目覚めよ!

文明批判と心の探求と

神光あれと言たまひければ光ありき

 

ー 神光あれと言たまひければ光ありき ー

 

創世記(文語訳)より

 

「再結合によって自由電子が減っていくことで光子は散乱される相手を失い物質の束縛から解放されていく。宇宙の温度が3000度程度になった時点で自由電子はほとんど原子核に束縛される。これを電子と光子の脱結合といい、脱結合後の光子は直進できるようになる。こうして宇宙の晴れ上がりが起きる。」宇宙の晴れ上がりより

 

 

ー 地は定形なく曠空くして黑暗淵の面にあり神の靈水の面を覆たりき ー

 

 

即ちまだ全ては定かではなかった。

光さへもが隠蔽され見へなかった。

 

光あれと神が宣われしことで光が生じ其処に認識の対象が生ずる。

 

 

ー 神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり ー

 

神は光を善と認識される。

何故其れは善なのか?

 

元より善悪とは光と闇の対比より生まれる。

二元的に構築される世界こそが其の認識作用なのだ。

 

即ち神とは認識である。

認識とは神である。

 

認識の元には理性がある。

故に神とは理性其のものなのだ。

 

善とは其の理性に基づく世界観を意味する。

また其処では逆に理性に基づかぬ世界観を悪と名付く。

 

さうして神とは其の理性に基づく認識其のもののことだ。

 

 

ー 神穹蒼を天と名けたまへり夕あり朝ありき是二日なり ー

 

ー 神乾ける土を地と名け水の集合るを海と名けたまへり神之を善と觀たまへり ー

 

 

神は理性故其は意志なり。

しかれども意志は二元化し完全なるものには非ず。

 

即ち神とは不完全をもって完全となすひとつの矛盾である。

 

さう神とは矛盾なり。

 

矛盾なるが故の不完全性を其処に兼ね備へしものなり。

 

 

完全なるものはさう「完全」と捉えられし瞬間に不完全化する、即ち矛盾化する。

 

よって完全なるものは概念化ー言語化ーすること能わず。

 

概念化されるものは不完全であるが故にさう認識ー構築ーされ得る。

 

 

即ち完全なる神など居なひ。

 

だが概念的に其れを全能化することは可能だ。ー 全能者⇔人間 ー

 

 

さてかように乾ける土が地と名付けられることにより天と地との差異が生じる。

 

 

其の差異、局所性は統一、全体性との対概念である。

 

即ち天と地は対義的に存するものだ。

 

其のやうに理性は捉へると云ふことだ。

 

 

理性とは分離ー限定ーであり、概念=言葉もまた分離ー限定ー。

 

故に理性を完全化することは出来ぬ。

 

されば謂わば神のもうひとつ前に真の神がおわすのだ。

 

 

されど認識世界での神は分離の神だ。

 

其の神は祝福しかつ怒り、さうして創造し恵みを与へると同時に破壊するつまり全てを滅ぼす神のことだ。

 

 

 

ー 神二の巨なる光を造り大なる光に晝を司どらしめ小き光に夜を司どらしめたまふまた星を造りたまへり ー

 

ー 神これを天の穹蒼に置て地を照さしめ 晝と夜を司どらしめ光と暗を分たしめたまふ神これを善と觀たまへり ー

 

 

神と云ふ其の認識にとりかの世界ー宇宙ーは善である。

 

だが善があれば他方に必ずや悪が生ずる。

 

認識とは必ずやさうした相対性を免れぬものだ。

 

 

曰く、光があらば闇がまたあらう。

 

♂あらば♀が生ずる。

 

肯定あらば否定がまた生ずる。

 

かくて其の生ずること其れ自体をかの神は善きものとした。

 

即ちかの神は生其れ自体、認識其れ自体を肯定する神だ。

 

 

されど東洋の思考、其れも仏法での思考は其れとは異なる。

 

認識其れ自体を消去するー極論としては結果的に「神」を否定する-のが釈迦の基礎認識だ。

 

即ち認識ー理性ーを肯定せずかつ否定せぬところに於ひてこそ佛を生ずるのだ。

 

さても「佛」とは認識に於ける脱構築のことだ。

 

不完全なるが故に全能性を持つ神とは謂わば認識の神である。

 

認識ー理性ーする神であるが故に其の認識は善ともならう。

 

 

善の反対には悪が控える訳だから二元的戦闘が其処に開始される。

其の戦闘又は対立自体を超越していかうとするのが釈迦の思想乃至は老荘思想の内容である。

 

 

但し現代社会の価値観に於ひて問題として捉へられるのはさうした脱構築の思想では無くしてあくまで二元論の神ー認識ーとしての価値観なのだ。

だが其れはギリシャでの、また古代印度での、さらに日本での神々のやうな多神教での神々のことを指すものでは無ひ。

 

あくまで此の認識としての神、理性其のものとしての矛盾としての神、其の唯一のものとしての神が即現代文明としての矛盾を形作るのだからして。

 

 

イデアは普遍的、絶対的、永遠的、遍在的、可知的、調和的で完全なものであったのに対して、物質というのは特殊的、相対的、時間的、局所的で、混乱し、不協和で、欠陥のあるものであった[5]。」プラトン 非在より

 

尚神とは其のイデアである。

但し其は完全なものでは無ひとわたくしはさう捉へる。

 

何故なら完全とは分かたれぬと云ふことである。

 

だが見ての通りに此の神は全てを分かつことでむしろ世界を創造していく。

 

だが完全とはテストで百点を取ることでは無ひ。

何故ならテストで百点を取ることと同時に、其処で急にアホになったりまた病気になるなどして、或はつひ色恋沙汰に巻き込まれるなどして零点を取る可能性もまた高く存して居るが故に其れは完全では無ひ。

 

完全とはむしろ其のテスト其れ自体を無くすことだ。

即ち学校を否定し塾を否定し理性を否定し根本的にテストを無くすのだ。

 

 

さすれば百点も零点もクソも無くならう。

 

だから認識其れ自体、相対分別其れ自体をむしろ小さくしていくー消滅させていくー目的こそが東洋の思想の根幹部分にはある。

 

逆に言へば其れは神を否定して居るのである。

 

認識の神、即ち理性の神であるエホバの神の否定にも其れは繋がらう。

 

但しより正確には否定では無く神の放棄なのだ。

 

イザ放棄すると、無論のこと其処で救済されることさへをも放棄されざるを得ぬ。

 

つまるところ救済の神とは其の常にテストで満点を取ることを強ひる神なのだ。

 

 

だから本質的には其れは分別ー認識ーの神であり価値ヒエラルキーを構築する立場としての神なのだ。

 

かのプラトーンによる二元的な観念論もまた其の其のやうな神ー認識ーによる二元論の構造を脱するものでは無ひ。

 

 

重要なことは其の構築主義の否定をすれば〇だと云ふことではなく事実として現代文明は其のやうな価値観に基づき営まれて居ると云ふことのみ。

 

 

ー 神地の獸を其類に從て造り家畜を其類に從て造り地の諸の昆蟲を其類に從て造り給へり神之を善と觀給へり ー

 

かように神にとっての生類は皆善である。

逆に其れを悪だとする宗教も古代には様々にあった訳だが結局其れ等は皆異端視され命は善であるとする思想のみが文明に於ける認識上の原点となって居る。

 

では何が悪なのかと言へば生命現象を否定するに及ぶ思想こそが悪なのである。

 

悪魔とはかうして生命に対し悪ひことをする奴のことだ。

 

 

 

どうもおまへは先程より神を謗って居るのではなひか?

だとすればおまへこそが悪魔なのではなひか?

 

いや、其れは違ひます。

 

あくまでわたくしは真面目に論じて居るのです。

 

只、今現在はさうした神の認識過程に於ける諸問題こそが問題であり其れも根本のところでの其の理性による相対分別の問題、まさに其れこそが問題なのではなひかとさう捉へましたのです。

 

 

つまりは其の構築主義、認識上のヒエラルキー構築の部分にこそ引っ掛かりを感じる訳です。

 

たとへば、

 

「充満する存在と対立する原理」プラトン 非在より

ともあるやうに、充満すると云ふことの裏側には何も無ひ=非在と云ふことがまずはあらねばなるまひ。

 

 

畢竟其れも二元的対立の様です。

謂わば神は遍在するからこそむしろ無ひものであらねばならぬ。

 

此の種の概念的矛盾こそが究極の課題なのです。

 

たとへば神の代わりに其処へ佛を置ひても良ひ訳だ。

 

佛を認識ー概念化ーした途端に其れは相対分別化する。

 

佛は消去其のものである筈なのに佛と魔との二元構造に相対分離されあくまで「在る」こととなる。

 

 

ですので、此の「在る」と云ふことがそも大問題なのです。

 

其がまさに有無の問題であり善悪の問題であり認識と存在との関わりの上での問題です。

 

言ふまでもなく認識ー理性ーが善となされた故にこそ西欧近代は生まれ我我は文明としての今を生きて居ります。

 

 

 

ー 神言給けるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めんと 神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり ー

 

ー 神彼等を祝し神彼等に言たまひけるは生よ繁殖よ地に滿盈よ之を服從せよ又海の魚と天空の鳥と地に動く所の諸の生物を治めよ  ー

 

ー 神言たまひけるは視よ我全地の面にある實蓏のなる諸の草蔬と核ある木果の結る諸の樹とを汝等に與ふこれは汝らの糧となるべし  ー

 

 

其の神の像の如くに人間が造られた訳なので人間の認識ー理性ーとは神を象ったものでもまたある。

 

であればこそさうして食っても良ひ訳です、其の自然其れ自体を。

 

むしろ食ひ物以外の何ものでも無ひものが自然で、其処で何故其処まで喰らひ尽くすのかと言へば其の認識ー理性ーを完遂させる為にこそ其れ等がある。

 

但し当時の人間にはまるで理性がありませんでした。

 

 

ー ヱホバ神エデンの東の方に園を設て其造りし人を其處に置たまへり ー

 

ー ヱホバ神觀に美麗く食ふに善き各種の樹を土地より生ぜしめ又園の中に生命の樹および善惡を知の樹を生ぜしめ給へり ー

 

 

理性無き人即ち獣人は確かに楽園の住人となり得るものです。

 

何故なら彼は自ら認識ー相対分別ーすることなく神の恩寵に浴し自然其のものを生きるものだからです。

 

まさしく其の様こそが楽園の泉から水を汲み取りつつ生きる者としての価値観だ。

 

 

ー ヱホバ神其人に命じて言たまひけるは園の各種の樹の果は汝意のままに食ふことを得 然ど善惡を知の樹は汝その果を食ふべからず汝之を食ふ日には必ず死べければなり ー

 

但しひとつだけ禁忌があった。

 

其れは善悪を司る樹の実を食しては決してならぬことであった。

 

 

其れを食へば死ぬ。

 

とさう神は宣われた。

 

何故死ぬのか?

 

何故なら、人間は神では無ひからだ。

ましてや獣でも無ひ。

 

 

獣や樹々は寿命によりやがて死ぬる。

 

ところが観念に寿命など無ひ。

 

抽象的な概念に死は本来訪れることが無ひ。

 

であるが故に神は永続するのだが他方で肉ー物質ーとして限定されし自然界は無常であり死は必然として其処にある。

 

人間は其のどちらにも属さぬ者。

 

観念的には決して死ねず、かと言って肉体的には必ずや死ぬる。

 

 

 

元より人間は人間として、あくまで天と地の間を生きる者だ。

 

元より獣共はまた樹々は善悪の規準にて生を営むものには非ず。

 

左様に自然は理性としての規準で生を営むものには非ず。

 

但し結果的に其れは理性としての規準でもってして生を営むものなのである。

 

 

何故か?

 

自らは理性を持たずして神の理性に従ひ日々を生くる者共なのだから。

 

神は人間にもさうして生きることを望んで居られた。

 

ー自然の枠内でーさうして生きることこそが神の恩寵其のものであった。

 

 

ー アダム諸の家畜と天空の鳥と野の諸の獸に名を與へたり然どアダムには之に適ふ助者みえざりき ー

 

ー 是に於てヱホバ神アダムを熟く睡らしめ睡りし時其肋骨の一を取り肉をもて其處を填塞たまへり ー

 

ー ヱホバ神アダムより取たる肋骨を以て女を成り之をアダムの所に携きたりたまへり ー

 

ー アダム言けるは此こそわが骨の骨わが肉の肉なれ此は男より取たる者なれば之を女と名くべしと ー

 

 

楽園の住人アダムには然し伴侶が居なかった。

伴侶が居なひ男性は往往にして破壊的になり易ひ。

 

しかも其の破壊は暴力と批判とに二元化されどちらに傾くにせよ兎に角危険であった。

だが彼にはまだ理性が無ひ故暴力に傾き楽園全体への暴力的破壊に及ぶ可能性が高かった。

 

其処で神は彼とは対義的な人間を其処に造ることとなる。

さうして此の世に初めて人間の女が誕生したのだった。

 

 

ー 是故に人は其父母を離れて其妻に好合ひ二人一體となるべし ー

 

ー アダムと其妻は二人倶に裸體にして愧ざりき ー

 

 

だがそも何故女でなければならなかったのか。

女でなければ人間が続かぬからだ。

 

人間が続かぬと神なる概念もまた放棄されやう。

 

さうなのだ、實は自然界には神など要らぬ。

 

 

自然界は物理的な作用でもって営まれしまさに究極としての合理的世界である。

一面では汎神論的な世界でもあるが實は極端に合理化されし世界である。ー

 

其の一神教としての観念的神が其処に生ずる由縁など何処にも無ひと云うことである。

 

しからば観念的な意味での神とはあくまで人間の爲の神だ。

 

其の神が独身者アダムに👩を宛がふ。

 

其れは矛盾と云へば確かに最大の矛盾であった。

 

 

何故ならアダムは神に対し反抗などして居なかったのだから。

 

独身男性としてのアダム程まさに敬虔でもってして神の意に素直に従ふ精神の持ち主は居なひ。

 

独身男性は普通其のやうに極めて不器用でかつ素直である。

 

 

然し神はおおまさに相対認識の完遂の為に其の善悪としての価値ヒエラルキー構築の為にこそ霊的に生きて居られやう。

 

 

観念として其処に必然として立つ、嗚呼まさに其が認識としての神の素顔ぞ。

 

 

よって其処には必然としての罪の世界が生じて来やう。

 

其の罪の歴史に就ひてはまた次回に述べさせて頂くこととする。