「存在」だの「苦悩」だの、そんな重い言葉を普通現代人は嫌うからこんな本は多分誰にも見向きもされぬことだろう。
でも私に限ればむしろそうしたものしか興味がない、まさにほんたうにほんたうのところは其処にしか心が行って居ない。
確かに私は前回、私にとって凡なる日常こそが光り輝いて居るとか何とか述べた。
然し其れはあくまで其の凡なる日常そのものが光り輝いて居る訳ではない。
そうではなく私のやうな変人にとってはむしろ其れが眩しく見えると云う意味での話のことだ。
普通人は逆に凡ではないもの、常ならぬものこそを求め生きていくのではなかろうか。
そう珍しいもの、高価なもの、優れたものをこそ求め生きて行くのである。
或いは女なども、不細工な女よりは綺麗な女、しかも股の方の締まりの良い女、兎に角コレが一番である。
まあ確かにわたくしも不細工な女は嫌である。
我は元々完璧主義なので最高級の女をつひ求めて仕舞ふ。
しかしながらまさに縁とは異なるもので何がどう己と結びつくかと云う事は人生に於いてまるで分からぬ。
人との縁に於いてそして人以外の縁に於いて何がどう結びつくかはとんと見当もつかぬこと。
尚わたくしが持ち合わせて居る其の非日常を常に生きると云う自覚は藝術の世界ではむしろ当たり前のことになる。
そうした意味では己は確かにそうした類の人間である。
でもさうして凡ではないもの、常ならぬものを常に生き続けて来たわたくしは幸せだったかと云えば必ずしもそうではない。
私は多くの詩を読み、また少しは詩を書いても来たがそういうのはどうもエネルギーが低いと云うかたとへば生と死と云う事に分けるとむしろ死の方に近い、即ち其れは死の予行演習であるに過ぎない。
尤も死の予行演習ばかりではくさくさするのでコレクターもやって来しがコレクションなどと云うこと自体が矢張りどちらかと云えばエネルギーが低いことのやうに思えてならない。
本を読むことやお勉強を重ねることなども同様にエネルギーが低いことのやうに思えてならない。
が、女と遊び回ることや大酒を飲みギャンブルに浸ることがエネルギーの高いことだとはどうにもそうは思えない。
またエリート社員となり国家と体制の為に一肌脱ぐことが物凄いエネルギーかと云えば確かに其れはそうだろうけれどもこと実存のレヴェルに於いては其の限りではない。
だから俗物、俗物であること、実は此のことこそが最もエネルギーは高い。
俗物は兎に角良いものを求め、ひたすらにただひたすらに前向きに生きていこうとする。
だから彼等は強い。
そんなアホなればこそ強く、その様やまさに真理などどこ吹く風で、地震で家が倒れれば掘っ建て小屋をすぐに建て直すわ、女にフラれればまたすぐに他の女に飛びつくわでまさに逞しいかぎりだ。
今わたくしは其の逞しさこそが欲しい。
逞しい即ち煩悩が強いと云うことか。
そして少々のことには動じぬ大雑把さを生きることだ。
対して兎に角繊細なわたくしは常に硝子製の詩人なので其の辺の連中とはまるで違いまさに中原 中也であり宮澤 賢治である。
此の非エネルギー体としてのわたくしながら意外と下品で食欲性欲物質欲が普通にありあるにも関わらず何故か弱いと云うまるで訳の分からない人間でもある。
尚珍しいもの、高価なもの、優れたものに関してはわたくしはむしろ人並み以上に其れ等を求めて来て仕舞った。
本と文房具に関してはまさに其れをやって来たのだと言える。
特に文房具の世界で其の傾向は爆発して居たのである。
が、何のことはない、其れもひとつの気の迷いなのであり死の予行演習であるに過ぎぬものだ。
死は遠いところから来るもののようでいて日々の様々な部分に潜んで居る。
其れは遠方のものではない、生きるところ至るところに潜み我と我が身を見張って居るものだ。
否応なく常に我我を見張り続けて居る。
凡ならぬもの、常ならぬものを求め続ける気持ちは文明のあり方そのものでもまたある。
即ち人間の気持ちと文明の気持ちが今まさに同じところにある。
凡ではいけなく常ではいけないのでAIやアンドロイドやお掃除ロボットが是非必要となる。
だが凡でそのままよろしく常の様でよろしいのであればそうしたものは全て不要物である。
謂わば凡で沢山、常で沢山だと文明も少しはそう考えてみる必要がありそうだ。
尚凡でないこと、常でないことは一言で言うと辛いことである。
事実詩人なんて皆辛くて辛くて仕方がないものなのであるし、事実わたくし自身が此の非日常の毎日を脱し平凡な日常のさ中にこそ埋没したいのである。
逆にそれこそが夢なのだ。
ささやかなるボクの夢だ。
非日常のさ中に深くめり込んでいくと諸の規定からは解放されようが謂わば独りで宇宙に放り出されて仕舞うのである。
であるから逆に規定こそが安心なのであり安全なのであり其れが其れこそが地球の地面に足が付いて居ると云う事。
謂わば地に足のついた生を営むと云う事なのだ。
まさにさうした意味での凡俗を我は今指向してやまない。
其の凡俗をナメてはいけないのだしかつ決して忘れ去るべきではない。
文明が進み科学の力に寄りかかる比重が大きくなればなる程何故か此の地に足のついた生を営むことが難しくなる。
其処ではより大きな形であらゆるものが変化し、其の日常のさ中の死の断片を感じ取る余裕さえ与えられぬままに全ては流されていく。
そして実は其の価値観とは凡ではないもの、常ならぬものを求めることそのものではないか。
其の例
寿命が凡→平均寿命を決して凡ではない百歳まで延ばす
体力が凡→人間をロボット化ーアンドロイド化ーし時速50キロメートルで走れ深海まで潜れるまさに凡ではない体ースーパーマンーにしてしまう。
頭が常→AIでもってスーパーアブノーマルな常ならぬ知性を実現する
性が凡→淫行や不倫が蔓延するアブノーマルかつ凡でないーみだらなー性秩序を構築する
女が凡→女を凡なる家庭生活から解放し凡でない女を即ち男を打ちのめすに足る立派なメス豚共を飼育する
金欠が常→消費税を上げ金欠人間から死に至るまで金をむしりとり常ならぬ金持ちの為の楽園を構築する
病気が常→病気を根絶し病気では死ぬことがないまさに常ならぬ異常な人間を誕生させる
死が常→死に反抗し死んでも人間がバーチャルに生きられるやうな常ならぬ異常な世界を構築する
左様に文明の価値観こそは間違ひである、
哀しいかな大きな誤りであらう此の文明の価値観。
其れで、これ等のほとんどが現在進行中のことなのでおそらくは今後二、三十年で凡ではなくしかも常ならぬ世界が訪れることでしょうがそうかと云って其の実現が人間の幸福に寄与しないだろうことはもはや明らかです。
逆にこれ等の凡と常を嫌う価値観こそが人間自身を追い詰め今此処にある幸せを見失わせる元凶なのではないかいな。
大昔から連綿と続く今此処にある幸せを。
ー幸せはむしろ昔からあった。場合によっては今のほうが不幸せな部分さえもがあるー
人間の幸福とは逆に凡であり常であることにこそ存して居る。
何故なら凡ではないもの、常ならぬものを常に生き続けて来たわたくしはこれまで決して幸せではなかったのだから。