全体の為に規定されるということは、個を呑み込むことであろう国家という概念の為にそうなるということではない。
もしそうなるのであれば、其の規定は不純かつ不当なものです。
全体というものはもっともっと大きなもの、たとえば自然の摂理であるとか宇宙の調和であるとかそんな次元での話のことです。
たとえば宗教というものは、常にそんな人間以上の存在のことも視野に入れて来て居る訳である。
其処では神や佛といったものこそが全体である。
全体主義であるのはむしろ近代を推進する思想の方のことで、私が提唱する全体論はむしろそうした思考を捨て去ることから生まれる、つまり其処で見えて来るであろう多様化し小規模化された社会ないしはイデオロギーのことなのである。
そして其の全体の部分から規定されるのは本当は規定ではなくむしろ必然のうちにあることです。
其れは強制では無く必然であり、ゆえにむしろ規定ではなく理解しつつ進んで其れに従うことなのです。
而して限定の存在である人類は其の全体性からの限定を否応なく受け容れざるを得ない筈である。
国家も共同体も、而して個のレヴェルに於いても其の事を受け容れざるを得ないのであります。
そうした思考に至ることこそが真の知恵を得るということでもある。
さて理性や知性といったものは、近代的な自我を形成して生きる我々現代人には必須の要件であろう筈です。
実際に我々は其の本能の上位概念としての頭の良さ、単なる動物以上の知能の高さという部分でもって近代的な生活を維持して来て居ることと目されている。
然しながら、我々は本当に理性や知性でもって本能を抑え切って生きることに成功して居るのだろうか。
私にはどうもその様には見えて来ないのである。
其れは一般大衆のみならず、インテリ層の方々でも根の部分では結構非理性的、非知性的であり、だから意外に本能領域の単純な好悪の価値判断で行動を決して居たりするものなのである。
勿論私だってそうでー私はインテリではなく鋭い感覚を持たせられし詩人であるー、日々の行動を実は物凄く原始的、原初的な部分で決定していったりして居るものなのである。
然し確かにインテリや藝術家や宗教家は観念領域の方の事も発達して居るのでそちらの方でも生きて居るという部分もまた一方には存する。
でもそちらの方だけでは生きられないということもまた確かな事実なのである。
つまるところ、謂わば観念だけでは飯は食えない、またもし殴られたら殴り返す、或いは言い返す前に防御しないと倒れて仕舞う。
そうした現実力ということは実は本能領域で全てカタがつく世界のことなのである。
ゆえに現実力をより多く持って居る人こそが此の世を生き抜くにはより適して居るということとなる。
現実とは其のように至極下品な世界のことである。
現実力を付ければ観念力は減退するのだし観念力を研ぎ澄ませていけばやがて本能的な力、生活力の方が弱くなっていく。
観念領域に純粋に生きるとするとやがて生命力が失われる方向性へと人は歩んでいかざるを得ないのである。
勿論其の先には精神または肉体の上での病気だの、或いは自殺だのといったことが引き起こされ此の世には存在して居られなくなるのである。
其の一歩手前には所謂聖なる世界というものが拡がって居て、其処は生きながらにして本能領域の克服を果たした世界のことであり、でもそういうのは多分十億人に一人とかそうした世界のことなので我々のような凡夫にはまさに窺い知れない心的領域のことなのであろう。
さて、我々は兎に角自分で自分のことを頭が良く他の生物とは違う者だとそう認識して居る。
だがおそらくは其れは幻想である。
其の近代的自我こそは幻想である。
だからこそ理性または知性で本能を本質的に規定するには至って居ないのである。
もしも近代的な自我が本質的に本能を規定し得るものであるならば、現代人は何もこんなに毎日苦しんで生きて居なくても良いのだしーところで皆様は現代人としての生活が楽しいですか?まあ楽しいこともあるでしょうが、大元ではこのままではヤバいという部分も皆様持っておいでになることでしょうがー、何もこんなにフワフワした気分で生きていなくて良いのだろうに。
あのMr.スポックではないですが論理的につまりは観念的に、或いは理性的に、知性的に現実ー現象世界ーを規定して生きていくことなどは人間存在にとって到底不可能なことなのです。
東大の医学部を主席で卒業したにしてもだ、多分其の境地には到達出来ないのである。
今私には、逆に現代人が本能領域にどっぷりと漬かって生きて居るようにさえ見えて参ります。
理性や知性が其れを抑え込んでいけるものなのだとすれば、何故こんな正反対に見えるようなことが実際に引き起こされて仕舞って居るのだろう か。
ただし、其の私の本質論では現実的な領域に於ける理性や知性の齎す力のことを不問に付して其れを展開して居ります。
つまりあくまで現実的には理性や知性は人をして人たらしめて居ることであろう重要な力である。
其れはつまりは猫やカエルや魚やバッタには其処までの観念領域が存在して居ないということなのです。
彼等には其れが無い。
でも我々には其れがある。
だから我々は彼等を支配しても良いのだし、つまりは地球の支配者なので我々自身の幸福の追求だけを求めていけば良いのだ。
だから其れが、其れこそがむしろ本能領域の強固な顕現の様なのである。
其の思考には真に理性的である何ものかも真に知性的である何ものかも共に含まれて居ないのである。
つまりは理性、知性で武装し自らのみの豊かさを追い求めていく我々には逆に本能領域に雁字搦めにされていくといった自己矛盾性さえもが与えられて居るのである。
なのであれば、其の理性や知性の本質的な効力こそを疑うべきなのではないだろうか。
表面的な力としては確かに理性や知性の力は偉大なのであります。
然し理性や知性が本質的に本能=エゴイズムの発現を規定していく力を持ち得ないのだとしたら、其処で我々は一体どうしたら良いというのでしょう。
ちなみに私は屡上品という言葉の意味について考えることがあります。
上品とは、下品ではないことです。
下品とは、謂わば自己矛盾性に捉えられて仕舞って居る状態のことを云う。
其の自己矛盾性をなるべく小さくすることに腐心していく状態こそが上品な状態である。
或いは仏法的に云えば下品とは煩悩に苛まれて居る状態だと考えることが出来る。
だから煩悩を離れた煩いの無い境地こそが其の逆での上品ということです。
理性や知性と、本能領域との矛盾や葛藤の問題というものは、近代という特殊な時代を生きる我々にとって本当は大事な問題なのです。
でも我々は本能にかまけて生きて居ることが実は多く、なぜなら我々が常に大事だと思って居ることだろう愛だの誠実だの正義だのという概念のほとんどが実は本能起源でのもの、其れ等は私の言葉で語れば自己矛盾性の内側で語られて居るだろう言葉であるに過ぎません。
其れ等がエゴイズムを離れし普遍的なものではないということなのです。
あくまで限定された愛であり誠実であり正義だということなのです。
ところが其の本能としての自己矛盾性を離れて観念を突き詰めていくと、先に述べたように現実力ー生活力ーを弱めていって仕舞うきらいが大いにある。
だからこの本能と理性、知性ー観念領域ーとの関係性というものは実に微妙なところを含んだ話なのでもある。
其処に於ける自己矛盾性を一言で云えば、人間が神の如くになる為に理性や知性で武装し突き進んで行くと心性的な面では逆に退化して極めて利己的な、また矛盾的な要素が噴出して来る。つまり現代人は理性や知性に磨かれスマートかつ高潔な心性の持ち主のようで居て実は下品そのもので本能モロ出し、欲望モロ出し、の状態にある。
対して真の上品さ、まるでかのシスターの方々のような高潔さ、まるでかの高僧の方々のような高貴さ、そうした真のお上品な人間になる為には理性や知性は本質的には余り役には立って居ないことだろうという話です。
理性や知性よりもむしろ知恵の方の知、こちらの方こそがおそらくはそうした真の人間の高貴さを醸成するに役立って居ることなのでありましょう。
ただし先にも述べましたように、理性や知性には現実的な意味での近代の推進力としての力があります。即ち現象世界を分析して其れ等を解体し変容させていく力に其れは長けて居るということである。
だから私は理性や知性に価値が無いと言って居る訳ではありません。
また本能領域には価値が無いと言って居るのでも元よりありません。
ただし理性や知性に傾き過ぎると、自己矛盾性がより強く働くようになり其の結果逆にエゴイズムを助長することとなり人類は必ずしもあのMr. スポックのようにはなれないことだろう。
其処ではむしろ本能領域により強く繋がれていく傾向が出て来る。
そうして自分で自分の欲求を抑えられないであろう人間が増えて来ることだろう。
従って其のようなことの起こる原理について今回私は語ったまでのことです。