目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

不自由の自由


さて此処がヤフーから発禁を食らい検索にかからなくなったのはすでに一年程前のことなのでありまして、其処からしてもいかに此の世界が所謂真理を語ることに対し拒否反応を示すかということがハッキリ分かるのであります。

確かにわたくしは半分位頭がおかしい訳ですが、其れは藝術の上で或は宗教的探求の上で、つまりは精神の希求の上でより掘り下げてやって来て居る証拠なのですからむしろ誇るべきものなのでありそんな発禁処分位でビクつく謂れなど何処にもない、それよりもむしろもっと掘り下げて書いてみたい、そして声高にこのままでは人類は滅亡だ、此の文明を今すぐに止めよ、だとか、女は魔物だ、なので人間じゃない、今すぐに女という女を座敷牢に閉じ込めよ、であるとか、エロこそは罪だ、其の毎日のエロをこそ今すぐにもう止めてお仕舞い!などといつも書きたいのですがなかなかそうもいかない。



其の理由には二つあります。

一つには、真理は基本的に言葉を超えた段階で伝えられるものである。

ということです。


言葉を弄り回して居る間は真理になど到達出来ない。

ゆえに藝術も学問も、他あらゆる名辞による論理の操作が真理に対しては無力です。

そんなゆえもあってか、精神領域の探求に関しては本職のお坊様方でさえ実は大したことは言って居られない。

つまるところ当たり障りのないことしか述べられないので、其処でつい仏教が体制側に回り日々是感謝、感謝で有難や、有難や、といった次元に落ち着いて仕舞います。



でもわたくしは其処に本来ならばあえて馬鹿野郎!と叫ぶべきだと思うのです。

其れが所謂詩人の怒りでありかの宮澤 賢治が歩んだ修羅の道の歩みでのことなのです。

或はかのボオドレエルがポーが歩んだ文の力から発せられる怒りといふものでしょう。

また或はかのランボオマラルメがまたはかのゴッホゴーギャンがあがきにあがいた精神の軌跡のようなものなのでしょう。






もうひとつは、ついにこの春からわたくしが体制側に取り込まれる羽目となったといふことです。

私はひとつの部門の責任者になりますので、世に対してはもう馬鹿野郎!を言って居られない立場となるのです。

が、それでも尚わたくしは声高に叫び続けることでしょう。

此の馬鹿野郎!、それも大馬鹿野郎!この馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!と。



これはもうわたくしとしては迷惑千万な話で、この溢れるばかりの文の方の才能を反古にしてそんな下らないことに心を砕くなんてこと、そんなはしたないことにかまけて居ること自体が苦痛そのものでしかありえません。

此の才能溢れる不世出の大詩人がこんなバカバカしいことで浪費されていくことだろう様を思うと我ながら、まさに我ながら涙を禁じ得ず嗚呼馬鹿野郎!全くどうしようもなく此の世は最低の莫迦だ。



何でこんな得難い詩人を一介の管理職などに沈ませるのか?

まさに其れこそが神をも畏れぬ暴挙である。


本当の本当にそう思うので御座りますが、其処はもう初めからわたくしが此の職場へ来た時よりの定めなのでもあり、またこの一年に亘り御指導頂いた超優秀な上司に対する義務と云うか恩返しでもあり、要するにもうやるしかないところへ追い込まれて居る訳なのでして、其れであちこちへのご挨拶やら根回しやらで疲労困憊し、そのゆえに文を紡ぐ時間が無くなり此処へも出て来れなかったのであります。


然し其の間に猫は二匹とも死ぬわ、母は弱るわ、女から菓子は貰うわ、とまさに色々とありさらに毎日寒いので右手がバリバリになりもう本当にあかぎれだらけのバリバリでまるで象かなにかの皮膚のようになり、また免疫の方も弱いので右わきにカンジダ症が再発しひどく痒い。


つまり此の詩人にストレスなどかけてはイカンのである。

此の詩人は詩人として自由に生かしておかぬと世界にとっての損失となる。

必ずやそうなる。

だからもう先のことなど保証出来ないよ。


もう最初から我は暴走して石原 慎太郎みたくなっちゃうぞ。
ーおそらく世に対してはもう馬鹿野郎!と言えないわたくしは部下全員に対して飛び切りの馬鹿野郎!を見舞っていくことであらうー


だから作家は権力に近寄るべきではない。

其れは自明の理なのである。


然し、此の世の中には認め難い矛盾や理不尽が充ち満ちて居る。




尚、頭の良い上司とは屡「不自由の自由」ということにつき話し合ったものだった。

体制の維持乃至は組織、家庭の維持に関してはどうしても此の「不自由の自由」という状態が現出する。

対して「自由の不自由」ということもまたあり得る。

現代人はまさに此の「自由の不自由」さに圧迫されて来つつあるのだろう。

だからこそわたくしは「不自由の自由」という価値を認めないものではない。

いやむしろわたくし自身がそのことを言い始めたのである。



わたくしは当分の間此の「不自由の自由」のさ中にこそ埋没していかざるを得ない。

だが惜しい、兎に角惜しい。

そんな風に自分で自分の可能性が減じられるのが辛いのである。

其れはわたくしが一人の表現者として此の世に生を受けたことに対するひとつの大きな矛盾なのだ。

よって人間といふものは大なり小なり此の矛盾からは逃れられないものなのだ。




言うまでも無く我我にとっての最大の矛盾は死だが、今後も幾多の矛盾が我我を苛むことだろう此の生を貴殿が認めるか否かに関しては実は自由である。

本質的に不自由な人間の生をそのままに不自由として生きるかそれとも自由に生きるかといふ選択肢に関してのみ人間は自由なのである。

ただし其処には先に述べたような「自由の不自由」さと「不自由の自由」さが混在して成立して居ることを我我は知らねばならない。



生の格闘は概ね「不自由の自由」さに起因するものだろうが文の世界を標榜し生きる者にとり「自由の不自由」さといふ格闘もまた不可避の苛みなのだ。


ちなみに上司は昨年の暮れ頃から頭がおかしくなったのか労基署へ会社を訴えるなどと言い出し現在も其れが継続中である。

或はわたくしが難しい本を読ませ過ぎたのやもしれぬ。





特に課題図書として進呈した近代を問い直すという意味での佐伯 啓思先生の著作は真理方面へのアプローチとしての大きな参考となる本であった筈です。

尚これは京都大学の教養課程での講義録を纏めたものだそうですが、其処は流石にと言うべきかいかにもレヴェルの高いものでした。

おそらくは中高の社会科の教師の方々にとっても大いに参考になるものと思われます。

上司は難解さを含むこの本を途中で投げ出すところでしたが、勿論其処はわたくしが厳しく指導し自宅で継続して読むことを勧め此の本を進呈致しました。



上司は年上の奥様が二十年来の癌なので年を取った今はもう楽な仕事に鞍替えしたい旨を述べれて居る。

然し勉強は常にしなければならない旨を諭し現在は仏教関係のムック本を三冊貸し出し今其れを真面目にお勉強中のところです。

ー元々お勉強の方もされる方で、思想的には明らかに右の方の考えで梅原哲学などもお好きな方です。ー


ちなみに一か月程前に突然死とは何ですか?と問われたのでサア其れはわたくしも分かりませんがおそらく其れは考えるものではないことでしょう、それからあーでこうでと結局一時間程講釈をさせて頂きました。




女の方は色々とあるのでどうなるものなのや分からぬ。

結論から言えば長生きするのなら兎に角女の方を向き長生きしないのなら引退してまっとうな詩人となり一冊の詩集でも遺して行方不明となるべきである。

ただし仕事の方の体制を確立してからそうすべきです。



女は大抵は莫迦なのでわたくしが其処から精神上の何らかの示唆を受けることなど考えにくい。ー学歴とは無関係にー

女は矢張り食う事にそれから下のこと、掃除、洗濯、育児などに全力を傾けるべく神仏より遣わされし生き物である。



然し不覚にも我は女に箱を呉れてやろうとさえして居る!

其の箱は我がリサイクルショップで見出して来たまるで雛祭りのやうな色合いで絹貼りの上品な箱である。

しかも何と其れが御揃いの箱でつまりはひとつを我が使いいまひとつを女が使うのである。

然し女は其の箱を受け取るかどうか分からぬ。



ならば何故おまへは我にバレンタインを呉れたのであるか。


我にバレンタインをやったといふことはもう其れはおまへの心が我がモノとなったといふことと同じことである。

そして生涯我にかしづき下の方の世話をしつつ生きて行くといふことである。

ゆめゆめ其の事を忘れてはならない。



そうだ、君はもうワシのドレイなのだ。

今日もこうして其のドレイの為にせっせと箱を創る。

いや、箱はすでに完成品なのではあるが、其の中に色々と仕掛けを仕組まなければならぬ。

其の仕掛けとは其れは謂わば愛の罠とでも言うべきものだ。


彼女の母の出身地である石川県の紫水晶やら、これまでやって居なかった質の高い糸魚川のヒスイの小片やら、其れに複合ボールペンや万年筆やら、還暦を過ぎた婆にはまさに似つかわしい地味な品々である。



とは言え、本当の本当は実はそれどころではない。

それどころではないのだが明後日より我は休暇を取る。

其の折に是非女を口説こうと思うのであるが、何せかの東京で三十年も暮らして居りし女ゆえ、或は元々ややこしい性格の女であるゆえ其処はカンタンな話ではない。



そのやうに現代文明が抱える悩みと我が悩みとはまるで瓜二つだ。

要するに矛盾としての今を生きて居る。

ただし孤独者だけが或は貧者だけが其の矛盾を生きざるを得ないのではない。

そうではなく誰しもそんな矛盾を抱えたまま今を生きて行くほかはないのである。