たとえば「93%の日本人は中国が嫌い」などといった意見に根拠があるのだとしても、日本の文化の多くは中国経由で齎されたものである以上そうした一種感情的な傾向には乗らないで自分なりに中国との関係を考え直してみることは是非必要なことだ。
普通大衆は感情にそして世の大勢には流され易く、とどのつまりは自分の意見を持ちにくいか意見を持っていても其れを金科玉条の如くに奉じて生きて居る訳ではないのである。
無論中には在野の哲学者、或いは世捨て人、または在家ではあっても仏教徒であることを自認して居る人のように厳しい精神世界を生きて居る人も居られ、逆にそうした人々は確乎たる己の思想という ものを持って居る人が多いので何かとそうした俗の風潮には流されないという傾向があるように思う。
そういうのはそういうことなのだから、あくまでそういうものなのである。
ただ私にひとつの危惧として感じられるのは現代人が余りにもそうした風潮、感情論のようなものに流され易くなって仕舞って居ることなのである。
其れも勿論全部が全部という訳ではない。
でも其の流されやすいということへの比率が妙に高まって仕舞って居ることが大きな問題であるような気がしてならない。
現代人は近代化の過程に於いて精神の自立性を獲得していった筈であるにも関わらず一体何でそんなことになって仕舞って居るのだろうか。
TVやネットのお蔭で現代人はその場に居ながらにして多くの情報を共有することが出来、特にネット上では色んなことが瞬時に出来るようになって来て居る。
そういうのはそれこそ自由ではないか、まさに人権意識に支えられた自由を享受しているということなのだからいかにも目出度いことである。
という部分もないではないのだけれど、其処でよーく考えてみると其れが本当の自由であるかどうかという段になればどうも其れは本当の自由の体現ではないような気がしてならない。
精神の上での真の自由というのはむしろそうした利便性や感情論といった部分から離れていこうとする考え方の中にこそある。
流されないということは矢張りそういうことなのだろう。
皆が車に乗る、だから私も車に乗る、皆がTVを見る、だから私もTVを見る、皆がネットに興じる、だから私もネットで色々やっていく、ということではおそらくないのだろう。
精神の自立性ということは、そうした捨の作業から成立していくことなのであろうから近代のマスメディアによる情報操作はむしろ其れとは逆のことを して来て居る訳なのである。
だから大衆レヴェルに於いて現代人の精神性が磨かれるということはない。
逆に其れは貧しくなっていくことだろう。
老子には、
曲なれば即ち全し、枉がれば即ち直し、窪めば即ち盈ち、敝るれば即ち新たなり。少なければ即ち得られ、多なれば即ち惑う。ここを以って聖人は一を抱きて、天下の式と為る。自ら見さず、故に明らか、自ら是とせず、故に彰わる。自ら伐らず、故に功あり、自ら矜らず、故に長し。それ唯だ争わず、 故に天下も能くこれと争う莫し。古えの謂わゆる曲なれば即ち全しとは、豈に虚言ならんや。誠に全くしてこれを帰す。
といった部分が出て来る。
然しこういうのはもはや現代人には分からん。
ただでさえ精神のレヴェルが落とし込まれて居る現代人には一体何を云って居るのやらサッパリ分からない。
これ、いきなり目の前に西洋人が現れて早口の外国語でまくし立てられるようなもので、それに小難しい思想を含む考えなのでどう見ても矢張りとっつきにくい。
でもとっつきにくいことをこそ、逆に現代人は志向していった方がよいことだろう。
全部、逆向きで行った方が良い、そう、全部。
近代という時代の洗脳を解く為には其の位のことをしていかないとダメですよという話なのである。
尚、上で述べられて居る老耼の考えは真っ直ぐな志ー大極への返還としてのーを持ちながらのらりくらりと 曲がって世の中の役に立たずに生きていけば何より生が全うできる からよいというようなことを述べて居るのであろう。
ただし其の生の全うとは、自分の楽しみを貫く為の生の時間をより多く得るーつまり生の快楽を貪るー為の全うということではないのである。
あくまで生きて居る間に大本の部分、生存をして生存たらしめて居ることだろう因果律の根源へと遡る為の生存を展開していくという意味に於ける全うなのである。
つまり人間が欲望に基づき望む生の長期化、所謂長寿への願望という部分とは其れは本質的に異なるものだ。
でも確かにそういうのもまたありである。
古来多くの詩人や画家、はたまた宗教家などの感度の良い人々が真っ直ぐに生きー真理をー直につかみ取ろうとしたことで早死にして来たのである。
あの宮澤 賢治なども矢張りそうした類の人であったと云うほかはない。
云うほかはないけれども、私の場合は早死には早死にでひとつの大きな価値であるとそう考えるのである。
宮澤 賢治の生もまたかの三島 由紀夫の生も何が大きな意味を保って存在して居るもののように感ぜられてならない。
こんな風に左翼と右翼は共に意味があるものである。
尚、老荘思想、それから仏教ー小乗や原始仏教ーというのは近代思想にとっては危険思想である。
所謂R18指定の思想、ヤバい思想、近代に反する思想、真理だけれどもイケない思想なのである。
其処はダメ、絶対見ちゃいけません。
いけませんわよ、いけません。PTAは絶対許しません。
そう言われると、何故かとっても見たくなるこのスケベ心。
ああー、見たい、どうしても見たい。
でも其処へ入っていくと途端に受難が始まるよ。
仏陀の降魔成道の故事、キリストの荒野の誘惑の逸話に示されたが如くに、まさに生半可ではないプレッシャーが大衆の心をいたぶり叩きのめすのである。
じゃーやめた。面倒くさいのは嫌い、怖いのもキライ、とっつきにくくて難しいのはもっともっとキライ。
そう、それで良いのだ。
目覚めなくて良いのだ、第一考えてもみよ、大衆が全部目覚めたら此の世は一体どうなるのだ?
洗脳されて居ること自体が貴方には一番見合って居ることなのだ。
近代教に洗脳され、エゴに調教され、こんな腐れ自称詩人などにもコケにされ、それでも尚日々の継続の為に、長寿と子孫の繁栄と国家の安泰を乞い願う貴方様の其の純真無垢な心根こそは尊い。
いや、あなた方こそは神である、仏である、洗脳大衆としての分を弁え毎日下らない作業に命を削り生きて居られる。
私は本当にそういう大衆にこそなりたい。
全くそうなりたいんだよ。
妻と子とじいさんばあさんを扶養しつつ趣味に生きず大欲小知でもって普通にやっていきたい。
真理はとげとげしいものだからもう其れには触れずただ長生きがしたい。
長生きをしてなるべく多くR18指定のエロヴィデオを見て暮らして居たい。
そんな訳で、R18指定というのは何もエッチ物のみに限った話ではない。
事実思想や宗教の分野にはそんなおふざけ、冗談が通らない程過激で深刻なものも色々とある。
さて感情的ないしは情動の方に傾き易いとみられる現代人の心理とは一体いかなるものなのでしょうか。
現代人は個々人の自由が確立されて居るようで居て実はかなりに全体主義化された世界観の中に組み込まれて仕舞って居ます。
民主主義とは云いますが真の意味での民主主義が確立されたことは歴史上一度もなかったことです。
今民主主義はグローバルな資本主義とセットになり推進されて居ますが其れが多分に近代全体主義としての様相を呈して来て居ります。
喩えて言えば近代というのは民主主義と資本主義という極めて限定的で矛盾に満ちた統治システムが引き起こす花火大会のようなものなのでしょう。
だからこそ寿命が短い訳です。
其のシステムの根本的な性質がすべからく直接的かつ直線的なものですので先に述べた老子の思想のような曲線性、全体性、俯瞰性のようなものには元々欠けて居ります。
であれば、現代を生きる大衆が時代に合わせてーそれが洗脳なのですがー感覚思考、その場限りでの思考、いや、思考どころかほとんど何も考えて居ない様となることは必定です。
其れは現在しか生きられないということです。
過去を振り向くことも出来ず、未来に対して行動を起こすということも実は出来て居ないということなのです。
限りなく現在化された今をそれこそ刹那的に、そして感情的に或は感傷的に生きて居るのが現代人の生のあり方としての実相です。
ただし、其の現代生活は欲に関しては確かに寛容です。
欲望の解放が近代の課題であり推進目的でもある訳ですから、其処では欲望は肯定され諸の欲望に対して前向きなこと、生に対してより貪欲であること が是とされるのであります。
けれど其の欲望のレヴェルは常に低いところに留まって居る。
同じ欲望でも、精神の上での欲望の探求はまた全然異なったプロセスで展開されるべきものです。
そしてそのような希求に対しては、現在化されない今、唯物論の世界からは隔たった精神世界が確立され得るということを知っておかなばなりません。
確かに私は其の近代が齎した現在化の流れに抗いたくはないと先に申しましたが、其れは私が現在居る心の地点からそう願うばかりのことで客観的に述べれば私なんぞはもう人類の中でも極めつけのはぐれ者、所謂アウトサイダーの端くれだと思いますのでむしろ自分で調整してそんなことを言って居るのであります。
要するに私の場合には還俗化することが最も難しいことなのであります。
でも現代の大衆が置かれて居ることだろう精神の危機はそういうのとはまた逆向きの流れであることだろう。
それで老子などを引き合いに出したのでありますが、老子は読み方を間違えるとまたえらいことになって仕舞いますので其処は注意して読んだ方がよろしいことかと存じます。
老子はただ長生きして人生を享受する爲の処世訓を述べた思想ではありません。
老子の思想の根本目的は大極、即ち事物を事物として成り立たせて居る根源の領域、原理のもとに生きながらにして入っていくということである。