目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

現象界には全てがある


昨年の大晦日に放送されたN饗の第九演奏会程素晴らしいものはなかった。


尤もわたくしはベートーヴェン交響曲を専門に聴いて来た訳ではない。
専門に聴いて来たのはピアノ・ソナタの方だ。


ゆえにピアノ・ソナタの方の出来は分かっても交響曲に関しては甚だ心もとない。


其れでも一発ビンタを喰らったかのやうに其れは効いたのだった。


まさにこんなに厳しい第九を聴くのは初めてであり、或いは其れがベートーヴェンの精神性そのものと重なり合う領域のものではなかったか。


其れもかのマエストロは存じ上げずで、其れにしてはどうもN饗が別の楽団になったかのやうで不思議だなと思ひつつ聴いたのであったが流石に其処は流石に独逸の指揮者である。マレク・ヤノフスキ


日本人の指揮者でもってここまで厳しいベートーヴェンの解釈を成立させることなど其れは出来ない相談だらう。



で、其処に初めてベートーヴェンの精神を直に聴くことが出来た。

さうしてつまるところ本物は極めて稀にしか存在して居ないのだとも言える。

実際どんなものでもさうだ。


物質でも精神でもまさに一握りの上澄みの世界と云うものがありほとんどの場合其れは日常のものではないのだ。

何故ならベートーヴェンの孤高の精神がいつでもどこでも気軽に聴けるのだとしたら其れはもう近代思想と一緒でまさに何でもありで節操の無いものと化して仕舞ふことであらう。



だから実は此の世には紛ひ物が多いんだ。
むしろ紛ひ物だらけだ。

わたくしの場合紛ひ物は要らないのでどうしてもかうして気難しくもなり其れもはや正月からピリピリして居なくてはならぬ。



其の第九の演奏で、独逸の精神と云う事まで考へてみた。

かの独逸観念論の世界、其の観念性の潔癖さは矢張りどうしても何処かにあるのではないか。

如何にも独逸らしひ其の完璧な想念と藝術との融合が。



然しベートーヴェン自身は明らかに近代主義者だったやうだ。

シラーの歌に惹かれたのも仏蘭西革命で謳われた自由と平等と云う近代の魔法の杖に彼がいたく心を動かされたからだった。

明らかにベートーヴェンは理想主義者で或は其処に世界革命の成就をさへ夢見て居たのかもしれなかった。


だが革命は必然としての矛盾を生む。

いや革命なくば余計に矛盾は生じ続けやう。

まあ藝術家はあくまで藝術家なので自由と平等と云う近代の理念にさへ大矛盾が仕込まれて居ることなど知る由もない。



それどころか學者でさへ自由と平等の実現は良いことだとさう信じて御座る始末だ。

確かに自由と平等は良いことに決まって居る。

だが無制限の自由と平等の実現は元より無理だ。



何故こんなにカンタンなことが分からないのだ。

何故分からないかと云うと理性が無制限に解放されて仕舞って居るからだ。


ダメだ、ダメだ、それでは如何にもダメだ。

理性こそは限定しないとダメだ、特に科学的合理性につきしかと限定せよ。




だから藝術と科学は違ふ。

まるで違ふ。


尤もかの宮澤 賢治は宗教的な癖に結構科学的でかの漱石などは何と数学が物凄く出来たのださうで其れだけはもうどうしても信じられないがほんたうのことらしい。


さうアノ漱石は理学者になるつもりだったのださうでだとすれば其れだけはもうどうしても信じられないではないか。

であるから此の世のことはもうまるでミステリーのやうなことばかり。

此の世の須らくが神秘的な運命の連なりでもってして所詮頭では割り切れないものばかりである。

其のミステリーの連なりでさへ玉石混交なのですから玉に巡りあった場合には是非感謝しておくべきだ。



重要なことは此の世には全てがあると云う事だ。

此の世には何も無いのではなく全てが有るのである。

愛も死も愉悦も苦痛も須らくが此処に用意されて居る。


天国も地獄も信仰も憤怒もまさに此処にしかない形で用意されて居る。

其処から何を選び取るかはまさに我我の心がけ次第だ。