この現象世界は実際観念化していこうとすれば幾らでもそうしていくことは可能な世界ではありますが、勿論そうしていくことには一種のリスキーな部分がありそうそう誰もがそうした試みの方に向いて居るだろうとは言えないのであります。
宗教や哲学、藝術の分野では屡そうした類での試みが行われて来たのではありますが、宗教にしたって一歩間違えばそれは邪教の類となってしまいがちなのでもありますし、哲学者なんてあのニーチェのように仕舞には狂人となって仕舞いますのですし、藝術に至ってはたとへば詩人や画家などは昔から飲んだくれたりした挙句に早死にして仕舞いますのですし、作家の人々は昔はその多くが自殺しちまうなどということがあった訳なのですしで、全く のところその現実解体の世界の方に与するということは一筋縄ではいかぬことのようです。
そうした精神の切岸のようなところにいつも置かれて一種の綱渡りのような観念世界を生きて居る人種が確かにこの世の中には居るということなのです。
確かに現代に於いてはそういうのはもはや流行らないのではありますが、でもその基本的な表現者の内面の構造のようなものは結局いつの時代にも変わらぬものなのかもしれない。
然し現代に於いてはそうした古典的な意味での文の分野の発展、未来ということはもう望めない段階に至って居ることなのかもしれない。
確かにそれはかなり悲観的な見方なのであろうが、どうも近頃私にはそう思われて来てならないのである。
第一、この十年間で芥川賞と直木賞の受賞者に女性が急増しているのだという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140120/bks14012008300000-n1.htm
それも前回だったかは、その受賞者の確か全員が女性作家だった筈だ。
そしてそういうのが私には面白く無い。
それは男が女に負けて悔しいということではなく、そういう風潮がすぐに文の世界にも反映されて仕舞うこと自体がいかにも節操のない軽薄な風潮であり気に入らないのである。
確かに我などはただの自称詩人で今ここでもキャンキャンと野良犬が一匹ー野良猫がー吠え続けているばかりのようなものなのである。
然し文の世界には文の世界としての威厳のようなものがもっと備わって居てしかるべきだと思うのだがそこは如何なものだろうか。
また女性の書く文が悪いなどとも思っては居ないのですが、またおそらくはそこで良く構想が練られた作品が書かれて居る筈ではあるとも思うのですが、それでも悪いけれど読む気にもならないんだなあ、それが。
尚、私は文の人ーの端くれの方に連なっているであろう人ーとしてはむしろさほど悲観的な見方をしている訳ではないことだろう。
作家の方々には私よりも悲観的な見方をして居られ文明は近く滅びると言っておられる方なども居られる。
そのことをはっきりと自分の本に書いて居られる方は居られる。
そうした意味では、どうも男性よりも女性の方がノンフィクションとしてのそうした悲劇的な結末というものを描きにくいのではなかろうか。
たとえば私は宗教詩人だからあくまで本当の本当は文明または文化の継続を望んで居るのですが、それでもどうも自らに内在する破滅性への願望とでもいうのか、或いはそれとは逆に外側の破滅を察する嗅覚が鋭すぎるとでもいうのか、兎に角そんなところばかりが研ぎ澄まされて来て仕舞って、五十年後、百年後にはもはや人類の存続が許される余地は無いなどということを強く感じ取ったりもして来て居るのである。
つまるところ、外部的または全体的な危機を察知する能力はおそらく男性の方が優れていよう筈だ。
逆に内部的な危機または個別的な危機に敏感なのが女性ではなかろうかと私は思う。
その内部的な危機というのは、私がいつも論じているような人類の精神性の問題などといった大きな問題ではなく個としての小さな危機の問題なのである。
文の世界にまで女性のその個別的危機対応力が拡がって来ているのだとすれば、要するにそれはもうこの世界全体が社会的に女性化されて来て居るということなのだろう。
しかし先程述べたように女性は内部的危機ー煎じ詰めればそれは自分の子をかばう力のことだーには敏感だが全体の危機を感じ取る能力やその危機への対応力、危機管理能力にはおそらく欠けて居ることだろう。
だから私は文明自体が女性化されているということに関して逆に危機感を抱いて来て居るのである。
文明が女性化されるということは、人間中心での生存論理が常に優先されるということでもある。
第一、一体どこの世界に人間ー自分の子ーを尊重しない母親が居るとでもいうのか。
母親は常に自分の子を最優先して育て、その子の人生の全い幸福をこそ乞い願うものだ。
然し、実はそれこそが所謂エゴイズムの問題や過保護といったことにも繋がってゆく。
厳しい言い方をすれば、或いは真理方向から言えば明らかにそうしたことにもなる。
文明自体が女性化する、つまり文明自体ー子自体ーを常に護るべきもの、かけがえのないもの、それが最後まで幸せでなければならないものとして常に進んでいくとするならば、つまりは其処では人間中心の価値観が堅固に組みあがり男性的な観察や懐疑の力ー観念的な猜疑心、或いは外面からみつめることによる自己批判力ーが弱められていくかまたは失われていって仕舞う。また全体の危機を見抜く力や危機管理の力の方も弱まっていって仕舞う。
文明を、社会を、健全な状態に整えておく為には、むしろその子ー文明ーを叱りつけ鍛えて逞しく成長させる為の男性的な原理、父性原理の確立が是非必要なのである。
現代社会は何故その部分が認識出来ないのだろうか。
女性力の拡大、或いは相対的には平等主義による男性パワーの弱体化で文明を鍛える、或いは批判する力はむしろ次第に衰えていくのである。
そのように一種狭い母性的な世界だけで生きるようになった文明の内部では様々な問題が噴出しやがては収拾がつかなくなるだろう虞が大きい。
ただし私は母性原理そのものを否定しているのではない。
そうではなく、母性原理を中心に据えて進む現代の文明社会の危険性につき述べて居るのみなのである。
尚、今回私は初めに世界を観念化して捉えることの出来る分野のことにつき述べて居る。
そうした分野では、どうも女性よりも男性の方がそうした世界自体を切り開いて来て居る様に思えてならない。
然しそれも、勿論全部が全部そうなのではない。
宗教や哲学、藝術の分野では屡そうした類での試みが行われて来たのではありますが、宗教にしたって一歩間違えばそれは邪教の類となってしまいがちなのでもありますし、哲学者なんてあのニーチェのように仕舞には狂人となって仕舞いますのですし、藝術に至ってはたとへば詩人や画家などは昔から飲んだくれたりした挙句に早死にして仕舞いますのですし、作家の人々は昔はその多くが自殺しちまうなどということがあった訳なのですしで、全く のところその現実解体の世界の方に与するということは一筋縄ではいかぬことのようです。
そうした精神の切岸のようなところにいつも置かれて一種の綱渡りのような観念世界を生きて居る人種が確かにこの世の中には居るということなのです。
確かに現代に於いてはそういうのはもはや流行らないのではありますが、でもその基本的な表現者の内面の構造のようなものは結局いつの時代にも変わらぬものなのかもしれない。
然し現代に於いてはそうした古典的な意味での文の分野の発展、未来ということはもう望めない段階に至って居ることなのかもしれない。
確かにそれはかなり悲観的な見方なのであろうが、どうも近頃私にはそう思われて来てならないのである。
第一、この十年間で芥川賞と直木賞の受賞者に女性が急増しているのだという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140120/bks14012008300000-n1.htm
それも前回だったかは、その受賞者の確か全員が女性作家だった筈だ。
そしてそういうのが私には面白く無い。
それは男が女に負けて悔しいということではなく、そういう風潮がすぐに文の世界にも反映されて仕舞うこと自体がいかにも節操のない軽薄な風潮であり気に入らないのである。
確かに我などはただの自称詩人で今ここでもキャンキャンと野良犬が一匹ー野良猫がー吠え続けているばかりのようなものなのである。
然し文の世界には文の世界としての威厳のようなものがもっと備わって居てしかるべきだと思うのだがそこは如何なものだろうか。
また女性の書く文が悪いなどとも思っては居ないのですが、またおそらくはそこで良く構想が練られた作品が書かれて居る筈ではあるとも思うのですが、それでも悪いけれど読む気にもならないんだなあ、それが。
尚、私は文の人ーの端くれの方に連なっているであろう人ーとしてはむしろさほど悲観的な見方をしている訳ではないことだろう。
作家の方々には私よりも悲観的な見方をして居られ文明は近く滅びると言っておられる方なども居られる。
そのことをはっきりと自分の本に書いて居られる方は居られる。
そうした意味では、どうも男性よりも女性の方がノンフィクションとしてのそうした悲劇的な結末というものを描きにくいのではなかろうか。
たとえば私は宗教詩人だからあくまで本当の本当は文明または文化の継続を望んで居るのですが、それでもどうも自らに内在する破滅性への願望とでもいうのか、或いはそれとは逆に外側の破滅を察する嗅覚が鋭すぎるとでもいうのか、兎に角そんなところばかりが研ぎ澄まされて来て仕舞って、五十年後、百年後にはもはや人類の存続が許される余地は無いなどということを強く感じ取ったりもして来て居るのである。
つまるところ、外部的または全体的な危機を察知する能力はおそらく男性の方が優れていよう筈だ。
逆に内部的な危機または個別的な危機に敏感なのが女性ではなかろうかと私は思う。
その内部的な危機というのは、私がいつも論じているような人類の精神性の問題などといった大きな問題ではなく個としての小さな危機の問題なのである。
文の世界にまで女性のその個別的危機対応力が拡がって来ているのだとすれば、要するにそれはもうこの世界全体が社会的に女性化されて来て居るということなのだろう。
しかし先程述べたように女性は内部的危機ー煎じ詰めればそれは自分の子をかばう力のことだーには敏感だが全体の危機を感じ取る能力やその危機への対応力、危機管理能力にはおそらく欠けて居ることだろう。
だから私は文明自体が女性化されているということに関して逆に危機感を抱いて来て居るのである。
文明が女性化されるということは、人間中心での生存論理が常に優先されるということでもある。
第一、一体どこの世界に人間ー自分の子ーを尊重しない母親が居るとでもいうのか。
母親は常に自分の子を最優先して育て、その子の人生の全い幸福をこそ乞い願うものだ。
然し、実はそれこそが所謂エゴイズムの問題や過保護といったことにも繋がってゆく。
厳しい言い方をすれば、或いは真理方向から言えば明らかにそうしたことにもなる。
文明自体が女性化する、つまり文明自体ー子自体ーを常に護るべきもの、かけがえのないもの、それが最後まで幸せでなければならないものとして常に進んでいくとするならば、つまりは其処では人間中心の価値観が堅固に組みあがり男性的な観察や懐疑の力ー観念的な猜疑心、或いは外面からみつめることによる自己批判力ーが弱められていくかまたは失われていって仕舞う。また全体の危機を見抜く力や危機管理の力の方も弱まっていって仕舞う。
文明を、社会を、健全な状態に整えておく為には、むしろその子ー文明ーを叱りつけ鍛えて逞しく成長させる為の男性的な原理、父性原理の確立が是非必要なのである。
現代社会は何故その部分が認識出来ないのだろうか。
女性力の拡大、或いは相対的には平等主義による男性パワーの弱体化で文明を鍛える、或いは批判する力はむしろ次第に衰えていくのである。
そのように一種狭い母性的な世界だけで生きるようになった文明の内部では様々な問題が噴出しやがては収拾がつかなくなるだろう虞が大きい。
ただし私は母性原理そのものを否定しているのではない。
そうではなく、母性原理を中心に据えて進む現代の文明社会の危険性につき述べて居るのみなのである。
尚、今回私は初めに世界を観念化して捉えることの出来る分野のことにつき述べて居る。
そうした分野では、どうも女性よりも男性の方がそうした世界自体を切り開いて来て居る様に思えてならない。
然しそれも、勿論全部が全部そうなのではない。
それでも優れた宗教家や哲学者、詩人などに女性が多いかといえばそれはそうではないのである。ーもっとも昨今はその詩人にも女性が多いのだが。ー
特に宗教や哲学といったより大きく観念で捉えていく必要のある世界に於いて母性原理の役立つ領域はさほど大きくは無いことだろう。
私の言いたいことは、この世の中にはそうした大きな捉え方をしなければ見据えられない真理領域の世界があり、それは女性的なものの見方、すなわち母性原理の方だけでは捉えられ得ないということを述べて居るのである。
だからこそ今現在のように女性のパワー重視、女性の解放万歳、男女平等万歳だけではダメなんだ。
勿論そうかといってそれで芥川賞や直木賞の受賞者に男性が増える訳でもないのだろうが、ただ私はそのような大きな範囲での観念力の減退つまりは視野狭窄、人類の知恵の世界の矮小化、逆に言えばさらなる現実の現実化への加速、或いは唯物化、即物主義化することの奥にその女性原理の力が一役買っていはしないかとそのことばかりが気にかかって居るのである。
そしてそうした方向性にむしろ滅びへの予兆のようなものを感じない訳でもない。
その範囲の狭い視野の中で暖かい、柔らかい、快適なものだけに包まれ続けて居ると、何だか本質的に人間がダメになりそうな気さえもする。
そしてそのように文明が文明の母に守られ常にその子として快適に暮らし続けて来ているのではあるが、その文明の母親の外側にはもっと本当の母ちゃんが居てまさにそれこそが宇宙であり地球である。
されど母性原理という文明の母親に過保護に育てられて来た我々には自然というその本当の母ちゃんの姿がもはや見えなくなって来て仕舞って居り、本当の兄弟ー他の生物種ーが今次々に死んでいって居るというのにそんなこと我関せずでただひたすらに個々人でのカネ、モノ、チカラの充実を、そのことの達成による個別的な満足を追い求めて生きて居るだけのことなのである。
だから滅ぶんだよ、そうした視野が狭まりエゴに囚われし文明は早晩滅ぶしか他に道はない。
ーと、とある作家の方は著書でそのようなことを述べられておりました。私自身としては滅ぶ滅びないといえば矢張り滅びることだろうがそれをなるべく先延ばしにする為には父性原理の方のことをもっと真剣に考えかつ大事にしていくべきであるということをこそ今ここに訴えておきたいのです。ー
特に宗教や哲学といったより大きく観念で捉えていく必要のある世界に於いて母性原理の役立つ領域はさほど大きくは無いことだろう。
私の言いたいことは、この世の中にはそうした大きな捉え方をしなければ見据えられない真理領域の世界があり、それは女性的なものの見方、すなわち母性原理の方だけでは捉えられ得ないということを述べて居るのである。
だからこそ今現在のように女性のパワー重視、女性の解放万歳、男女平等万歳だけではダメなんだ。
勿論そうかといってそれで芥川賞や直木賞の受賞者に男性が増える訳でもないのだろうが、ただ私はそのような大きな範囲での観念力の減退つまりは視野狭窄、人類の知恵の世界の矮小化、逆に言えばさらなる現実の現実化への加速、或いは唯物化、即物主義化することの奥にその女性原理の力が一役買っていはしないかとそのことばかりが気にかかって居るのである。
そしてそうした方向性にむしろ滅びへの予兆のようなものを感じない訳でもない。
その範囲の狭い視野の中で暖かい、柔らかい、快適なものだけに包まれ続けて居ると、何だか本質的に人間がダメになりそうな気さえもする。
そしてそのように文明が文明の母に守られ常にその子として快適に暮らし続けて来ているのではあるが、その文明の母親の外側にはもっと本当の母ちゃんが居てまさにそれこそが宇宙であり地球である。
されど母性原理という文明の母親に過保護に育てられて来た我々には自然というその本当の母ちゃんの姿がもはや見えなくなって来て仕舞って居り、本当の兄弟ー他の生物種ーが今次々に死んでいって居るというのにそんなこと我関せずでただひたすらに個々人でのカネ、モノ、チカラの充実を、そのことの達成による個別的な満足を追い求めて生きて居るだけのことなのである。
だから滅ぶんだよ、そうした視野が狭まりエゴに囚われし文明は早晩滅ぶしか他に道はない。
ーと、とある作家の方は著書でそのようなことを述べられておりました。私自身としては滅ぶ滅びないといえば矢張り滅びることだろうがそれをなるべく先延ばしにする為には父性原理の方のことをもっと真剣に考えかつ大事にしていくべきであるということをこそ今ここに訴えておきたいのです。ー