目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

女嫌ひのショーペンハウアー語録


「幼年期の初期にわれわれを養育・教育するのに女が向いているのは、ほかならぬ女自身が子供じみて、たわいがなく、浅はかだからだ。
少女の残りの一生涯がどうなろうとかまわず、自然はそのほんのわずかな年月のあいだに限って、彼女らに美と魅力と豊満をふんだんに与えるのだ。
それというのも、この数年間に、男の空想力を完全にとらえようという算段だからだ。男はそのため夢中になって、なんらかの形で、その女のめんどうを一生まともに引き受けようとする。」


…常に女は打算的なので子供ではなくむしろ大人です。

でもバカです、まずは間違いなくバカであらう。
だから浅はかかつ子供ー理性的にーなのです。

女に誘惑されて母ちゃんやら子やらの面倒を生涯に亘りみなければならなくなることは男性にとっての最大の不幸でありかつ幸福である。

何故なら不幸なくば幸福もない。
だから我我高齢独身男性には元来何も無い、此の身ひとつ以外にはもうまるで何も無いと云うことじゃ。



若い娘たちは、家事や事務的な仕事などは、内心どうでもいい片手間のこと、それどころかただの戯れと考えている。
彼女たちがただひとつ真剣な仕事とみなしているのは、恋愛や男心を制服すること、およびそれに関連すること、たとえば化粧やダンスといったことどもだ。
女がお腹のなかで考えていることはこうだ。
金をかせぐのは男の仕事、それをつかいはたすのは自分たちのつとめで、できれば夫の生きているあいだに使いきるがよく、少なくともその死後にはこれを浪費するのが自分たちの役目だ、と。
だいたい夫が自分でかせいだものを家計のために妻に手渡すこと自体が、彼女らのこの信念を強めているのである。」


…SEXこそが究極的な女の仕事でしょう。

だとすれば確かに女には他の仕事への興味が本質的に無い。

化粧やダンスは結局男心を攫む為にやって居る。
だからつひ熱心になる。


金を稼いで来いと女が男に対して言えるのが何故かこの世の習いとなって仕舞って居る。

でも男性は本来持続力がなくそんな毎月決まった額のカネを稼ぐことなんて全く向いて居ない。

特に近代以降男性はこきつかわれて来て居るのでおそらくそのうちに精子は減少するわ、性欲は減退するわ、女装趣味は増えるわでもう全くの役立たずになる。



「女は弱き者として、力に頼らないで術策にすがるように自然から定められている。
女が本能的に狡猾で、嘘をつく根深い性癖をもっているのは、これにもとづく。
自然はライオンに爪と歯を、象には長い牙を、イノシシには牙を、牛には角を、イカには水をにごす墨を与えたように、女には、自己防衛のために偽装術を賦与したのだ。
したがって、いつわることは女には生得のもので、眼から鼻へぬけるような女にも愚直きわまる女にも、これはほとんど同じくらいにそなわっているのである。
女がひとさまのお芝居などらくらく見破るのもそのためで、女を相手にしらを切ろうなどとたくらむのは、おすすめできることではない。」



…所謂お愛想を振りまいて周りに気に入られることが出来るのが女である。

狡猾かつ嘘つきの女共は自分を元以上に可愛く見せる為に化粧でもってウソをこき、尚且つ男の品定めには実に慎重で、慎重どころかまさに其の選定に於ける倒錯の度こそが甚だしい。


即ち金及び力に摺り寄る。

此の二種の力の無い限り決して上等な女は寄って来ない。

が、下等な女ならば寄って来るのやもしれぬ。

其の偽装術により女は其の欲深き或は腹黒い本性を隠蔽する。


しかしながら突然にハーイとか言いながら目の前で股を開こうとする。

まさに此の目の前で。




「女の姿態を一瞥すれば、すぐさま、わかることだが、女は精神的にも肉体的にも、大きな仕事をするのには、生まれつき、ふさわしくないのである。女は、人生の責任、いわば、負債を、行為によって償うのではなく、受苦によって、つまり、分娩の苦しみとか、子供の世話とか、夫に対する服従---夫に対して、妻は、常に、辛抱づよい快活な伴侶でなければならない---などによって、償うのである。極度に激しい苦悩とか歓喜とか力わざなどは、女性には向いていない。むしろ、その生活は、男性のそれよりも、静かで目立たず、平穏に過ごさなければならない。とはいえ、本質的に、より幸福とか、またより不幸だとか、いうわけではないのである。」


…確かに女には越えられぬ壁のやうなものがあり、たとへば其れが現在である。

現在と云うのは現実である。
現実だと認識されて居る感覚のことである。


観念ではない。

観念は未来へ過去へ行き来することが出来やう。

然し現実はたった今、此の瞬間だけしかない。

実は女は過去へも未来へも行けない。

今此処で股を開くこと位しか実は能がない。



が、確かに大股開きが大嫌ひな真面目な女も稀に居たりする。

されど真面目な女ほど股の開かせ甲斐があろうといふものよ。



おそらくは女の方がより幸せである。

次の生では是非女に生まれてみたい。



「わたしたちが、ごく幼い自分、わたしたちを育て、ものを教えこむのに、女が全く適役であるのは、女というものが、自らも、子供っぽく愚かしくて、そのうえ、身辺の物ごとだけを見ている、いわば、一生、大きな子供であり、要するに、子供と、真の人間である成年男子とのちょうど中間に位する段階に属するからである。まあ、一日じゅう、子供と一緒になって遊んだり踊ったり歌ったりしている少女の様子をよく観てごらんなさい。そして考えも見たまえ、一人前のれっきとした男が、その少女の代役をつとめることになったとしたら、どんな好意をもって努力してみたところで、果たして、何が出来ることかを。」



…「子供と、真の人間である成年男子とのちょうど中間に位する段階に属する」女は欲望の支配者である。

かのパーンドーラ―、欲望の支配者であり同時に災厄の支配者なのだ。

であるからして子供ー理性の階梯に於けるーであるにも関わらず立派な悪魔だ。


悪魔は聖書では忌み嫌われて居やう。


悪魔は釈迦もまた嫌って御座る。


女が悪魔であることを脱する為には今すぐに其の大股開きを止め袈裟を纏い或は十字を切った上で神仏にしかと仕えること以外に無い。




「音楽に対しても、詩作に対しても、さらに、造形美術に対しても、女たちは、事実上またほんとうに、感受性や理解を有ってない。もしも、そのようなもので女たちが感激したようなふりをするなら、それは、女たちが他人に迎合するための単なる模倣に過ぎないのだ。それで、ルソーも、すでに、言っている。「婦人は、一般に、いかなる芸術をも愛してはおらず、また、理解してもいないし、そのうえ、何らの天才も有っていない」と(『ダランベールへの書簡』第二十項)こんなことは、ものの概観にとらわれない人ならだれしも、すでに気がついているであろう。演奏会、オペラ、劇場などで、女たちの注意を払う向きと具合とを観察するだけでも、わかる。たとえば、偉大な傑作の最も立派な場面の最中にも、女たちはおしゃべりをやめようとはしない、その子供らしい、無邪気さを見たら、よくわかるだろう。 」



…まあ確かに持ってない。

女の藝術だとか何だとか、持ってますわよ、おほほほほ、とかそんなことを仰ったりも致しますが、そも底の浅い女の藝術に対する理解度など、本質的にはもうまるで無いに等しく、しかも藝術家の苦悩といふものがもうまるでまるで分かって居ない。


かのベートーヴェンショパンが、またゴッホゴーギャンが、もうほんたうに死んでも良い、事実死んだるわ、あれほんたうに死んじまっただ。

と云う位に悶え苦しみ抜き、つまりは煩悶にて彼等の現実が根こそぎ奪われた。




かように藝術に殉じてこそ真の藝術家といふものよ。


ところが女共はたとへばアールヌーヴォーの展覧会とか行くには行くのですが、其処ではむしろ藝術作品の鑑賞に出向くのではなく、たとへば自分がこんな高尚な趣味を解す意識の高い女であると云うことを周りに、其の同類の着飾りし女共にみせびらかす為にこそ其処に居る。


然し真の藝術家は其の展覧会へ出向く前に皆精神衰弱でもってして死んで仕舞ふ。

つまり自分の作品が世に出る前に心身症で死に至る。



そして女は確かにウルサい。

兎に角ウルサい。



わたくしなどはかねてより絵画の鑑賞、しかも仏蘭西象徴主義などと云うまことに洒落た、つまりは脱俗した趣味の持ち主なれど、そのやうな高尚な絵画ばかりではなく所謂俗なる絵画展へ出向かぬ訳でもなく、たとへばモネ、コレは日本人が大好きで此の度わたくしも是非出向こうかと思って居るのだけれど、まさにそんな絵画展でも、いざ行ってみるともはや女だらけで肝心のモネの絵が見えない。


兎に角女だらけで、もう汗まみれで香水まみれで、其の女の虚栄心と、其れから何やらピーチクパーチクとウルサいだけの其の女共の群れである。

女に於いては左様に藝術的感懐などどこ吹く風で、其処で興味のあるのは世間話であり御喋り自体であり家事から解放されたと云う軽ーい現実のみだ。




「女たちは、いわゆる「セクス・セクイオール」〔価値の劣る性、アプレイウス『メタモルフォーセス』第七巻第八章〕で、どの点から見ても、男性の後に立つ第二級の性である。それゆえ、女性に対して尊敬を払うのは、度はずれに滑稽なことであるし、そんなことをすると、女性自らが男性を見くだすようになってしまう。」


…確かに今其のやうになっちまってる。





「ヨーロッパにおける真の「淑女」は、全く存在すべからざるものであるが、主婦および主婦になることを望む少女は存在せねばならぬ。従って、少女は横柄にならぬよう、そして、家事と服従とに向くように教育されなければならない。」



…兎に角女を教育せよ。

教育なくば「淑女」もない。



「ところで法律が女性に対して承認する権利と名誉とが、女性の自然的な関係を、より多く超えて高められれば、高められるほど、実際に、この特典にあずかるようになる女性の数は、それだけますます減っていく。そして、この法律は、これら少数者にその度を超えて与えたのと同量の自然的な権利を、それ以外のすべての女性たちから奪いとるのだ。なぜなら、一夫一婦制の機構と、それに付随する婚姻法とかが、何ら斟酌するところなく、一般的に、女性と男性をを全く同等の価値あるものと認めてしまい、これにもとづいて、女性に付与された-反自然的な、しかも女だけに利益のある-地位は、聡明にして注意深い男性をして、かように大きな犠牲を払って、しかも、かように不平等な契約を結ぶことを、はなはだしばしば躊躇逡巡せしめるからである。それゆえ、一夫多妻制の諸民族にあっては、すべての婦人が扶養されているのに、一夫一婦制の民族においては、結婚している婦人の数は、ほんのわずかばかりに限られ、扶養者を有たぬ婦人が無数に、とり残されていて、その上流社会に属するものは無用の老女として座食しているが、下流社会にあるものは、不適当な重労働を課せられるか、さもなければ、売春婦となるのだ。これらの売春婦たちは、全く喜びもなく名誉もない生活を送っているとはいえ、このような状況のもとでは、男性を満足させるために必要として欠くことのできないものであるし、それゆえこそ、すでに夫をもっている、或いは夫を持つ希望を抱くことの許されている-幸福に恵まれた-女性を、男性の誘惑に対して保護するという特殊な目的を有つ、一つの公認された階級として、現れてきたのである。」



…はあー、一夫一婦制に対する批判も出て参りました。

あくまで個人的には一夫一婦制に大賛成なのですが。


そして「男性を満足させるために必要として欠くことのできないものである」のが売春婦なのだそうな。

あくまで其れは「すでに夫をもっている、或いは夫を持つ希望を抱くことの許されている-幸福に恵まれた-女性を、男性の誘惑に対して保護するという特殊な目的を有つ、一つの公認された階級」なのだそうな。


然し現代日本の学生売春婦に対してたとへば先生はどう考えられるのでしょうか。

ほんたうに是非ご意見を伺いたいところです。




(「ヨーロッパに、いわゆる「淑女」がいるからこそ、身分の低い女たち-すなわち女性の大多数を占めるもの-が、東洋におけるよりも、はるかに不幸な目にあっているのだ、バイロン卿ですら言っているではないか
(トーマス・ムーア編『書簡および日記』第二巻三九九ページ)。「古代ギリシア人の間における婦人たちの状態を考えてみると-全く当を得たものであった。騎士および封建時代の野蛮の遺風たる現今の状態は-人工的であり不自然でもある。女たちは家事に心を配らなければならない-そして、よい食物をとり、よい衣服をまとう必要はある-しかし、社交のうちにまじらわなくともよかろう。なお、宗教については、十分に教育されなければならない-けれども、詩や政治の書を読む必要はなく-ただ、信心のことや料理に関する本を読んでおればよいのだ。音楽をしたり、絵を描いたり、ダンスをしたり-時には、少しばかり庭いじりや畑仕事などをやるのも、よかろう。わたしは、エピルス〔ギリシアの西部、アルバニアとの国境にまたがる地方〕において、女たちが道路の修繕をやり立派な成功を収めているのを見たことがある。それゆえ、枯れ草を作ったり乳を搾ったりするのと同様に、このような仕事を女たちにやらせてはならぬという理由が、果たしてあるのであろうか?」と)




…いっそのこと仕事は全部女に任せ男性は種付け専門にして下さりませ。

遊んで暮らして居て良いと云う事に是非してみて下さい。


事実近代以降男性の精が吸い尽されまさに腎虚にでもなりさうな状態です。

これだけ吸い尽されるともはや立てませぬ。

文明を維持して来たのは無論のこと女の力が大きい訳ですが其処でこき使われて来て居るのはあくまで男性の方です。

ですので今こそ男性を解放してあげるべきです。

特に藝術は男がやりましょうから掃除洗濯飯炊きだけは是非お願ひ致します。




「一夫一婦制の布かれている、わたしたちのヨーロッパ地区において、「結婚する」ということは、男性が自己の権利を半減し、かつ、自己の義務を倍加するという意味になる。考えてみると、法律が女性に男性と同等の権利を与えたときに、当然、法律は、また、女性に対して、男性の有っているような理性をも与えなければならなかったのであろう。」



…一夫一婦制には限らず西欧世界では女の方も是非理性化していく必要がいつの間にか生じていったのでありましょう。

近代的な理性による秩序規定の世界ではおそらく其れは必然のことだったでしょう。


ですが最近の研究からは一夫一婦制が太古の昔から存在していたことが明らかにされて居る。

尚女性に於ける理性的規定はまず掃除洗濯飯炊きを確りとやってからのことだらうとさう強く思います。

掃除洗濯飯炊きが確りとやれる女性こそが謂わば聖母様であり菩薩様です。

掃除洗濯飯炊きが確りと行われて居る家庭では男性に「立つ」力が漲って来やう。



ところが掃除洗濯飯炊きが確りと行われて居ない家庭では決まって男性がヘナヘナと崩れ落ちていくのです。

ですので理論でもない、そして感性でもない、ただひとへに掃除洗濯飯炊き、コレだけなのです。


コレだけを是非やって下さい。

さすればたまの大股開きも許さぬ訳ではない。




「小説によって、彼らの心のうちには、まるっきり間違った人生観が引っぱりこまれ、また、けっして実現され得ないもろもろの期望が起こってくる。このようなことは、おおかた、全生涯を通じて、有害な影響を及ぼすのである。」



…ちなみにわたくしの母ちゃんなどは元女学校の文藝部出身でまさにとんでもなく有害な女です。

かように夢見る女は決まって掃除洗濯飯炊きを確りと行うことが出来ない。


尚是は夢見る男が生きる夢みがちな人生よりもよりタチの悪いことだらう性質です。




ショーペンハウアー先生の母ちゃんはとんでもなく家事の出来ない女で、其れでもって好んでサロンを開いて其処で当時の藝術家連中と遊んでばかり居たやうです。

其れでもって先生はつひ女嫌ひになって仕舞われた。

ただし若い頃はむしろ女好きで女の尻を良く追っかけられて居たやうだ。