私にとりこれまでどうにもこうにも分からなかったのが、認識論に於ける「現在」の捉え方の問題だったのだが其れがようやく分かった。
現在と云うのは時間に含まれる概念のことだが実は其れが二種類ある。
性質が異なる現在が存在して居ると云うことだ。
一言で言うと「現在化されない現在」と「現在化された現在」とでまるで性質が異なっているのである。
「現在化されない現在」と云うのは分解された時間そのものとしての現在と云う事である。
時間と云うのは分解つまり限定である。
限定されるからこそ時間が生ずるのであり限定されないものには時間が流れようがない。
ですのでそんな風にバラバラに時間が組み上がるが現在と非現在と云う二元的対立を生じせしめるのは其の分解乃至は限定された時間の方である。
然し実はもうひとつの現在がある。
其れは意識の上での時間のことである。
つまりは意識的な時間の流れのことである。
そしてそちらの方が「現在化された現在」のことである。
「現在化された現在」は意識の流れの内なる時間であり「現在化されない現在」は自然的客観的な時間である。
謂わば自分で持った時の流れと与えられる時間が異なると云う部分にこそ鍵がある。
だから其れが兎に角分からなかったのである。
どうにもこうにも解明出来なかった。
でも四、五日前だったか突如閃いて分かって仕舞った。
其の客観的な時間は分離ー分解ーされて居るので受け取るものでしかなく一方の主観的な時間に於いてはあくまで自分の内部で流れていく時間のことだ。
ほれ、人生の上では屡変なことが起こるでしょう。
ほんの一瞬が物凄く長いものに感じられたり、逆に二、三時間が五分位に短く感じられたりも致します。
まさに場合によってはそうしたことが起こり得る。
そういうのは多分、此の時間の構造の違いによって引き起こされて居るものだ。
其の外側の時間と内側の時間とはおそらく流れ方が異なり然し相互に入り組んだりもして居るから話がややこしくなって仕舞うのだ。
そして重要なことは此の二つの時間のあり方がそれぞれに異なると云う事なのである。
「現在化されない現在」=自然な時間の流れ=外側から与えられる時間
「現在化された現在」=意識的な時間の流れ=内なる時間
と云う事になろうかと思う。
其れで前者は二元的対立のさ中にある時間なのでまさに矛盾化することにより流れて居り後者は等質かつ座標軸を持った時間で大元では矛盾化することはなくかつ現在の為の現在を形作る時間である。
其れは観念的な時間なので座標軸を持ちさらに矛盾化することにより流れて居る訳ではないが最終的には観念と物質の二元性に捉えられ矛盾化する。
此の観念的時間の流れこそが文明の流れそのものであり人間の「今」を規定するものである。
即ち人間の今とは「現在化された現在」を生きる今なのであり決して過去と未来が連なる「現在化されない現在」を生きる今なのではない。
なので今を生きる我と言う時の其の今とはあくまで文明の今なのであり自然の今なのではなくましてや神から与えられた今ではなくさらに仏が出現する時の其の今ではないのである。
だから我我の今と云うのは其の思い込みの今、即ち理性が自己矛盾化するに足る魔の領域の今なのであり其処に過去がなくしかも未来なき今なのである。
其処でもし時間を大切に今を生きようとか言われても普通は意識化された時間即ち内なる時間つまりは現在化の為の現在を生きることしか出来ず動植物が感知するところでの無垢なる時間、謂わば観念的には加工されない時間を生きることなど出来ない相談だ。
そういうのがどうも人間としての癖であり病=業の部分でもある。
加工しないものを生きられない我我は時間さえをもこうして加工し今を生きていきつつある。
人は良くかけがえのない今を精一杯生きようとか何とか何やら臭いことを云っているのだけれど何のことはない。
実はそうした観念としての地獄の今を、観念としての悪夢の今を今まさに生きつつあるのが人間なのかもしれませんですねえ。
其れで、現在としての今を生きる場合にどうしたら良いのかと云う事を考えてみるとどう考えても「現在化された現在」を生きることよりは「現在化されない現在」を生きた方がより自然な気が致しますがそうかといって人間はまともな自然ではもうありませんのでそんなものを生きられる筈もなく欲にまみれ魔と番いし今を生きていく他能が御座いません。
脳がデカい人間の癖に実は其の位しか能が無いので御座います。
で、禅宗と云うのは、今を生きよとか何とか頻りに申しますが其れは「現在化された現在」を捨て去り「現在化されない現在」を生きよとそう宣うて居るのではないでしょうか。
つまりありのままの現在を、其の無垢なる時間の現在を生きよと或は仰せなのやもしれない。
無垢と言ったってそんな無垢な時間は此の現代文明にある筈もないのでしょうが其れでも兎に角座禅を組んで其の無垢なる時間に気付け。
其れがほんたうの時間でありほんたうの今だ。
君は文明に毒されて其の大切な無垢なる時を見失ってはいけない。
其れは蓮の花の上に流れて居る時間である。
或いは岩を或は雲を貫く時間である。
其の清い流れ、瞬時の連なりを君よ見失いたもうこと勿れ。
それにあれ、そうか、そうだったのか。
私はいつも何でこんなに現代人は忙しいのだろうとそればかり考え続けて参りましたが其れもまるで分かりませんでした。
ですがたった今分かりました。
其れは観念時間を生きて居るからなんです。
我我は「現在化された現在」即ち現在の為の現在を生きつまりは意識の流れそのものを時間化して仕舞って居る。
だから我我が生きて居るのは今まさに意識としての自分だけだ。
自分の中の時間だけを好きなように生きて居るのである。
然しそんなことが許されよう筈もない。
いやー其処からしても怖い。
兎に角恐い。
ひょっとすると我我はもう自分だけしか生きて居ないのかもしれませんですねえ。
こんな屁理屈だけじゃなくほんたうにそうなのかもしれませんですねえ。
それでは皆様どうか時間を大切に。
そして今を生きよう。
ただし過去と未来を含む今を個人的にはずっと生きていたい。