「ヌナカワヒメはヒスイの出る地一帯を支配する祭祀女王だったようですね。
其れも神話の世界の話ですので、元々大きく象徴的な意味あいが含まれていることでしょう。
勿論あのヤマタノオロチ退治の話なども、新文明による旧文明放逐の象徴だと考えられなくもない。
神話世界では一般に性の解釈が大らかで産むことはまさに豊穣の証なのでしょう。
それこそ陰陽和合でもってこそ豊かになれるんです。
だから性は何か神聖な領域のもののことであり、だからなのか古代ギリシャでも古代の倭の国でも自然かつ神聖な様としてそれはあった。
でも近代以降性は破壊されて来ていると私は捉えているのです。
残念ながらその大らかさとは対極の流れが生じて来ていると思われる。
その本質は合理主義による破壊だと考えます。
合理主義は最終的には人間そのものを壊すー心身ともにー進歩の過程です。
もっともそれ以前に自然が壊れることでしょうが。
私はその全的な破壊につき常日頃より論じて来ています。
端的に云えば陰陽和合でもってこそ豊かになれる時代へ戻れまでとは言いませんが少なくとも近代的な要素を其処であえて限定していくべきです。
限定とは観念のみがなし得ることなので真理方向とは逆の流れが生じましょうがそこは反故にしてでも抑えていくことこそが大事なのではないでしょうか。
たとえば陰陽和合による豊穣と今日の合理主義に毒された快楽の為の性の営みとはまるで本質が異なります。
快楽の為の性の営みの本質とは破壊です。
性も文明も何もかも、求め過ぎやり過ぎた時点で矛盾化し破壊へと突き進んでいきます。
その原理を知らないばかりに人間は愚かなのでしょう。
陰陽の合一とは全的な状態ー完全性ーへの回帰なのだと私は理解します。
この世界は分解ー分化ーされているがゆえでの苦の源泉なので、心身の次元で苦を滅する為にはたとえば禅の説くように心身の脱落が必要となりまさにそのことが陰陽の合一にも繋がるのかもしれません。
そこで物質的世界は必ず未来を欲しますが精神は過去を欲していくべきなのかもしれない。」
人間が愚かなのはもう初めからそう決まって居ることなので幾ら拭っても拭い去れない汚点だとでも云うか兎に角金輪際救われないのだし本来なら神仏には構っても貰えない者です。
本来ならば、そう。
然し人間は集まると途端に幻想力を発揮し始める。
即ち皆が友達である。
人類は皆友達である。
ただ現実には人類はみなそれぞれに違い理解し合うことなど出来ない。
そういうのが正しく歴史を学んだ上での理性的な判断である。
だからかの米国の大統領ばかりを批判してそれで済むやうな問題ではない。
特にリベラル思想家、コレが特に厄介な馬鹿共である。
其の馬鹿の特徴は、限界を知らないことである。
先日もTVを視て居るとCMで限度つまりリミットは無い、と云うやうなことをタレントに言わせるまさに最低の宣伝が流されて居た。
無論のこと我は瞬時に怒りまくったが、其処でふと冷静になり良く考えてみるに、まさに其のCMこそが近代の思想そのものを端的に表して居たのである。
即ち限界はない、限度を飛び越えよ、迷えばもうやっちまえ、人間には何だって出来る。
事実君に限界などない。
あるのは君の前に開いた無限の可能性だけだ。
だから君の将来は凄くなるよ。
まさに末は博士か大臣か、だ。
それに綺麗なねーちゃんを嫁に貰えるぞよ。
無論一億も十億も稼げるやうになるのだ。
なんとなれば其処に限度などない。
リミットはないのでノーリミットだ。
もうトコトンやっちまえ。
やっちまえ、やっちまえ、そしてやっちまえ。
もう、全部いてもうたれー。
其のやうな下品な教育を受けて来たやうに思ふ。
つひ其のやうな下品な教育に納得して仕舞って居た。
従って教師とは犯罪者である。
其れ即ち犯罪者の群れのことである。
然し果たして教育とは、其のやうな下品なもので良かったのであろうか。
いや、違う。
教育とは其れ即ち躾である。
躾とは、身だしなみを整えしかも心のたたずまいを正すことでなくてはならぬ。
躾とは、そのやうな武士道であり、断じて虚の可能性の無限とやらに毒されることではない。
嗚呼、まさに無軌道な其の悪夢の流れ。
其の限度を超えた無軌道かつ淫蕩なる犯罪行為の流れが世界を覆い尽くし人類撲滅へと、まさに其の人類の断種、断滅へとすでに動き出したのだ。
君の可能性は無限だよ。
と我我は教え込まれ今を生きて来て居る。
無論そう云われて喜ばない奴など居ない。
然し、江戸時代つまりは封建時代までは何とか其の論理は通用して居たのである。
されど、近代以降其の論理の実現は不可能となった。
何故なら世界は大競争時代となったからだった。
実際には限定された枠を、其処で我先にと奪い合うまさに餓鬼
畜生道の時代となった。
だから其の限定されし心身の枠を何故認めないのだ?
釈迦はかって、無い筈の我を求め過ぎる人間の心に疑義を呈した上で其の人間共に法を説かれたのだった。
対して今わたくしは、何故其の限度そのものを弁えないのかと云うことだけが分からない。
何故人間は此の無限の可能性とやらを信じたがるのだろうか。
所詮其れは夢幻の可能性に過ぎないものだと云うのに。
ズバリは其の限度こそが大事だ。
限度を認めるか認めないかと云うことだけが人類存続の可否を握っていよう。
あくまで事実としての人間は限定である。
それなのに人間は欲を出し、今や人間に限度はないとそう考えた。
近代以降人間はそんな欲望の亡者に成り下がったのだ。
以前にも述べたが如く、限度こそが理性である。
そして限度そのものこそが安定そのものへと繋がる。
対して不安定なものは限度がない。
不安定だからこそ限度を認めたくはない。
其処で非理性を生きるがゆえに限度を認めたくはない。
人権を認め得るがゆえに限度を認めたくはない。
自由を認め得るがゆえに限度を認めたくはない。
左様に近代の本質とは此の限度の撤廃にこそある。
限度即ち分を弁えること、心身を整えたりはしたくないこと。
其れが出来ないのが近代の性質である。
根っこの部分に其れが横たわる。
従って其の無限の思想こそが宇宙を破壊する。
地球ばかりではなく宇宙そのものを破壊する。
尤も其の前に男女の区別や、環境すなわち動植物の棲み家や地球の維持システム自体を破壊する。
だから人間は宇宙を破壊する前に自決しておくべきだ。
是非AIでもつくって自決しておくべきなのだ。
限度を設けることは、元来限定物である人間にとってはごく自然なことだ。
全てが限定であるからこそ現象は今此処に成立して居る。
然し合理主義が其の限度をぶち破ったのだ。
合理主義は、其の分析思考は、人間の心と体をバラバラにして仕舞う。
本来は「繋がって居た」筈の心と肉体のあり方を切断したのである。
すると人々はバランスを失う。
然し合理化の度が進まぬうちは何とか人間として立って居られる。
然しいざ其のシンポが臨界に達すると人間は其の場に倒れる。
さうして崩れ落ちて仕舞うのだ。
嗚呼、まさしく悪魔なる、近代の合理主義よ。
すでに汝の手は天に届く程にも高く掲げられた。
されど其の手が攫むものは虚の欲望のみである。
欲望の暗き淵より来たりし破壊神が。
其の破壊の神だけが上辺だけの現在の幸福と未来なき将来の破滅を約束して呉れて居る。
そして其の無限の思想こそが宇宙を破壊する。
其れは地球ばかりではなく宇宙そのものを破壊してやまない。
よって観念が認めた無限こそが破壊そのものである。