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第44回名古屋ミネラルショー奮闘記 ー壱 緑の石への趣味と鉱物學の講演會のことー

第44回名古屋ミネラルショー奮闘記 ー壱 緑の石への趣味と鉱物學の講演會のことー

 

 

 

 

国内外の鉱物・宝石が大集合「名古屋ミネラルショー」| HIROBA! (hiroba-magazine.com)

 

昨日土曜日に年に壱度の石の祭典、ミネラルショーへと出向き奮闘して参りました。

 

其れでもって本日は至極疲れて仕舞いつまりはヘロヘロなのですが其れでもまた石への情熱に就き語らせて頂く。

 

尚其の前に此の種の癖と云うものに就き語りたい。

さう結局其れは癖に他ならない。

 

例えば女癖が悪い、酒やギャンブルと縁が切れぬ、などのさうした癖と云うものがありまた例えばかのワイルドなどは其の美少年とは縁が切れなかった訳だ。

 

ですがわたくしに限り其れ等とは縁が無くつまりは石だけが有れば良いんです。

石と万年筆だけが有ればもう何も要らないんです。

 

さう云うのは欲が全て其処に流れ込んで居るのであらう。

要するに其の石との愛欲関係を偏執的に切り結んで居る訳なのだ。

 

では石と結婚するか乃至は👪となれるかと言えば勿論其れは無理と云うものだ。

ならば壱體何に魅せられ其れと向き合うのかと言うに其れはひとえに美である。

 

美にも抽象的な美と具象的な美とがまたあらう。

抽象的な美⇔具象的な美

 

わたくしは結局其のドチラをもやるのである。

つまるところは藝術と物の美とをさうして同時に追求する。

 

だからさう云うのこそがまさしく詩人としての生き様ぞ。

詩的精神の発露たる其の永遠なる美への固執としての形である。

 

 

 

2022 名古屋ミネラルショー開催中です - YouTube

 

さてこちらが奈良の天川クリスタルさんのブースの模様です。

此処で10秒~12秒のところにショーケースの上の金魚鉢の如き丸いガラス瓶に入れられたノーブルオパールの大きな標本の塊が見えます。

 

まさに其れが今年の名古屋ショーに於ける驚愕の石としての女王でした。

画像ではほとんど分かりませんが兎に角とんでもない煌めきの石でおそらくはエチオピア産出での貴蛋白石です。

 

其れも壱つ壱つが拾センチ程もあり兎に角デカいのだ。

またオパールの七色の輝きとしての遊色がまたデカいのだった。

 

だから瓶の中全部がギラギラにて其のショーケースの上で輝く訳だ。

正直百萬出しても良いので売って欲しいであらうまるでウソの如き標本でした。

 

 

まさにほんたうの💎とは結局かうしたものなのだらう。

 

さうした意味で今回はまず、

 

「世界でもトップクラスでの石の数数を其処に観賞することが出来た」

 

のだった。

 

a.件の天川クリスタルのエチオピアオパールのノーブルオパール標本ーおそらくは非売品で値段を付けるとなると三百萬円程か?ー

b.恐るべき美しさを示す中國産の緑水晶の標本ー確か六拾萬円台ー

c.完璧な迄の美しさを放つコロンビア産エメラルドの標本ー値段を尋ねると三百五拾萬円とのことであったー

d.國石翡翠の壱級標本

 

をしかと観賞することが出来た。

 

尚他にもロードクロサイトー菱マンガン鉱ーの素晴らしい標本も見かけたが其れは鉱物ショーでは常に見かける石である。

値段は五拾~百萬円位であらうか。

 

 

でもって無論のことさうした壱種現實離れした値段の石はまさに本物の💎であり且つ美の極致の物なのでもまたある。

勿論我がもしも宝くじ成金ならば其れ等を全部欲しいところながら其れは我が限定された石の趣味とは違う世界のものである。

 

要するに眼福の為の標本なのでありまさか實際に手に入れるやうな物なのでは無い。

其の代わりに此の目に其の色や形をしかと焼き付けて置かねばならぬ。

 

さて其の國石翡翠の壱級標本に関しては、

 

1.六、七拾萬円の標本を弐点第壱會場にて観賞し、

2.参百萬円と百萬円の標本を第弐會場にて観賞した。

 

特に其の参百萬円の標本は大きくて色の濃い部分もあり良かった。

但し其れ等もあくまで完全な翡翠の標本なのでは無い。

 

 

さて其の参百萬円もの標本を売って居られたのは高野 良宗さんと云う年配の方で富山の方である。

【楽天市場】糸魚川翡翠勾玉 > 翡翠-浅葱勾玉:糸魚川ヒスイの店 (rakuten.co.jp)

 

かうした勾玉なども創って売って居られるやうだが兎に角話の面白い、且つ話しかけ易い方である。

尚我は人間との会話が本質的には嫌いなのだがかうして結構良く人とは喋るタイプなのだ。ー所謂弐面性のあるタイプだー

 

兎に角此の方の参百萬もの翡翠を触らせて貰ったのでパワーが出たのかついでに横浜のJOYTEC翡翠専門店 ジョイテック (rakuten.ne.jp)の荒木 一理さんとも話し込んで来た。

其の荒木さんとは初対面ながら動画ではいつも拝見して居てとりあえずは思った通りにパワーのある方である。天然翡翠専門店 JOYTEC JAPAN - YouTube

 

 

其の動画の方の続編はミャンマーでの翡翠の買い付けや鉱山の様子などを纏めたものを出来れば創りたいと仰って居たがコロナと政情不安にて事實上は創れぬさうである。

但し買い付けの方は現地へは出向かずににされて居るさうである。

 

そりゃあさうだ、でないと石の商売が成り立たぬ訳なので。

 

 

さて第弐會場の奥の方に伊藤 加奈子と云う方が翡翠店を出されて居り其れが小滝物産店であり本場新潟糸魚川の店である。

 

其処にてまずは翡翠の標本を購う。

其れは地元のコレクターの整理品ださうで高価な逸品などでは無いが大き目ー7×6センチー程で白地に鮮やかな緑色が部分的に入る標本で其の鮮緑色に惹かれ弐千円まけさせ購入した。

 

翡翠は蒐集が特に難しい石なのだと思う。

 

他方ではエメラルドやルビーやサファイアなどもまた原石の蒐集が難しいのだが其れは何故かと云うに良い原石は全て製品化されて仕舞うので標本として良い物が出回らなくなるからなのだ。

また日本の翡翠の蒐集の難しさの場合は其れが掘っては居らず拾って居る翡翠のみに過ぎぬからなのだ。

 

要するに翡翠として掘られ製品化されて居るのはミャンマー産ばかりで日本産の翡翠は川や海辺にて拾われた物が勾玉などに加工され流通して居るに過ぎぬのだ。

だが其の拾われた翡翠原石の中にも眞の意味で💎級の物がまたある。

 

 

翡翠・原石 | 東京新潟県人会ウェブ広報 (niigatakenjinkai.com)

 

ろうかん翡翠1- Bing images

ろうかん翡翠2- Bing images

 

其れが此のやうな物だが此のクラスの物は滅多に売買などはされて居ないことだらう。

要するに幻の翡翠原石として博物館だのまた極壱部のコレクターなどがまさにコレ等を保管して居るのである。

 

よって先に述べた百萬円、参百萬円で売られて居る糸魚川産の翡翠原石も此れ等のロウカン翡翠原石よりは下のグレードのものと必然としてならざるを得ない。

 

かえって縄文時代の勾玉などに此のクラスの石質の製品がありだが其れは大昔の話であり其の頃は越の國ー新潟県ーの海岸や川にこんなものがポコポコと落ちても居たことだらう。

またつまりは其れが数百萬、数千萬クラスでの翡翠原石と云うこととなるのである。

 

だから鉱物ショーやオークション、また現地の店などで売られる糸魚川産の翡翠原石はあくまで普通の翡翠の石なのであり💎級の原石なのでは無い。

其れでも石の愉しみとは何度も申すが如くに石の質ばかりでも無いのである。

 

さうして買える範囲にて石を買い且つ其の石を愛で独りほくそ笑むことこそがつまりは自己満足を満足させることが其の鉱物趣味としての醍醐味なのだからこそ。

 

日本でも採れる翡翠(ヒスイ)|主な産地と特徴、日本史に見る翡翠 | カラッツ Gem Magazine (karatz.jp)

 

 

 

さてお気付きのことかと思われるが、

 

1.緑の石を得ること

2.大きめの標本を得ること

 

ことこそが今回の我が蒐集としてのコンセプトである。

 

最終的に我が石趣味は、

1.赤の色石

2.靑の色石

 

を経巡り、

3.緑の色石

 

へと行き着いたのである。

 

また元來我は緑色が最も好きな色なのだ。

 

屡緑色は異常者やまた天才などが好む色とされるがまあ確かに其の通りのことなのではないか。

 

ちなみに五年程前に高校の先輩の高学歴👩ー今六拾五歳ーにフラれたことが實はあったが彼女もまた緑色を好むひとであった。

翡翠もまたあげやうとしたが断られた、コイツに関わるとロクなことにはならぬとさう判断されたのであらう、でも棚山のオパール標本だけはあげたー

 

其の棚山のノーブルオパール標本と言えば第弐會場でのサイバークリスタルのブースに其れがあり確か四萬八千円だったが四萬にすれば後で来ると言ったら其れではどうぞと言われたが結局緑の石ばかりを買って仕舞い行けはしなかった。

 

オパール(棚山高原)サイバークリスタル (cybercrystals.net)

 

此れとはまた違うだらうがまだこんな物を持って居るのだ、此の店に限り。

 

さて其の後柿野鉱山産の緑水晶を買う為に第壱會場へ戻り其れを入手す。

柿野鉱山産の緑水晶は五年程前に此の吹上の鉱物ショーでデカく凄い標本を得たのだが飾ってあった其れをつい先日布団を引っ掛け落として仕舞い部分的に折れて仕舞った。

 

ところが其の折れた結晶部が美しく要するに単結晶として充分に通用するのである。

なので其の美しい単結晶を見つめつつ柿野の緑水晶だけは得たいと思って居たが案の上此処の緑水晶には形が完璧にて綺麗な物がほとんど無いものと來てる。

 

 

柿野鉱山 緑水晶 - Bing imagesー比較的綺麗な標本ー

柿野鉱山 緑水晶 - Bing imagesーむしろ多いタイプー

 

矢張り売られて居る物に美しいものは無かったがまだしもマシな物を弐本セットにて購う。ー弐千円の品ながら其れでも高いー

 

またミナスサトウのブースにも寄る。

ミナスサトウはブラジル産のエメラルド標本には強い店である。

 

だが鉱物ショーにてエメラルド標本を買ったことは此れ迄に壱度も無い。

 

其の理由

 

1.エメラルド標本其れ自體が概して高価であり大抵の場合少し良いと五萬円以上はして居ること

2.コロンビア産が壱番ながら以前ー拾年位前ーに比し良い標本が出て居ないこと

 

尚勿論其のエメラルドもまた緑の石なのだ。

なので完全に我が趣味の石であるが小さな標本を幾つかしか持って居ない我に取り蒐集が極めて難しい分野である。

 

無論の事本気にて攻めればイーベイなどにはパキスタンや中國産の良い標本が多く出ては居る。

だが其れもまた概して高価な物となり易い。

 

尚家にも母の大きめのコロンビア産のエメラルドの指輪があるが結局は其れが我が家にある壱番高価なモノである。

ところがブラジル産ともなれば實際に可成にお安くなる、其の指輪も原石の方もまた。

 

 

エメラルド原石 ミナス・サトウ

 

此処まで大きくは無いのだが7×6センチ程の比較的大きな標本があり其れには見栄えのするバランスの良い結晶が6本程付いて居る。

弐萬とのことだが弐千円マケて貰い其れを入手す。

 

いずれにせよかうしたデカいエメラルドの標本が前前より是非欲しかったのだった。

ヤフオクやネットショップでは此のサイズはなかなか見つからぬことであらうー

 

其の標本を今目の前に置いて今コレを書いて居るがううーん、結晶もデカくて矢張りと言うべきかとりあえずは満足だ。

 

尚先に述べた参百五拾萬円のエメラルドの原石はおそらくはコロンビア産で外國人が売って居た物だった。

其の標本を見せて貰ったが色合い、透明度、不純物の少なさなどの要素が高いレヴェルにて達成された「完璧な標本」だった。

大きさは高さが5センチ程で幅が3、4センチ程である。

 

兎に角此処までのエメラルドの原石を見たことは此れ迄に無くまさに生涯で唯壱の例と言って良い程の美しい石だった。

 

 

さてさうかうするうちに会場へのアナウンスがあり何とまた鉱物學の講義がタダでもって聴けるものらしい。

 

特別講演会

マンガン鉱床を彩る鉱物」
松原 聰 先生(国立科学博物館名誉研究員)
◆日時:8月27日(土) 13:30~15:00
◆会場:4階 第7会議室

イベント - 名古屋ミネラルショー (nagoyamineral.com)より

 

つまりはこちらである。

其の松原 聰 - Wikipedia先生は東海地方を代表する地球科学者であり鉱物學者だ。

 

我の場合は過去に弐度此の無料講演會に参加させて頂いて居る。

特に四年程前だったか、丁度國石となった糸魚川翡翠の色合いに就き詳しく述べられわたくしの場合は其の講義内容をメモして居た程であった。

 

尚大學での授業と同じで九拾分間きっかり講義は続くから学生の時分に戻ったやうな気も味わえる實に素晴らしい企画である。

だが其の間に眠くもなり今回もまた不覚にも拾分間程は寝込んで仕舞った。ー左様に齢なのですぐに眠くなるー

 

また講義の最後の方には田口鉱山産のパイロクスマンガンや薔薇輝石に関する色の原理の御話などもまたあった。

要するに松原先生はさうして鉱物の色合いに就き詳しく研究されても居るので其の内容は實に興味深くまるで退屈しないものである。

 

 

そんな訳で昨日はまさに八面六臂での大活躍を我なりにして居た訳だが今回の場合實はコレだけでは話が終わらぬのである。

つまりはもう壱騒動があった訳で其れに就いてはまた是非次回に語らせて頂きたい。

 

私の研究-国立科学博物館の研究者紹介 松原 聰- (kahaku.go.jp)

 

うーん、こちらなどを読みますと松原先生は如何にも深い内容の御発言をされて居ます。

確かに動かず命の無い石は生命現象に反応し易い現存在に取り分かり難いモノとしての代表格です。

 

かうして鉱物ショーへ来て居る多くの人人も其のほとんどは石への愛どころか単にちょっとしたアクセサリーを得んが為に来て居るやうな人が多いことでせう。

ですが今回の講義の聴講者はほとんどが男性でもって占められて居た。

 

其処からも矢張り🚹の場合には何らかの石に對する探究的な好奇心がまたあることでせう。

 

また其の石と生命の闘い並びに共存と云った部分は確かに地球史としては非常に大きな部分だったのではないか。

我我現存在は壱般に無機的な物質としての石をまるで意識しないが石は常にさうして生命現象に對し多大な影響を与え続けて来て居たのです。

 

どだい石ー鉱物ーが破壊されることで土くれとなるのだ。

其の土が植物を育み其れがまた動物をも育む。

 

 

故に生命現象を其の根本より支えて居るものこそが土であり即ち石が壊れたものであると云うことである。

 

まさに此の辺りまで理解が進むと石は単なる💎キラキラの世界とはまるで異なる地球史の上での重要な役割を担って居る訳だ。

でも個人的にはあくまで其の💎キラキラも好きですので其れでもまた宜しいのですが他方ではかうした深い石への洞察なり解釈なりが是非必要です。

 

また石が基本的に分かり難いのは生命現象とはスケールが違うからだなどと云う意味深なことも上にて述べられて居ます。

さらに此処の画像にあるが如くに石は化学組成が例え同じであるにせよ姿形や色がまさに千差万別となります。

 

さう云う部分もまた不可思議な部分であり何より多様性を感ずる部分でもまたある。

要するにむしろバラバラでもってマチマチなのだがあくまで化学組成的には同じであると云う我我に取り怪訝な部分が其処にしかとある。

 

 

尚個人的に我は分からぬモノの方をあえて向き其れを分かるやうにして行くことこそが理性の働きなのだとさう考えて来て居る。

理性とは不完全な認識の形式ですので元元誤謬にもまた陥り易い面を持ち合わせて居る。

 

だからあえて分からぬ方を向き其れを探求することはまさに理性の上での壱つの大きな価値なのではなからうか。

また理系思考は理系思考で時にはワイルドや太宰でもまた読み其の破滅性に就き是非考究してみなければなりますまい。

 

そんな訳であくまで本質的には石もまたそんな不思議な世界の住人ですがあえて感度の世界から言えば其れは何故か強く惹き付けられて仕舞う物欲としての対象物です。

ですが其れは生きては居ないだけに其れに触っても怒られないのだし金さえ払い其れを得れば牢屋に入れられることなどもまた無い訳だ。

 

つまるところは其処に生ずるであらう罪が少ない訳だ。

其の罪が少ない石とこそ生きて居る限りは何処までをも付き合って行きたいものだ。

『サロメ』に見る女の性としての魔性ー+ギュスターヴ・モローによる「サロメ」の絵画ー

サロメ』に見る女の性としての魔性ー+ギュスターヴ・モローによる「サロメ」の絵画ー

 

 

 

 

出現  ギュスターヴ・モロー 1876

 

 

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かうしてカマキリ先生は結局「色好み」でもまたあるやうだ。

 

尚男性の放蕩は大抵の場合「飲む、打つ、買うとさらに権威、権力志向」の要素のドレかであらう。

其れも元気の良い🚹の場合には。

 

逆に藝術家気取りにてまるで元気の出ない「意識が高過ぎる」系の🚹は、

「世間か又は他をー批判する、否定する、バカにするー相手にせずー。」

 

と云うこととなり易い。

まあ我も結局はさうなのだが。

 

だがカマキリ先生がこんなことでは「昆虫すごいぜ」が続けられなくなりおまけに大TOYOTAのCMにも出られなくなる。

全く困ったものよのう、其の♂の欲望の方もまた。

 

 

政治家個人より「党」が悪い。自民と統一教会が“組織的関係”であるこれだけの証拠 - まぐまぐニュース! (mag2.com)

政治家個人より「党」が悪い。自民と統一教会が“組織的関係”であるこれだけの証拠 - ページ 3 / 4 - まぐまぐニュース! (mag2.com)

 

ヤクザ、右翼、統一教会。反社勢力を利用し続けてきた自民党の自業自得 - まぐまぐニュース! (mag2.com)

旧統一教会の闇が暴かれるほど山上容疑者に同情が集まり…拘置所に相次ぐ「現金」差し入れ (msn.com)

 

左様に党が悪い。

つまりは組織が悪い、社會のあり方其のものが悪いのである。

 

 

FKの甥がはじめて明かす…安倍元首相銃撃事件がケネディ一族に与えた「衝撃」 特攻隊員を取材して気づいたこと (msn.com)

 

其のジョン・F・ケネディ大統領の甥である作家、マクスウェル・テイラー・ケネディ氏(57歳)もまた「組織の指導者が悪い」とさう述べられて居る。

 

個人的にはまさに其の考えこそが大正解なのだと思う。

文明は結局其のヒエラルキー社會に於ける矛盾構造にて崩壊に至るのである。

 

故に逆に組織からは意図的に離れて行くべきだ。

さて其のヒエラルキー社會は共産主義にせよ抜け切れぬものでよって現存在は結局組織中では搾取構造を取らざるを得なくなり其れが近代に於いて最大限化されたのが自然への搾取過程である。

 

よって現存在により建設される社會はむしろ其の社會的矛盾により壊れて行くのである。

「平等」と云う価値はまさに其の意味で大事なものとなる。

 

つまりは其の「特権層による搾取により威張りを成立させる社會のヒエラルキー構造」こそが破壊の元凶であり且つ不平等としての温床である。

よって其の特権意識を剥奪し革命せんとする試みが悪いとはまるで言えぬのだ。

 

 

 

ー1878年、長詩『ラヴェンナ』を刊行し、オックスフォード大学を首席で卒業。特にギリシア語に優れていた。

 

1895年(41歳)、息子を気遣う第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスと告訴を応酬して敗け、卑猥行為をとがめられて投獄され、さらに破産を宣告された。そして翌年母も亡くなった。

 

1900年初夏までさすらってパリ6区のホテル『L'Hôtel』に泊り、梅毒による脳髄膜炎で亡くなった、46歳。ワイルドの葬儀は、ロスやダグラスのほか数人だけの淋しい葬儀であった。ーオスカー・ワイルド - Wikipediaより

 

オスカー・ワイルド - Wikipedia

 

さうしてワイルドは確かにおかしかったが其れは天才故にオカシイのであり其れはみんなが普通にオカシイー社會に洗脳されてもまるで気にならないーのとはむしろ逆方向でのオカシさなのだ。

 

 

サロメ (戯曲) - Wikipedia

 

「耽美主義」の極致はワイルド『サロメ』である【あらすじ・感想】 (moriishi.com)

 

さてワイルドの代表作と言えばまさに其の『サロメ』であらう。

 

だが我は正直『サロメ』には興味が無くまた読んでも居ない。

我は其のドロドロした人間の愛憎劇のやうなものが基本的に好きでは無いのである。

 

サロメ〜絵画の中の女性たち | HolisticStyleBook (h-stylebook.com)

 

でも今回調べてみたところ、其のサロメが口づけをした生首とは洗礼者ヨハネの首であったことを知り愕然とした。

つまりは新約聖書中の話が元話なのだ。

 

 

ヨルダン川河畔の荒野で、神の国が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫り、罪のゆるしに至る洗礼を授けていた。

 

ヨハネは、ユダヤ人でさえも罪の汚れによって神の民と呼ばれる権利を失ってしまっていると考え、洗礼は悔い改めた者に対する神の赦しの確証と、新しいイスラエルの一員として受け入れられた確証とを意味する預言的しるしとしたのである。[1]

西暦28年ころ、ナザレのイエスも彼の洗礼を受けた。

 

なお、ヨハネが求めた「悔い改め」とは道徳的な改心ではなく、むしろ従来の当時のユダヤにおける人間の生活上の価値基準を180度転換すること、すなわち文字通りの「回心」であった。ヨハネは、ファリサイ派など当時のユダヤ教の主流派が、過去において律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを、穢らわしいものとして差別し、蔑む心のありようをと考えた[2]

 

「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くなる。曲がった道はまっすぐに、でこぼの道は平らになり」と二重の並行句によって、イエスの先駆者としてその道を整えるヨハネの使命が示され、社会的不均衡の是正が示唆されている。ー洗礼者ヨハネ - Wikipediaより

 

 

さてイエス・キリストの生涯を描く映画やドキュメンタリー作品に接して居ると其のナザレのイエスに對しヨルダン川にて洗礼を施した洗礼者ヨハネと云う宗教家が必ずと言って良い程登場する。

其れでもって其のヨハネは救世主かと言えばさうでは無くあくまでイエスの方が救世主なのださうだ。

 

要するに其の洗礼者ヨハネは先駆的な宗教改革者だったのであり其の思想を受け継ぐイエスの方が其の宗教改革を成し遂げた教祖と云うことになる。

上にも書かれて居るやうにヨハネ+イエスは当時のユダヤ社會に於ける価値観のコペルニクス的転換を説いた宗教改革者であり宗教革命家であった。

 

だから彼等は当時の宗教的権威を悉く否定し謂わば其の逆の価値観ばかりを説き続けて行ったのだった。

つまりは其の間違った秩序が生み出すところでの背徳や社會的不均衡との闘争者であり是正者なのである。

 

尚お釈迦様の方も全く同じやうなもので当時のバラモン教を大批判し其の価値観を百八十度変えよと説かれた宗教改革者であり宗教革命家であった。

其処からしても宗教とはむしろ社會的な営為である。

 

 

こんな社會ー価値観ーではダメだから変えよとさう述べたのが釈迦でありキリストであった訳で其の部分は然し忘れない方が良いのではないか。

 

さう彼等は全然社會が良いなどとは述べて居ないのであるから。

むしろこんな社會は全部間違ってるぞとさうハッキリ述べたのがさうして釈迦でありキリストであった訳だ。

 

 

其の『サロメ』の方の話に戻れば女の邪な愛憎劇から洗礼者ヨハネは首を切り落とされるのだから酷い話であり要するに「👩の馬鹿さ加減=物事を論理的に考えぬ本能的利己的自我」のやうなものが其処には怪しいばかりの光を放ち其処に描き込まれて居る。

 

其の訳の分からぬ女の情念の如きものに翻弄され破滅させられるのはむしろ超眞面目な洗礼者ヨハネだった訳だ。

 

左様に『サロメ』はまた明らかに「女の魔性」を書き描いた作品である。

尚女とは弐面者であり其れも決まって振幅の激しい利己愛の保持者なので眞面目な男性諸氏は是非気を付けるべきである。

 

かうして藝術は其の「女の魔性」の如きものに関しても屡言及を重ねて来て居る。

また其れは洋の東西を問わずにさうして語り継がれて来たものでもある。

 

 

尚リンクのところにはギュスターヴ・モローの絵画が載せられても居た。

 

ー19世紀のロマン主義文学の題材として好まれ、絵画でも多く取り上げられるようになった「男性を破滅させる魔性性をもつ女性」のことを」ファム・ファタルと呼びます。

真っ先に浮かぶのは、アダムの妻のイヴで、禁断の果実の実を食べるだけでなくアダムにも進めることで、人類の運命をも変えてしまいます。ーギュスターヴ・モロー 出現 | 旅と美術館 (tabitobijutsukan.com)より

 

其の魔性性はおそらくは全ての👩乃至は♀の中にしかとある。

まさに其れは根源的暗愚とでも言うべき生への執着、生存への信仰の如きものから齎されて居ることであらう。

 

まあショーペンハウアー流に言えば「生への盲目的な意志」に對し刺し貫かれて居る訳だ。

さて其のイヴには生其のものへの欲望がデカくありよってかうしてやってはイカンことを仕出かして仕舞う。

 

 

すると👩=👿ですか?

半分は其れでもって正解だ。

 

但し場合により👩は聖母でもあり得る。

故に、

👿⇔聖母様

 

との弐面性のことだらう。

 

尚御釈迦様による初期の🚺批判には其れは其れは手厳しいものがありましたものです。

「👩は絶対に成佛などは出来ん」

とさう仰られて居て、だからなのか昔は多くの寺が女人禁制だったのでした。

 

ギュスターヴ・モローの『出現』を解説~サロメの絵画・あらすじ | 日本のルーブル美術館を目指すサイト (gemeinwohl.jp)

 

尚我が穿った見方を其処にあえてするのだとすれば、其の「👩の欲望」にあくまで「聖なる者」としての洗礼者ヨハネの首が捧げられて仕舞うことへの理不尽さと云う部分が少しく気になる点です。

「👩の欲望」=盲目的なる子宮思考と云うものは結局「聖なる何か」よりも強いのだとすると其れぞまさに最強の意志だと云うこととなる。

 

實際に釈迦であれキリストであれまたどんな宗祖、教祖様であれ皆女から生まれて居ります。

だから其の最強の生命とは汝等女に他ならぬものである。

 

との考えを以前よりわたくしは持つ訳だ。

 

逆に🚹は半分位は死んで生きて居るので其処に眞の意味での悪魔性を有して居るのでは無い。

要するに🚹の方が心性的、霊性的によりタチが悪いのだとは言えやう。

 

だけれども命の母とは例外無く其れは🚺である。

ではあるが、余りソコには拘らずにまずは釈迦やキリストによる社會批判のあり方からこそ我我🚹は學ぶべきなのではないでせうか。

 

またショーペンハウアーの理性的な🚺批判から學ぶべきなのではないか。

 

 

さて、アンサイクロペディアと云う場があり其処にて検索してみたところ面白いことーふざけては居るがーが書かれて居たので以下に貼り付けて置きます。

 

オスカー・ワイルド - アンサイクロペディア (uncyclopedia.info)

 

 

オスカー・ワイルドにせよギュスターヴ・モローにせよつまりは世紀末を生きた藝術家だった訳だ。

其の世紀末藝術こそが退廃と破滅の香りを振り撒くものだった訳ですが其の退廃と破滅の香りを振り撒き続ける者こそが悪で體制の側にキチッと嵌った者が善かと言えば其れは必ずしもさうでは無い。

 

むしろワイルドの如きまたモローの如き表現の高みの上では其の形式性の上に胡坐をかき続けるであらう美への反発者ー體制の維持者ーこそが犯罪者であり悪の権化ですらある。

翻り我が國にもまた無頼を奉じて生きた文學者がかっては居たものでした。

 

また我が注視して来たのはむしろそんな徹底した藝術家だったのだと言える。

其れも中途半端では無く此の世の偽善性や欺瞞と闘い揚句には生の無慈悲さに負けて死んで行った作家であり詩人であり画家達のことだ。

 

世紀末藝術とはさうした世の流れへの壱つの巨大な反抗の足跡だったのではあるまいか。

其の耽美的でしかも破滅的な美への殉教の流れの中に其の批判精神こそがまさに滔々と流れて居るかの如く感ぜられる。

 

 

幸福な王子 - アンサイクロペディア (uncyclopedia.info)

 

もしも此の話が本当の話だとすれば其れは恐るべき實話です。

ネット上で調べてもみたが事の眞偽はまるで分からず。

 

但し文學表現のあり方としてはあくまで此れが事實に基づく話であるかどうかはまた別の話である。

かのワイルドはあくまで人助けに就き述べたかったのであり何故其れを述べたのかと云うにかうして社會が矛盾に満ちて居て搾取が酷いが故に是非其れに就き述べなくてはならなかったからなのです。

 

 

かくして藝術とは美の本質の部分をまさぐる作業其のもののことだ。

故に世間が藝術だと考えるものを逆に「其は藝術には非ず」と述べることなどもまた是非必要となることだらう。

 

 

ヘロデ王の前で踊るサロメ ギュスターヴ・モロー 1876

 

世紀末文學に於ける破滅性に就いてーオスカー・ワイルドに於ける耽美的破滅の是非+鉱物ショーのことなどー

世紀末文學に於ける破滅性に就いてーオスカー・ワイルドに於ける耽美的破滅の是非+鉱物ショーのことなどー

 

 

 

 

 

1882年ニューヨークにて オスカー・ワイルド

 

 

岸田総理が新型コロナ感染 夏休み中はゴルフに伊豆旅行…チュニジア訪問取りやめ (tv-asahi.co.jp)

 

そも首相に其の夏休みが何であるんだ?

そも病院や國會議員に何でまた夏休みがあるんだ?

 

病院の職員と國會議員は休み返上で働いた方が良くはないか?

キシダ氏もゴルフなんぞやって居ないでちゃんと働かないからコロナに罹るのだぞ。

 

岸田内閣支持率が急落、旧統一教会問題が影響-毎日では36% - Bloomberg

ドツボオ~~~~~~~~~。

 

🐶キシダは折角早稲田を出てるのにアベの國葬の件と此のコロナ感染でもってもはや終わったも同然である。

 

 

国葬中止求めるオンライン署名呼びかけ 上野千鶴子・東大名誉教授ら (msn.com)

 

其れに私も是非署名させて下さい。

軍國主義反對!!

 

 

中曽根康隆・衆院議員、旧統一教会の激励会に出席 支援求めあいさつ (msn.com)

 

元元アンタの右翼爺さんが其の統壱教會を利用し反共體制を築かうとした。

だが結果的に自民党邪教統壱教會の教祖に利用され國の根幹ー精神の部分ーを汚された。

 

左様に残念ながら自民党はこんな御目出度き人人ばかりだよ。

 

 

旧統一教会と関わり、枝野氏・安住氏ら立民6人判明…泉代表「ごまかそうとしているのが自民」 (msn.com)

 

さらにドツボオ~~~~~~~~~。

かうして右も左もアホばかり。

 

 

 

もはやアホらしくて何も書けぬ。

アホらしくて何も考えられぬ。

 

 

でも書かう。

其れもあえて藝術のことに就き述べる。

 

では藝術とは何ですか?

藝術とは例えば反對への愛です。

 

また藝術とは高貴さと下品さを同時に持つことだ。

かって太宰 治は藝術とは「豚の鼻」であり何やら汚くもあるが🌸の香りを知って居ると云うやうなことを述べたがまさしくさうしたことだらう。

 

さてそんな両義的な藝術の世界が対象とするものこそが美です。

以下にワイルドの文學を理解せんが為の良い資料の部分を貼り付けて置きます。

 

 

早すぎた美の殉教者 オスカー・ワイルド [Oscar Wilde] - Onlineジャーニー - Results from #3 (japanjournals.com)

 

この時代のプロテスタントの思想は資本主義と深く結びつき、グロテスクな様相を示していた。「低賃金にもめげない忠実な労働を神は深く喜び給う」というのである。支配層は、自分たちはいかにして富を増やすか思案しながら、その一方で労働者たちに勤勉と清貧を説いていたわけだ。産業革命後の労働者は効率よく製品を量産するためのロボットであり、個人の能力を発展させるようなものはすべて「悪い」として潰された。こんな時代にあって「神はいつもおまえを見ている」という言葉は、もはや宗教ではなく脅しであろう。デカダンスと反プロテスタント主義より

 

19世紀末の退廃的なデカダンス文化やダンディズムは、このような風潮に反して現れた、反プロテスタント主義、反全体主義の文化といって良いだろう。「健康的で質素でよく働く」まるでロボットか家畜のような人間が求められる中、不健康でアンニュイなライフ・スタイルが反抗の象徴、一つのポーズだったのである。ワイルドは個人主義の必要性を、その著作「社会主義下における人間の魂」の中で説いており、イエス・キリストは最大の個人主義者だったとも記している。ワイルドが抵抗したのは、ねじ曲げられた当時の道徳観であって、宗教そのものではなかったのだ。後に発表される童話「幸福な王子」は、信仰心なしには書けない作品である。 ワイルドを始めとした世紀末の芸術家たちは、退廃的な背徳者である点ばかり強調されがちだが、当時の時代背景を考えることなしには、彼らの立場を正しく捉えることは難しいだろう。デカダンスと反プロテスタント主義より

 

 


オスカーワイルド - Bing images

 

 

藝術とは其の反對のものへの盲信のことであり且つ其れへの愛のことだ。

 

其の反對のものは其れこそ太古の昔より人間界には満ちて居た。

では何故反對のものが時に讃美されねばならぬのだらう?

 

何故なら此の世では「正しい」とされる価値が往往にして正しくは無いからなのだ。

 

例えば、保守派としての自民党は正しい。

とさう思っても其れは壱皮剝けば逆に亡國の輩でありまた邪教に利用される馬鹿政党であるに過ぎない。

 

また学校の先生や自衛官や警察官だけは正しいと思って居たらむしろ裸にされ盗撮されちゃった。

いや其れだけでは済まずに密造銃をブッ放され元首相が殺されちゃった。

 

 

ですが其のことは何も今に始まったことでは無くむしろ昔からさうだったのだ。

 

むしろ其のことを教えて呉れるのがかのオスカー・ワイルドの如き文學者の生き様です。

さう其のオスカー・ワイルドの生き様乃至は文學こそが時代に對する反骨精神の表れ其のものだった。

 

ワイルドは今の眼で見てもほとんど変態文學野郎です。

見た目がどう見ても変態なのだし事實彼は美少年への愛に生きた性倒錯者でした。

 

 

なんですが此の解説の部分からも所謂世紀末としての時代状況が克明に浮かび上がって来る。

個人的には其の世紀末としての文學世界こそがわたくしの専門分野のやうなものでして其れが何であんなに百花が繚乱するが如くに咲き乱れたのだらうとさうずっと思って居たのですが今回此処を読んでみて初めて其の理由が分かりました。

 

此処にあるが如くに其れは反ロボット化主義であるとか美を排斥しつつ歩むまさに味気ない合理的世界観への反駁だったことでせう。

つまりは近代的な美への禁欲生活に對する疑念であり拒否の部分です。

 

即ち世紀末文學や世紀末絵画が描き出したものとは要するに合理主義批判だったのではなかったか。

逆に申せば、現存在は只さうしてロボット化ー家畜化ーされ其処で近代的に調教されることで美の本質を理解することが次第に出来なくなって行く。

 

つまるところ其のまさに近代的な禁欲體制の中で人人は「美しいもの」からの感性の救済を受けられなくなって行くのです。

まあそんなことはアノ美輪 明宏氏なども以前より述べられて居た訳ですが其れは矢張りほんたうのことなのだらう。

 

 

但し、美しいものは文化のみに因るものでは無い。

即ち言語以前の世界=自然界にはむしろ美しいものばかりが満ちて居ます。

 

ところが其の自然に限ってかうして近代世界では破壊されて行く訳だ。

 

 

さて結局ワイルドは頽廃的な背徳の文學者に過ぎなかったのか?

でもわたくしにはさうは思えない。

 

何故なら昔わたくしはワイルドの「幸福な王子」幸福な王子 - Wikipediaを読みつい涙ぐんだことが何度もあったからなのだ。ー子供の頃より何度も繰り返し読んだー

 

宝石で人助け?童話「幸福な王子」で愛を託された宝石たち | カラッツ Gem Magazine (karatz.jp)

 

今でもこんなに美しい物語は他に無いとさう思って居る。

 

勿論現實的にはまさか燕がこんなことをする筈が無い。

ましてや王子の像が其の施しを燕に頼んだりはしないことだらう。

 

だからまさに此れこそが童話としての文學世界のものなのです。

 

さて重要なのはまさに其の燕と像とが此の善行を行ったことです。

また其れは自然と文化が組み合わさり救済の行為を行ったと云う象徴的意味なのだとも思う。

 

 

ーやがて冬が訪れ、王子はかつての輝きを失い、みすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも徐々に衰え、弱っていく。 自らの死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり、目の見えない王子にキスをし、やがて彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。 みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが、鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

天国では、下界の様子の全てを見ていた神が、 天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ天使を遣わせる。 天使はゴミ溜めから王子の鉛の心臓を、そしてツバメの骸を持ってくる。 神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。ー幸福な王子 - Wikipediaより

 

 

さうして善行を行いし燕と王子の像はしかしながら悲惨な結末を迎える。

さう、實際の世の中と云うものはまさにそんなもので「清い心根」が即評価されるやうな世界なのでは無い。

 

ところが壱人だけ其の善行を見て下さって居た方が居てまさに其れが神でした。

さうだ、神は決して其の善行を見逃されはしない。

 

神は全てをさうして見詰められ、常に正しく其の行為を裁かれる。

故に燕の魂と王子の像の魂はさうして天國へと入る。

 

 

嗚呼まさに其れはキリスト教に限らずまさしく何教であれ善行だと言えることでせう。

 

此処に曰く、

「己を捨て他を救くべし」

 

 

 

ー解説


人々を救いたいと考え自らを犠牲にする事を躊躇わないが動く事の出来ない王子と、 少しマヌケでありながら自らの目的(仲間等のいる暖かい国へいく)を果たしたいが次第に博愛の目的に目覚め実務に勤しむツバメは当時の時代の象徴であり、この作品では思想と行動は別人格である事を示唆しているが、生徒や子供に伝える場合、何かを考えた際はそれを実行して初めて一連である点と、自身ができる事は犠牲を払ってでも最大限に行うべきである点を明確に伝えるべきである。 成人した大人が読む場合は、世間の利益の為に行う自己犠牲はやがて自らの利益(幸福感と楽園へ行くという実利)になる点と、ツバメの様に人生は何処かで覚悟を決めなければ楽園へ行く事は出来ないという点を摘むべきである。ー幸福な王子 - Wikipediaより

 

 

まさに其の通りでのことなのですが、問題はそんな反骨の文學者であるオスカー・ワイルドが此のやうなつまりは宗教的な意味での自己犠牲に就き何故あえて此処に描き込んで居るのかと云う点です。

つまるところは自分がやって居ることとはむしろ眞逆のことをかうして書いて居るのだ。

 

勿論あくまで童話ですので子供に対し贅沢をして同性愛をやり時には牢屋へ入りなさい、などとはまさか言えぬ訳だ。

なんですが何処か此れはワイルドの本音だったやうにも思えて来てなりません。

 

つまりは欲望の空しさと云うものが此の世界には常にある。

さうして其の欲望の多寡に応じ応報される世界の質がまた変わって来る。

 

 

例えばデカい欲望を参百年も振り撒き続ければ其れは地球が壊れやう。

逆に慎み深く神佛を信じ小さくー限定しー生きて居れば地球もまた文明も壊れることなどはよもや無い。

 

だから其れは究極的に社會が是とするやうな価値観に浸り続けて居ては現存在は決して天國へは入れないと云うことを作家は其処に述べたのだと思う。

とのことでようやく辻褄が合いました、矢張りと申すべきかワイルドは此の童話でもって痛烈に社會のあり方を皮肉って居たのです。

 

 

さらに穿った見方を致せば、此の童話でワイルドは文化のアホ臭さに就いても述べて居ります。

即ち其の王子の像其れ自體がアホな文化としての産物でせう。

 

其れ即ちさうして数数の宝石でもって飾り立て思い切りに威張った像にして居る訳だ。

 

ーその像には、死んだ王子自身の魂が宿っており、ゆえに自我を持っていること。王子が、かつて宮殿にいた頃には気付かず知らなかった、この町の貧しい、不幸な人々の実態を知り嘆き悲しんでいることである。幸福な王子 - Wikipediaより

 

即ちほんたうの美とは其の若くして死んだ王子の魂の中にこそ宿る。

さうしてー搾取によりー實存を苦しむ民人を憐れむ心の中にこそ其れは宿る。

 

 

でも宝石=モノは結局役に立ちます。

まさに其れは立場の弱い貧しい人人の暮らしを救うのです。

 

故に💎其れ自體が悪いのでは無く其れを像などの権威化、又は権力構造の美化の為に使う社會の上層部の認識こそが曇って居るのだ。

それにつけてもまるで自民党の悪行の数数とまさに瓜弐つでの御話ではありませんか。

 

だからそも何が汚ねえのかと申せば畢竟其れは社會のヒエラルキー其のものが腐って居てしかも曇って居るのです。

ではワイルドはそんな腐って居てしかも曇って居る社會を革命でもしたらうかとさう目論んで居たのですね?

 

いいえさうではありません。

ワイルドはね、いま壱度神の全能の御力に縋らうとしたのです。ー世を去る前日にオスカー・ワイルドは念願だったカトリックへの改宗を果たしたー

 

だから此の童話はあくまでワイルド個人の宗教心に支えられたものであり其れ以外のなにものでもありません。

 

 

ーワイルドの精魂は尽き果て、もう創造のための集中力さえ見つけられそうになかった。彼は強力なアブサン酒と友人からの支援に頼った日々を送る。ズボンには穴があき、滞在先のホテルは料金未払いで追い出された。更に健康も悪化し、激しい耳の痛みなどに悩まされ始める。

1900年9月、パリの街は万博で賑わっていた。エッフェル塔が完成し、地下鉄も開通。新しい時代の幕開けである。そんな中ワイルドの体調は悪化し、「アルザス・ホテル」の一室で寝込んでいた。ー「自然は芸術を模倣する」アンチミメーシスとデカダンス | ロンドンアートめぐり (japanesewriterinuk.com)より

 

画家でも文學者でも音樂家でも何でもさうですがーあくまで藝術的感度に於いてはさうー其れ即ち彼等の心の感度は明晰なのでかうして何でも見えて居るのですが實は反対方面ー破滅性、悪魔性の部分ーをも同時に見据えて居ざるを得ない。

よって壱歩間違えばかうしてワイルドの如くに人間以下の者ともなり下がる。

 

他にも芥川や太宰然りまたゴッホやゴーガン然り。

ヘルダーリン然り啄木然り正二然り槐多然り。

 

藝術家とは左様にプラスとマイナスの生の側面を同時に見詰め続けて居る者なのだ。

 

まあわたくしも確かにズボンが常にヨレヨレですがソコは余り気にして居りません。

何故なら其のワイルドの苦しみを思えば此の位のことはまさに屁の河童でせう。

 

 

ー29日、若い頃からの念願どおりカトリックに改宗し、その翌日である1900年11月30日午後1時50分、オスカー・ワイルドは大脳髄膜炎で息を引き取る。46歳だった。枕元にはロス、ターナー、そして宿の親切な主人の姿しかなかった。
かつて「芸術生活とは長い自殺行為である」と語り、「人生は芸術を模倣する」と書いたワイルド。芸術至上主義を謳った彼は、自ら破滅の美学を生きてみせることで、その人生を芸術作品として後世に残したのである。ー
「自然は芸術を模倣する」アンチミメーシスとデカダンス | ロンドンアートめぐり (japanesewriterinuk.com)より

 

先にも申した通りにワイルドはプロテスタンティズムと云う新たな信仰の形を新たな時代精神と見て且つ其れに反抗して居たことだったでせう。

彼は其の近代生活其れ自體に對し疑念を抱いて居たのやもしれない。

 

其のワイルドの破滅主義、破滅の美學は明らかに我が國の文豪達にも深く影響を及ぼして居る訳です。

では藝術上の其の破滅性が悪いのかと言えばむしろわたくしは其れに對し肯定的であり且つ同情的です。

 

尚其の「藝術至上主義」に関しては元元我もまた藝術至上主義者です。

但し近年は其の「藝術至上主義」と云う「人間中心主義」に對し違和感を覚えるやうになって来て居る。

 


人間ー文明ー中心主義⇔自然中心主義

其の対立関係に於いてむしろ右側がより強く意識されるやうになって来て居る。

 

 

ーここには、芸術至上主義の考え方が表れている。「芸術は現実を超えるものである」という点はアリストテレスの考え方と一見似ているようにも思えるが、この芸術至上主義は「芸術こそが自然に美を与えるものだ」という自然や人生に対する芸術の強い優位性を示すものだ。つまり芸術>>現実(自然)なのである。これは耽美主義(唯美主義)の「美こそが最高の価値」という思想にもつながる。

こうした考えはワイルドだけのものではなく、ワイルドの生きた1800年代後半の西洋に出てきた思想の1つであった。

当時の急速な科学技術の発展と社会の変化は、多くの人々に「現在の文明はピークに達しており今に崩れるのではないか」という恐れを抱かせた。そうした社会的な不安とアンチミメーシス、耽美主義が影響しあい、19世紀末にはデカダンス(退廃主義)という芸術のムーブメントも生まれた。ー「自然は芸術を模倣する」アンチミメーシスとデカダンス | ロンドンアートめぐり (japanesewriterinuk.com)より

 

確かに美こそが永遠性を獲得するところでの文化的価値です。

文化は社會関係が埋没させるところでの其の何か大事な価値をこそ発掘する。

 

其れは本物の美のあり方であり最終的には信仰のあり方にもまた連なって行くことだらう。

何故なら藝術家は其処で常に神と👿、佛と魔を同時に見詰めても居るのだから。

故に藝術家は純粋な👿なのでは無く同時に神佛とも繋がって居る両義性者のことをこそ言う。

 

例えどんなに破滅的な生であれ其れは他方で神佛とも繋がって居るだらう生なのだ。

其のことがまずは感度の悪い方方には見抜けない。

 

だから我などもまた高校時代に女性の英語の教師から「太宰はもう読まない方が良いわよ。」と何度も言われましたのですが結局読み切って良かったやうに思いますのです。

で、何で其の教師に私が太宰ばかりを読んで居ることが分かったかと云うに英語のリーダーの教科書に「人間失格」だとか他にもなんだかんだと落書きをして居たからなのです。

 

でもって今回わたくしはまさに其の文學の破滅性の部分に就き論じて居ります。

なのだが其の破滅性の逆方向乃至は対になる部分にはまさに稀なるピュア―な魂の世界、其の純粋で且つ無垢なる天使の如き心根が宿って居る。

 

だが耽美主義は文化至上主義とも言うべき人工的な美の樂園を現出させる。

まさに世紀末藝術とは其の人工的な美の極致を追い求めたものだった。

 

生活<藝術

自然<藝術

 

然し藝術もまた自然には若かぬものだ。

よって、

藝術<自然

なのです。

 

何故ならむしろ藝術は自然からインスパイアされるであらう部分こそがほとんどである。

 

 

ーイギリスの作家、オスカー・ワイルド(1854〜1900年)の有名な言葉に、こんなものがある。

「自然は芸術を模倣する」

これは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉、「芸術は自然を模倣する」へのアンチテーゼで、アンチミメーシスとも呼ばれる。ー「自然は芸術を模倣する」アンチミメーシスとデカダンス | ロンドンアートめぐり (japanesewriterinuk.com)より

 

まさに此の部分にてアリストテレスの「藝術は自然を模倣する」との命題の方が正しい訳です。

左様に結局は「自然」の価値を何処に置くかと云うことなのだと思う。

 

其の意味では我は今純粋な意味での「藝術至上主義者」なのでは無くむしろ「自然至上主義者」ながらあくまで現存在に取っての生活と自然は別物だとさう考えて居る。

但し其の別物である文明と自然の間の橋渡しとなるべきものが藝術としての意義であらうとさうも考える。

 

何故ならさうして藝術には常人には見えぬものを見る力が宿るのですから。

藝術とはそんな自然への直接の共感力で常にあるべきものなのだ。

 

だがまさしく其の意味に於いて我は「藝術至上主義者」なのだ。

 

 

尚21世紀は其の社會不安が日増しに高まる時代へと突入して来て居る。

世紀末ですらさうして不安だったのですが其の不安は切實なものではよもや無くたった今の不安こそがむしろ本物の不安です。

 

そんな折に我が個人的にして居るのは過去の方をあえて向きまた自然の方をあえて向き現代文明の進歩主義を意図的にカットして行く精神の方向性のことです。

なので其れをして行く方向性での価値こそがむしろ我に取っての重要な価値となります。

 

其の価値をこそ生きられれば他は何も要らぬと云う感じでせう。

 

さて鉱物ショーの入場券を求めあえて行くことと致しました。

 

何せ参年振りですので實に樂しみですがいずれにせよコロナに罹らぬやうにせねばならぬので半分はまるで特攻みたいなものです。

人が集まるところにまるで興味は無いが何故か石が其処にしか無いと云う変な話です。-何故か最近ヤフオクには良い石が出ない-

破壊される自然の哀しみに對する共感の仕方ー「昆虫カタストロフィー」より我我の心を救い出すには?ー

破壊される自然の哀しみに對する共感の仕方ー「昆虫カタストロフィー」より我我の心を救い出すには?ー

 

 

 

 

姜尚中氏 旧統一教会と自民党とのつながりについて「小選挙区制になって有力な選挙マシーンになった」 (msn.com)

 

かうして日本が不純な社會になりつつあるので正しい日本社會を守らんが為に國家権力として👪を守ると云う原理主義こそがそも矛盾して居ります。

むしろ小泉だの安倍だのが居なかった方が日本は正しくあり得たのではないかとさう思われますのです。

 

どだいそんな邪教とくっつき壱體何を守る御積もりなのだ?

守るのは憲法第廿五条でありつまりは國民の生存権のことぞ。

 

だから其の右翼馬鹿論理が元元馬鹿なだけに至極矛盾して居るのです。

尤も左翼もまた莫迦ですのでドッチのバカを選ぶかと云う御話に最終的にはなり結局ボクの場合は政治はダメだと云う結論に至りましたのです。

 

なのでボクは元元教師ですので御勉強の方へ逃げやうとさう思って居るのです。

御勉強して居る時間は政治のこともまた酒池肉林のことも忘れて居られるからですね。

 

 

さて私が此のブログを書き始めた頃からすでに此の文明はヤバいものであることは分かって居たのだと言える。

いやより正確に言えばすでに八拾年代頃より其のことをわたくしは常に感じて居た。

 

感じては居たが当時は何より日日が忙しく其れに就いて考え何かを述べると云う機會は与えられて居なかった。

其れは基本的には今でもさうなのだが其の社會関係ー會社関係ーには大きく振り回されなくなった分其の機會は確実に増えたのだと思う。

 

まずは其の時間の確保のやうな部分が實は社會関係に於いて誰もが許されて居ない。

現存在は、

1.飯を食う為に労働し、

2.人ー他ーに合わせんが為に人間関係を築き、

3.子孫を残さんが為に♀を確保する

 

との価値観を成就せんが為にほぼ其の全生涯を捧げるものである。

 

だが此の参点とも全てが現存在としての認識を曇らせる元凶のやうなものだ。

我は其のことがすでに若かりし頃より分かって居たので其の参点とも適当になって仕舞いむしろ頑張って来たのは藝術に接し感度を磨いたりまた物コレクターとしてほぼ徹底してやって来たことでありつまりは地位や名誉や大金を得ることにはまるで興味が無く且つ子孫を残さうとも其の頃よりまるで思っては居なかった。

 

で其の方面での追求をしない分感度を磨きまた様様に本を読み學を仕込んで行ったのである。

なので其の學の部分を根拠とする己が思考力には強く自信を持って居り我に勝てる奴など居ない位にも實は思って居る。

 

まさにソコがみんなに嫌われるところなのだがだけれどもいざさうなって仕舞って居るものはもはや如何ともし難いことではないか。

でもって参拾代の終わり頃に結局大恋愛にも失敗し破局を迎えた訳だったがけれどもむしろさうなった故に其の後万年筆と石のコレクターであることを思う存分やって来られたのである。

 

 

そんな我なので何ぞ違う視点を文明に対し述べられるのではないかと思い2014年の四月よりヤフーブログにて此処を書き始めたのである。

尤も2003年位から万年筆と藝術を語る掲示板の主筆を務めて居たのでかうして何かを語ることに関してはすでに廿年にも亘りやって来たのである。

 

思えばまさに其れが我に取りほんたうの意味での仕事だったのだと思う。

元元作家の端くれにはなりたかったのだがいじけて居て根気も無くしかもアホーバカでは無いがアホだーなのでこんなものを書く位が関の山なのだ。

 

此処でも我はすでに多くの記事を書き上げ其れこそ宗教から文學、また絵画や音樂、さらに社會批判と様様なことを述べて来て居るのだがむしろ半分位は非常識且つ訳の分からぬことをくどくどと述べ立てて来たのだと自分では思う。

だが其の非常識且つ訳の分からぬことをくどくどと述べ立てること自體が重要なことなのであり何でかと申せば我には我独自でのものの見方と云うものがしかとあるからなのだ。

 

要するに常にみんなとは違うことを言う其の天邪鬼さが我にはしかとかうして仕込まれて居る。

だけれども其れはクレーマーのやうな何でも反対派なのでは無くむしろ若い頃にしかと文學の方を読んだからこそ醸成されし反骨精神のことなのだ。

 

 

だから問題は其の反骨精神が今の我に取り役立って居るかどうかと云うことであり其の意味ではハッキリ言って大いに役立って居る。

 

エッ?

でも其れは役になどまるで立って居ないでせう?

 

第壱アンタはもうボロボロじゃあないか。

其れに金も無いわ子孫も居ないわでまるで橋の下のルンペンのやうなものではないか。

 

いやでも何故かほんたうのものが見えて居るのだ。

世の實相みたいなものが次第次第に見えて来るやうになった来たのだ。

 

其の精神的な気付きと言うか勝利と言うか其れとはまた別に具象的な意味での精神への圧迫度がむしろ日増しに高まって来て居り其れに就き以下に述べてみたい。

つまりは現實としての現象界がむしろ日増しに壊れて行くことへの具體的な懸念である。

 

 

21世紀に於ける大問題とはさうして抽象的なものでは無くつまりは物理的に齎される破壊の側面のことなのでありしかも其れが急速に齎されて居ることなのだ。

即ち自律的なAIが出来るかどうかだとか火星への移住計画が何処まで可能かと言うこと以前に地球が壊されて行って仕舞うと云う環境の破壊の問題なのである。

 

思えば廿世紀に於ける大問題とは體制ーイデオロギーーの選択の問題でありそれこそ國家権力同士がぶつかり合う戦争に於ける破壊のことだったがどうも現在は問題がより具象的でありつまりはより現實として切實なものとなりつつあるのだらう。

なので世界革命をすれば人類は助かるだとか、戦争を止めれば文明は助かるだとかどうもさうした話では無くもっとずっと根本での命題の如きものに化して仕舞って居るのである。

 

地球が壊れる→右だらうが左だらうが皆壊れる

地球が壊れる→實存主義だらうがポスト・モダンだらうが皆壊れる。

 

 

要するに何かかう非常に本能的で且つ本質的な意味での破壊なのである。

例えば五拾年後には、温暖化と海洋酸性化のダブルパンチにて、

 

1.食い物が無い

2.熱い

 

と云う怖ろしい状態が實際に発生する。

 

其の食い物は生態系が供給するものだが其の生態系自體が崩壊に至る可能性が高くあるものとされて居る。

だから其れは邪教の信者がさう言いふらして居るのでは無くあくまで科学的な見解である。

 

何でさうなるのかと申せば、海洋酸性化にて甲殻類の殻が溶けるので其れ等が皆死んじゃう。

するとエサが無くなるので🐟もまた🐳も死んじゃわざるを得ない。

 

また温暖化により大規模な山火事が発生し幾ら植林などしたにせよまるで間に合わぬ程に世界中の森林が大規模に消失して行く。

此の森林火災はまさに今大問題化して来て居ることなのだが今回は其れに就き述べず是非昆虫の絶滅に就いて語って置きたい。

 

 

尚先にも述べたやうに21世紀の大問題とは其の絶滅であり破滅の問題なのだ。

だから其れはイデオロギーが変われば救われるだとか、また宗教的に内面を磨き込んで其れを回避すると云う話ではむしろ無い点こそが怖ろしいのである。

 

勿論宗教的な場で解脱したり神の眷属となれば心は救われるのである。

心即ち精神の領域では安らかに死ねるとでも言うのかそんな境地に達することもまた不可能では無い。

 

だけれどもある面では其れよりも怖いのがそんな物理的な破壊の側面なのである。

 

 

さて個人的にアノ香川 照之が扮するカマキリ先生 - Bing imagesが好きなので香川照之の昆虫すごいぜ! | NHK for Schoolと云う番組を以前から屡視て居るのである。

が我は特に虫が好きなのでは無くむしろ蜘蛛だとか🐛だとかそんな足が多く付いた奴等つまりは節足動物が余り好きでは無いのである。

 

むしろ🐍だとか蜥蜴の方は好きなのだが兎に角アノ足の多い奴等が気持ち悪いのである。

 

だけれども勿論カブトムシやクワガタムシなどの甲虫類は好きである。

其れと我我還暦世代が小学生低学年の頃は例えば家の周りなどにも幾らでもカブトムシやクワガタムシが居たものだった。

 

夏休みに入ったばかりの早朝に父と家から百五拾米東の寶蔵寺へカブトムシを捕りに行くと当時あったデカい木の梢の辺りをカブト虫がブンブン音を立てつつ飛んで居たものだった。

また弐百米西の池の横にあった大木でもカブトムシやクワガタムシを捕まえることが可能だった。

 

其のカブトムシやクワガタムシを家の近辺では見なくなりすでに久しくおまけにカナブンや他の甲虫類も激減した。

其れでもアゲハ蝶はアノ美しいアオスジアゲハをも含め今年などはちらほらと見かけたが庭の山椒の木が枯れたのでアゲハチョウの幼虫を育てる愉しみもすでに無くなった。アゲハ(ナミアゲハ) (imokatsu.com)

 

 

尚我は自然派の人間なので今人生を振り返り樂しかったと思えることはほぼさうした自然に於ける體験のみである。

高校や大學に合格したりボーナスを貰ったりまた👩と付き合うことなどよりもむしろそちらの方が眞の意味での自分の歓びだった。

 

家の庭には参拾年程前までは蝦蟇もまた大蛇も出た。

大蛇は弐米はありまた蝦蟇は弐拾センチ程もあるのだった。

 

中学生位の頃に其の大蛇を海で使う銛にて突いたことがあった。ーさうして突かれながらも其の大蛇は床下へと逃げたー

酷い話であるが、小中学生の坊主の頃は皆そんなもので屡虫なども殺して居たものだった。

 

今思えば其の大蛇や蝦蟇が兎に角懐かしい。

つまりは高校や大學に合格したりボーナスを貰ったりまた👩と付き合うことなどよりもむしろそちらの方が眞の意味での實存的価値だったのではないか。

 

 

NHKオンデマンド | NHKスペシャル 「香川照之の昆虫“やばいぜ!”」 (nhk-ondemand.jp)

 

さて折角夏休みなので我も憧れるコスタリカの自然の様を是非視たいと思い確か壱度視た覚えがあったが此の番組をまた視てみた。

ところが後半に語られる「昆虫カタストロフィー」と云う概念に驚愕させられて仕舞う。

 

其の「昆虫カタストロフィー」に就いてはまるで覚えて居ないのである。

番組中で其のプラチナコガネが多く捕獲されたことだけは覚えて居たのだが。

 

 

昆虫カタストロフィー (tsubamekokoro.wixsite.com)

「香川照之の昆虫やばいぜ!」の昆虫カタストロフィに驚愕。 (yurulu.net)

 

かうして同様に多くの方方もまた驚愕しつつ此の番組を視られて居たことだらう。

 

だけれども誰しも昆虫が減りつつあることは實感として知って居る。

其れも都市部の人間であるのならば誰しも。

 

だが此処まで減少しつつあるとは不覚にもまるで知らなんだのだった。

そんな環境問題に対する「意識が高い」筈の我ですら知らなんだのだ。

 

 

 ーその結果、驚いたことに、節足動物バイオマスは70年代のそれの8分の1から60分の1にまで激減していたのである。

 

 昆虫の激減が生じているのはプエルトリコだけではない。ヨーロッパ、北アメリカオーストラリアなどの各地で行われた調査では、いずれも大幅な昆虫の減少が確認されている。

 そして気候変動がこうした激減を引き起こしている一方で、生息地の破壊、殺虫剤、病原菌の侵入、光汚染といった他の環境の変化も強く関係していることがはっきりしている。

 地球レベルで見ると、昆虫はさまざまな環境要因に翻弄されている。彼らの数ががたがたと減り続けている原因は1つだけではない。

 私たちはこの世界をさまざまに変えてきた。地球で織りなされる生命の布地で多大な役割を果たしている小さな仲間たちは、この危機にもがき苦しんでいる。ー昆虫界で起きているカタストロフィ。昆虫種の40%が個体数を急激に減らしている。3分の1が絶滅の危機へ。 | ニコニコニュース (nicovideo.jp)より

 

 

ところがネット上にはかうして色色と書かれて居る。

だが其れも余程に意識を高く保ち気を付けて見て行かぬとかうした事實が普段我我の耳に入ると云うことは無い。

 

此の種の問題を論じる折にかうしてネット上で検索してみると!!!と思うやうな其れも信頼に足る情報を得ることが出来る。

 

逆に申せば現代社會を推進する側、其の支配層の方ではむしろかうした空恐ろしいやうな話を表立って出すことなど無いのである。

まあ其れは悪く言えば文明の側による壱種の情報操作でありつまるところは眞實の隠蔽である。

 

なので僕はいつも思うのだけれど矢張り此の文明に於ける支配層の側には大きく問題が存して居る。

また其れが自らの立場の保身であったりすることがほとんどであり要するに支配層の価値観其れ自體が利己的な現世利益主義に刺し貫かれて居て常に壱連の環境問題に對し意識のあり方が低いのである。

 

 

地球上の昆虫の減少が「カタストロフ的なレベル」であることが包括的な科学的調査により判明。科学者たちは「100年以内にすべての昆虫が絶滅しても不思議ではない」と発表 - In Deep

 

でもって究極的にはまた此の滅亡サイトの方の御世話になることとなる。

尚此処はかうしてきちんとデータを載せ何かを論ずるので其の意味ではまさしく科学的なところである。

 

但し「文明滅亡したれ」的な願望が此処からは感ぜられぬ訳でもまた無くでも其処は我と同じくしてあくまで「文明は勝手に滅亡せよ」なのであらう。

 

またこちらの記事で衝撃的なのは「百年以内に昆虫が絶滅する」と述べて居る科学者などもまた居ると云うことです。

個人的には其れはどうか分かりませんのですが、只壱つ怖れて居るのは地球環境に関する破壊が同時に多角的に齎されて行くと云うことです。

 

要するに壱つだけでは無く複合的にまた複雑に要因が重なりドーンとデカい破壊其れも根本での破壊が齎されるが故に其処でもって食い止めやうが無くなる訳だ。

 

問題は其の「カタストロフ」が現代文明が奉ずる近代的な人間的幸福への盲信に縋り付く部分から齎される部分である。

ですが我が言ってる幸福とはむしろ其の逆で其の世間的常識ー社會的常識ーの価値観から離れぬと本來的な幸せには決して巡り合えぬのです。

 

謂わば社會的な常識をかなぐり捨ててこそ浮かぶ瀬=幸福の實感があると言ったところでせうか。

 

或は仰るやうに持続的に行われて来た農薬の使用や地球磁場の弱體化などにも昆虫激減の要因を探ることが出来るのやもしれません。

但し個人的に環境問題は其れこそ宗教からの視点と哲學的な解釈を織り込むべきより根本的な命題なのだと考えて来て居ます。

 

 

つまるところは何で地球がこんなに壊れますかとさう問われた時には「文明としての現存在のあり方」こそがそも誤って居るからなのだとさう申す他御座りません。

文明の価値観がそも狂って居るのでさうなるが其の狂いをまたみんなで喜んで奉じて居る=洗脳されて居る訳ですのでもはや如何ともし難いものですとさう申し上げる他は御座らぬ。

 

なのでソコをあえて「文明、お前其れちょっと変だらう!」と言える位に個としての理性的自律性を是非持ちませうとわたくしはさう申し上げて居るのです。

だからみんなで壱緒に御遊戯する文明は正直申してもはや先が見えて来て居ます。

 

つまりは破壊文明だと云うことですのでかうして日日破壊しまくり百年後にはもはや崩壊するしか他に手が無い。

さて其の文明が変だ、信用出来ぬ、と云う感覚はおそらく共感覚者ならば皆持ち合わせて居る筈です。

 

まさに我が其の共感覚者ですが、また其の共感覚的な直観力とは別に文明は何故こんなに幼稚な意思決定しか出来ぬのだらうとずっとさう思い続けても来ました。

嗚呼まさに儲けならば儲けだけ、進歩ならば進歩だけ、と云うやうに文明其れ自體の認識が余りにも壱義的な意思決定です。

 

其の壱義的な意思決定こそが其れこそ哲學的にはバカとしての意思決定の典型例です。

 

自然⇔文明

 

元元現存在は両義的な観念をこそ生きる生き物なので謂わばどちらをも見詰めて置かねばならない。

ところが實際には、

 

特に19世紀から此の方は、

 

自然→文明

自然<文明

 

とのことでつまりは自然を文明化することで現存在の社會は進歩を成り立たせて来て居る。

要するに其処には自然其のものを独立した要素として見る目がそも無い=自然を自立したものとして捉えては居ない。

 

要するに自然よりも文明の方が何でも偉いのだ。

だから田舎の奴等は都會がサイコーだと思って居るのだが其れは間違いでむしろ都會こそがサイテーの価値のものでしか無い。

 

なのでまさに其れを我は洗脳状態であるとさう申して居るのです。

 

正直なところ現状では其の洗脳の度がより広く行われて来ても居ります。

だからわたくしはむしろ価値観として文明の側の逆方向を向く位で丁度良いのだらうと思う。

 

 

ワクチン打つ→ワクチン打たぬ

祖國を防衛する→防衛も反対

近代的価値をヨシとするお利口さん方(ほんたうは洗脳されし馬鹿共)→近代的価値をヨシとはせぬ非國民

 

革命嫌い→革命大好き

金欲しい→金要らぬ

🚙欲しい→🚙要らん

女好き→女嫌い

上品な破壊者→下品な逃走ー闘争ー者

 

自然は搾取するもの→まずは自分から自然に食われよ

 

 

尚自然は人知の及ばぬところでの神聖なシステムでありまさに其処は神佛に等しいものです。

また其の意味では神道も正解となる。

 

勿論佛教にせよまたキリスト教にせよ其の自然理解はほぼ正解でもまたあることだらう。

 

故にまずは其の文明とは逆方向への精神の導き方こそが大事なのではないだらうか。

さうして文明に洗脳されるが侭に自然を見詰めて居ること自體が不遜であり不敬であり横暴であり且つ👿の所業です。

 

 

自然⇔文明

 

其処に相剋し且つ相即する関係性を常に築くやうに文明を進めればこんなことにはまさかならなんだ筈。

でもやっちまったことはすでに何ともなりませんので壱つには社會の進歩はもう止めて環境保全の為にだけ理性ー科学技術力ーを使って行くと云う手があらう筈。

 

おそらくは其の位に徹底してやりませんと生態系の破壊は止まることが無いことだらう。

其れと共に自然こそが神佛でありよって先祖供養だとか偶像崇拝だとかそんなことをするよりは只自然にひれ伏して其れに相対しまた昆虫は自分よりも偉いとさう思うことに致しませう。

 

すると🐕や🐈、また🐵なども人間より偉いのですか?

はい、此の際人間はサイテーの奴隷と云うことにして置き其の間に是非自然の再生を図って行くべきです。

 

でも事實上人間は偉いですよ。

第壱今日お前が聴いて居るChopinなどもまた現存在の文化力の象徴だ。

 

まあ確かに文化は文のお化け即ち言語のお化けであるが其れは政治のやうにおバカでは無い。

ではアナタはオバカよりもオバケの方を選ぶとさう申されたいのですね?

 

さうだ、さうして👪主義はオバカなんだが孤高の藝術家は常にオバケの方こそを選び生きて行くのだ。

くううー、其のChopinがまた心に沁みるー。

 

Chopinはジョルジョ・サンドに捨てられ憔悴し切って参拾九で肺病により死んだとさっき鑑定団の番組中で語られて居た。

 

藝術家は基本的に腺病質であり其の感度が大體常人の倍位はあるから生きてる疲労がそも甚だしくありさうして早う死ぬるのである。

でもアンタはワクチンも打たずにさうしてしぶとく生き抜いて居るところを見ると藝術家ではまさかないな。

 

 

馬鹿者!

藝術家だとさう自分でさう決め込んで居る部分こそがまさに我が藝術の世界ではないか。

 

で、其の藝術と生態系の破壊の問題とは何処がどう関連し合って居るので?

 

うーむ、つまりは破滅性だね。

 

するとChopinの破滅と自然の破滅がまるで同じだと云うことなので?

さうだ非常に似て居る。

 

さうしてどちらも壊れ易くもはやギリギリだ。

 

でも虫って普通ウジャウジャと生まれソイツラがまた何処でも這いずり回りまるでChopinの哀しみとは違うもののやうな気が致しますが…。

虫の其の本能の部分はでも抽象的価値には弱いつまりは至極脆い。

 

つまりは殺虫剤や農薬の類には弱いしまた♀に捨てられるともう終わりである。

 

さうか、すると地球は今哀しみにこそ包まれて居るのだ。

良くぞ分かったな。

 

でも其のこともまたChopinの音が流れて居ないとまるで分からぬことなのだ。

現存在はさうして世界の哀しみに對する不感症に陥って居る。

 

藝術とは其の世界の哀しみを残さず汲み取るであらう感度としての装置である。

つまるところ今後現存在に取り必要なのは社會に盲従することでは無く其の世界の哀しみを残さず汲み取るであらう感度としての装置を自らの内側に持つことである。

深海生物や化石生物に於ける多様性から學ぶことー具象的な物としての歴史にこそ拡がる多様な生命としての形ー

深海生物や化石生物に於ける多様性から學ぶことー具象的な物としての歴史にこそ拡がる多様な生命としての形ー

 

 

 

 

深海大スペシャル 驚異のモンスター大集合! | NHK放送史(動画・記事)

NHKオンデマンド | 深海大スペシャル 「驚異のモンスター大集合!」 (nhk-ondemand.jp)

 

考えてみればまさに其の深海での生命活動こそが人類に取っての最後のフロンティアとしての領域となるのではないか。

 

但し其の深海生物もまた地球がまともに存続すれば維持されると云う話であり地球温暖化の影響が深海にまで及べば即脆くも崩れ去る生態系の壱環なのだと言えやう。

其の生態系の保全と云う意味で今此れ等の特異な生命に就き調べて置くことは意義があることだらう。

 

生命は何をどう生きて居るかと云うことに関し少なくとも彼等は何かを伝えて呉れる筈である。

生命のあり方の歴史は其の意味で所謂唯物的な進化の堆積物である。

 

其れは現存在に取っての精神的ー宗教的ーな歴史とは異なるあくまで物の進化としての歴史である。

 

物質界⇔精神界

 

ちなみに我が考えでは物質界と精神界は相剋し且つ相即する関係にこそあるのでドチラが上で且つドチラが下だと云った上下関係ー価値ヒエラルキーーは生じて居ない。

逆に其の上下関係を設定するのが現存在に於ける社會関係での癖である。

 

故に其の社會関係こそが間違って居るのである。

 

尚自然界に於ける所謂「弱肉強食」の原理はまさに其の上下関係ー価値ヒエラルキーーの體現ながら其処では必ずしも厳密に強者が弱者を食う訳でも無いのである。

 

 

生物図鑑 深海生物 :: 沼津港深海水族館 (numazu-deepsea.com)

『超・深海生物図鑑』怖い深海巨大生物や不気味かわいい生物まとめ【画像】 | 女性のライフスタイルに関する情報メディア (cherish-media.jp)

深海魚(深海生物)まとめ50選!カワイイ・キモイ・不思議な深海魚たち | ねいちゃーはっく。 (nature-hack.com)

 

かうして深海生物を眺めてみると其れだけで極めて面白い。

また面白いばかりでは無く其れ等が「過去」を前提として成立する生物群であるやうに感ぜられる。

 

さう其の物としての生命とは所詮は過去に獲得した形質の具現化なのだ。

 

ところが物としての進化には限界があるので其れを精神的に進化させやうとしたのが現存在に於ける試みだったのだらう。

其の現存在に於ける武器とはまさに抽象的な思考力である。

 

其の抽象的な思考力が無いので深海のまた地上の生命には地球圏を支配する能力に欠けるが其れでもドッコイかうして彼等は多様な生のあり方を其処に成立させて居る。

ところが抽象的な同壱化ー特殊化=非多様化ーをする場合に現存在は其の多様性と云う具象的な特殊化としての領域を忘れて仕舞うのである。

 

 

其処をより分かり易く述べれば、

 

抽象的な特殊化ー現存在なる壱元的進歩ー⇔具象的な特殊化ー深海生物や化石生物に見られる過去の堆積としての多様な現成の様ー

 

となり、さらに噛み砕いて言えば、

 

人間は人間のみで抽象的価値を生きることで未来への特殊化を果たして居る⇔特殊化した具象的生命はむしろ過去が具現化したところでの今のみを生きて居る

 

と云うこととなる。

 

つまるところはドチラの特殊化が異常かと言えば無論のこと其れは現存在による特殊化の方が異常なのである。

なんとなれば彼等は常に未來をのみ生きて居る訳なので…。

 

まさに其の現存在の抽象領域は謂わば具體的な根拠に欠ける「独りよがり」での生命観であり宇宙観であるに過ぎぬものだ。

現存在はさうして自然とは切り離された自我ー近代的自我ーを生き其れこそ勝手に自然をいたぶり破壊に至らしめ其れでものうのうと今と云う己が未來を生きる訳の分からぬ生き物である。

 

とのことを此れ等の深海生物を眺めるうちに我は感じたので此処に述べてみた迄のことである。

 

 

ところで深海生物には奇妙で気持ちが悪いものが多い訳だが其れもこと自然界の側からの目でもって見ればおそらくは奇妙でも何でも無いものなのではないか。

逆に現存在はまるで🐵のネオテニー - Wikipediaのやうなもので可成に気持ち悪く見えぬこともまた無い。

 

丁度👽がそんな感じにて空想されたりもまたする訳だが其の👽が居る居ないに関わらず現存在は例えば🐕や🐈から見るとほぼ👽のやうに見えるのではないか。

うわあー、気持ちが悪いな。

 

しかも其の現存在が外には溢れるが如くに生きて御座る。

うわあー、気持ちが悪いぞ。

 

すると人間は所詮🐵の幼形成熟なので?

 

まあだからおそらく人間の半分は🐵だらう。

 

其の🐵が何ぞ悪いことをして居るのですか?

いや其の🐵がな、兎に角🐕や🐈以上にタチが悪いのだ。

 

 

其の🐵は元元性悪なので其処には是非宗教こそが必要であった。

ところが裸の🐵共は宗教の代わりに酒池肉林をこそ選んだのだった。

 

即ち酒と美食、さらに👩、其れからギャンブルの世界へと嵌り込んだのである。

しかも組織ぐるみにて其れをやるものだから母なる地球はたまったもんで無い。

 

さうか、奴等こそが悪の権化なのか。

では奴等を抹殺する為に今こそ立ち上がらう。

 

いや立ち上がるでは無い、まさに其れではオウム教と同じこととならう。

立ち上がるのでは無く、例えば本を読め。

 

 

 

ミョ〜な深海生物大百科 生物界の常識を変えた謎の新種から、巨大なモンスター、生きた化石までの通販/川崎 悟司 - 紙の本:honto本の通販ストア

 

こちらは旧版の中古本ながらアマゾンにて安く売られて居たので此の度買ってみた。

結局大層面白い本である。

 

生命のあり方は多様だとされて居るが我我現存在には其れが伝わらぬことが多い。

何故なら我我はかうして都市化された環境に住み其のことにより環境は著しく制限されざるを得ずまた其れに比例する形で都市部に於ける生物種は激減して行く。

 

故に其れを見る機會がそも無いので生命の多様さを直に實感出来ぬのだ。

 

だがあえて特殊化されし生命の世界を其れこそ化石や深海と云った過去の生命との関連が深い世界に見出すことでようやく其のことに気付くことが出来るのである。

 

 

ミョ~な深海生物大百科 : オールカラー : 生物界の常識を変えた謎の新種から、巨大なモンスター、生きた化石まで - Webcat Plus (nii.ac.jp)

楽天ブックス: ミョ~な深海生物大百科 - 生物界の常識を変えた謎の新種から、巨大なモンスター - 川崎悟司 - 9784331655085 : 本 (rakuten.co.jp)

 

こちらが新版のものである。

 

『オールカラー ミョーな昆虫大百科―ビックリ仰天の生き残り戦略から身近な虫の意外なウラの顔まで (廣済堂ペーパーバックス)』(川崎悟司)の感想(1レビュー) - ブクログ (booklog.jp)

 

尚また昆虫に於いてもこんな多様な世界が拡がって居るのである。

 

其の生命の多様性其れ自體が實は自然科学や科学技術により今日明らかにされる領域なのである。

つまるところ其れは科学的に規定される領域のことだ。

 

但し其の科学的に規定される領域を素材として用い人文學的に思考して行くこともまた常に可能である。

 

尚文化としての価値の側面には常に壱種の限定的要素がある。

文化とは所詮抽象領域での営みなのである意味で具象性即ち具體物としての生のパワーの如きものには常に欠けて居がちなのだ。

 

ところが此の種のあからさまな生命としての多様な営みを見せつけられると其の文化的固執の部分にもまた大きく問いが突き付けられるやうな気さえもがまたするのである。

此の種のあからさまな生命としての多様な営みとはあくまで具象的に展開されるかって展開されたところでの事實としての生の軌跡である。

 

其のあくまで具象的に展開されるかって展開されたところでの事實としての生としての實感のやうなものこそが文化以前での生の實相である。

 

 

文化⇔文化以前での生の営みとしての多様性

 

逆に申せば文化は「気持ちの悪いもの」だの「理解し難いもの」を極力排除することだらう精神的営為のことである。

「文ー言葉の領域ーによる美化」こそが文化の働きなのでありであるが故に文化的伝統ー文化的秩序ーもまた文化的権威も其処に形成されるやいなやイザ此のやうな生のいかがわしきパワーに対し直に接するとそんなもんが果たして何処まで通用するものか疑わしくもまたなって来る。

 

であるからこそ我は其の文化的洗練に対し元元可成に懐疑的である。

むしろ文化は其の生のいかがわしさに対し胸襟を開くつまりはあえて凝視して行かねばならぬのではなからうか。

 

 

こんなの見たら心臓止まるわ!閲覧注意な深海生物25 | ギベオン – 宇宙・地球・動物の不思議と謎 (gibe-on.info)

こわーい深海生物ベスト10 | ギズモード・ジャパン (gizmodo.jp)

深海に潜む恐怖生物5選 | VAIENCE

 

さて其の「恐怖」こそが壱つの生に対する基本的態度としてあるべきものなのではないか。

 

生はむしろ元元可成にいかがわしいものであり壱種怖いものである。

さう思う気持ちがむしろ前近代に於いては半分位機能して居た可能性が高い。

 

だが近代以降現存在は其の生のいかがわしさに對する恐怖を合理化して仕舞った。

故に夜の街は怖くは無くまたたとえ大災害であれ自衛隊や警察が出動し助けても呉れるのでとりあえずは大丈夫だらう。

 

なのだが其れでもこんな深海生物に接すると何やらとても怖くなるのである。

さうして其の感情こそがむしろ大切な何かなのである。

 

逆に申せば「怖くは無い」現在を都市世界として築いて来て居る現存在による社會的営為程怖いものはまた他に無い訳だ。

おそらく其れは抽象的に過去即ち具象性から切り離した今を生きるが故に「怖くは無い」のである。

 

尤も我に限れば實に怖がりで其れこそお化けどころか現存在其のものがむしろ怖いのだがさう云うのを幾ら言っても感覚の違う人人にはよもや伝わらぬことであらう。

 

 

海洋恐怖症って知ってる?海に恐怖を感じる理由と水中の怖い画像10選 | BELCY

 

また其の海洋恐怖症と云うのが幼き頃よりあり海などで泳ぐことが兎に角苦手であった。

逆に山の方では例えば🐻に食われたり🐗に突進されるにせよソコまでは怖く無いのである。

 

海と云うものはそも液體なのでまずはソコが怖い。

また其の液體の中に化け物が潜むとなると余計に怖くなるのである。

 

 

いずれにせよ其の原初體験的な恐怖に関する感度が我の場合には強くある。

だが化け物が見えるのでは無くあくまで海其れ自體が怖いのである。

 

 

羊水(ようすい)は、羊膜上皮から分泌され、羊膜腔を満たす液体で、爬虫類鳥類哺乳類といった有羊膜類胎児は、羊水に浮かんで発育する。また、尿膜水と一括して胎水とも呼ばれる。

魚類や両生類といった羊膜を形成しない脊椎動物の胚は、外界の水が胚の周囲を循環することで胚の排泄する排泄物の除去やガス交換を行い発生の行われる空間の環境を維持しているが、有羊膜類の胚は羊膜腔に保持されpHや浸透圧などの諸性質の変動を一定に抑え、恒常性を保った羊水を作り出す事により胚発生の行われる空間の環境を胚にとって良好に維持している。ー羊水 - Wikipediaより

 

 

尚其の海の水を♀の腹の中に仕込んだのが羊水 - Wikipediaである。

 

しかしながら現存在は其の海の如き液體の中に浮かび発育するしか無いのである。

だから怖からうが何だらうがむしろさうした者こそが自分であり要するに其の水は深海生物や化石生物などともまた繋がることだらうまさにいかがわしくも恐ろしい価値の場だ。

 

我はむしろ其のいかがわしき生への恐怖を感ずることこそが正常な心の働きなのだとさう思って居る。

逆に申せば其の種の恐怖を隠蔽するか又は放逐して進む現存在による社會的営為こそがまさに信用ならぬ何かであらう。

 

 

我が思想とはさうして与えられし何かを大いに畏れ且つ惑い其れでも猶其れを放棄せぬ考えのことだ。

 

但し時にはまた放棄も必要となることだらう。

何故なら羊水の中にはつまりは海の中には化け物の類もまた居るのであるから。

 

だが其れが眞の意味での化け物自體なのでは無くむしろ化け物とは現存在としての其の心のあり方の方なのである。

 

さて以上の如くにあえて小難しく考えずとも自然界の営為をしかと見詰める観点より深海生物に関し調べてみることなどは有意義なことである。

其れはむしろ此のゴタゴタとした現代社會の有様を見詰め其処から打撃を受けることなどよりも余程に建設的な話である。

 

自然科学はさうして具象的につまりは博物学的に参考にすればとても有用でしかも気付きの為の核ともなる分野である。

つまるところ自然科学や科学技術もまた使いやうなのであらう。

 

 

尚とある課題に就き解決策を模索する場合に意図的に其の直面する課題から離れてみると解決策の如きものが見出される場合がむしろ多いものと見做される。

其れ即ち現存在が抱える喫緊の課題と見えるものはむしろ其の深海生物や化石生物に於ける多様性の方から解決策を見出して行くべきものなのやもしれない。

 

即ち現存在は謂わば皆が同じであり過ぎるのである。

其の同じであり過ぎることへの変な拘りのやうなものが文明の頽落を自ら招いて居るのではないかしら。

 

其れ即ち皆が温暖化に勤しまずに違った価値観でもって動くことで其の破滅リスクが回避されるのではなからうか。

また我等はワクチンをまるで打って居ないがかうしてピンピンしつつまだ生きて居るぞよ。

 

兎に角さうした意味でのとある課題に対する別方向からの認識ー価値観ーこそが意外と大事なことである。

深海生物や化石生物に於ける多様性は生物學の上でのカルトな探究となりがちなのやもしれぬのだがそんな意味での逆方向性を模索せんが為の研究課題と或はなるのやもしれない。

結果「軍國主義」ー亡霊(怪談)さえをも生み出す「組織の論理」ーが大嫌いだ +「逃げて勝つ」論理とは何か?

結果「軍國主義」ー亡霊(怪談)さえをも生み出す「組織の論理」ーが大嫌いだ +「逃げて勝つ」論理とは何か?

 

 

 

 

【ご神仏に愛される人】「バチがあたった!」と思ったら「おかげさま」と感謝したほうがいいと言える深いワケ (msn.com)

 

其の「感謝」は常日頃からの感謝。

だが我の場合主に其れは現存在の営為以外への感謝である。

 

 

「なにか変だ」銃剣を手に無言、ずぶ濡れの下半身、どす黒い顔…激戦の南太平洋で散った精鋭部隊の“戦争怪異譚”が伝えるもの (msn.com)

 

さてこちらの記事に衝撃を受けた。

まさに此れぞ眞夏の夜の怪談である。

 

果たしてこんなことがあり得るのだらうか?

だが事實として其れは起こったことである。

 

其のお化けとなるやうな怨念と云うか心残りのやうなものは實際に此の世に生ずるものなのだらう。

 

 

激闘ガダルカナル 悲劇の指揮官 - NHKスペシャル - NHK

NHKオンデマンド | NHKスペシャル 「激闘ガダルカナル 悲劇の指揮官」 (nhk-ondemand.jp)

 

オンデマンドで探すと此の番組が出て来て早速其れを視た。

いずれにせよ酷い話である。

 

但し其処で其の酷い話を感情としてでは無く理性的に解釈するに、まず其処に炙り出されて来ることとは其の個に対する矛盾は当時日本で最大級の力を担ったことだらう軍部と云う組織の論理がまさに其れを押し付けて居たのである。

さうして何でもさうだがデカい組織は常にさう絶對的に正しくなって仕舞うのである。

 

其の根本で間違って居やうが邪教だらうが兎に角其れこそが正しくなるのである。

だからわたくしが反旗を翻して居るのは其の壱点に於いてのみである。

 

何故ならデカい組織に於ける意思決定が正しいものであるとは理性的には言えぬからなのだ。

いやむしろデカい組織に於ける意思決定は大抵の場合間違って居るのである。

 

 

其のことは何度も申して居るが如くに正の価値ヒエラルキ―による其れの正当化がさうして仕舞うことなのである。

要するに其処で理性の使い方を誤るが故に間違った組織であれ何であれ其の意思決定が正しくされて仕舞う訳だ。

 

 

では果たして正しい理性の用い方とは何か?

其れは眞理に対しては消去であり眞實に対しては逆に負のヒエラルキーを見詰める働きのことである。

 

さて組織は概ね其の過ちを意識することが出来ない。

何故なら自らが偉いからなのだ。

 

自らが偉くなると反省出来ぬものなので其処に気が大きくなり何でも〇となって仕舞う。

即ち邪教の教祖が威張るのもまさに其れであり現代文明が威張るのもまさにさうしたカラクリによるものだ。

 

 

「なぜ死なずに逃げたのか」ラバウルで生還した水木しげるさんに上官は言った【戦後77年】 | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)

 

さて其れこそ哲學的思考のレヴェルでは其の組織による全體主義が何故成立して仕舞うのかと云う部分こそが問題なのだ。

其れでもって現代人の多くは「あああんな戦時中に生まれずに良かった、かうして現代に生まれたお蔭で人生が樂で良かった。」などと思いがちなのであらうがけれど詩人はまるでさうは思って居ない。

 

逆に現代人の奉ずる現代文明による地球への攻撃並びに破壊の方が其の第弐次世界大戦による諸の破壊以上にタチが悪いものとさう思って居る訳だ。

だからむしろほんたうにヤバいのは文明の今後でありおおまさにコレから地獄の苦しみが我我に齎されることだらうと正直さう感じても居る。

 

但し其の社會が其のやうに突き進むのと個による判断や認識即ち価値観の持ち方は元來別物なのである。

故に其の変な洗脳の部分を解いてなるべく正しい認識のあり方へと自らを導く努力義務が現存在に対してはしかと存して居る。

 

要するに詩人の頭の中ではまさに現在こそが戦時中なのであり故に気を抜いてヘラヘラ嗤いながら生きて行く状況では無いので壱種気合を入れて現實と申すか社會と對峙して置かざるを得ない。

だから其れがとても疲れる部分なのでかうしていつもヒイヒイ言って居るのであり其れはみんなのやうに樂に生きて居るからまるで人生が辛く無いこととはまるで違う訳だ。

 

 

ー水木さんは、サンゴが群生する海岸線を逃げた。軍靴の底はなくなり、足の裏から血が出ていた。海を泳ぎ、ジャングルを駆け抜け、現地人の集落をびくびくしながら通りすぎた。川で水をすすり、やせたエビを食べる程度で、ほぼ飲まず食わずの逃避行だった。銃も軍服もなくし、ふんどし姿で5日後にズンゲンの陣地にたどり着いた。

しかし、水木さんを待っていたのは、上官の冷たい言葉だった。再び「水木サンの幸福論」から引こう。

「なぜ、死なずに逃げたのか」。これが第一声だった。不機嫌きわまりない表情、硬い声だった。「ご苦労」の言葉も、戦況に関するご下問もまったくなかった。何も言えずに呆然としたまま突っ立っていると、中隊長は「死に場所は見つけてやるぞ」と言ったまま、それきりむっつりと黙り込んだ。

戦死で部隊が全滅することを「玉砕」と呼んで美化していた日本軍では、一人だけ生き残ることは「恥」だったのだ。ー「なぜ死なずに逃げたのか」ラバウルで生還した水木しげるさんに上官は言った【戦後77年】 | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)より

 

水木氏はさうして逃げたことでようやく命が助かった。

勿論其のことは所謂「組織の論理」からすれば✖である。

 

ー水木さんはその後、マラリアに感染。42度の高熱を出して療養していたところ、敵機の爆撃で左腕に重傷を負う。化膿して命の危険があったため、麻酔がない状態で左腕の切断手術を受ける。

野戦病院で過ごした後、1945年8月15日を迎え、まもなく敗戦を知らされた。兵士の間では落胆と虚脱感が広がったが、「水木サンの幸福論」の中で水木さんは「生き延びた!」と思ったと振り返っている。同じく太平洋戦争を生き延びた駆逐艦「雪風」で日本に帰還した。

もし上官の言う通り、ラバウルで水木さんが戦死していたら『ゲゲゲの鬼太郎』も『悪魔くん』も『河童の三平』も存在していなかった。戦後日本のマンガ文化は、水木さんが生還したことで大きく花開いたのだ。ー「なぜ死なずに逃げたのか」ラバウルで生還した水木しげるさんに上官は言った【戦後77年】 | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)より

 

 

 

其れだけでは済まずに左腕を失うも其れでも水木氏は生き延びた。

 

 

生き延びた水木氏が世に遺した其の『ゲゲゲの鬼太郎』も『悪魔くん』も『河童の三平』もまたマイナスー負の領域ーを見詰めた藝術作品である。

 

さう其れは娯樂作品などでは無く其れこそまるで死の世界を垣間見たかの如き負の世界を見詰めた作品である。

 

 

まさに此の世には其の「組織の論理」としての正の価値ヒエラルキーのみでは捉えられぬ大きな価値の領域がある。

 

正⇔負

 

光⇔闇

 

天國⇔地獄界

 

 

皮肉なことに其の「組織の論理」に抗った水木氏にこそ其の負の歴史を語るべき世界が与えられたのである。

 

 

翻り今の自民党政権に其の「組織の論理」が堅固に築かれて居ることはもはや言うまでも無いことだ。

 

其の大事な大事な「組織の論理」が貫徹されるのであれば、例え人が死なうが左翼が潰れやうが俺らの知ったことか。

 

 

だが其れ、まさに「軍國主義」其のものでの論理ではないか。

 

要するに今政治はほぼ「軍國主義」化されて来て居る。

 

 

 

だから朝日新聞は何でまた其の「軍國主義」に等しい高校野球を讃美するのだ?

 

いや確かに愛工大名電は此の度ベスト8入りを果たしまた其の試合を視るのが滅茶苦茶に愉しみである。

 

 

なのだが「軍國主義」だけは個人的にイヤだ。

 

何故なら「軍國主義」が生むのはそんな「組織の論理」による犠牲者の怨念ばかりだからなのだ。

 

 

じゃあたとえ愛工大名電が決勝に残っても其の試合は視ないのだな?

 

はい、多分視ません。

 

 

 

 

「なぜ、死なずに逃げたのか?」

 

何故なら逃げることでこそ拓かれる精神の場があるからなのだ。

 

 

其れは上官の命令でも無く天皇や教祖への崇拝とはまた別の理性としての闘争の場である。

 

 

 

そんなアカー共産主義者ーやクローアナキストーのやうなことを言って其れでもって逃げを正当化するのか、此の非國民めが!

 

いや別にアカでもクロでもまた何色でも生き延びることこそが大事なのでありそんな亡霊みたいなものにはまさかなりたくは無い。

 

 

さうか、もはやお前にはそも「御國の為に滅私奉公する」精神がまるで欠けておる。

 

よって其の根性を叩き直さんが為に直ちに「軍事教練」へ参加し其のへこたれた頭の中を改造するやうに。

 

 

はい、分かり申した。

 

すぐさま我は教練所へ出向き其処にて「御國の為に滅私奉公する」精神をば涵養して参ります。

 

 

其れではコレより出立致します。

 

 

では早速歌でも歌いつつ教練所へと出向かう。

 

 

 

【軍歌】嗚呼神風特別攻撃隊 - YouTube

 

日本海軍軍歌「軍艦行進曲 」 - YouTube

 

若鷲の歌(予科練の歌) - YouTube

 

さう、ソッチだ。

さうか、まさにコレが自由民主党タカ派が好きな歌なのか。

 

でもこんなんだからアノ統壱教會にもつけ込まれたのだらうな。

ちなみに「赤旗の歌」って結構良い歌詞であり曲もまた良いのです。

 

 

NHKオンデマンド | 【無料】NHKスペシャル 鬼太郎が見た玉砕 ~水木しげるの戦争~ (nhk-ondemand.jp)

 

ちなみにこちらは今無料で視られます。

 

NHKオンデマンド | 日曜美術館 「水木しげるの妖怪画」 (nhk-ondemand.jp)

 

こちらも我は視られますので是非今夜視てみます。

 

尚我が哲學的帰結とは「デカい論理に従うな」と云う考え其のもののことだ。

 

「デカい論理に只従う」のでは無く小さくても良いから己が価値観を築き上げ場合により逃げられるだけ逃げた方が良いと云うものです。

 

 

逃げたいときは逃げればいい! 逃げても良い7つの理由 | 心理学の時間ですよ!! (psychology-japan.com)

逃げるが価値 | DJ JOBOW

 

尚逃げた者には価値が無くまさに其れが非國民だとする価値観こそが所謂右翼馬鹿での論理である。

對して左翼莫迦もまた確かに有るのだがとりあえずは「軍國主義」が大嫌いだと云う点から言えば現在我はむしろ其の左翼莫迦の壱人なのである。

 

「三十六計逃げるに如かず」の意味とは?原文や由来・中国語も解説 | TRANS.Biz (trans-suite.jp)

 

尚現存在は人間であること其れ自體からは結局逃げ切れません。

また逃げられる部分は至極限定された範囲でありつまりはのべつまくなしに逃げ切れると言うことには非ず。

 

いずれにせよ社會と云う価値が熱狂しつつ行うことなどよりもかうして水木氏の如くに藝術的な意味での価値を世に遺すことの方が個人的にはより分かり易い。

さうした意味では藝術もまた壱つの逃避なのだらう。

 

だが其れは常に偉大なる逃避となり得るものだ。

また其の意味では宗教もまたそんな逃避の壱つである。

 

ですが藝術や宗教はよもや間違っても「軍國主義」へは走らないことだらう。ー邪教が破壊を齎すことなどが稀にあるにせよー

其の意味からも藝術や宗教は「逃げて勝たん」が為の大切な価値なのである。

古代浪漫の世界ー今あえて古生物學の世界に遊ぶ 壱 生物學者グールドとドーキンスの論争に寄せてー

古代浪漫の世界ー今あえて古生物學の世界に遊ぶ 壱 生物學者グールドとドーキンスの論争に寄せてー

 

 

 

 

芥川賞作家の平野啓一郎氏 西村新環境大臣を「アウト」「大臣の仕事は務まらない」と酷評! (msn.com)

 

全く仰る通りです。ー平野氏は尊敬する地元の芥川賞作家の壱人だー

ですが西村氏は壱応早稲田大學を出て居ますので何らかの形で理性が出て〇になる可能性が無いでは無い。

 

個人的には兎に角早稲田の理性パワーに賭けてみたい気分で居ります。

 

 

さてかって我は古生物学 - Wikipediaが好きで其の種の本を読み漁ったりして居たものだった。

つまるところ我は両刀でもって行く方なのでかうして人文主義で行くのみならず自然科学でも地質学 - Wikipedia生物学 - Wikipediaなどの所謂ややこしい数式がほぼ出て来ずつまりは抽象度が低く歴史的實証的な分野が好きな訳である。

 

要するに其の物としての地球や地球上の生命のことに興味があるのであった。

 

其れでも今の地球上の生命體の方には實は大きく興味は無くむしろ過去の生命體ー生命體としての歴史其のものーの方にいたく興味があるのである。

過去の生命體とはつまりは我我現存在に取っての謂わば御先祖様のことである。

 

但し其の先祖供養をしたい訳なのでは無く兎に角只単に現代文明の価値観から壱旦離れ何か違うものを見詰める目的から我はさうして過去の生命體のことを調べて居たのである。

其れが大體参拾代半ばの頃であった。

 

其のことは逃げと言えば逃げながら最終的に其れは文明の上での価値観を公正に見詰めんが為の必要条件となる。

即ち現代文明が一つの観念的方向性を向き歩むこと=抽象的価値を只ひたすらに追い求める様に対し何か其れとは異なるベクトルを見出せるとすればもはや其れは過去としての歴史的埋蔵物の中でしか無い筈だ。

 

 

丁度其の頃ジュラシック・パーク - Wikipediaなる映画が出来兎に角人気があり我も其れに飛び付き何度も観て居たものだった。

 

但し映画と云うものはあくまで大衆向けの娯樂作品でもまたあり少なくとも学問的なものではあり得ぬ訳だ。

なので我はもう少し古生物の世界を詳しく知りたいと思い丸善古書店などから其の種の本を探し出しては其れを購い屡其れを読んで居たものだった。

 

其の懐古趣味のやうなものが實際にどんな世界にもまたあるもので其れこそ家電や鉄道其れに万年筆などと云う人間の加工物にも其れが拡がる訳だがまた其れが生命と云う壱種神聖な領域にもしかとあったと言うことである。

 

古生物の世界はそんな壱つの懐古浪漫に貫かれたものであるがさうさう壱般的な興味の対象となるものでは無い。

されど壱般人にせよ其れこそ高校時代には地球の歴史年代のこと地球史年表 - Wikipediaを習うのであるしまた其れこそ小学生位の頃に水晶や化石の採集に出かけたことなどがある筈だ。

 

ところがさう云う世界は参拾位になると遥か彼方の思い出の中のことと普通はなるのである。

何故なら現代文明に取り必要なのは其の古代浪漫に耽溺するやうなパーソナリティでは無くむしろ文明に対し滅私奉公すること所謂自分の頭では「考えぬ」人人なのであらうから。

 

だから其の文明に対し滅私奉公する=従順である、との社會的洗脳體制が結局我に取り最大の苦痛なのだ。

なので僕はあえて其れとは逆方向を向きソコにこそ住まうのである。

 

 

さうかと言って理系はまるで出来ないので古生物學者になれる訳でも無く只只パッと見て樂しい古生物の世界をこそ旅して居たのだと言えやう。

まさに其処は我が石の趣味とまるで同じことで要するに通俗趣味の域を一歩も抜け出ては居らぬ。

 

なんですが普通人は古生物學が趣味ですとはなかなか言わぬ訳であり其処は流石に如何にも詩人らしく興味其れ自體が著しく偏向して居るのである。

 

 

スティーヴン・ジェイ・グールド ♯業績 - Wikipedia

 

古生物學者として大きく影響を受けたのは『ワンダフル・ライフ - バージェス頁岩と生物進化の物語』(早川書房の著者であるS.J.グールドである。

 

かってはグールドの學説の方にも影響を受けたが其れよりも何よりもパッと見て古生物の形が兎に角面白いのが当時壱般にも広く読まれたワンダフルライフ (書籍) - Wikipediaと云う書籍だった。

我は何度も此の本を読み返し地球上の生命體が太古の昔に全てを試した上でまさに其の生命としての歴史の上で結果的に選択され我我脊椎動物が繁栄したことを知り愕然としたものだった。

 

要するに生命の形態として全てはやり尽くされて居り其の結果として選択された生命のあり方がまさに今を築いて居るのである。

 

 

ワンダフル・ライフ──バージェス頁岩と生物進化の物語 | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン (hayakawa-online.co.jp)

『ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)

 

生物學や地質學はむしろ其のやうに地球の歴史の発掘作業であり其れは壱面で人文科学的な側面をも持ち合わせて居る。

要するに数学や物理学のやうな抽象度の高い世界では無く要するに具象的な歴史としての物の世界をむしろ過去に対し探究して行く場なのでもまたある。

 

即ち岩石や化石は単なる物質だが其れはかっては生き物でもまたあり今尚地球上に具象化され残されて居るものである。

でもってS.J.グールドは当時の生物學會を掻き回す程に色色と意見を述べた人であった。

 

スティーヴン・ジェイ・グールド  #論争- Wikipedia

 

かうしてどちらかと言えば大人しい人では無くむしろ自分の考えに対し壱直線の人で論敵もまた多かったのだらう。

 

リチャード・ドーキンス  #無神論と合理主義- Wikipedia

 

例えば此の無神論者でもって宗教否定者ーほぼ完全なる合理主義者ーである高名な英國の進化生物學者であるドーキンスがグールドの論敵であった。

ちなみに個人的にドーキンスは最も嫌いな自然科学者の壱人である。

 

 

利他的行動は、他者を助けるために自分の適応度を低下させるという行動がどのようにして進化するのかという点で、当初は進化上のパラドックスであった。以前は多くの生物学者群選択的な視点、つまり「個体は自分自身の利益にならなくても群れや種のためによいから利他行動を取るのだ」と解釈していた。イギリスの進化生物学者W.D.ハミルトンは包括適応度と血縁選択という概念(個体の利他的な行為は遺伝子を高い確率で共有している近親者に向けられている)を提唱し、遺伝子中心の視点から利他行動を理解する道をひらいた[24][a]。 同様に、ロバート・トリヴァーズは遺伝子中心のモデルを発展させ、「個体が将来の返報を期待して他個体へ利益を与える」とする互恵的利他主義を提唱した[25]ドーキンスはこれらのアイディアを『利己的な遺伝子』で発展させた[26]

リチャード・ドーキンス  #進化生物学 - Wikipediaより

 

自然界での営為は確かに弱肉強食でありある意味では利己的に欲望が成就される世界である。

されど事實上其処に利他的行動が屡見受けられるものである。

 

どだいとある個體が食われ他の個體の生命を維持すると云う其の関係性自體が利他的行動である。

まあ誰しも其処ではイヤイヤ食われる訳ながらイヤだらうが何だらうがさうして食われるのだから仕方がなからう。

 

また其れは利益云云では無く元元さう云うものなのではなからうか。

其の現世利益に拘ること其れ自體が合理主義である。

 

つまりは其の食う、食われるとのある種不合理なシステム其れ自體が自然科学へと還元出来ぬ価値となるのである。

故に自然界は還元主義では捉え切れず、また生命の利他行動も還元主義では理解し得ない。

 

 

進化の解釈とメカニズムに対する一連の論争(「ダーウィン・ウォーズ」と呼ばれることもある[31])は社会生物学論争の一端として、ドーキンスと彼のライバルであるアメリカの生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドの間で行われた。二人は特に社会生物学進化心理学の論争において、ほとんどの場合ドーキンスは擁護者として、グールドは批判者として論陣を張った[32]ドーキンスの典型的な立場はスティーブン・ローズ、レオン・カミン、レウォンティンの『遺伝子の中にはない』に対する酷評によくあらわされている。ローズらやグールドの主な批判は「社会生物学者は遺伝子決定論者で還元主義者である」「現在の社会的不公平は遺伝子の不可避的な現れであると正当化している」であった。ーリチャード・ドーキンス  #進化生物学 - Wikipediaより

 

尚我は此の種の生物學に於ける論争などとはまるで別に壱文人としての自然を見詰める眼差しを有して居る。

其れに寄ると自然界の生命のあり方は利己主義であると同時にたまに利他主義でありまた我我現存在の眼差しー認識ーとはそぐわぬ不可思議なものを内包して居るのだと思う。

 

逆に申せば我我現存在の認識は特に近代以降は可成に抽象化され偏ったものとなって居る可能性が高く有り故に其の合理性以前での無分別的な認識をすでに理解し得ないのではなからうか。

他方でケモノの認識は所詮大抵は獣並みのものだ。

 

だから其れは文化的なものでは無くましてや継続的なものなのでもまた無い。

しかしながら其れが結果的に継続的なものとまたなり得るのはむしろ彼等が其の継続性其のものに妙に拘ったりはして居ないからなのではないか。

 

 

逆に現存在の場合は其の価値の永続性に対し観念的にむしろ何処までも拘り続けて来た訳だ。

また其れを壱言で評せば幸福の實現をあくまで「観念的に」成さうとして来たのである。

 

ところが彼等獣を観て居てまず思う事は彼等は左様な観念性にはほぼ拘って居ないと云う事實である。

 

であるからこそ彼等獣やまた昆虫などは無思慮に子を増やしまた食ったり食われたりもまたするのであるが其れはあくまで彼等の認識の上ではほぼ当たり前のことなのである。

さう云う認識即ち本能に基づく生とでも言うのかそんなものが時に眩しく且つ不可思議なものに感ぜられてならない。

 

其れはこんな自然派の我でもさうなのだからいま少し文明の洗脳の度が酷い人には其のことがまた余計に理解不能なこととして目に映ずる筈なのだ。

 

 

然し我は其の理解不可能な何かをむしろ重視して行くべきだとさう考えつつある。

 

不可解なこと⇔自明のこと

とのことで、今現存在に取り都市文明もまた科学技術が生み出す産物もさらに文明による進歩の内容も須らくが我我に取り自明の価値となって居る。

 

だがおそらく其れは其の不可解なことを内包する認識に取って逆に不可解なこととしか見えぬ筈なのだ。

まあ其れもさうで、🐈にも🐕にも、また🐻にも🐗にも此の文明界はまるで不可解なものにしか見えぬ筈なのだ。

 

其の認識に於ける両義性の部分、認識に於ける対立概念と云うことに就き最近は考え込むことが屡である。

其れも結局は、

 

相対認識ー分別知ー⇔絶対的相対認識ー無分別智ー

としての概念上の対立問題に集約されて来るのやもしれぬ。

 

 

尚現存在は現文明を相対認識のみで成り立たせて来て居る可能性が高くある。

よって右側の方をあえて指向することで全体論的に認識の世界を理解出来ないものかとさう考えて居る。

 

要するに、

 

大脳新皮質⇔大脳旧皮質

との対立構造は其其に其れを感じてみなければならずよって🐈や🐕やまた🐻や🐗の認識だと云う理由だけで其れを蔑んで居る理由などは全く無いが故にだ。