命を大切にしましょう、命は大事だ、と戦後文明国の教育ではそう教え込むことになって居ります。
然し、其れは本当に命の意味なり意義なりを踏まえた上で教師がそう教え込んで居る訳ではない。
謂わばしきたりの上でそうなって居るのでそうして居るだけのことです。
其処であえて逆のことを云えば命を持たざるを得ないやうな境涯に縛り付けて仕舞う心である限り其れは悪であり悪魔そのものなので命ほど悪いものは此の世には無いとも申せましょう。
なので命とは実は大事でもなければ大切な何ものかなのでもない。
命とは悪夢であり悪魔そのもののことだ、其の悪魔の所業の記載そのものが人間の歴史であり人生である。
と云うのがほんたうは真理です。
と云う事の方が本音です。
かっての文學者や画家や音楽家が早逝して仕舞ったのも其の純粋な気持ちを生きる場こそが藝術の世界だったからなのでしょう。
つまるところ藝術家の精神性即ち生へのテンションは常に高いものがあるゆえ彼等は俗人とは違う心を生きて居ります。
然し俗人はあくまで生を良きもの、望むべきもの、価値のある、何か崇高なものかけがえのないものと云う認識に寄りかかり其処に価値ヒエラルキーを構築して仕舞って居る。
都市化即ち抽象的概念としての人間の生はより強固に其の価値ヒエラルキーに縛り付けられて仕舞う。
然し其の価値観の構築が誤りである可能性は高い。
と云いますか生きることの為につくり上げるあらゆる価値の構築が実は誤りです。
価値の構築は欲望の階梯をつくり上げ其の最上段に生そのものを祀り上げて仕舞う。
ですので正しくはあらゆる価値の構築を放棄するか其の価値とは充分に距離を置いて眺める居るかのどちらかしかない。
それにくれぐれも命が大事ななどと教えてはいけない。
ほんたうのほんたうは、命は罪深く信用ならないものである。
と教え込まねば逆にー真にー命が良いものになっていこう筈もない。
命を燃やしスポーツで一番になったり東大へ入ったり女にモテモテで子供が十人も居る、だとかそうしたことはむしろ全て悪いことである。
だから何が良いか悪いか、何が価値で何が無価値かと云う事が多くの人にはまるで分かって居ない。
むしろ逆の価値に捉えられて人間は生きて来たのだしこれからも生きていくのである。
信奉するものが其の逆の価値だからこそ生きていくに従い全てが悪くなっていくのである。
第一リベラルバカのやうに近代的な価値観の浸透こそが世界を救うなどと考えて居ると逆に世界は滅ぶのである。
即ち自由と平等、そして人権の確立こそが人類を破滅に至らしめる元凶としての近代の思想である。
だから何度も言って居るやうに人間は自由でもなく平等でもなくただただ欲が深く根が卑しいまるで性悪な生きものである。
だからこそ教育が必要でありつまりは鞭で打ったり足蹴にしたりして体で覚え込むやうに躾を行わなければならぬ。
元々子供には人権もクソも無く人間では無いものを人間とする為に徹底して教育を行うしかない。
そしてふしだらな生活にドップリ浸りし現代人に一番必要なものが実はこの種の教育である。
まあ戦前の軍隊式の問答無用の教育が一番よろしかろう。
戦後の日本人はインテリ主導の左翼人権思想によりユルユルにされて居り兎に角頭の中身から股の間に至るまでもうまるで締まりが無い。
締まりの良さが是非必要かと思われるのでまずは西洋式の便器を全廃し和式便所へと全面的に改装ー実はわたくしは洋式便器が大嫌ひだ。ー、次にほしがりません、ほろばぬためにと云う標語ポスターを全国の学校及び病院並びに公官庁に貼り付けるべし。
またバタ臭い食事や副食を摂る悪癖を改め朝は味噌汁に御飯に梅干しを載せた日の丸御飯を食し昼はうな丼、かつ丼など欧米との戦闘に対して力の付くものを食し夜は大根の煮付け、丸干し、漬物など野菜中心に軽く摂りくれぐれも健全なる和の食生活を、乱れなき真面目な食生活を目指さずしてどうする。
また韓国や中国は血を分けた兄弟の國、親戚の国だと認識せねばならず、従って進んで韓国人や中国人を妻に娶り或は東南アジアの女やフィリピン人を妻に迎え是非亜細亜主義の家庭を、亜細亜純潔主義での血の契りを結ばなければならぬ。
そして女、コレをくれぐれも甘やかすことのないやうしかと気を張り常に見張り続けていなければならない。
特に掃除洗濯の不備は徹底して指摘し全てに締まりの良い女を、即ち旦那様の帰りを午前一時過ぎまで待って居るやうなやまとなでしこ=星 明子を日本中に生息させて居らずしてどうする。
命が大事です、は実は少しも命を大事になどして居らぬ。
命の大事さが真に分かるのはまさに死に面した時、敵兵にやられ死ぬる時、或いは死にたくないのに病で或は事故で死ななければならない時である。
性は自由です、は実は少しも性を大事になどして居らぬ。
性の不自由さに気付く時、性の矛盾に苛まれ修羅場をくぐった時まさに其の時に貞淑さの大事さ、性の意味や尊さに気付かされる。
人間は平等です、は実は不可能なことで其れこそがまさに机上の空論である。
人間の不平等さをしかと受け持つことこそが限定としての人間の生をしかと生きていくことである。
不平等だからこそ成り立つことが多くあり、たとへば女が我慢するからこそ男が立つ。
女は悪魔だと考えるからこそ実は女が立つ。
女は天使だ、レデーファーストだともし誤ってそう考えたとすると世界は破壊されやう。
命はいけないものだと考えるからこそ逆に命の大事さ、其の意味が見えて来やう。
即ち欲望の反対、欲望の反構築主義の流れからこそ目指すべき真の立場が見えて来やう。
何度も言うが何が良いか悪いか、何が価値で何が無価値かと云う事が多くの人にはまるで分かって居ない。
ところが逆にボクはワタシは分かって居るとさう思ひ込んで居る始末だ。
だから其の思い込みが一番悪い癖である。
現代人の悪い癖だ。
ボクは大學を出て利口だし社会に役立つ仕事をもう何十年もして来て居る。
さう言いながら君にはまるで道理が分かって居ない、真理が。
このままでは日本国が沈没すること、まさにあの日本沈没、いやそればかりか一番危ないのは矢張り日本の女の股の方の締まりが緩過ぎることである。
これはもう理性だの論理だのと云う事の遥か以前での日本人に対し突き付けられた破壊=悪魔の所業そのものである。
特に都会の女、こいつらはもうまるで信用がならない。
或いは君のところでは大丈夫だろうか?
兎に角女には気を付けて頂きたい。
須らく女は動物だと思って接して置いた方が宜しい。
従って首輪か貞操帯を用意しておく位のことは必ずしておくべきである。
現代人はたとえインテリでもリベラルバカだから限定の解除の思想に寄り添い生きていくのである。
が、其の限定の解除の思想こそが人類を滅亡へと誘う思想であることを知らない。
限定の解除即ち観念化つまるところは抽象化が其の限定の解除に親和性がある。
抽象化、そして普遍化する社会が非合理的合理領域を排除し結果的に反自然としての謀反を行う。
近代とは即ち其の謀反を行いつつある張本人である。
自分は正しいと常にインテリバカはさう思うのであるが、実は世の中は常に甘いものではなく、インテリバカが貰う高収入のカネが実は地球の破壊に直結しているだろうことを知らない。
さうしてかのトヨタ自動車も言うまでもなく儲け過ぎである。
あと三十年余りで地球が滅ぶと云うのにそんなに金を貯め込んで一体どうすると云うのか。
ひょっとしたらトヨタ自動車の役員と社員全部が宇宙へ逃げ出すつもりなのではないかいな。
抽象化するとは理性の内部を生きると云う事だが其の理性とはあくまで近代以降の名ばかりの理性のことだ。
名ばかりの理性は兎に角其のやうな人工空間を好む。
兎に角予定された、論理的に推し測ることの可能な空間を構築する。
構築すると云う事は、疑似的創造である。
よってすでに現代人としての人類は神の座をも占めるに至った。
其の理性の範囲の中でならばもはや神に等しい存在なのだ。
が、其の範囲を外れると人間は動植物以上に無力なものと成り下がる。
自然による外在的圧力に対してはまるで赤子の如くに右往左往するばかりだ。
そしてつまりはコレが昔から良く云われていたところでの、自然を敬いませう、女は確りと家を守りましょう、男は立つ時には立ち家庭や国を守りましょう、といった知恵のことである。
此の知恵が近代的理性には含まれて居らず、其れでもって近代以降のインテリバカは自然よりは都市化の方が偉いと思い込み、資本家は儲けることが労働者の命より尊いことだと思い込み、尚且つ現代の女は兎に角股の方の締まりが緩く夫を敬うことをしない。
そうではなく、自然こそがまず偉く、資本主義は地球を滅ぼすに足る根本的にダメな主義で、また股の方の締まりがない女は皆悪魔に等しく、さらにいざと云う時に立てない男は男では無い。
そして人間は動植物よりもバカであり常識に欠けて居る。
其の常識とは会社での保身の仕方とか儲け方とか家を建てたとか結婚した子供が生まれた子供を學士様にしたとかさうしたことではなく外側の理性即ち外在的理性に対する共感力であり理解力のことである。
其の小難しいところの分からない人間は皆頭が悪いので自分を頭がいいなどとは決して思わず自ら座敷牢へ幽閉され即ち蟄居謹慎の身に甘んじつつ以降を生きよ。
外在的理性即ち大自然の摂理は其の都市空間以外には普遍化される形で存在して居るものだ。
然しバカな人間には其れが見えない、兎に角感度が悪いので其れには気付かない。
でも見えぬものでもあるんだよ。
むしろ見えぬものの方が真に存在しているのである。
だから其処を間違えてはいけない。
見えないものこそが在り、見えるものの方こそが無い。
そして欲しいものを得ることはむしろ放棄である。
利益を、酒を、女を欲しいだけ得る事こそが精神の放棄なのだ。
内在的理性の顕在化は人間をして自己の内部に閉じ込めて仕舞う。
内在的理性の履行とは其れ即ち欲望としての悪魔との契約のことだ。
なので我我の今は善ではなく神でもなく仏なのでもない。
我我の今とはいままさに淫蕩な女の生へのー性へのー執着そのものであり酒と薬に溺れることであり博打を好み道徳律と倫理観を自ら放棄する地獄界の絵物語そのものだ。
ワタシー人間としてのーはこんなに性悪ですのでもう宗教でさえ救われません。
一体どうしたら治るのでしょうか、此の見栄っ張りで、女好きで、カネが欲しく、しかも毎日のやうにうな丼が食いたい。
掃除洗濯が神仏が大嫌ひで頭を使い小難しいことなど考えたくもない。
ただただ本能に忠実に生き子孫を残したいだけなのに其れの一体何処が悪いのだろう。
だからまさに其れが悪いと言うておる。
仏教でもキリスト教でもそんなのはまるで認められない。
キリスト教では神に跪くことなくば此の世は闇じゃ、悪魔に支配されし真っ暗闇じゃとの仰せである。
仏教でも物欲性欲金銭欲怠け欲を厳しく戒められて居る。
だから君の其の当たり前の、謂わば善なる生への意志こそが実は魔道である。
魔道を脱するのは容易なことではない。
別の言葉で言えば、内在的理性の履行は生命としての人間の限定を解除する働きであり其れがまさに自らが利口だと思い込み思い上がった人間の唯一成し得る矛盾的現在のことである。
矛盾的現在即ち今、此の今だけを追い求め我我文明人は生きて居る。
然し本来の現在とは今だけなのではない。
時間とは分解であり、同時に限定のことだ。
其の限定に対し永遠化を即ち永遠の謀反を企てたのが内在的理性の履行である。
内在的理性は自然を客体化し尚かつ其れを自らの内側へ招き入れた。
すると其処には変質した自然が即ち疑似的仮想的でしかない自然が内部として拡がるばかりだ。
謂わば都市化により人間は自然と袂を分かつこと、縁を切ることを自ら仕出かしたのだ。
また其れに止まらず時間に対しても反逆を企てた。
時間とは現在に対して過去と未来が連なる分解度のことである。
即ち時間とは分解であり同時に限定なのである。
然し都市化された文明に過去と未来は欠落して居る。
文明の今と明日は同じものー等質性の範囲ーである。
学校での今日と明日も、また会社での今日と明日も、家庭での今日と明日も、人間にとっての自然の今日と明日も全部同じものであるに過ぎない。
謂わば全部同じものである都市空間を我我は今生きて居る。
そして限定されて居ない今をそれのみを実は生きて居る。
其の空間に過去は無いので過去から学ぶことなど出来ない。
内在的理性つまりは科学は過去からは学ぶことなく今である未来ばかりを築き上げようとして居るが其れは誤りだ。
何故なら其れは未来ではないのだから。
其れは現在としての夢でしかないのだ。
夢?
嗚呼、まさに此のインテリバカが好みそうな言葉こそが近代の思想の誤りを端的に表していやう。
ボクの夢、ワタシの夢。
小学生の頃良く作文を書かされたりも致しましたがどうも此の夢と云う概念そのものにも問題があるのではなかろうか。
夢など見るな、今を見よ。自らの仕出かした此の今のていたらくを見よ。
「そんな未来に夢を抱くことほど悪いことはありません。命は何か悪いもので悪魔そのもの働きのことです。文明の考えは全て間違っていてボクの考えとは正反対のことばかりです。だからボクに夢などはありません。おまけに女も嫌いです。でもこうして作文が出来るので学校や先生は嫌いではありません。」
とこのやうにでも書いてやれば良かった。
ーさて夢とは何だろう?もしやマッドサイエンティストの夢だとすれば地球の破壊こそが其の夢だ。要するに悪夢そのもののことだ。ー