目覚めよ!

文明批判と心の探求と

好きな安吾ー弐ー



何故か持って居らず最近買った本ですがとりあへずは文學好きにとりたまらなひ本です。
写真家の林 忠彦による坂口 安吾や太宰 治や織田 作之助と云った無頼派の文士の写真の数々と当時のエピソードが盛り込まれて居ます。
かの三島 由紀夫などに就ひても結構詳しく取り上げられて居る。
三島は貴族的かつ腺病質で川端 康成などは兎に角不思議な人であったのださうです。
文士の写真は林忠彦による文士シリーズこそが究極で、わけても安吾のグチャグチャの部屋でもって執筆する様とルパンで足を組み談笑する太宰の写真はまさにコレしかないと云ふ代物です。


エピソードの方は安吾と織田作に就ひては特に詳しひ。


安吾の汚部屋は埃が一センチ位はあり部屋に入ると其れが舞ひ飛ぶのださうな。
然し小説の神様の筈の志賀 直哉は写真におさまるともうまるで政治家か何処かの名士のやうでまるで面白くはない。
謂わば本質として破綻が無いので文學者としてはまるで面白くない訳です。


ちなみに太宰 治はかって志賀 直哉を激しく攻撃して居ました。
作品を貶されたので応戦しボロクソにかの老大家を責め立てたのでした。





十、意識は意識の対象となることを得ず。

〔説明〕もし意識が意識対象となることを得るならば、(九)により意識は意識より独立に存す。もし意識が意識より独立に存せば、(二)の「意識なきときには意識なし」は成立せず、明に意識なき時に於ても意識あるべし、これ不合理である。

系 意識は意識さるゝことを得ず。

十一、意識さるゝことを得ざる意識とは「意識の力」である。
〔説明〕意識は意識さるゝことを得ず(十ノ系)。結局意識とは「意識するのみ」にして「意識さるゝを得ざるもの」である。然るに人は意識す(一)。而して意識の全体は「意識する力」と「意識の対象」と「意識内容」とより成る(六)。而して「意識の対象」と「意識内容」は意識より独立に存し(九)、意識さるゝものである(七、八)。故に「意識するのみ」の力とは「意識する力」である。ー以上より引用ー


「意識は意識さるゝことを得ず。」
(而して意識の全体は「意識する力」と「意識の対象」と「意識内容」とより成る(六)。而して「意識の対象」と「意識内容」は意識より独立に存し(九)、意識さるゝものである(七、八)。故に「意識するのみ」の力とは「意識する力」である。)
ー以上より引用ー


ショーペンハウアー流に申せばまさに「意識する力」即ち生きんが為の表象としての意志こそが「意識の対象」と「意識内容」とを生むのでせう。
さうして意識とは何か猥雑な何かであることでせう。


さうだ意識は猥雑なものとしての何かなのであり元来上品なものではない。


生きること自体が其の猥雑な何ものかですので意識しないのであればむしろ其の方がより望ましひことともならう。


仏教は本来ならば其の意識する生き物=有情の苦を断ずる為の教へですが勿論其のままでは仏陀や阿羅漢の住することだらう心の地平を保つことなど不可能です。



我我凡夫の認識の様は仏陀や阿羅漢の住する心の地平ー高い心の境地ーとは別物で其処では主に欲望に基づく価値ヒエラルキーが形作られて居やう。


ところが其の価値ヒエラルキー自体をまさに意識そのものが築き上げて居る訳です。



所謂分別する心、分別智こそが価値ヒエラルキー構築の主犯なのでせうが其の大元には生きんと欲するが為の意志=「意識する力」の存在がある。


其の存在こそが物自体である。


哲學として言へばさうなるのだし安吾流に言へば其れが「意識する力」だと云うことです。



(力に過去はない。 何者なんとなれば 、力の働くところは現在のみである。逆に力が働く故を以て「現在」と云ふことが出来る。即ち過去にも意識はあつた。「意識する力」と「意識対象」と「意識内容」は確にあつた。然し、それは実に「あつた」のみである。何者、力あるところは現在のみである。故に嘗て「あつた」力は過去となるやいなや無い。残るものは嘗てあつた力によつて意識された意識内容のみである。斯くして「意識の力」は永遠に「意義しつゝある力」である。)ー以上より引用ー


「意識する力」は現在を形作る。
逆に言えば現在を形作るものは「意識する力」=意識せんと欲する意志のみ。
「意識する力」とは左様に現金主義であり過去や未来を俯瞰視するものではないゆえ本来盲目的なんでせう。


また其れは自然界に於ける本能力のやうなものなのかもしれぬ。
本能力の一部かまたは大部分が或は変質して「意識する力」を生んで居ることでせう。


「意識の力」は永遠に「意義しつゝある力」であるのならばまさに其れは実在としての癖のやうなもの、消し去れないもの、現在に生き続ける永久の駆動力なのでむしろ絶対的なものです。
事実煩悩はほぼ絶体的なものです。


相対認識を行ふ限りに於いてはあくまで其れはさうだ。



(「意識しつゝある力」即ち「現在働きつゝある力」を中心としなければ「時間」は成立しない。)ー以上より引用ー


「時間」は生じるのであり其の生じること=現象の属性であると以前にわたくしも書いて居ます。



(或人の意識の力は決して我々の意識の力ではない。従てそれは力ではない。力はあくまで「能動」であつて「他動」ではない。故に力は常に一つである。予想された力は無数にある。しかしそれは前述の如く単なる客観的対象であつて、現に客観に対して働きつゝある力は常に一つである。「Aの力」にとつて「Aの力」のみ力であり、「Bの力」にとつて「Bの力」のみが力である。かくて力は常に一つのみである。然らば「意識しつゝある力」は唯一の力である。従て意識しつゝある力は当然全てを規定する必要がある。何となればもし意識しつゝある力以外に規定するものがあれば、その規定するものは当然「力」でなければならぬ。これは不合理である。故に「意識する力」は当然全てを規定し従て時間を規定する必要がある。)ー以上より引用ー


力または意志は能動であるがゆえにひとつ。


「意識しつゝある力」は唯一の力でもって時間をも規定して居る。


即ち生きんと欲する意志が時間をも規定して居るのである。


結局全部が自分の仕業である。


元より客体には現象を生み出す力など無ひ。


誰がどうのと云うことではなくまさに自分が自分を此の世に生じせしめて居りしかしながら此の世は元々下品だと云うことなのだ。



(故に動きつゝある力の跡附けた内容は全て過去と云ふことも出来る。故に一節に於ける如く、かつて意識のあつた世界は過去であると云ひ得る。)ー以上より引用ー


(又「意識しつゝある力」は常に現在を持して動きつゝある。従て如何なる意識の対象或は意識内容を以てしても、全てこれを現在たらしめんとする時には現在を過ぎて居る。全て意識せらるゝものは、所謂「シツツアル力」に対して「セラレタルモノ」だけの価を有するに止る。此の如くにして、「セラレタルモノ」は「セラレタル瞬間」に於て「シツヽアル力」の後に取り残されるに止る。あたかも「アキレスと亀」の詭弁が詭弁ならざる真理として永遠に「シツツアル力」の亀を 先登せんとう に立てゝ進みつゝある。結局此の如き考察に於て、全て、「意識の対象」は「意識しつゝある力」の先に立つことは許し難い。故に全て「意識の対象」は「意識しつゝある力」の過去である。)ー以上より引用ー


現在を厳密に生じさせて居るものは能動的ー創造的ーに現在を現在たらしめんとする力=意志そのものであり客体ではない。
客体はすでに過去の現象に過ぎず今確実に在るのは「意識しつゝある力」のみである。


故に客観的世界と云うものは此の世には現象して居ない。


いや結果としては生じて居るが其れは「意識しつゝある力」の過去としての堆積物であるに過ぎぬ。



(何者、「意識シツツアル力」に於ては「予想スル未来」そのものが既に意識の対象である。従て「予想スル未来」は単に過去にすぎない。換言すれば、我々が未来として予想することは単に予想「セラレタ」ものなのである。「セラレタル」対象にすぎないのである。現在「意識シツツアル力」に「意識せられた」未来といふ一つの意識内容に止る。従て之も又「シツツアル力」の現在に対する「セラレタル」過去以外の何者でもない。故に「意識しつゝある世界」に於て「シツツアル力」の現在と一切の「セラレタルモノ」の過去の外は何者もない。)ー以上より引用ー


意識とは「意識しつゝある力」=能動的意志であり其れは原則として現在であるが其の死骸の堆積物としての過去を結果的に生じさせる。


対する未来は原則として存在して居なひ。


何故なら世界は「意識しつゝある世界」に於て「シツツアル力」の現在と一切の「セラレタルモノ」の過去の外の何者でもないのだから。


生とは主観的に構築される現象であり現象とはむしろ本質的に現在化されて居るものだ。


謂わば未来は「意識しつゝある力」=能動的意志にとり規定することが出来ないものなのだ。


然し死骸の堆積物としての過去から學ぶことだけは可能である。


さうした意味では未来を選択することもまた意識には可能である。


可能なのだが「意識しつゝある力」=能動的意志にとり大事なのはまさに此の現在だけなのだ。


さう現在、目の前にオンナやカネやモノがあれば誰しもが其れに飛びつくのだ。


其れが其れこそが「意識しつゝある力」=能動的意志にとり全てなのさ。


だから其れが煩悩であり罪なのだ。


逆に言えば煩悩であり罪だからこそ「意識しつゝある力」=能動的意志として現在を生じさせて仕舞ふのだ。



(しかし前来述べてきたところは「意識の対象を過去といふ。未来は意識の対象である。故に未来は過去である」といふことに外ならぬ。あくまで我々は「意識内容」としての「未来についての観念」以外に未来を予想することは許されない。)ー以上より引用ー


(従て「意識スル力」と意識の対象の外は何者もなく、意識する力は永遠に先に立ち意識対象は永遠に後に従ふといふことに過ぎない。「先に立つ」故に云ひ得べくんば「現在」であり「後に従ふ」故に云ひ得べくんば過去であるといふことである。

已去無去  未去亦無
已去未去  去時亦無去 (中論、観去来品)

これは龍樹の中論、特にその観去来品に感銘を受けて、久しく漠然と体験してゐたことを書き現してみたものであります。)ー以上より引用ー




●中論観去来品第二

問曰。
世間眼見三時有作。已去未去去時。以有作故當知有諸法。
答曰
已去無有去 未去亦無去
離已去未去 去時亦無去


ある人が、問いました。
「世間では、三つの時に行為(用)があると見ます。それは、過去・未来・現在という三時です。たとえば、『去るもの』について言えば、『すでに去った時』『未だ去っていない時』『去る時』というように、三時に行為があるので、諸法は有ると知ることができるのではないでしょうか?」

それに龍樹が答えます。
「過去に去ったものは去らない。未来に去るものは去らない。すでに去ったものと未だ去っていないものから離れて去るということはない」


このようにすべて否定です。常に「~ではない」という論法であり、結論も「~である」という肯定ではありません。「肯定に帰結させる」ということは、何らかの主張をしていることになりますが、龍樹は何も主張していません。「空である」ということを主張だと取る方もいますが、実体の無いことを空と言っているのですから、「空である」ということにも実体はありません。


































其の「今」とはまさに相対分別されし虚的な今、或いは絶対的な時間の流れとしての今なんでせう。