目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

細野 晴臣氏とPlasticsのこと

細野 晴臣氏とPlasticsのこと

 

 

 

 

さて先日高橋幸宏 - Wikipedia氏が亡くなられたやうで御悔み申し上げます。

尚我我還暦世代は其のイエロー・マジック・オーケストラ - Wikipediaに大きく影響を受けて來て居る。

 

但しYMOの樂曲が所謂「藝術」だったのかどうかは不明です。

個人的には神経質だったらしい高橋氏には親和感がありますが音樂的にまた哲學的に最も影響を受けたのはむしろ細野 晴臣氏の方でした。

 

 

Amazon.co.jp: 細野晴臣 ETHNIC SOUND SELECTION エスニックサウンドセレクション CD8枚セット 中古 : パソコン・周辺機器

 

其れも八拾年代の終わりに此の細野氏の監修による「民族音樂集」が出て確かすぐに其れを購いまずは全部を通して聴いてみたものだった。

でもって当時から此のCDはそんなに話題にはなって居ませんでした。

 

ところがあくまで自分に取り其れは「衝撃的」な世界の歌の寄せ集めとなった。

 

Haruomi Hosono - ATAVUS - 1. 成人式の歌 - YouTube

 

かうしてむしろ其れは「歌では無い歌」から始まる訳だ。

 

「歌では無い歌」には所謂「商業」は発生して居らずまるで「言葉による叫び」の如きものとなる。

さうして此の『エスニックサウンドコレクション』にはそんな「商業」以前での音源が世界各地より網羅され収録されて居たのです。

 

La Voix De Globe 地球の声 – Ethnic Sound Selection – Cafe de Shrimp (shrimpupper.com)

 

まさに此れだけの歌が網羅されて居る。

さうして其の全ての音が「原初的な人間の叫び」のやうなものにむしろ近いものであり確かに聴いて居るだけで「安らぎ」を感じる。

 

 

逆に言えば「商業音樂」は其の部分をあえて放棄し「加工」し過ぎて居る。

まさに其のことを『エスニックサウンドコレクション』が伝えて呉れた要するに其処から教えられたのだった。

 

其れも「概念」以前での感覚の場に於いてしかと其れが分かったと云うことである。

 

其の意味ではYMOの樂曲もまた時代や社會風潮に合わせ「加工」されたものでしか無い。

其のことを逆に其の「民族音樂集」が語って呉れて居る。

 

「加工」されたものには「加工」された分だけの藝術的感慨=感動しか与えられず其れは音源として本質的な意味を持ち得ない。

とまさに其処まで言って居るかのやうな気さえもがまたする。

 

正直自分が聴き込んで來た音樂の中でいまだにNo.1の座を占めるのが此のコレクションです。

でもって其処にはむしろ「生きる喜び」の方が強く歌い込まれて居ます。

 

其の「生きる喜び」は西洋の歌にもまた日本の歌にも無いものでした。

要するに其れは文明化される以前での「ー本能的に規定されたところでのー只生きる喜び」其のものなのだ。

 

ところがイザ文明化される即ち理性化すると人間には必然として「悲しみ」が生じます。

故に喩えクラシックの名曲であれまた日本の唱歌などであれ其の「悲しみ」の部分が邪魔をし人間が「本來的」に持つ「生きる喜び」の部分に到達することが出来ない。

 

 

要するに其のやうに加工され「編曲」されて仕舞って居る訳だ。

また事實として近代とは「認識の倒錯=加工としての悲しみ」を湛える場のことですので辻褄としてはあくまでむしろ合って居る。

 

なんですが普段我我は其処まで考え込んで音樂に接して居る訳では無く只其れを聴き流して居るのである。

ましてや其のやうな「原初の歌としての喜び」を伝えるやうな音源を「古臭く」しかも「無価値」なものであるとさう決め付けむしろ遠避けて来て居る訳だ。

 

であるからこそ其の本物の歌には気付けずまた「生の喜び」に直に触れることも叶わず謂わば虚構の価値としての場に生き其処に没するだけなのだ。

其のことを此の『エスニックサウンドコレクション』が全て教えて呉れました。

 

20年程前だったか、我は半年程に亘り『エスニックサウンドコレクション』ばかりを毎日聴き込んで居た時期があり其の折に其の意味での全てを了解したのでした。

 

 

だからさう云うものが「直感」乃至は「直観」と云う理解のあり方で其れは其のやうに観念以前での「全體的」な価値の把握のことです。

 

故に其のことをあえて「商業音樂界」にぶつけて來た細野 晴臣と云う人物は並大抵の人間ではまさか無い。

まさしく其の細野 晴臣氏こそが眞の意味での藝術家でなくて何なのでせう?

 

当時其の細野 晴臣氏の頭の中には音樂の「堕落」に對する壱つの疑問が渦巻いて居たのやもしれない。

だが其の「堕落」に関して誰が其のことを批判し得ると云うのでせう?

 

其の本質的に「違う」音源をあえて世界中より発掘し聴衆である我我に提示して呉れる者こそが其の眞の意味での藝術家ではなくて何なのでせう?

 

 

要するに其の『エスニックサウンドコレクション』こそが音樂の上での「近代批判」をなして居るものなのだ。

しかしながら其れは南洋での伝統の歌やまた羊や牛を放牧して飼う民の素朴な歌の数数であるに過ぎない。

 

故に其の歌の数数其れ自體には「近代を批判」する迄の力は無い。

だが其れを日本の細野なる藝術家が見出し其れもかうして其の多くの歌を集め現代の日本にてCD化して出したところにこそ其の「近代批判」としての意義が生ずるのだ。

 

故に此れ以上の音樂を結局我は知りませんのです。

されど多くの人人に取り或は其れは「眠くなる」類での音樂の数数なのやもしれません。

 

 

尚其のYMOに對し個人的にぶつけたいものがあり其れがPlasticsです。

でもって我はもう40年近く其のPlasticsのファンである。

 

Plastics - Welcome To Plastics - YouTube

Plastics - Welcome back (1980 - Full Album) - YouTube

 

其のPlasticsは伝説のニューウェイヴバンドであり要するに今思えばまさに其の音樂の商業主義には屈しない眞の意味での藝術家集団だったのだと言える。

藝術家とは其のやうに魂胆が座って居り権威や権力に屈せず且つ大衆迎合もせず唯我独尊での新たなる藝術表現を模索する者のことを言う。

 

また彼等は所謂「美術系」の藝術家達であり要するに其れは文學でも無くまた社會科なのでも無い強烈な美的批判力の持ち主達であった。

かのデヴィッド・ボウイジョン・レノンなどもまたさうでありだから其れは音樂性云云の前にさうして美的にブッ飛んで居る訳なのだ。

 

自分もまた美術がとても好きで其処は何となく彼等とは相性が良くつまりはピピッと分かるやうな気が前前からまたして來て居る。

 

 

PLASTICS - ROBOT - Japanese New Wave / Punk / Pop - YouTube

Plastics - COPY #1 - YouTube

 

特に『COPY』や『ROBOT』などには其の彼等の強烈な「美的批判力」が発揮されて居るものと思われる。

要するに其れは文明の全てが「コピー」であり「ロボット」であるとさう皮肉たっぷりに歌い込んで居るのである。

 

従って其れは「知的」で且つ「美的」な面からの文明批判であり體制批判をなして居るのである。

尤も必ずしも「知的」では無い反抗であれば所謂「ロックンロール」の分野があるが其れ等とはまた異なりおそらく彼等は其の「高い美意識」の面より文明を結構口汚く罵って居る訳だ。

 

PLASTICS - Live at 688 Club, Atlanta (June 18th, 1981) - YouTube

宇崎竜童のFighting80’s 出演PLASTICS(プラスティックス) - YouTube

 

其のPlasticsにはいまだにコアなファンが居て無論のこと我などもまた其の壱人となるのである。

さて此のPlasticsの樂曲による美的批判力を理解する人は常に少ないことだらう。

 

だが其れは壱つの「本質主義」での流れでのもので其の点ではあくまでかの「民族音樂集」と変わるところでのものでは無い。

但し「民族音樂集」は「生きる喜び」をむしろ其の侭に歌い美的批判力の方は「偽物として生きることの矛盾」を其の侭に歌い要するにそんな風にしか生きられぬやうにした「近代」と云う時代の呪いの様をこそ其処に映し取り表現して居る訳だ。

 

中西俊夫 - Wikipedia

 

さて其の中西 俊夫もすでに死んで居る。

其処はまさに御悔みを申し上げます。

 

だが我はアンタがかってやったPlasticsと云う美術系バンドを知って居てほんたうに良かった。

其れは壱見きちがいじみたパンクロック風のバンドながらきちがいなのでは無くむしろ其れは現代文明の眞の姿を映す鏡其のものだった。

 

 

ー2021年、立花ハジメがひとりプラスチックスとして活動再開中。一気に結成50周年!ー

コピーはロボット COPY=ROBOT – SLOGANより

 

ふえい、なる程、デビュー50周年か。

 

伝説のテクノポップ・バンド「プラスチックス」初のアーカイヴブック『PLASTICS 情報過多 -TOO MUCH INFO-』 (tokyofrontline.com)

 

此の本を實は持ってる。

だがまだ本を開いても居ない。

ひょっとしてCDとかも付いて居たのか?

 

さうして兎に角弐年だけ華華しくやり消えた究極としての文明批判バンドが其のPlasticsである。

 

バンド『プラスチックス』の軌跡 - 音楽なら入れ食いですが何か? (hatenablog.jp)

 

其れで東京では好きな人もまた居たとのことでしたが名古屋にもこんなコアなファンが居たのです。

要するに自分はまた感度が特別製なのでさう云うのを必ずや引き寄せて來る「何か」を「持ってる」のです。

 

だから別に其の東京だとか名古屋だとかさう云うことでは無いんです。

例えば北海道の山奥などに羆と共に住む日本壱の感度の持ち主が居たりもまたするものです。

 

だから感度はねーあくまで場とは関係ないものでせう、其の場とは。

尚音樂系の方はむしろ其のPlasticsが持って居た「美的批判力」のことにまで気付いて居ない人が多いやうだ。

 

ですが自分は文人ですのでまずは其れにこそ気付いて居た訳です。

ちなみにかのデヴィッド・ボウイ氏が生前屡バンド名を出されて居たのが其のPlasticsだったさうだ。

 

「日本にはアノPlasticsが居るよね?」

そんなもんはもう当の昔に解散して居たのだが何故かボウイ氏は其のPlasticsのことばかりを気にされて居たやうです。

「近代の呪い」とはそも何ぞや?ーかの渡辺 京二先生を追悼せんが為の「近代」論ー

「近代の呪い」とはそも何ぞや?ーかの渡辺 京二先生を追悼せんが為の「近代」論ー

 

 

 

 

さて思想の方では渡辺京二 - Wikipedia先生が昨年暮れにお亡くなりになったやうです。

先生の御逝去に際し心より御悔みを申し上げます。

 

個人的に渡辺 京二先生は「近代」に對する深い洞察と知見を持たれた方であるやうに感じて居ます。

わたくしもまた此処にて何を論じて居るかと言えばまさに其の「近代」のことのみです。

 

「近代」が生じさせる「罪」のことをかうして個人的には書き描いて來て居ます。

故にか自分の場合には最初から「近代的価値」に對し批判的であり且つ否定的です。

 

ところが渡辺 京二先生の御意見の場合はいま少しマイルドな感じが何処かして「近代」=「馬鹿」だとさう口汚くののしらない部分をこそ勉強させて頂いて居りました。

自分は兎に角こんな「近代嫌い」な人間なのでソコんとこはもう直らぬものかとさうも思いますのですが兎に角其の近代に對し「腹を立てる」ことへの緩衝材として渡辺 京二先生が書かれた壱冊の著作をかねてより愛読させて頂いて居ます。

 

 

近代の呪い - 平凡社 (heibonsha.co.jp)

 

尚わたくしは渡辺 京二先生の著作として此の壱冊のみを読んで居ります。

また實はたった今此の本を読み返して居るところです。

 

渡辺京二と上野昂志、「思想史的知性」と主体の毅然 - king-biscuit WORKS (hatenablog.com)

 

ータイトルに「近代の呪い」とあるが、渡辺氏は近代を否定しない。
近代は人権・平等・自由という贈りものをもたらした。
また、近代化は衣食住における貧困を基本的に解決したと捉える。
もちろん、今日において、社会的な格差は拡大しているという見方はあるし、それは重要な論点であるだろう。
しかし、渡辺氏の認識によれば、それは近代化に伴う本質的な問題ではない。

私たちにかけられた「近代化の呪い」とは、次の2つであるという。
1つは、グローバル経済の進展によって国家間の競争が激しくなり、民族国家の枠組みを強化していくこと(渡辺氏は、ウォーラーステインを引いて「インターステートシステム」から考察している)。
もう1つは、近代科学が私たちの生きる世界=コスモスを対象化して、自然を資源化し、世界を人工化していくこと、である。ー三浦小太郎『渡辺京二』+渡辺京二『近代の呪い』を読んで (marrmur.com)より

 

『近代の呪い』を最初に読んだのは此の本が出された2013年のことですでに拾年近くが経って居ます。

今回の再読は四度目程となりますが何度読み返しましても此の本より大きく影響を受けた自分を其処に発見する思いを新たにします。

 

其れと今回は「第壱話」の部分で「自立的民衆世界」を解体するに及んだのがまさに「近代」だと論じられて居る部分に以前にも増して興味を惹かれました。

「近代的自我」は共同體を解体し「國家」をより強力に維持することで國民として生きる我我民衆の自立性を奪う=洗脳するに及ぶ=我が表現、との論理はまさに其の通りでのことでせう。

 

要するに近代的政治は自由だの平等だの人権だのを文明社會に確立せんが為の社會的営為である訳ですが常に「國家」と連動して行われる其れは逆に眞の意味での自由だの平等だのを奪い去りさらに人権の部分にさえ大きく制限をかけることとなる。

 

どだいかって弐度行われた「世界大戦」に於いて其の自由や平等や人権はむしろ大きく制限されて居たことでせう。

故に問題は其のデカい「國」の意志が果たして必要なのかと云う部分にこそ集約されて來る。

 

個人的には其の「國」の意思決定に對し大きく疑問を持つ。

ところが近代を推進したものの正體とはまさしく其の「國力」である。

 

其の「國力」がそも無ければ無論のこと「近代國家」など成立し得ない。

また「國力」を付けるには経済的にまた軍事的に兎に角頑張らねばならない。

 

要するに近代とは「國力」にて文明を駆動させて行くことなのだ。

但し古代文明の世界などもまさにさうでもしも「國」が弱ければ其れこそすぐに滅ぼされて仕舞う。

 

其の原理其れ自體は弐千年経っても変わりが無いやうにも見える。

逆に「変わりが無い」から文明はダメなんでせうが…。

 

其の「力の論理」にて何かを組み伏せ其の分勝者が肥え太ると云う文明のあり方其れ自體が「理性的」なものだとは言えず要するに至極「野蛮」なものである。

 

 

渡辺 京二先生の「近代」に對する概括的な理解は正しいものであるやうに個人的には感ぜられる。

尚個人的に考えるところでの「近代化の呪い」とは以下の概念となる。

 

1.近代化とは価値認識の無制限化ー非限定化ーのことである。

2.価値認識の無制限化は認識の「抽象化」の上にこそ成り立つ

 

3.SF文學的に言えば近代化は「自然からの人類の離陸」であり「神人間」を此の世に誕生させること其のものとなる

4.近代化は必然として理性VS.本能の最終戦争を招かざるを得ない

 

近代の豊かさとは言うまでも無く現存在が自然から離陸し初めて得られるものである。

其の離陸は離脱だと言い換えても良い。

 

問題は其の自然から離脱しどうするかと言うことながらとりあえず現存在の今の望みとはより豊かにまたよりスピードアップして何でも出来ないかとさう考えて居る訳でつまりは其れが所謂「近代的価値観」だと云うこととなる。

ところがそんな欲に目が眩んだ状態にてもう参百年も近代をやった御陰で、

 

5.環境破壊による地球温暖化

6.経済的な格差と経済的な不安定さ

 

との大問題を文明が抱えるに至った訳だ。

 

だから其れはもはや事實として「間違い」=「誤り」=✖なんだ。

だが誰も「✖」だとは言わないが其れは何でだ?

 

だって「✖」だと言ったが最後もう御仕舞だ。

「文明=バカバカ」とアノ変な詩人の如くに言い始めたらもう全てがおじゃんとならう。

 

 

世界の人工化=認識に於ける抽象的合理化のことだと考えられやう。

勿論何で其れが出来たのかと云えば現存在が利口で所謂大脳新皮質を進化させたからである。

 

だが其の利口其のものが實は綱渡りでの利口さのことである。

何故なら現存在はいまだに日日クソを垂れてる動物なのだから。

 

また👩の股の間からボコッと子を産んでる単なる🐒の壱変種である。

そんな🐵共の群れがまさか「神」なのだと?

 

なので其処には「理想=願望」と「現實」の上での乖離が常に引き起こされる。

即ち抽象的理念と具象的現實との齟齬であり矛盾の様である。

 

其の「抽象的理念と具象的現實との齟齬であり矛盾の様」は文明が進めば進む程により酷くなる。

例えば「仮想通貨」なるものが生み出され屡其の価値が暴落したりもして居るが其れは弐重の抽象性によりそんな不安定なものとならざるを得ない訳だ。

 

また気候の方も近年酷く不安定化して來た。

何故不安定化するのかと言えばおそらく「理想=願望」が抽象的に過ぎるからなのだらう。

 

 

さて其の離陸型の文明乃至は離脱型の文明は「抽象的理念」により象られる其れ自體が「人工物」である。

つまりは其の「脳化」ー養老 孟司先生による表現ーされた「人工物」としての世界が唯壱現存在が生きる「場」として機能するのである。

 

ところが其の行為其れ自體に「抽象化の罠」のやうなものがすでに仕掛けられて居る。

ごく簡単に言えば、例えば猛獣共が自称詩人を食おうと思い今此処にやって來るとしてみやう。

 

無論のことまず僕は驚くことだらう。

「ぎゃあああああああああー。」

 

然し其のぎゃあああああああああーと叫ぶ間にすでに自分は壱嚙みされておる。

では壱體何が來たのですか?🐅ですか🐊ですか其れとも🦈ですか?

 

うーん、どうも良く分かりません。

要するに其の「概念的な判断」の前にすでに何者かの牙により體の壱部を食い破られて居たのです。

 

 

だからさう云うのがまさに「具象的」な此の世での展開なのだ。

また主に「本能」とは其の「具象的」な領域での「合理化」のことだ。

 

するとアンタが食われたのは其の「本能」に取っての「合理化」なのですね?

あったりマエダのクラッカー。

 

要するに「理性」に取っての「合理化」と「本能」に取っての「合理化」を成立させんが為の場がそも異なって居る。

文明世界が「自然」を破壊して止まぬことなどもまた其の通りでのことでせう。ー場違いな進歩を同じ場にてやるから自然が壊れるー

 

なので最終的には、

 

理性⇔本能

 

との弐項對立の場にて最終戦争ーまさに其れがハルマゲドンか?ーが引き起こされ現存在は其の文明ごと滅びて行くことだらう。

ところでもしや此処は「人類若しくは文明」が滅びた方が良い処なのでは?

 

ちょっと違い其れが滅びることを前提に何でも目壱杯にやって置かうと云う処ですね。

但し大人が嵌まり易い惡い遊びの類を除いて。

 

 

では「理性」其れ自體が惡者なので?

「理性」其れ自體が惡いのでは無く内なる「本能」と「理性」とのバランス化を忘れるところにこそ惡=罪=煩悩が生じるのだ。

 

其の「合理化」のことに就いても「文明」が行う合理化と「自然」が行う合理化とは根本での価値認識の尺度が異なります。

また其れは大脳新皮質が欲する合理領域と大脳旧皮質が欲する合理領域とがそも場と質を違えて居ると云うことである。

 

でもって其の「違い」=所謂「差異」の部分より認識上の對立が生じます。

問題は其の對立から逃げるのでは無くむしろ現存在の側より其の對立関係の上でのバランス化を図らねばならぬと云う点にこそある。

 

要するに合理的に「暴走」を続けるのでは無くして時には「立ち止まり」相手ー自然ーの反応を窺ったりすることが大事なのだ。

 

尚「立ち止まる」為に大いに役立つのが「文學書」や「哲學書」の類のものです。

また宗教や藝術の分野もそんな大いなる「無駄としての価値」を我我現存在に与え続けて呉れることでせう。

 

 

抽象的価値⇔具象的価値

 

さて此の概念上のバランス化を兎に角考えて行く必要がある。

即ち其のバランスが崩れると往往にして、

 

自然<文明

 

ともなり易くなる。

だがイザさうなるとすでに元に戻すのは至難の業なのだ。

 

逆に言えば「近代」とはあえて其のバランスを崩し、まさに

 

自然<文明

 

として生きて行かんが為の「革命的」認識装置なのだ。

 

さて其の、

 

抽象的価値⇔具象的価値

 

を實現せんが為には必然として「抽象的価値」への制限が必要となる。

 

 

7.田舎へ移住し「近代的価値」=「抽象的価値」を自ら制限すること

8.國家による「洗脳」を解き出来得る限りに「自立性」=「精神的自由」を得ること

9.アナキストは元元「國家」なんて嫌いだが非アナキストは其の「國」が奉ずる価値に「洗脳」され易い

 

でも「抽象的理念」により象られる価値は概ね猛獣共の牙の力以上に強くありませんか?

つまり「ガアオー」とやられる前に事實上は文明の側こそが自然を調教し且つ支配して居ますでせう。

 

其の通りです。

なのだが其れはあくまで合理主義的還元論の枠内での御話で其れこそ全體論的には例えば「地球温暖化」壱つにすら文明は立ち向かうことが出来ない。

 

地球温暖化」とはでは自然の摂理なのですか?

いいえ其れは明らかに人為的な構築物即ち人工の場にて仕出かした大問題でせう。

 

かうして何処までも「地球温暖化」が進むのはズバリ現存在としてのホモ・サピエンスがバカだからですか?

其の通りで現時点ではまあバカだとしかあくまで言えぬことでせう。

 

 

さて其の『近代の呪い』にて渡辺先生は「近代的」価値を全否定されて居る訳では無い。

あくまで其れはわたくしの場合も同様なのだが「近代的」価値はなるべく限定的に扱うべきと云うのが我が結論なのだ。

 

要するになるべく減らしなるべく捨て去る。

なので本当はなるべくPCなどもやらない方が良い。

 

なのではあるがかうしてPC人間とはなっちまってる。

 

ところで其の「科学」は正しいんですか、其れとも間違って居る?

科学技術や資本主義は「拡張」の概念のさ中にこそある。

 

故に近代とは「価値認識の無制限化ー非限定化ーの暴走」なのだと捉え得る。

其の「暴走」は必然的に「破壊」を齎す。

 

但し「価値認識の無制限化ー非限定化ー」は同時に物質的な意味での豊かさをも齎す。

すると「溢れんばかりの物の洪水」のさ中にイキナリ破局が訪れると云うやうなものなのか。

 

また上手いことを言いましたね。

其れは要するにリスクの方もまた「無制限化ー非限定化ー」されて居ると云うことなのだ。

 

だから何時何が起こるかはもはや誰にも分からん訳だ。

尤も人生其れ自體が元元そんなもんなのですが…。

 

要するに動物の生もまた現存在の生も本質的にはまるで同じことで何時何が起こるかは元元誰にも分からぬことなのだ。

だけれども其の「綱渡りでの生」をあえて生きて行かねばならんのが我我生命なのだと云う事。

 

 

だから「頑張らう」が「頑張るまい」が其れは大した差では無く最終的に生命は其の平等としての悲劇をこそ背負って居る。

だが同時に「生きる上での喜び」も同様に背負って居る。

 

なので現存在が保ち居る社會的な価値が上だから人間としても上だとさう捉えるのは誤りだ。

要するに地位だの年収だのそんなもので人間の価値などはそも決められないのだ。

 

極論を言えば文明社會が大嫌いな人であれ「生きる上での喜び」を持つことだって可能である。

問題は文明の齎す価値をまさにそんな風に捉え得る人はごく少ないと云うことだらう。

 

従ってまさに其の部分こそが社會的な意味での価値上の「洗脳」で無くて何なのだらう?

大→小で國→個への認識上の転換こそが核戦争の危機より地球を救うことの要点である

大→小で國→個への認識上の転換こそが核戦争の危機より地球を救うことの要点である

 

 

 

日本が標的になるかも?…プーチンの“最後の切り札”、悪魔の核兵器「サルマト」のヤバすぎる正体 (msn.com)

一発で広島の200倍…ロシアの核兵器「サルマト」が引き起こす最悪の未来(週刊現代) | マネー現代 | 講談社 (gendai.media)

 

此のやうな壱種究極的な事實としての危惧を突き付けられると誰もが露西亜又は北朝鮮のやうな所謂きちがい國家こそが人類の敵でソコさえ無くなれば文明は安泰だとさう思うのやもしれぬがまさに其の種の認識こそが所謂「右翼馬鹿」の認識にて誤ったものである可能性が高くある。

 

正しくは露西亜やまた中國の所謂覇権主義に對しても理解を示した上で意思決定をなし行動することこそが「自國」を守ることに繋がる。

どだい自由民主主義=善=〇であり對する不自由な共産主義=惡=✖だとする価値観こそがまずは間違って居る。

 

またより正しくは其のイデオロギー對立を國単位にて成立させて仕舞うこと自體が誤りなのだ。

どう云うことかと言えばイデオロギー對立を國単位にて成立させて仕舞う「近代」と云う社會システム其れ自體に大きく無理があるのだから。

 

また資本主義なるもの自體が其の「無理の押し通し」としての経済體制ですので其処を参百年もやればまず地球は壊れて來ませう。

故に共産主義陣営が生まれたのは思想史の上での必然でありまさに右翼バカの意見として其れが「無ければ良い」として済ませられるやうなものでは無い。

 

 

個人的には其の露西亜や中國とは良好な関係を保つ「外交的努力」を是非すべきことかと思う。

中國は元元日本の「親國」のやうなもので露西亜もまた文學の方などが特に優れて居る國だ。

 

だから露西亜や中國を足蹴にする限りは今後日本は潰される可能性が高くなりませう。

逆に米國は豊かな資本主義國であり物が溢れて居りますのでそこそこに仲良くし兎に角其処から積極的に物を集めませう。

 

だからそんな體制の形に拘るやうでは眞の意味での理性派だとは申せません。

眞の意味での理性派は其の意味で別に日本のことなど心配しては居ない。

 

そんなものはなるやうにしかならんものなので出来れば余計なイデオロギー對立を避け共産圏の諸國ともそこそこ仲良くして置いた方が良い。

要するに所謂「八方美人」で良く故に米國の傘下オンリーにはならない方がむしろ「國防」にも繋がる。

 

左様にデカい部分での価値認識はむしろ其の抽象性の高さ故に「虚的」となり易いとの政治思想上の眞理に気付き逆に何処にでも行けるやうな外交姿勢を貫く方が今後日本國の利益となることでせう。

 

ですが其のことを述べたにせよおそらく多くの人人にはまるで分からんことでせう。

何故なら其の多くの人人の頭の中身がすでに「全體主義」としての「洗脳」を受けて居るからなのだ。

 

 

其の「洗脳」は理性的になることで解けますが理性的であることが必ずしも正しい意思決定であるとはまた言えぬ訳です。

ですのであくまで「価値認識」を画壱化しない方が其の「國家」としての日本の利益には繋がりませう。

 

其れは抽象的な「価値認識」を避けより具象的な価値の場に認識をシフトすると云うことです。

また「國」としての価値認識をするのでは無く「個」としての価値認識に止めて置けば其れで良いのである。

 

まあかうしてつい話が難しくなりますが要するに露西亜にそんな究極の核ミサイルにてやられる前に手を打って置く必要があるが其れは米國に對しより頼るやり方では無くむしろ自分から露西亜とも仲良くなるべきだと云うことであるに過ぎません。

 

其れでもって将來中國が日本を属國となすにせよ「天皇制」だけはやらせてお呉れ其の代わりに他のことはアナタの言われる通りに致します。

とさう中國のケツを舐めて居れば其れで良いのです。

 

さすれば日本はむしろ今より良くなりませう。

其れでもって亜細亜翡翠文化を世界壱のものとすれば良い。

 

すると糸魚川翡翠の原石標本の値段がおおまさにウナギ上りに高騰し自分の持って居る石だけで何と壱億円もの資産となった!

ああー、でも生きとって良かったー。

 

だから其の抽象性の高い概念である其の変な壱等國としてのプライドなどはむしろ捨てて行った方が良い。

逆に具象的に威張れば良く、まさに其の様が「男尊女卑」であり「バンカラ」での気風である。

 

 

尚其のきちがい露西亜が核ミサイルを撃たんでも此の文明の未來はまず先細りです。

と申しますかほぼ大破局するのが確定的でせう。

 

ですのでそんな状況でまた何でデカい夢ばかりを追うのかと云うことです。

そも其の抽象度の高いしかもデカい夢を追うこと其れ自體が現存在の認識に取っての誤り其のものなのだが。

 

其のやうな認識上の誤謬に自ら気付き其れを放棄しもっと多義的でしかも創造性に満ちた価値観をこそ現存在は是非生きるべきだ。

故に其の正しい認識の上での要点とはまさに「多義性」及び「創造的自我」と云う部分にこそ存する。

 

其れ即ちイザ其のデカい価値=國家の価値ー國家のメンツ、國家の欲望ーに「洗脳」されて仕舞えば其の「多義性」及び「創造的自我」などは軽軽と吹き飛びませう。

またつまりは「全體主義」とは其のデカい価値に個が持つ概念的可能性が圧殺されて行く場其のものである。

 

左様にデカい価値=國家の価値ー國家のメンツ、國家の欲望ーとは其の「全體主義」を必然として生むのです。

 

何故なら、

 

個<國家

 

とのことですので所詮はさうならざるを得ぬ。

 

ですが實は其処で其のデカい価値=國家の価値ー國家のメンツ、國家の欲望ーの部分を抜くとすれば此の世で「戦争」をする価値のほぼ全てが消滅する訳だ。

要するにさうして概念の場としてのスケールダウンを行うことこそが「理性的選択」の壱環とならう。

 

 

くれぐれも申しますが其の価値の過程の大きさこそが問題を大問題たらしめることの鍵の部分である。

要するに其れは逆に小さくまた多義的に意思決定することで防ぐことが可能な概念的對立である。

 

其れでもって人類がこんな核ミサイルの撃ち合いにて滅ぶのだとすればまさに茶番劇でせう。

ところが当の本人さん方はむしろ必死です。

 

だがよーく其処でもって考えてみればそんな國としてのメンツだの国威発揚だのに拘らず適度に地球上の領土を分け合い且つ適度に「生きることを限定しやって居れば」そんなことは起こりやうの無い話なのでした。

 

つまりは其のデカい意思決定の本質部とはまさにそんな意味での「愚かさ」=「馬鹿」のことなのです。

馬鹿即ち動物並みに其の新しいタイプの🐵共は頭が悪かったのです。

 

 

なので其の新しいタイプの🐵共=ホモ・サピエンス共は其処でもはやどんだけ頭が悪かったのかと云うことだけを考えて行かざるを得ない。

だから遠い昔に日本の自称詩人だけがそんなほんたうのことを言って居たがつい其の諫言を周りは無視して仕舞う。

 

嗚呼、其れだけを、其れだけを聞き入れて其の通りにして置けば良かったのに…。

兎に角近代の価値上での大矛盾の故に日本列島が吹っ飛ぶのであればまた其れも致し方無きことだ。

 

ですからそんなにはならぬやうに個としてあえて意思決定過程の範囲を狭めるべきだと我はさう述べて居るのです。

 

さすれば逆に、

 

國家<個

 

との新たな価値認識の世界が其処に仄見えても來ることでせう。

即ち現存在の認識に於ける難事業とはまさしく其の新たな価値認識の世界を切り開いて行くことにこそあらう。

思わぬ掘り出し物としての赤茶の「ランプベルジェ」

思わぬ掘り出し物としての赤茶の「ランプベルジェ

 

 

 

さて自分は「必要以上に財を蓄え高級品に囲まれ暮らす」ことは良く無いことであるとさう認識して居る。

だが其れは所謂「コレクション」を否定して居るのでは無いのである。

 

どだいこんな腐ったと申すか価値認識が最初から倒錯した社會を現存在が生きるには「愉しみ」の方もまた大事なのだから。

だが其の「愉しみ」は「生もの」の方を極力避けむしろソコに「物質趣味」を貫くべきである。

 

なので所謂「美食」もまた「物質趣味」だが但し其処には生物の生死がまた関わっても來ることなのでむしろ其処には余り拘らぬ方が良い。

第壱食ったものは全て💩になり其の💩に高級と下級の区別などは無い。

 

どうせさうして💩まみれになるのが生物の宿命なので別に何を食おうが変わりはせぬ。

 

 

だが所謂「物」は生きては居ないものなので其の💩にはならずつまりは美しいものはずっと美しく醜いものはずっと醜い。

でもって無論のことわたくしは美しい物がとても好きなのである。

 

其れも美しい生ものよりも生きて居ない美しい物が兎に角好きな訳だ。

 

だから此の半世紀ばかりは其の美しい物の世界とずっと戯れて來たのだと言って良い。

でもって最終的に其の美しい物は峻別され所謂本物に近づくこととなるのだが實は其れが高価な物ばかりだとは言えぬのだ。

 

だからバンバン金を注ぎ込み高級品ばかりを揃えるのはむしろ自分に取って下等なタイプでの物の趣味のことなのだ。

要は限られた予算の中で目壱杯に物の趣味を完遂させることこそが高等なタイプでの物の趣味のことなのだから。

 

また特に我は石趣味にほとんど大金を注ぎ込んでは居ない。

何故なら万年筆趣味の方でこそ其の大金を注ぎ込んで居たのだから。

 

其れでもごくたまに五萬円程を石に使ったことなどもあった。

いずれにせよ其の💎や万年筆はほんに金食い虫である。

 

 

また自分は若い頃🚙其れもスポーティな🚙のファンで最終的にはポルシェ位は是非乗ってみたかった。

實は運転技術が並みの人間以上にありレーサー的な走りなども出来る。ー學生の時分より走り屋でヒールアンドトウやカウンターステアも壱通りこなすー

 

なんだが万年筆の趣味をやらんが為に其の🚙の方の趣味は諦めた。

第壱🚙は至極野蛮でもって危ない。

 

さうして結局は理性が勝り剣ー動ーの部分よりもペンー静ーの方を選んだ訳だ。

また本の方の趣味がまた半端では無く要するに名古屋丸善や千種正文館の御得意様にもなって居たのである。

 

そんな我は廿代の後半位から屡アンティークショップなどに通うやうになった。

また其の頃は兎に角其の種の御買物が趣味で常に百貨店などを訪れ色んな物ー其れも文房具に限るーを買って來ても居た。

 

だから四拾歳位迄に良い物はほぼ見尽くして來ても居る。

其れも世界中の良い物を見て來しかも良く知っても居る。

 

 

なのだが自分は所謂金持ちの御曹司なのでは無くだから何処かの銅鑼息子のやうにギャンブルやら👩やらに億の金を注ぎ込んだとかさう云う下品な趣味にはならずに済んで逆に良かったのだった。

 

なんですが兎に角物趣味に関しては相当に偏執的で且つ変態的ですらある。

要するにソコでこそストレスの解消をずっとして來て居るのだから。

 

また自分は筆記具コレクターなので世界中の筆記具に関しとりあえずは詳しい。

其れもアンティーク物にも強いところこそが自分のペン趣味としての特徴である。

 

なのだが今日は別に其の万年筆の話をするのでは無い。

 

本日其の「物趣味」の上で壱つ事件があったので其のことに就き是非語りたいだけのことだ。

 

 

ケイピース - フリモ (furimo-app.com)

ケイピース(@keipese) • Instagram写真と動画

 

さて本日石油ストーヴに使う手押しポンプを中作商店にて求めたが大通りを挟んで反対側には其の「ケイピース」がある。

ー石油ストーヴに使う手押しポンプの吟味選択はなかなかに難しく満足され得るポンプは此の店にしか無いと來てる。しかもドラッグストアにて売ってる手押しポンプは作りが悪くすぐにポンプ部が破れ使い物にならなくなる。常に物に厳しい我はそんなもんを製品だとはまるで認めては居ない。ー

 

また政治や思想なども要するに其の「本物」がまず何処にも無い。

だから自分の頭の中身をこそ「本物化」して行くより他は無い。

 

其の「ケイピース」は所謂リサイクルショップではあれむしろ半分位は古い品があり實は「掘り出し物」の宝庫なのでもまたある。

此処へ頻繁に通って居た七~五年程前は色色と良い物を見つけ購入して來て居る。

 

1.漆塗りの文箱

2.島桑製の小箪笥

 

其のやうに要するに自分の場合は決まって文房具関連での物となるが要するに「安くて良い古い御品」を得る点では骨董屋等が無論のこと良い訳だ。

また其の「ケイピース」もまた半分位は謂わばそんな骨董店なのである。

 

 

ちなみに我が家は母が茶華道の専門家なので其れこそ茶碗などの良い物もまたあり其れを見ても來て居る我は其れこそ自然と「審美眼」の方が磨かれて居る訳だ。

なのだけれども自分に限ればどちらかと言えば所謂「西洋骨董」の方に強い。

 

其れも筆記具関連では強いと云うことである。

だけれども筆や硯等に関してもとりあえずは関心があり且つ知識の方もまた仕込んである。

 

要するに「書く道具」の方に関してセミプロ級の知識を備える人間な訳だ。

 

で、其の「ケイピース」の店内を壱巡りすると其処に気になる「西洋物」があったのだった。

何でそんなリサイクル・ショップにそんな物があるかと云うに要するに此の店から道路を挟んで北側は瑞穂区としての高級住宅街となるからおそらくはそちらの方から「高級品」が出て來るのであらう。

 

なので最終的には此の店は立地条件に恵まれて居るのである。

だから時折すっげえ高級品が出たりもまたするのである。

 

なんですが最近は兎に角金欠気味なので行ってませんでしたが本日に限り何故かフラフラと此の店に惹き付けられ最終的には其の「気になる御品」を買って仕舞いました。

其れも千五百円キッカリでした。

 

 

其れは要するにガラス製のランプです。

なんですが本物のランプとはまた違い所謂香水瓶やインク壺のやうでもまたある。

 

無論のこと我が目論見とはむしろそちらでの用途にこそあり要するにインクの瓶として其れを求めてみたのでした。

ところがとても作りが良くつまりは物が良い。

 

また其の色合いがガラス器には珍しく赤茶である。

形は底部の方が面取りされて居て要するにかのバカラの古いインク瓶のやうにもまたなって居る。

 

バカラ プティ・パレ コレクション インク壺「エミール・ゾラ」 - CRAFTS DESIGN (craftsdgn.com)

19th Century Baccarat Crystal Inkwell with Elaborate Sterling Silver Top | Chairish

 

其のバカラ製のインク瓶こそが我が文房具趣味としての見果てぬ夢のやうなものだが結局は未だ得られて居ない。

何故なら自分の文具趣味は金持ちの成金趣味とはまた違うものなので…。

 

わたくしの文具趣味はあくまで最終的には「理性を磨かんとする」趣味ですので要するにそんなもんよりはより御上品なのだ。

其の代わりに拾年程前でしたか、おそらくは戦前の八角形のデカいインク瓶をイーベイにて手に入れ其れを兎に角毎日使い込んで居ります。

 

 

まあ兎に角其のガラス物が好きで要するに飾りにもなるから好きでまたデカいガラス物は分厚いのでたとえ机から落としたにせよ割れないんです。

またガレとかドームとかも勿論大好きですが無論のことまるで持っては居りません。

 

ですが昔は良く名古屋三越だの松坂屋などにて鑑賞して参りました。

ガレとかドームとかも以前は何度か語って居りますが社會がより悪くなった昨今はそんな藝術的な語りがまるで出来なくなり實は正直モヤモヤとさえして居ります。

 

で、其の御品がなんか臭いー香水臭いーので家に帰ってから丹念に洗って居りました。

 

ところがミューズ石鹸を付け歯ブラシでこすり洗っても臭いんです。

「しかしながらランプの燃料ってこんなに臭いのかなあ?」

 

其れでもって御品の下側にシールが貼ってあり其れを虫メガネで視ますと、

 

「RAMPE BERGER」

 

ランペバーガー?

ひょっとしてどっかのバーガー屋の粗品なのかな?

 

ところが其れをネットで調べたところ何と御仏蘭西の高級ブランドの御品だったのです。

 

 

ランプベルジェの歴史|アロマランプ専門店 ノエル (noel-lamp.jp)

 

何と其の「ランプベルジェ」は19世紀末即ち世紀末ー我が文學の専門分野ーに創業された「アロマランプ」の専門店でした!

此のやうに仏蘭西文化を代表する「由緒ある」御品であった訳だ。

 

思うに其の仏蘭西人は余り風呂へ入らず結構臭いんでせう。

 

だからかの御仏蘭西にて香水が古より多く創られたのは其の獣臭い匂いを消す為のことだったでせう。

また仏蘭西はかって便所の事情なども滅茶苦茶で即ちかのヴェルサイユ宮殿にて貴婦人等が屡庭の隅の陰にてションベンして居たさうですからそんなもんが「文明國だと威張るな!」とさう言いたくもなりますわ。

 

 

アンティークガラス ランプショップノエル (noel-lamp.jp)

 

きゃあああああー何だ此の値段の高さは!

 

ランプベルジェ アロマランプ アンティーク AG-024 アンティークガラス ランプショップノエル (noel-lamp.jp)

 

こんな段付きと申すか角がある個性的な御品が好みです。

ー今回得た品に其の色と形が少し似て居るのがまさしく此の御品であるー

要するにアンティーク物は頗る高価でありかうして簡単には得られぬ品となる。

 

ガラスランプ ランプショップノエル (noel-lamp.jp)

 

其の本日得た赤茶の「ランプベルジェ」は其の上部のカヴァーの処のデザインがこちらと同じなので現代物なのだらう。

だけれども兎に角作りが重厚でしかも現代物にしてはどうやら古さの方もまたあるやうだ。

 

其れにしても其の千五百円は如何にも安いでせう。

 

尚其の赤茶の「ランプベルジェ」の横に黄緑色の「ランプベルジェ」もまた置いてあった。

色はそちらの方が好きだが形がそちらは丸っこい。

 

自分は左様に丸っこいものには興味が無くつまりは學生帽ならば「角帽」、またチョッコレートなどはなるべくごつい板チョコが好きでつまりは軟派なのが嫌いである。

そんな訳で本日はまた思わぬ掘り出し物を得たのだった。ーさうして壱度洗ったが其れでもまだ臭いので現在も洗剤の中に浸してあるー

 

 

さて其んな小さな発掘こそが庶民に取っての生きる上での樂しみで無くて何であらう?

ちなみに其の赤茶の「ランプベルジェ」はインク瓶としても何とか使えさうだ。

我我個は果たして何と闘うのか?ー七草粥と時代遅れのロックンロールー

我我個は果たして何と闘うのか?ー七草粥と時代遅れのロックンロールー

 

 

 

 

さて昨日は今年初の買い出しにて岐阜県産 岐阜の七草コノミヤにて買って参った。

だから其れを本日夕方より粥に仕立てねばならぬ。

 

食うこと生きることは左様に精神の領域とは別箇での壱種ややこしい領域のことである。

おまけに科学技術が此の世をプラ包装ダラケにしたので此の岐阜県産 岐阜の七草弐パックにせよそんなプラゴミが出る。

 

要するに「循環型経済」がまるで出来ぬバカ其のものが此の世の現實なのだ。

要するにそんなもんは紙つまりはセルロース系の包装を開発すれば良くしかも其れを自宅にて処分出来るやうにするだけの話なのだが人類はむしろ頭が悪く其のことがまるで出来やしない。

 

丁度昨日母と其の「人類のバカさ加減」に就き話して居たところながら世間體を気にする度が高い母でさえ「人間はもういい加減にしないとダメだ、動物はああしてメスを追っかけまわしおまけに盗み食いばかりをするわでもう何ともならんもんだが戦争ばかりをやりたがる人間は余計にバカでしかも戦国時代からずっとやってる。」などと話して居たがまさに其の通りである。

 

此の人類の馬鹿は多分「富裕層」による「威張り」の感覚から齎されて居るものなのだらう。

其の「富裕層」による「威張り」の感覚即ち利己的な自己利益追求での観念から其の社會的な破壊への引き金がまさに引かれて居るのではなからうか。

 

 

また自分はそんな馬鹿共には生まれずまさに其処だけが幸運だったのだと言えやう。

逆に此の世にて欲しい侭に大金を得他の金欠の苦労に共感せぬ心の貧しい者共はやがて必ずや精神界がしかと用意する「地獄」へと堕ちやう。

 

なんだけれども其れもあくまで此の世では其の「地獄」がむしろ貧乏人の方へと向かって来るものと相場は決まっておる。

其れにかの露西亜正教でさえアノプーチン氏の祈りの前にウクライナのことを「敵」だとさう仰っても御座る。

 

だが其れは偉い宗教指導者様、むしろアンタの頭の中身こそが其の敵なのだらう。

かくして宗教は結局社會ー世の中ーを救えはしないのだ。

 

だがまあそんな下らぬことよりも今我が頭の中は其の「七草粥」のことで壱杯なのだ。

 

 

2023 - ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート - NHK

 

昨日買い物より帰りこちらの番組もまた視たが其の指揮者はかうして毎年コンサートを平気な顔にて開くことの其の「藝術の楽観性」のやうなことを述べて居た。

なのだが自分は此の「ニューイヤーコンサート」が「藝術」なのだとは實は思って居ない。

 

「藝術」の本質とは「創造」にこそあらうが此の「ニューイヤーコンサート」の場合極言すれば「既得権益層がソコにしがみつかんが為の豪華なる儀式」の様であらう。

よって所謂「鼻持ちならぬ」部分があり要するに其れは「金や権威、権力に群がらんとする馬鹿共の祭典」のやうなところがありまさに其れが腐臭をば放って居るのである。

 

だけれどもさう思いつつも毎年其れを視る我が感性とは壱體何であらうや?

まあ其れもまた常に弐面を同時に生きる我が生きざるを得ぬ宿命のことなのだが。

 

 

桑田佳祐 feat. 佐野元春, 世良公則, Char, 野口五郎 - 時代遅れのRock’n’Roll Band(Full ver.) - YouTube Music - Bing video

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 PV (littleoslo.com)より

 

次に紅白歌合戦の模様をオンデマンドにてチェックしたところかの松任谷 由実がCGの荒井 由実と共演する部分と此の「時代遅れの爺さん達」の歌の部分だけが気になり其れを視た。

 

尚此の歌の歌詞はとても良くまさしく此れが藝術表現なのだと正直に思う。

對して「ニューイヤーコンサート」の方は壱見豪華な藝術作品のやうに見えるが實は「虚飾に彩られた特権層の為の価値倒錯としての壱種の乱交パーテー」なのであるに過ぎぬ。

 

年配視聴者の「紅白歌合戦」離れは今後確実に進む…大先輩を雑に扱ったNHKにダメ出し!(桧山珠美) (msn.com)

 

さて其の「紅白歌合戦」の凋落の姿は戦後日本が創り出した価値の崩落の流れに其の侭重なるものと見ておくべきものである。

左様にNHKもまたダメだが其の視聴料と云う金の取り立ての御陰で實は良い番組もまた創れる訳である。

 

其ればかりか官僚制もまた天皇制もさうして長く安定し過ぎて居るとダメになる分は明らかに出て來る。

だから時には壊れてみても良いのではないか。

 

NHKは今後「學的な専門性」をより高め其れこそ「大衆迎合」をしないマスメディアとしての道を切り開くことなども可能だらう。

だがさうすればする程に視聴料の取りっぱぐれがまた出て来ることとは思うのだが…。

 

對して「資本の論理」に毒された民放はマスメディアとしてより陳腐化して行くことより他は無い。

問題は今後文明に現實としての危機が訪れた場合に其れでも「お笑い番組」だの「TVショッピング」だのまた下らぬドラマだのばかりでやって行けるかどうかは可成に疑問である。

 

 

桑田佳祐 feat. 佐野元春, 世良公則, Char, 野口五郎「時代遅れのRock’n’Roll Band」特設サイト (southernallstars.jp)

 

時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 桑田佳祐

 

この頃「平和」という文字が
朧げに霞んで見えるんだ
意味さえ虚ろに響く

世の中を嘆くその前に
知らないそぶりをする前に
素直に声を上げたらいい

旅路の果ては空遠く
まだ夢叶わずに
回り道を繰り返して

One Day Someday
いつの間にか
ドラマみたいに時代は変わったよ

目の前の出来事を
共に受け止めて
歌え Rock’n’Roll Band!!

我々が居なくなったって
この世の日常は何ひとつ
変わりはしないだろう

そんなちっぽけな者同士
お互いのイイとこ持ち寄って
明日に向かって
Twist and Shout, C’mon!!
…Shake It Up, Baby!!

子供の命を全力で
大人が守ること
それが自由という名の誇りさ

No More No War
悲しみの
黒い雲が地球を覆うけど

力の弱い者が
夢見ることさえ
拒むと言うのか?

One Day Someday
いつになれば
矛盾だらけの競争(レース)は終わるんだろう?

この世に大切な
ひとりひとりが居て

歌え Rock’n’Roll Band!!
闇を照らす
ダサい Rock’n’Roll Band!!

 

 

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

私は此の歌詞こそが「世界の今」と向き合うものだとさう正直思う。

對して其の「資本の論理」の側若しくは「既得権益」に固執する側は「世界の今」とまともに向き合えない=むしろ其の現實を避けてまさに「良かった過去」へしがみついて居る訳である。

 

 

さて先日大塩 平八郎のことを書いたが、彼と云う理性は結局其の側の「體制維持」の力の前に負けたのである。

だが大塩 平八郎はあくまで教育者としての乱を主導して行くべき人物だったのだと言える。

 

ズバリ申せば其の「體制維持」の力と「革新」の力との拮抗であり戦いであるものこそが此の世ー人間社會ーでの宿命なのだ。

であるから様様な「改革」もまた必然として其処より生じるものであり其の本質は「進化」にこそある。

 

但し其処でくれぐれも「進歩」とは言って居ない点に是非留意して頂きたい。

「進化」とは生物界で行われて居ることであり人間の社會で営まれるものは其の「進化」では無く「進歩」である。

 

ところが左翼革新思想が其の「進歩」をしたがるから所謂「構造改革」となり其れがある意味で伝統的な構造としての何かを往往にして破壊して行く訳だ。

だが此処日本では保守派である筈の自由民主党が其れを主導し行ったので色んな「體制維持」の力の方が壊されたが税金だけはむしろ其の侭に払い続けなければならなかった訳だ。

 

また「紅白歌合戦」を年末に日本のみんなが喜んで視る「伝統」もそんな改革ばかりですので当然に壊れ其れは歌が変化したばかりでは無く自由民主党が革新國家米國の言いなり=🐶と化しキャンキャーンとさうして舌を出し尻尾を振ってアノアホコイズミ以降は特に酷く其れが行われて来たことにも由来することだ。

 

ですのでかうして政治史を御勉強して来た僕に言えることとは、社會に於いての「進歩」は此の際止めて「進化」へ戻らうとさう云うことです。

だから「體制維持」の力と「革新」の力とをバランス良く成り立たせる為には實際其れしか手がありませんのです。

 

 

ところがまさに其の「進歩」からこそ金を毟り取る=私腹を肥やさうとして居る人非人の類が此の強欲資本の世界に於いてはむしろ物凄く増えて仕舞いました。

だからソコへ幾ら其の「大塩 平八郎の乱」をブチ込んだにせよ「ニューイヤーコンサート」にせよ「紅白歌合戦」にせよ其れはむしろ「永遠」に其れも何事も無かったかのやうに続いて行くんです。

 

だから其の「進歩」したい力こそが貧乏人より金を毟り取る力と等価でありしかも其の力=「威張る」力其のものであり其れが「體制維持」の力の中にも元元仕込まれて居るんだ。

なのでアノアスペルガーのかのグレタ氏が特権層や既得権益層に對しああして怒った訳です。

 

またつまりは其のやうに組織は「デカく」なり過ぎたりまた「長く」続いたりし過ぎたりすると必然として「根性が悪くなる」=地獄へ堕ちて行かざるを得ぬ背徳人間共の群れへと化して行かざるを得ぬ。

 

なので其の「藝術」としてのソングが語って居ることとはそんな腐った社會の有様=腐った支配層の価値観へのプロテストでなくて壱體何なのでせう?

 

 

時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 桑田佳祐

 

この頃「平和」という文字が
朧げに霞んで見えるんだ
意味さえ虚ろに響く

世の中を嘆くその前に
知らないそぶりをする前に
素直に声を上げたらいい

旅路の果ては空遠く
まだ夢叶わずに
回り道を繰り返して

One Day Someday
いつの間にか
ドラマみたいに時代は変わったよ

目の前の出来事を
共に受け止めて
歌え Rock’n’Roll Band!!

我々が居なくなったって
この世の日常は何ひとつ
変わりはしないだろう

そんなちっぽけな者同士
お互いのイイとこ持ち寄って
明日に向かって
Twist and Shout, C’mon!!
…Shake It Up, Baby!!

子供の命を全力で
大人が守ること
それが自由という名の誇りさ

No More No War
悲しみの
黒い雲が地球を覆うけど

力の弱い者が
夢見ることさえ
拒むと言うのか?

One Day Someday
いつになれば
矛盾だらけの競争(レース)は終わるんだろう?

この世に大切な
ひとりひとりが居て

歌え Rock’n’Roll Band!!
闇を照らす
ダサい Rock’n’Roll Band!!

 

 

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

ですので、「藝術」とはそんな「直感的な社會の解釈」でもまたあり得ることである。

 

ーこの頃「平和」という文字が
朧げに霞んで見えるんだ
意味さえ虚ろに響く

世の中を嘆くその前に
知らないそぶりをする前に
素直に声を上げたらいいー

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

其の「平和」と云う概念をかうして壱種霞ませて居るものの正體とは、

1.文明に於ける馬鹿

2.政権与党による馬鹿

 

との弐種の「馬鹿」が重なり合うことで我が國の場合には特に其の朦朧度が酷くなって居る。

また、同時に「希望」と云う概念に関しても同様に其の朦朧度が酷くなって居る。

 

でもってして最終的には、

3.既得権益層の馬鹿

4.體制保持の為の個への圧迫

 

の弐点が逆に其の「體制維持」の力を弱めるとのつまりは「自己矛盾」が其処に社會的に生じて仕舞う訳だ。

要するに「何ともならん世の中」となりつつあり其れでもって確かに「素直に声を上げ」たいが其れも其の個<社會との原理により「みんなが進んで赤信号の道を渡る」ことには反對などし得るものでは無い。

 

つまりは戦後の公教育にてさうして「みんなが腑抜け」にされて仕舞った我が國では「反骨」どころか「反對意見」さえ述べられずまたつまりは其の様が「全體主義」によるものだと我は述べて來て居るのだ。

 

ーいつの間にか
ドラマみたいに時代は変わったよ

目の前の出来事を
共に受け止めてー

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

5.現代社會はそも其の時代認識を誤って居る

6.現代社會は妄想的自我をのみ今に生きる

 

現代社會は時代が進むにつれ「良くなる」とさう考えがちだがズバリ其れは誤りでの認識だ。

正しくは時代が進むにつれ「悪くなる」のである。

 

また其のことは佛法に於いてもまたキリスト教に於いてもさう古より認識されて居たことなのだ。

つまりはまさに其こそが眞理方面での「此の世での価値の履行」に関する認識なのだ。

 

でもって事實として「悪くなる」のにむしろ「良くなる」ことばかりを文明の価値観は信じて御座るので其の価値観其れ自體が妄想の類でのものとなる。

要するにほぼ「きちがい」なのだ。

 

そんな「きちがい」なのに威張るのは如何にもオカシイことかとさう思う。

 

ー我々が居なくなったって
この世の日常は何ひとつ
変わりはしないだろう

そんなちっぽけな者同士
お互いのイイとこ持ち寄って
明日に向かってー

 

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

即ち此の世での其のおバカさ其れ自體は未来永劫に亘り結局は何壱つ変わりはしない。

但し其の自らの「馬鹿」を認めるかどうかで人間の立場は大きく変わって來やう。

 

おおまさに其れを認めた時に初めて人間は「理性」的な段階へと至ることが可能とならう。

 

よって自己の其のちっこさを認め同時に欲望を自分で制御することで「知力」=「理性の力」を人間は其処に得ることが出来る。

だが逆に自分がデカいと逆に欲望も最大限に膨らみ要するに其処にて其の既得権益のみを守る體制を自らの心のうちに築き其れにのみ邁進する生の舞台を築き上げて仕舞う。

 

するともはや其処にては正常な心の働きが失われ要するに彼等は👿化して行かざるを得なくならう。

事實もうそんな👿ちゃんでえーす!

 

其れは其れは目出度いー🎊ー。

そんな御前らはすでに地獄行きが決まったぞ。

 

「No More No War
悲しみの
黒い雲が地球を覆うけど

力の弱い者が
夢見ることさえ
拒むと言うのか?」

 

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

其の「悲しみの黑い雲」を生じさせて居るのは畢竟既得権益側による放埓なる生への過分なる意志ー過分なる欲望ーである。

其れも「自然」が悪いとかさうした話では無く要するに其の贅沢三昧がしたいだけの惡代官や価値ヒエラルキー社會こそが其れを呼び込む訳だ。

 

「One Day Someday
いつになれば
矛盾だらけの競争(レース)は終わるんだろう?」

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

さうなのだ、此の世界での實相とは結局は其の「矛盾ダラケのレース」なのだ。

だから、

小<大

個<社會

との価値ヒエラルキーが変わることなどはまず無い。

 

まずは其の「絶望」した観点より出発する他は無い。

 

 

「この世に大切な
ひとりひとりが居て

歌え Rock’n’Roll Band!!
闇を照らす
ダサい Rock’n’Roll Band!!」

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

其処にて歌う人人はさうして歌え。

また繪を描くならば描けば良い。

さらに文人もまた何かを物申す筈だ。

 

よって其の個個としての實存的価値とはまさに其の「表現」の段階に於いて完遂されるのである。

「表現」と云う理性の段階に於いて初めて「馬鹿な支配者層が犯す罪」と闘える土俵に立つことが出来る。

 

では其れ以下ではそも闘えない?

 

そりゃ闘えませんヨ。

何故ならみんなは所詮そんな全體主義のドレイなのだから。

 

さてでは作文を中断し「七草粥」の調理に入ります。

…終わりました。

 

しかも椀に参杯も食いすでに腹が満腹だ。ー其の草の粥が滅茶苦茶に美味くてつい参杯も食ったー

ようやくコレで戦闘の準備が整った。

 

さてもなんですか、またアナキズムでの社會闘争とかそんなのへの参加のことなのですか?

いいえさうではありません。

 

其れはあくまで藝術上の闘争のことで貴方方の人生とはまるで無関係な個人的な闘争での御話です。

 

「力の弱い者が
夢見ることさえ
拒むと言うのか?」

桑田佳祐 - 時代遅れのRock’n’Roll Band 歌詞 | Kgasaより

 

そんな訳で我我個には常に「藝術」や「宗教」また「學問」の土俵にて「社會の馬鹿」と闘う自由が實は確保されて居る。

其の「土俵」まで個として努力を積み重ね這い上がれば決して「弱い個としての力」であるにせよ其れに太刀打ち出来ぬものでもありません。

 

まさに其れこそが我我に取っての「夢」の實現の場其のものとなることでせう。

また我我個としての實存的価値もまさに其の意味では決して捨てたものではないことだらう。

正月に京の「千枚漬け」を食うことの其の大きな喜びー+こんな「反日」としての保守が罷り通る日本の政治體制への批判ー

正月に京の「千枚漬け」を食うことの其の大きな喜びー+こんな「反日」としての保守が罷り通る日本の政治體制への批判ー

 

 

 

日本の没落を望む7人の反日主義者 (modernmonetarytheory.jp)

 

ーこちらは我も持って居る本でしかも現在読み進めて居る本であるー

 

 

そも其の「反日」と云う概念其のものが現代の日本では自己矛盾するに至り其処ではおおまさに普通では「保守」派としての人人が逆に「反日」を後押しして居るとのまさに「恐るべき」事實があると云うことを普通大衆レヴェルでの政治認識に於いてはまるで分かって居ない訳です。

 

でもってして此の本の著者である「三橋氏」は結局保守派であり従って僕みたく「アナキスト」であるだとかそんな過激な思想の持ち主なのでは無い。

要するにむしろ「日本を守る」側から政治的な意味での「眞實」を述べて行かうと云うのが其の三橋氏や堤氏やまた京大の藤井先生が属するまさにインテリ保守派閥としてのやり方なのだ。

 

自民党の歴代政権の長つまりは其のトップとしての日本國の首相は其のアホコイズミやバカアベや🐊アソーや🐵ガースーと云った頭の出来の悪い人人が實は多かった訳です。

また壱見立派に見える中曽根 康弘氏なども實は其の単なる「右翼バカ」なのでした。

 

だからまさしく其れは個人の問題では無く「右翼バカ」としての問題なのだ。

其の「右翼バカ」と「利口な保守派」とは實はまるで違います。

 

「利口な保守派」の頭の中身は大體に於いて僕みたいなことをまさに述べて居ります。

なので僕の場合は、まずは其の「右翼バカ」を根絶せしめぬ限り眞の意味での日本の體制維持はままならぬとさう述べて來て居た訳です。

 

かと言ってかのバイデン政権みたいなリベラル左派が良いとは言い切れぬところにこそ其の政治思想上の問題がある。

また共産圏と旧共産圏の國國が今まさに「右傾化」しても居ります。

 

此の共産主義に於けるナショナリズムと云うのも實は物凄く矛盾を孕んで居る訳だ。

要するにまー全部がドロドロでしかもグチャグチャな様である。

 

 

で其の世界に於ける矛盾の様と此処日本に於ける矛盾の様とを比ぶれば個人的には日本に於ける矛盾の方が酷くあるとさう捉えて來て居ります。

何でかと申せば日本社會は其の「全體主義」としての政治制度上の矛盾を其れも切實に抱える分だけ米國よりもまた中國よりもさらに露西亜や韓國などよりもより立場的にはマズからうからです。

 

但し高度経済成長期にしこたま儲けた分と及び21世紀となってもしこたま儲け続けるTOYOTAの御陰で今のところ此処日本で餓死などが発生する訳では無い。

 

ですが其のアホコイズミやバカアベや🐊アソーや🐵ガースーを選んだ責任はまずは我我「有権者としての國民」にこそありまた半分は「自由民主党」と云う政党其れ自身での責任です。

でもだからと言って「維新」だとかまた左翼政党が連立政権を組めば良くなるのかどうかは誰にも分かりません。

 

だが其の「右翼バカ」だけは是非止めるべきでせう。

尚現キシダ政権はそんな「右翼バカ」では無い筈でしたが結局は其の👪主義のキシダの理性が獣共にやられて仕舞い要するに其れは、

 

「おい君、ちょっと待った!其処は是非理性的に話し合おうではないか!」

とさう叫んだ途端に其の猛獣共の牙がキシダの首に食い込んだのであります。ー左様に👪主義をやる限りキシダの理性は弱いー

 

 

猶、其の「右翼バカ」だけでは無く實は「左翼バカ」の方も居るんです。

其の「左翼バカ」の場合は所謂「理想論」にばかり走り且つ「過去」を全て切り捨て政治をやらうとするから其処にて其の「理想」が「抽象的」なものとなり過ぎるきらいがどうしてもある。

 

ではあるが、

 

「左翼バカ」<「右翼バカ」→「右翼バカ」<「左翼バカ」

 

とむしろさうして行く方が庶民の暮らし振りは安定化されることかと思われる。

何故なら此の侭「右翼バカ」に政治を任せたにせよすでに経済成長は望めぬので要は過去の遺産によりかかりつつかうして食い繋いで行くより他はありません。

 

なのでむしろ左派の方に期待をかけても良いのですが結局は経済の分野の方で社會主義系の思想が弱體化して仕舞って居り其れと機を壱にして「資本の論理」の方が暴走して仕舞って居ますから要するに其れもまた喩え話で言えば「理性的な意味での平等主義が強欲資本と云う獣」に襲われ今まさにバリバリと食われておるとのことである。ー文明の危機(綻び)により理想の體制への希求よりも現ナマの力の方がより強くなったが故にー

 

ですので其の日本に於ける政治的な混迷であり経済的な破壊を招いて來しものとは要するに我我有権者が圧倒的多数的に馬鹿であったと云った話のオチとならざるを得ぬ。

では壱體どーすれば良いのだ?

 

 

何度も申して來ましたが「自立的、自律的な意思決定」が出来るやうに「御勉強」の方をイヤでもしてみて下さい。

「御勉強」する素材はネットでもまた図書館や書店などで探せば良く、でも會社だの学校だの塾だのから帰ると兎に角疲れるので後はもうエロ本でも読んでゲームをやらう。

 

まさかそんなでは此のややこしい社會とは闘えません!!

其れかあえて僕が塾を開かうか?

 

…もしや其れは「アナキスト」を育てる為の思想塾なので?

でも其れはちゃいます、其処で育つのはむしろ祖國日本を大事にする保守派の良い子達です。

 

ですので兎に角そんな「くじけない保守派」としての三橋氏や堤氏の著作を是非読んでみて下され。

 

 

さてかうして此れだけあちこちで思想闘争を続けて居れば当然ながら脳が極めて疲労する。

其れで自分は主に「チョコレート」を食い常に脳に對し栄養を与えて居る積もりである。

 

だが其れでも其の脳疲労や體調の不調が回復しない場合がありそんな折にてきめんに効くのが酢漬けの漬け物の類である。

だが漬物は沢庵漬けなどでも決して體に悪くは無く其の逆に其れを食えば元気になれるやうな気がするので屡買って来たりもまたする。

 

【楽天市場】紀州 紀の川漬け・(紀ノ川漬け・きのかわづけ)/たくあん漬け/お漬物/おつけもの:みかん梅干し紀伊国屋文左衛門本舗 (rakuten.co.jp)

 

今手元に資料が無く「コノミヤ」にていつも買って來る商品が出ては來ないが此の種での漬け物である。

其の「コノミヤ」は結局関西系のスーパーなので関西系の食品が多く置いてあるやうだ。

 

其の関西系の漬け物の類で壱番良いのが「昆布」が入れてあるところである。

さて其の「昆布」は我が好物の壱つで、それも、

 

1.昆布

2.里芋

3.牛蒡

4.山葵や木耳

 

との好きな食材の順位があり要するに壱番好きなランクでの類の食材なのだ。

 

また我は蕪なども好きで無論のことながら其れもまた1.か又は2.に位置する。

すると要するに其の蕪と昆布と酢との組み合わせである所謂「千枚漬け」が我に取り最高の漬け物とならざるを得ぬ。

 

 

清水漬物 刻み千枚漬け 140g(清水漬物商会)の口コミ・レビュー、評価点数 | ものログ (r-n-i.jp)

 

でもって年末に「コノミヤ」にて其の「刻み千枚漬け」を買って來た。

ところが京東山の料亭の「おせち」を始め「雑煮」やまたビーフシチュー(世田谷自然食品の)やら大阪の蟹屋の蟹だの兎に角食い物ダラケで實はなかなか其処迄辿り着けなんだ。

 

だがこのところどうもヘタレ気味なので本日急に「酢」が効いた物が兎に角食いたくなった。

其れでようやく其の「刻み千枚漬け」が食えたのだった。

 

どうのかうのでは無くまずは其の「酢」の塩梅が良く其れがまるで體に染み渡るばかりである。

さうして細かく刻まれた「昆布」が兎に角美味い。

 

尚其の「酢」や「昆布」は體の疲労に効くばかりか或いは「脳疲労」の方にも効く可能性が高くある。

だから毎日とは言わずとも少なくとも週に壱度は食いたいところながら實は其の「千枚漬け」は値が張るので普段は「紀の川漬け」の方で全て済まして居るのである。

 

 

其れもまあ小金持ちであれば其れも屁でも無い金額なのであるがあんな日銀のアホな総裁だのアソーの🐊爺だのそんな金持ち連中とは違い庶民の懐具合は實際常にギリギリなのだ。

そんな訳で経済的な自由度の少ない庶民はさうして常に食材の選択にまで苦労して居なければならない。

 

嗚呼さう言えば昨夜午前参時頃妙に腹が空き其れで結局「紀の川漬け」の方をしこたま食っておったものだった。

ー結局常に頭を使い過ぎ「不眠症」なので時折さうして昼夜が逆転したりもまたするのだー

 

すだち大根千枚 | 株式会社 清水漬物商会が製造する商品をご紹介 (kyo-shimizu.com)

 

こちらなども如何にも旨さうだ。

だが其の値段の五百円はあくまで漬け物とすれば結構高価である。

 

其れも「紀の川漬け」の方はせいぜい弐、参百円の世界だった筈。

其れも五百円出せば無論のこと🍱の方が買えるのである。

 

 

刻み千枚漬(10月~5月限定商品)|辰巳屋食品株式会社 (easy-myshop.jp)

 

うーむ、しかしながらこちらなどは如何にも安い。

あれでも徳島の會社の商品でしかも昆布は無しか。

 

きざみ千枚漬 | 旬のおすすめ,冬のお漬物 | 京漬物の老舗 京都 赤尾屋|通販 お取り寄せ (akaoya.jp)

 

此れなどはイケて居る可能性が高いが矢張りと言うべきか値段が少し高い。

 

 

真 千枚漬 | 株式会社 清水漬物商会が製造する商品をご紹介 (kyo-shimizu.com)

 

嗚呼是非此れなどが欲しいわい。

此れは其の千枚漬けがデカいし昆布などもよりデカくなる。

 

だがむしろ「ちっこい」方が良いのでせう?

ま、「國」や「志」などはね。

 

だが結局物はさうでも無い。

其の物の場合は「大量生産であり大量消費すること」が惡いのでありより本格的な物や所謂本物を目指すことは許されて居てしかるべきなのではなからうか。

 

でも高いんでせう?

だから日頃はまさか此れは食えない。

 

だが正月だけ食うには悪くない御品であらう。

なる程、さう云うのが結局「庶民に取っての生きる喜び」であり「こんな腐った社會を我慢して生きたことへの自分自身への御褒美」なのか。

 

 

其の通りだ。

かうして人生が全て御先眞っ暗ではまるで生きた心地がしない筈だ。

 

だから自分なりの「小さな喜び」を積み重ねて生きる方が人間は幸せなのだ。

また要するにまさにそんな「小さな喜び」に包まれることこそが生其れ自體への「愛」の履行である。

 

其の生き方はされど佛法に於ける「眞理」を生きるやうな生き方なのでは無くつまりは「煩悩即菩提」の方に近づくタイプでの「愛」の履行のことなのだ。

腐った社會に對する怒りは義憤ながらむしろ其の義憤には潰されぬやうに是非したいものだー「大塩 平八郎の乱」より考える「義憤」としての行方ー

腐った社會に對する怒りは義憤ながらむしろ其の義憤には潰されぬやうに是非したいものだー「大塩 平八郎の乱」より考える「義憤」としての行方ー

 

 

 

 

さて年を越しても相変わらず馬鹿 - Wikipediaが多い此の世の中を渡って行くのはほんに大變である。

尤も僕の場合には今や其の「世間」を「限定」的にしか捉えて居らずつまりはもはや変な正義感を発揮し此の「腐り切った世の中」を変えやうなどとはほぼ思って居ない。

 

と申すか結局「他己」を変えることなどは出来ずつまるところ周りはさうして「洗脳」された挙句にほんたうの「馬鹿」となり滅びるものである。

だから其れはある意味で「ザマアミロ」なのだ。

 

であるとすれば別に焦って「何とかしやう」と精神的に「あがく」必要などは何処にも無い。

そんな訳でむしろ僕は今「嗤いながら」人類による愚かなる数数の意思決定の様を俯瞰視して居るかのやうな感じである。

 

何時の間にかそんな「仙境」に遊ぶ人となり「ついにやったぞ」と云う感覚と共に壱種の寂寥感をも感じて居りだから其れが良いのか悪いのか分からぬが兎に角其れが偽らざる自分の心境なのである。

 

猶自分は常に「理性的」な人間であらうと欲して來た訳だが其の「理性的」な意味での正しさは往往にして此の腐った世の中には通じないと云うことを此の際壱言述べて置きたい。

 

 

「大塩平八郎 信念を貫き社会を変える!」 - 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) - NHK

11月1日 NHK・Eテレの「知恵泉」に大塩平八郎が登場: 大塩事件研究会のブログ (cocolog-nifty.com)

 

さて本日我は此の「知恵泉」の「大塩平八郎の乱の回」をTVにて視た。

尤も其れは弐度目の視聴である。

 

大塩平八郎の乱 - Wikipedia

 

其の元大坂の役人だった大塩 平八郎は腐った社會制度ー幕藩體制ーに於ける矛盾と腐敗に對し怒り決起をした。

だが其の乱はすぐに鎮圧され彼大塩は爆死したつまりは體が黑こげとなり死んだのだった。

 

では大塩 平八郎は間違って居たのか?

いえ其の義憤其れ自體は正しいのである。

 

また大塩 平八郎が役所を辞し所謂私塾を開き「教育」に勤しんだことは完全に正しいことだった。

何故なら要するに「自分自身の頭にて考えられる人」を育て上げることこそが眞の意味での教育の目的なのであるから。

 

其れに其の「自分自身の頭にて考えられる人」が社會に増えればまた社會は「変わらざるを得なく」なる。

要するにまさに其れが理性的に「人間を生きる」ことなのだ。

 

逆に申せば知識による「洗脳」だけをして居ては逆に此の世はより悪くもならう。

要するに高学歴の「馬鹿」共が増えるダケなので余計に搾取だの汚職だのが横行するより悪い世の中となって行くものと相場は決まって御座る。

 

 

で僕はそんなバカ共とは違いかうして悲しい哉頭の出来が良い。

だからかうしてみんなとは違うこともまた言えるのだし其れに👩にもまるで触って居ない。ーほんたうに其れに触れば触る程バカになるぞ!ー

 

ま、其のことは別として兎に角自分もまた頭が良い分所謂社會的に潔癖でありまた悪いことに大學の方のゼミが體制史の方だったので此れ迄もうモロに其れにかかり切って來ちゃった。

また文明論の類も其の辺の學者並みに御勉強して来たので其処でほぼ現代社會に未來が無いことなども分かっちゃってる。

 

そんな僕が今インテリの學生さん達に御伝えしたいことがありまさに其れは社會的な価値を「放棄せよ!」とのことである。

 

ええっ?

「蜂起」又は「革命」の間違いなのでは?

 

いいや、違う。

其れはズバリ「👩と社會を放棄せよ!!」とのことである。

 

 

是非其れ等を放棄し「私塾」を開くべきだ。

もしや其処にて「革命分子」としての靑少年を育てる御積りなのか?

 

いいや決してさうでは無い。

何故なら「蜂起」又は「革命」を志すと其れこそ大塩 平八郎の如くに黒焦げになり焼死する他は無いからだ。

 

だからむしろ其の思想塾にて「社會をバカにし捨て去る人間」だけを育てることに専念すべきだ。

アンタ其れでも教師なのかい?

 

いえわたくしは元元教師では無く壱藝術家ですよ。

尤も其れも自称の壱藝術家なんですがね。

 

 

いやあー、しかしながら良く考え抜かれた結論ですこと。

確かに其れは反乱と言えば反乱ながら其の「捨て去る」こと自體は憲法の「思想、信条の自由」の部分にて保障されたことなのであくまで間違いなのでは無い。

 

其の「バカにする」=「無視する」こととは實は「全否定的」に扱い問題にして居ないと云うことだ。

但し世間では其れを誤って解釈し、其処で屡弱き者を強き者が「いじめ」たりなどもまたして御座る。

 

だから逆に弱き者がむしろ思想武装し其の「強き者」の側を精神的に全否定してかかれば良いのである。

但し反抗し過ぎずにしてちゃんと学校ーしかも大學も出るーへ行き御飯もまた確り食べ其処に兎に角頭の良さをこそ涵養して置くべきことだらう。

 

 

大塩平八郎|誠をつらぬく名言集!「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり」 | 歴史上の人物.com (colorfl.net)

 

左様に身が滅ぶのと心が滅ぶのでは心がやられて仕舞うことの方が所謂罪またつまりは煩悩の度がより酷くならう。

また「知行合壱」なる陽明學からの概念は矢張りと言うべきか良い。

 

逆に申せば日本の支配層に其の「知行合壱」が出来ないところにこそ社會的な大矛盾が蓄積されて行く訳だ。

またつまりは其れが先回に申した「利己的に威張りちらす」との部分のことだ。

 

其の根本でのところが治らず結果此の21世紀になっても「支配層としての金持ち連中」の心のあり方が腐り切って居る訳だ。

但し其の「陽明學」だのまた其の幕藩體制の基本原理となった「朱子學」へと今更戻る訳にもいきません。

 

だから新たなる「文明に於ける思想」が今どうしても必要となる。

 

1.循環型経済

2.農業革命

3.哲學的な価値観の教育

 

の流れこそが個人的には必要かと思われる。

でもって僕が今詳しく語ることが出来るのがまさに3.の流れでのことでせう。

 

つまりは其の「哲學的な価値観の教育」の流れこそが今現代人に取り是非必要なのです。

また其の「放棄」としての思想的な流れもまさに其の3.の流れとしてのことである。

 

だからもう僕は今後其の「哲學の先生」となり此処にて何かを書いて行きます。

但し其ればかりでは無く「藝術」及び「物の美」に就いても勿論語って行きますのですが。

 

 

大塩平八郎の檄文 | 何かおかしいよね、今の日本。 (ameblo.jp)

 

さて此の方は「右翼」の方ださうですがかうして詳らかに其の大塩 平八郎に就き語って頂くと彼の人となりが眞に良く分かって來ます。

また大塩が書いた「檄文」の方もしかと載せられて居り其れが大いに参考となる。

 

尚自分はすでに右や左のイデオロギー對立の流れを超克して居り要するにどちらをも放棄しまた同時にどちらをも認めて居ります者です。

要するに其の思想の流れ其れ自體を「全否定」するのでは無く「バカな支配層の利己主義」のみを全否定する者なのです。

 

最終的には其の「バカ」を根絶せしめたいと云うのが理想ですが其れも「乱」だの「革命」だので其れをやるのでは無く「無視」することで是非其れを達成すべきことでせう。

尚其れと是非付け加えて置かねばならないのは、右や左の立場にて思想的に闘争されて居る方方は基本的に眞面目であり所謂「大衆的な傍観」を続けて居る愚民共とは違うと云うことでせう。

 

なんですが別に今僕は思想的に闘争して居るのでは無くあくまで藝術上の其れも「岡本 太郎」氏との藝術家としての「ぶつかり合い」のことだけでもう頭が壱杯でありだから社會のことなんぞはまさに我関せずでの立場にこそある。

 

 

大塩平八郎の檄文 (sakura.ne.jp)

 

社會の組織の不平等性と云うものには常に壱定の法則があり、ですので實は何時代であれ其の搾取の度や社會的な腐敗の度に関しては余り差が無い。

 

ですが、

1.農耕社會以前での原始共産制的な社會に於いては資源消費に於ける平等性はむしろ担保されて居た

2.幕藩體制とはそも「限定」的統治主義のことで其れはむしろ幕藩體制以前での統治構造及び幕藩體制以降での統治構造と比し優れて居た面が多かった。

 

要するに其の「文明化」された以降での統治體制としては幕藩體制こそがむしろ理想的な面を持って居たのだと言えやう。

但し其の統治機構は必ずや腐敗を生む即ち政治的な綻びを生じて参ります。

 

其れが単に政治的な綻びであるにせよ江戸時代に於いてはまさに其れが民に取っての死活問題でした。

また其れを逆に申せば今後地球温暖化の進行により我我庶民に取っての死活問題が今後現代社會に生じて来る虞が今や80パーセント程もありませう。ー特に2050年以降はヤバくなることだらうー

 

であるからむしろ江戸時代の方がまだしもマシなんだな。

また其の番組でも取り上げられて居たが当時の大坂の統治組織が何もせずに居たのでは無く其の飢饉だの米の価格の高騰に對しあれこれと手を打って居たのださうです。

 

要するに統治組織の側もまたみんなが全部死んじゃうと労働力も無くなるのだしさらに税金の方も徴収出来なくなるので要するに「生かさず殺さず」の状態にて目壱杯に搾取して置かんと自分等の方が干上がって仕舞う。

 

だから其の点から鑑みればむしろ今の日本の経済状況の方がより悪いのだと言える。

何故なら今や自民党もバカだわまた日銀もさらに財務省や東京都も大阪府名古屋市も同様にバカだわで要するに総おバカ状態なのでもうこりゃヤバいですよ。

 

嗚呼其れと札幌や福岡、さらに仙台など日本の都市部はもう全部がおバカですよ。

あれ、またちょっと言い過ぎちゃったー。

 

 

尚其の左右でのイデオロギー對立は決して概念的な解決を齎さず最終的には「戦争」を齎しますのでむしろ其の思想の別には拘らず逆に融通無碍に「體制維持」と「革命」の間を行ったり來たりして置くことこそが眞の意味での政治的インテリジェンスの発露の場ともなり得ることだらう。

 

よって特定の政党を支持することなども此の際止めて置くべきだ。

またみんながやって居るからと「投票」に行く必要などもまた無い。

 

但し自分で信じて其れをやるならまた其れも壱つの価値であらう。

尚自分は「共同體主義」のアナキストですので勿論「投票」には行きません。

 

でも何処かでアナキズムの集会やデモでもあればもしや参加することなどがあるのやもしれません。

 

尚其の「共同體主義」と「幕藩體制」の違いは其の「将軍家」のやうな中央集権的な組織が「共同體主義」での統治組織の中には含まれないと云うことだ。

要するに其の「政治権力の集中」にこそ問題が生ずるのだ。

 

また其れは所謂壱党独裁での共産主義體制であるにせよ其の轍を踏むことを免れ得ない。

つまりは其の「デカい力」こそが悪さをするのです。

 

 

だからデカいんじゃ無く「ちっこい」方が良いのです。

また現存在其れ自身もデカい意思決定=大志に生きるのでは無くちっこく生きるのが最も理性的にバランスの取れた生き方其のものとなる。

 

でもって自民党もまた日銀もさらに財務省や東京都も大阪府名古屋市もおまけに札幌や福岡、仙台も皆デカい意思決定となるのでそもダメなんだ。

 

「靑年よ、小志をこそ抱け。」

 

まさに其れが此の藝術家としての我が哲學の内容なのだ。

 

だから其の大塩 平八郎の「檄文」にせよまた以前論じたことのある三島 由紀夫先生による「檄文」も兎に角「何とか日本の政治又は防衛力」を立て直さうとして書かれたものであり至極眞面目なものです。

 

ところが其の「思想的主張」には實は其れ自體に矛盾が組み込まれて居る。

其のことだけはまさに學者並みに政治思想を御勉強して行きませんと決して見えては來ない思想的帰結である。

 

なんですが、あくまでさうして「此の侭ではヤバい」と云うことを無知なる大衆層に知らしめんが為には其の「檄」での類のものが有効でもまたある訳です。

事實そんな「檄文」の類の内容に直に触れますとどんなに鈍感な家畜野郎にせよ「ハッ!」ともさせられることでせう。

 

其の意味での「檄文」の価値を否定するものでは無い。

事實大塩 平八郎や三島 由紀夫先生による「ストレート」な思想の発露の部分は其の後多くの人人に少なからず影響を与えたのではなからうか。

 

だけれどもまた双方とも「壮絶なる死に様」を其処に晒すしかなかった。

其処は要するに此のデカい「社會」と眞正面から對決すれば、

 

個<社會

 

との原理よりズタボロにされて死んで行くより他はないのだ。

 

 

なので、むしろ「無視」する。

其れも「バカだ」、「アホウだ」とさう罵倒しつつ「無視」して置くのが得策なのだ。

 

だけれども其れでもまだ腹が立ちませう。

其れも頭の良い方方などはどうしてもさうなる。

 

また往往にして「絶望」に至ったりもまたする。

だからそんな時はもう其れをあえて「忘れる」のです。

 

或は僕みたくに、

 

社會との思想的闘争<藝術上の藝術家との闘争

 

との闘争の土俵の上での組み替え等を是非してみるべきだ。

まあ僕の場合は左側がほぼ1割で右側がほぼ9割程を占めるに至って居ります。

 

 

但し其のー大塩 平八郎や三島 由紀夫先生による「ストレート」な思想の発露の部分ーからは大いに學んで置く部分がまたあることでせう。

畢竟其れは「意思決定に於ける自立性」のことなのではなからうか。

 

要するに彼等の如くに凄惨な死に方をするにせよまた他のどんな不利益を被らうともー超貧乏となったりまた👪の崩壊に至るにせよー其の「意思決定に於ける自立性」を保持しつつ生きることこそが「観念に生きる人」=「インテリ層」として保ち得る矜持の部分でなくして何なのでせう?

 

「インテリ層」は場合によりさうして「観念」に殉じて行かねばなりません。

でも藝術家は所謂「藝術に殉ずる」のですから果たしてドッチが良いのか?

 

あれまるで分からんやうになっちゃいましたー。

まあだが其処は僕だけの特殊な御話にて皆様の場合にはまさに「そんなのカンケーねえ」のやもしれません。