力とは現実的な支配力のことである。
要するに絵空事ではない力のことである。
謂わば詩の力ではなく、まさに拝金力であり女たらしでありパワーゲームのことだ。
なお女たらしは力がないと出来ないのでそうしたことになる。
かの宮澤 賢治がかってまるで役に立たないやうなドングリこそが一番偉いと述べて居た筈だがそういうのはまさにタダの理想論でほんたうの世界の秩序は弱肉強食である。
ですが其の弱肉強食を続けていくとやがては全部が矛盾化し破壊されていくことになっておる。
だから感情論なのではなく事実としての理性的な導きとしてパワーゲームは要らないのである。
パワーゲームと云うのはあくまで本能的に展開されるだろう現実力のことだ。
此の現実力に群がる奴等程性根が腐って居り逆に聖人は現実力を否定するので自然と未来が先細りとなり此の世からは消えていく。
消えていくのはマズいだろうと考えるのは実は本能であり、しつこい程の理性即ちほんたうの理性に限り此の消滅こそを望む。
消滅即ちキリストの死んで生きた生そのものであり仏陀の成道即ち究極の世捨てがまた其れそのものである。
なので女はキリストにはなれずかつ仏陀にもなれない。
然し実はキリストの母にはなれしかも仏陀の母にさえなれる。
うーむ、これはまさに凄いことだ。
キリストや仏陀は決して父ちゃんが産むものではないのである。
其処からしても女こそが永遠の謎である。
だから女は恐い。
恐過ぎる。
第一女、おまへはいつも一体何を考えて生きて居るのだ。
まず絶対無いのが、此の世から隠遁したいとか消え去りたいとかさういふことだ。
逆に利口な子、強い子を産みたいとか金持ちの男をつかまえたいとか、或いは海外旅行を全部制覇した揚句に宇宙旅行をしたいとかそうは考えて居らぬか。
或いは是非ブランドの人間になりたいとさう考えて居るのではないか。
また家の継続、墓の継続即ち子孫の繁栄を何より考えて居るのではないか。
然し詩人になり全てを捨て去りたいとか宗教をやり真理の為に生きたいとか大義の為に現世に於いては身をやつし兎に角いつ死んでも良い、戦闘乃至は理念の為に粉々に砕け散る所存です。
といふことはまさか考えて居らぬのではないか。
いや、でも女流詩人も居れば宗教にハマるのはむしろ女の方がそうなり易いと相場は決まって居る。
ですが兎に角女は動物的である。
それも極めてそうである。
其の動物から生まれざるを得ないのが人間であり、従って人間とは例外なく多分に動物的である。
動物即ち視覚嗅覚感覚力の集合体である。
ですので其れはあくまで理性的展開ではない。
むしろ極端化した力の論理のことだ。
力の論理とは生への盲目的な意志より生ずる。
なので其処では、一億ある人間の方が一円しかない人間よりずっと力がある。
またオリムピックで金メタルを取った人の方が銅メタルの人よりももっと偉く力がある。
さらに不細工な女よりは別嬪女の方が遥かに偉い。
さらに言えば三流大出よりも東大出の方が遥かに偉い。
また超一流企業のトヨタ自動車は兎に角偉い。
何せ儲け方が他の会社とは違うから。
尤も左翼思想的に問題があるのではなく、あくまで真理領域=大自然の摂理に対して問題がある。
大自然の摂理を頭に置くと実はあらゆる人間ー文明ーの価値が相対化され余り意味をなさなくなる。
だから老子はどう考えても変な価値観だ。
曰く自らの範囲に籠りよそを見るな、機械を使うな、即ち小国寡民で居ればよろしい。
こういうのは多分女には一番理解され難い。
即ち老子の思想こそが一番女にモテない思想である。
ところが近代の思想は女に受けが良い。
何故ならまずは贅沢を目指すことが出来よう。
次に海外旅行が出来る。
さらにイケメンが沢山出て来る。
だがイケメンは止めておきなさい。
老耽のやうに思慮深いそして女にモテない思想こそがおそらくはほんたうの思想である。
でも普通の人にとってはイケメンや美女の方が良い。
だから其れが其れこそが決して触れてはならぬ価値観だった!
ところが少しだけ考えてみれば分かるのですが老子の低エネルギー思想はどう考えても力の論理の世界ではない。
西洋流の近代化は逆に力の論理そのものの思想なので皆が幸せになるのではなくして勝った人だけがしこたま良い思いをする選別の構図である。
つまりは金のメタル万歳、金力万歳国力万歳性的持続力万歳肉食万歳パワー全開万歳。
通知表のオール5万歳芸能人ー有名人ー万歳自然を組み伏せる力万歳権力万歳思考力万歳。
まあ兎に角下品である。
または野蛮である。
かの西郷 隆盛などは西洋文明は野蛮だと喝破して居りましたが其処は流石でしたね。
野蛮でもって本能剥き出し、つまるところ一体何処が文明国なんじゃろうかと思う程に近代文明は粗野そのものです。
ですがお上品な東洋の思想はあえて欲望の全開を致しません。
全開股開きなどと云う下品なことは決してせず兎に角低エネルギーです、低エネルギー。
ところが、だ。
其の低エネルギー思想でもって社会を構築していくと例の価値ヒエラルキーの構築が抑えられるのだった。
それは当たり前のことである。
何せ欲望が爆発して居ない。
欲望がない訳ではないが其れが少ない。
つまりは求め過ぎない。
元より求め過ぎるとロクなことはない。
だから海外旅行など求めてはならない。
飛行機に乗って空を飛んではならない。
そればかりか18時にはもう家に帰って居なければならぬ。
いや18時にはもう飯を食って居なければならぬ。
きっかり19時に風呂へ入れ。
くれぐれも下らないTV番組など視て居てはいけない。
20時丁度からは「目覚めよ!」を視て諸のお勉強をする。
ー股の締まりがどうのこうのと云う部分が特に為になる部分だー
そして22時か23時にはもう寝る。
これが正しい生活でありかつ正しい思想の内容である。
「目覚めよ!」を具に読んでみたところ文明の奉ずる価値ヒエラルキーがブチ壊されて仕舞った!
そうかそれはどうもお目出度う。
「目覚めよ!」でブチ壊れた君の価値ヒエラルキーの穴に何かが入り込むそれもすぐに。
其れこそが聖なる思想である。
即ち老子での価値観が変なのではなく欧米近代でのイケイケでのべつまくなしの価値観こそがおかしいのである。
近代文明は野獣の価値観で歩むものでありつまりは理性の自己矛盾領域そのもののことです。
近代的にスマートで格好良いのではなく、まさに獣じみて居て恰好悪いものです。
第一平等ではなくましてや自由などではないものです。
逆に不平等で不自由な社会だからこそ生じたスローガンとしての自由であり平等です。
ゆえに非近代型の社会秩序の方にこそ真の自由や平等が存しておりましょう。
自由の為の自由ではない自由または平等の為の平等ではない平等が存しておりましょう。
確かに電気が通り夜明るくはなったが暗さの持つ神秘は損なわれた。
なので電気はウソである。
理性=科学は矢張りウソである。
いやはやこれだけウソだらけだともう民主主義も国家も何も信じられぬ。
第一PCこそがウソだ。
かうしてPCにばかりへばりついて居る我我こそが其のウソ人間なのだ。
嗚呼、其の魔暗闇の渦が否真っ暗闇の渦が僕らの夢を乗せ宇宙の彼方まで飛んでいくよ。
真の知性とは闇の力を知るもの、あえて其れを受け持つもののことを云う。
闇とは明るさの反対のもの。
価値にも動と静、多弁と寡黙の違いがあり野獣と知性の違いさえもがある。
まさに闇を見据えた思考であり限定をあえて引き受けた思想である。