目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

自分を捨てたいでも現代では其れが難しい

前回終末論的な世界観のことを引き合いにして何やらふざけた調子で色々と述べて仕舞いましたが、其れは現在のこの世の中のふざけた価値観に合わせてそんな軽口をあえて叩いて居たということにほかならない。


ではもう少し真面目に考えてみることとしてみよう。


宗教の価値とは非常に大きなところとまともに向き合って居ることだと私は思う。

対して大きなところを何も考えて居ない現代文明の価値観はどうでも良いような小さなところにばかりまともに向き合って営まれて来て居るように見える。


だから逆なんだ。

大事にすべきところがすべからく逆。


そうした倒錯した概念に飼い慣らされていくと知らず知らずのうちに大の方の思考が不得意になるということだ。

其処ではもう大きなことが何も考えられなくなって仕舞う、そして事実現代を生きる人々の多くが其の種の病気に罹って居ることだろうと私は見て来て居る。


其の逆に私の様に大きいことばかりを考えて居るとそれはもう明らかに常識外れでしかも頭のネジの外れた危ない人ということになっていって仕舞う。

だからまあ私程になる必要はないかと思われるのですが、でも皆様も少しは考えてみる必要があるのではなかろうか。


実際に世の中の動きが何だかおかしいと誰しも感じ始めて居る筈なのである。

いや社会ばかりではなく、それより前に日本の自然が何だかおかしいぞ。

事実火山はボンボン噴火して居るのであるし、大地震だっていつ来るか分からない状況にある。


でも其れはあくまでおかしくはないんである。

おかしいのは、元々そういう国土であることを忘れて西欧近代化したかっての日本人の頭の中身の方が余程におかしい。


だから神道では荒ぶる神としてそうした日本固有の自然の猛威のようなものが神格化されたりして居た訳なのである。

そういうのを何故忘れて仕舞えるのかなあ。


そういう特殊性のある国土であるからこそ日本は日本独自の道を歩むべきであった。

たとえ世界から置いてけぼりを食い列強に侵略を許したとしてもそうするべきであった。


では宗教はそうした真理につき語っていなかったのだろうか。

いやいや、実は其れがちゃんと語って居たのであります。


無論のこと仏教はちゃんと語って居た筈である。

曰く、自己中心的に目先の利益ばかりを追求するとロクなことにはなりません。


まず自分中心の其の考え方を捨てなさい。

また毎日美味いものをたらふく食べることばかりを考えるな。


人間は飽食すると必ず精神の方が貧しくなりいけないので死なない程度に食べて置く位が丁度よろしい。

と仏教でも原初の教えはそうのたまうのであったが結局我々は其の逆ばかりを追求して来て居たのだね。


第一この世は諸行無常諸法無我なのであるから、ここには元来拘るべきなにものも無く、遺すべきなにものも無い。

つまりこの世に価値的なものは何ひとつ無いのであるがー真理レヴェルに於いてはー、そうかといって自ら進んで死ぬこともないだろうから死なない程度に生きて置けば其れでよろしい。

それも仏法と縁して出来れば得度し家族や子孫と縁を切り一文無しでその辺をうろつき回ってー托鉢しつつー野垂れ死にすれば其れがほぼ理想的な生のあり方である。


いや、本当に小乗仏教などは其れに近い部分もあるのである。

日本に伝来した大乗仏教は中国経由の中国仏教だから必然的にかなりにアレンジされて居り儒教老荘思想の影響ー特に禅宗老荘思想との関連性が強く認められるーが多分に認められ従って其れはダイジェスト版の仏教と呼ばれても仕方のない不純性を宿して居る。



其の仏教では欲望を捨て去ることをまず人々に勧める。

ただし大と小の欲望を全部捨てると人間は必ず死に至るのであるから、なるべく大の方の欲望を捨てていくべきなのだろうと私の場合はそう理解して居るつもりである。


すると、まあこんな世の中でもありたらふく飯を食うこともたまにはあろうがまた銘木ボールペンを収集したり年上の女を口説いてみたりということも侭あり得るのであろうがデカい欲望の方だけは其処で金輪際持つようなことがあってはならないのである。


たとへば、永遠に生きたいなどと思うこと、これは明らかに其のデカい方の欲望である。


では何故永遠に生きたいと願うのだろうか。

其れは見えていないからである。

心の目が曇って居て、此の世が牢獄であるという実相が見えて居ない。


そういう人が多いということである。

が、釈迦級の、或いは菩薩級のまたは阿羅漢級の心の持ち主にはそういうのはもうすべて分かって仕舞って居る。


だから其れは我々には無理だ。

ほぼ永遠に無理なんだ。

無理だからこそこうして逆に永遠の生をば乞い願う。


だから其れが馬鹿なんだ、心の盲目なんだ、其れがまさに無明の状態なんだ。


従って仏法の上では永遠の命を得たいと願うことは最も不純な欲望をー大の方のーまさにカン違いをしてわざわざ持って居るということにほかならない。



ところが、驚いたことにキリスト教に於いては屡「永遠の命」を得るということが語られて居る。

これは一体いかなることなりやと思うた私は其の後色々とこの件につき調べてみたのであった。


すると、キリスト教に於ける「永遠の命」とは単なる不老長寿ということではないということが次第に分かって来た。

其れはそうした時間的または肉体的な意味でのことではないのである。


たとへば、

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 (ヨハネ 12章25節) 

ということであるが、この言葉の重さというものは流石に世界宗教になるだけのものがある。


これ、本当にビックリして仕舞いました。

だって自分の命を惜しまないー程に信仰を保つー人の方こそが天国の門を敲き、即ち其処で神の祝福を受け永遠の命を得るということなのである。


逆に自己本位に自己の命に拘る者、或いは自分の利益ばかりを追い求めて生きて居る者は皆滅びるということです。


だからそうした認識に於ける顛倒の部分、人間が本能として持ち得て居ることだろう悪しき見方を転換していかない限り永遠の命など得られようがないということなのではないだろうか。

そしてこの永遠の命というのは一種時間を超越した神との契約ーを持ち得たところでの心理状態ーを象徴的に言い表して居ることなのでもありましょう。


だから実際には何かの理由で殉教していたのだとしても、其の殉教者はすでに神の門に下って居る訳なのでしょう。

或いはイエス様の永遠の弟子になって居られるのでしょう。


とまあそんなところではないだろうかと門外漢のことゆえ実に適当ながら其の様に推測して居るので御座います。


さて、ここまで語れば私の言いたいことはすでにお分かりのことだろうと思います。


仏教ではまず自分自身に執着することを何より戒めて来て居ります。


ではキリスト教ではどうでしたか?

矢張りちゃんと自分を捨てよと云っているではありませんか。


でも今、世の中は其れとは正反対のことをして来て居るのではありませんか?


其処で曰く、

自分をしっかりと持って、他人を蹴落としてでもテストで百点取ってこい。

自分が偉いから、酒を飲んで運転すること位は屁でもねえ。

自分が最高なので、酒飲んで盗撮すること位は当たり前のことだ。

自分は近代的諸権利に支えられしスーパーマンでしかも億の金が稼げるスーパーアスリートで世界一偉い。結局俺だけが最高なのさ。


何でも一位になれれば完璧に偉い、一級の頭脳、一流の筋力、大金力、大権力、なんでも来い。

俺のもとへ全部来い。

俺は神だ、仏だ、現代人だ。

俺の様にスーパーな現代人こそが神であり仏である。


このやうに神仏をも畏れぬ哀れな現代人が沢山発生して来て居ることだろう昨今である。