仏教界は喝采 信長よく思われず!「信長は清盛の再来」より
さても此の部分をどう解釈するかと云ふことですが、わたくしは以下のやうに結論付けます。
まず信長公は物理的にも潔癖だったが其れだけに止まらず精神的にも極めて潔癖だった。
ところが当時から日本の大乗佛教各宗派は不純でありさらに不潔でさへあった。
信長公は兎に角そんな不潔な佛教界に業を煮やしおみゃーらなんで腐っとるんだーーー!!!とおそらく御怒りになったのだった。
ところが当の佛教界側からすれば悪ひのは常に信長一人でまさにコヒツだけが佛教を弾圧したり外来宗教切支丹を世に蔓延らせる大悪人だ。
だから其の信長こそが「黒ねずみで平清盛の再来」であり、対する光秀が佛教の弾圧から日本の佛教界を救ふ「勇士」なのだ。
「黒ねずみ」?
畢竟其れは黑ひ🐀のことか?
或は🐀男のやうな不潔なもののことか?
日本の坊主共は左様に団結し佛教界の刷新を、倫理的改革を推し進めるまさに精神的に潔癖な信長公に対し🐀だと言ひ放っておったのだ。
尚、其の🐀男であるが、作者の水木 しげる氏によれば其れは欲望を制御することがままならぬ庶民感情の象徴でもまたあるとのことだ。
すると我我は🐵では無く結局🐀なのだ。
其れも汚ねへ台所の隅などに出没し何でも食らふ其の🐀野郎共だ。
ああー、汚ねへ。
しかも風呂も入らずでバイキンだらけだぞ。
チュウチュウ、チュウチュウ。
あら意外と可愛ひ。
ところで、今の🐈が🐀を捕へることは果たして可能なのでせうか?
其れは分かりません。
ですが十年位前までは家の🐈は🐀を良く捕へては居りました。
可哀想なのは殺した🐀をさうしていつまでも玩ぶことです。
🐈は矢張りと云ふべきか👿なのやもしれませぬ。
さても地球上の🐀共の駆除はどうなりませうや?
其れは分かりません。
わたくしは🐀では無ひので分かりません。
もしやじぶんだけが人間なのか?
みんなを🐀呼ばはりしてみんな死ねとさう言って居るのだらう?
そんなこと一言も言ってません。
逆にみんなが救はれたらエエなとさう思って居るだけのことです。
尚これからお盆の期間となりますので皆様お墓参りなどされて行くことかと思はれます。
然し佛法とは根本的には哲學的なものですので頭の良ひ方々はまず其の経典の内容を是非確りと把握してみて下され。
日本の民衆も今や大卒が増へ経典の内容を確りと把握する位の理性的能力は皆あることでせう。
其の理性を科学技術による革新に向けるのでは無く人文による智恵の方にこそ向けてみて下され。
さすれば今自分達が仕出かして居ることの愚かしさが自ずと見へても参りませう。
まさに其のことを悟ること、其の進歩主義の愚に気付くことこそが眞の意味での理性の役割なのだからこそ。
エメラルド遊星から贈られた「地球計」で自由に空を飛ぶことができ、鋼鉄の拳銃をも飴のようにひねる怪力を持つ。衣装は全身タイツを基本としており、顔の部分は素顔を露出している。