目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ジョアン・ミロの絵画展ー弐 所謂藝術と生活とが異なることー

ジョアン・ミロの絵画展ー弐 所謂藝術と生活とが異なることー

 

 

 

さて其の藝術とは果たして何なのか?と云うことですが其れは「夢生と夢死」のことであるとまずわたくしは理解する。

其の「夢生」及び「夢死」とは精神的に達成される境地のことで無論のことながら誰にでも出来ることでは無い。

 

要するに藝術的な感度に対し拓かれた自我の持ち主=藝術家にのみ可能な精神的な意味での死であり其れに至る迄の生の過程のことだ。

 

さうして其れは常に壱部の人間にのみ拓かれることだらう所謂創造的次元に於ける生であり死の形である。

但し其れは壱般者にも充分に縁することが可能なものであり其の点では確かに藝術作品は普遍的に現存在に対し其処に「有る」のである。

 

其れが何故さうして普遍性を獲得して居るかと云うにまさに其れが分別概念を超越する形にて其処に顕現するものだからなのだ。

其の意味では此の世には「無い」もののみならず「有る」ものがまたあると云うそんなまさに分かりにくい御話とならざるを得ない。

 

では何故藝術はさうして「有る」のであるか?

謂わば其れが夢の世界の御話であるが故にむしろ其れは「有る」のである。

 

 

例えば現實の上での所謂現象の本質的規定とは「無い」方にこそある。

でもって皆様は其の「無い」方の価値のことにむしろ掛かり切りだ。

 

かうして学び働き結婚し子が出来孫が出来爺となり死ぬるのが人間である。

だが其の営為の方には實は本質的価値に対し開かれし部分がむしろ「無い」のである。

 

 

また何を仰るのか。

ようやくかうして子も孫も出来しかも部長も勤め上げ爺となったのだ。

 

其れの何処が「無い」?

だからまさに其れが「無い」。

 

人間の生の本質に対し其れはあくまで「無い」。

また気鬱詩人がややこしい哲學の世界に我我善良なる凡人を巻き込もうとして居る。

 

いや気鬱詩人は気鬱詩人として常に「有る」がどうも君の場合は「無い」。

すぐにさうして普通の暮らしを全否定したがるそんなお前の癖などはもう俺らにはお見通しだよ。

 

いやだからどうしてもさうなる。

つまりは君等は此処に本質として「居ない」のである。

 

 

逆に「居る」と云うことは「夢生と夢死」としての本来ならば「無い」ものを生きることにより「有らしめられた」ところでの「居る」であり「有る」なのだ。

また話が難しいと申すか兎に角クドい。

要するに其の理窟其れ自體が兎に角クドい。

 

いやだからどうしてもさうなる。

つまりは君等は此処に本質として「無い」のである。

 

 

では藝術的に其の創造的自我を生きるとすればあくまで其れが「有る」其れも本質として其れが立ち現れて来るとさう仰りたいので?

なんだもう全てが分かってるじゃないか。

 

いいですか、「夢生と夢死」を生きてこそ謂わば世界は其処に創造されるつまりは開闢されるのだ。

 

但し「夢生と夢死」を生きずとも此の世を有らしめる方法はありまさに其れが信仰としての場である。

其の信仰により其処に創造されるつまりは開闢され得やう。

 

 

すると其れは共に現存在に取っての精神的な場だと云うことなのですね?

まさに其の通り。

 

現存在に取って「有る」と云うことはあくまで思考か又は其の対概念としての信仰かである。

では藝術とは其の信仰では無く所謂「美との心中」のやうなものなので?

 

其れもほんたうの意味での「美」との。

其の「美」が名ばかりのもの即ち金銭的価値だのまた名声だのに規定されて居る限りは其れは眞の意味での「美」の世界のものには非ず、だ。

 

では「美」では無い美らしきものがまた此の世には溢れて居るので?

此の世の価値は常に半半であり眞のものと偽りのものがさうして常に同様に満ち溢れて居る。

 

だが「夢生と夢死」を標榜する価値こそが常に其の本物の美としての対象なのだ。

 

 

 

ジョアン・ミロによる絵画作品の一覧|MUSEY[ミュージー]

 

《ハーレクインのカーニバル》ジョアン・ミロ|MUSEY[ミュージー]

 

其のMIROの作品に此の絵があり、我は屡其れを小学生の頃から眺めて居た。

おそらく何らかの図録にて其れを眺めて居たのである。

 

其の折に其の自由闊達さのやうなものがとても印象に残った。

兎に角其の制約の無さのやうな部分と其処に描かれた訳の分からぬもの達がまるで解放されたかのやうに樂し気であることが強く印象に残った。

 

ところが現實としての人間の生活とはむしろ此の絵とは正反対なものとならざるを得ない。

其れも其の通りで子供の頃からさうして勉強させられ大人になると働かねばならなくなる。

 

無論のことまさに其れが社會的な制約に常に晒される形でもって人間を形作ると云うことなのだ。

だがどうも其れとは違う場が何処かにありはしないのか?

 

つまりは此の絵の如くに現實としての場に浮遊し且つ遊んで居る=喜び合って居るやうな人間の生の場が何処かにありはしないのか?

 

でもって結局其れは何処にも無かったが只壱つだけ其のMIROの絵画の中だけには其れが有ったのだった。

だから「有る」とはさうしたことでありまた「無い」とはさうしたことである。

 

 

なる程。

何だか上でややこしく観念論議されて居たことが分かったやうな気がまた致します。

 

だから藝術とはまさに其の「夢生と夢死」の側に己の価値観を全的に投影することこそを言う。

すると夢の如くに生きて且つ夢の如くに死すとさう云うことなのですか?

 

いやだから其れは其の捉われとしての現實上の価値観からすればあくまで其のやうにも見えやうが藝術家自身としてはむしろ其れがたった壱つの生きる術だ。

要するに其のやうに己としての価値観を全的に転換して仕舞って居るのでむしろ其の藝術以外の価値に拘らぬと云うか影響を受けなくなるのである。

 

なる程。

でも其れだとまさに壱歩間違うと危うくもなりますね?

 

まあ其れも藝術に限らず例えば宗教などでも言えることだが確かに壱歩間違うと危うくなることだらう。

だが其れが現實派としての君の論理又は価値観ならば常に正しいだとか救われるだとかさう云うことに役立つことなのではまるで無い訳だ。

 

うーん、するとある面では藝術家の心は常に自由でもってかうして思ったやうに思ったことが描ける訳なので幸せなのかもしれませんね。

さう、つまりは藝術とはそんなあくまで個に取っての幸せのことなのだ。

 

だけれどもさうして藝術が成り立って居れば常に幸せかと言えばさうでも無い。

 

 

事實此の絵を描いた時MIROは貧乏のドン底にあり飯を食う金が無かったのだ。

でも飯も食わずに良くこんな樂し気な絵が描けたものですね?

 

いや最終的には藝術は飯では無く精神の方だ。

つまりは団子よりも常に🌸の方だね。

 

でも飯を食わぬと戦も出来ぬのでせう?

まあさうだ、其れに飯を食わぬと藝術もまた出来ぬ。

だから其の意味ではあくまで其の飯と藝術も相剋し且つ相即する関係性の中にこそある。

 

 

其れと個人的に此の絵はまさに共感覚的な世界を描いたもののやうに思う。

 

即ち彼MIROに取り形態とは音符の如きものなのでありまた色彩もまた樂曲の調べのやうなものであったのやもしれぬ。

 

 

 

日本と両想いの芸術家、ミロの20年ぶりの大規模回顧展 #73 - 辛酸なめ子の「アートセレブ入門」 | SPUR(2) (hpplus.jp)

ミロ展2022日本を夢みての感想と解説!ミロと日本の結びつきを瀧口修造との共作など、130点の作品と資料でたどります! | 絵綴り (eurbee.org)

 

さて此れ等は今年の4月迄東京でMIROが展示された時の其の内容に就き書かれた部分です。

 

尚藝術とはまさに美への殉死であり其の殉死を成り立たせる為にどう今を生きるかとさう云うことなのだと思います。

我もまた其の殉死をこそ乞い願う者ですが其れは何故かと云えば結局はやりたいことをやり切ってさうして美に囲まれた侭で生き死ぬることと社會や👪の為に其の創造的自由を制限若しくは奪い去られて生き死ぬるのとでは其れがまるで違う人生のやうに思えてならぬからなのだ。

 

他方でわたくしは今此の世に地獄を感じ過ぎて居りしかも其れが永遠に続くかのやうな地獄の様ですのでもはやそんな社會の様からは是非逃げ出して逆に永遠に豊かである筈の己が内面世界に籠りたいと常に思って居る。

よって我に取りそんな壱級の藝術作品と接することはまさに其の己の中の決意のやうなものを確認せんが為の行いなのだ。

 

 

藝術とはそんな意味でまさに不死のものでありまた世間的な制約を受けぬと云う意味で本質として自由なものだ。

其の不死であり且つ自由である世界はむしろかうして無邪気さに満ち溢れて居る。

 

其れは世間での強欲な大人達が常にしかめっ面をして居ることとは対照的なことでそんな汚れた欲得の世界とはまるで没交渉なまさに無垢であり無心でもって其れで居て壱つの理性的統制のとれたまるで夢の如き創造としての生死の場のことである。

 

其のやうに其の藝術の場ー創造的世界ーと世間としての場ー非創造的世界ーとの価値観のあり方、価値の置き方は常に異なって居る。

近代社會は壱般に其の差異を其の本質的な意味での価値観としての違いをむしろ曖昧なものと化し所謂藝術其のものを大衆化することへと導きつつある。

 

されど此のやうに壱級の藝術作品と直に接するにつけむしろ其のことが当たり前のことのやうにかうして確認されて来るのである。

其の「夢生と夢死」の間にて展開される創造的自我による自由なる心の乱舞の様がまるで当然のことのやうにかうして確認されて来るのである。

 

 

ミロの最初の大きな一歩、いわば発芽 「アルルカンのカーニバル 」 | きょうの絵画 (洋画:批評・美術史・展覧会) (artartspot.blogspot.com)

 

miro-carnaval-arlequin

 

ジョアン・ミロの絵画展ー壱 藝術とは呼べぬ美の世界もまた此の世にはしかとあるー

ジョアン・ミロの絵画展ー壱 藝術とは呼べぬ美の世界もまた此の世にはしかとあるー

 

 

 

室井佑月「疲れた」 (msn.com)

 

いや其の室井 佑月氏の御苦しみなどもまたある意味では我には分かるとでも申しますか兎に角此の社會とまともに向き合うだけでもうヘトヘトになりますのですね。

室井先生などはもっともっと實質的に其の政治的闘争と関わられて居るのやもしれぬのだが僕なんぞはかうして地方都市から其のゴタゴタ劇を眺めて居るだけでもはやこんなヘロヘロの態です。

 

或は作家や自称詩人などの所謂文人は政治や社會とは距離を置き自分の感度の良さの方からだけものを述べて居る方がかうもっと何ぞ建設的な創造世界が拓けて来るのやもしれない。

ですがまあ文人系の方方はかうしてある意味では弱音もまた吐ける訳だが其処は政治家などは流石に其れは出来ませんので其れもまた地獄と言えばもう完全なる地獄界ですな。

 

尚今日僕は久久に藝術と接して参りました。

大変疲れましたが美術展へと出向き其のMIROの絵画と向き合って来た。

 

まずは自転車でもって行きと帰りで弐時間半はかかります。

何故なら股関節の具合からスピードが出せないのでまるで亀のやうにノロい訳だ。

 

 

さうした意味では我はほんたうにもはや爺さんですね。

ですが其の爺さんの生き甲斐こそが孫や組織などでは無く藝術ですので兎に角もう其の美の世界しかありませんのです。

 

其れと仔猫などにもまた癒されては居るがこちらの方は生臭モノの方で所謂✖の方での価値だ。

 

其の藝術はかのショーペンハウアーを始め最近ではマルクス・ガブリエル氏などもまさに壱推しされて居る現存在に取っての最高の趣味でせう。

 

ですが藝術と云うのはアノ👩だらけの美術館とはまた全然違うものだらう。

いつも其れを思うのですが何時訪れても其の美術館が👩だらけでおまけにアノ椅子に腰かけ監視して居るネエチャン達もまた👩ですのでもしや何か自分が違うところへ迷い込んだのかとさう思いますが其れはさうでは無くしかと其の藝術の場に我は今来て居るのです。

 

で、大抵は其のまさに烏合の衆の如き👩共は藝術の本質を其処に感じ取りに来て居るのでは無くむしろ其の藝術の世界なる高尚な何かを今まさにワタシがかうして感じ取って居ると云うつまりは虚栄心の如きもの、まさに其れに寄り掛かりさうしてゴッホだのまたモネだのミロだのをまさにさうして穴の開くが如きに見詰めて御座る。

 

だが此の♀の群れの中で眞の意味で藝術が分かるのはおそらく拾指にも満たぬことでせう。

 

 

愛知芸術文化センター (pref.aichi.jp)

 

さてコレクション展示のやうなものと巡回展としての日洋展なるもの、さらに書展のやうなものもまた観て参りましたがまずは其れの感想を述べます。

壱言で述べて其れ等は概して藝術としての「個性」には欠けタダの装飾品の如きものに感ぜられた。

 

此処からしても藝術とは非常に難しいものなのでもまたある。

 

尚其の藝術に対する我が感度はかうして常に高くあります。

むしろ其れが高過ぎるが故に生きにくくて困って居ります。

 

ですがあくまで現實的にはまさに久し振りに愛知県美術館の方を訪れ結構樂しかった。

 

でもMIROの絵画とコレクション展の方以外は概して其の駄作の連なりであった。

兎に角僕の場合はかうして審美眼の方が常に厳しいのでソコを決してナメて居てはイケません。

 

 

元より藝術作品と工芸美術とはまた違うものであり、でも工芸美術の方でも例えば人間國宝の作品などは藝術作品並にもまたなって来るものです。

さうしたものは其の「個性」などもまた強く出て居て其処はむしろ藝術作品と呼べるやうなものがある筈です。

 

でもまた其れとも違うのです。

要するに「主張」のやうなものにもまた欠けて居るのだと思う。

 

ところが其の「個性」や「主張」が強過ぎると往往にして其の作品は其れこそ時代や大衆の感性からは理解されぬ場合などがまた出て来る。

でも其れが壱流の「個性」や「主張」であることが分かるとさうして世に認められる形にて崇められるやうにもまたなるのです。

 

尚僕自身はまさに表現者として「個性」や「主張」がおそらくは強い方かと思われますが其れを周りが理解することは難しいことだらうともう長くそんな風にも思って来ました。

要するに言ってることが「狂」だの「凶」だのそんなところへもまた踏み込んで行くクセがあるのでコイツはもうアタマがオカシイから視るのを止めやうとさう思われ易いのではないかしら…。

 

 

で、僕はかうして其れこそ直観や直感的解釈に長けて居るので其の場にて「パッ」と何かを掴んで仕舞います。

其の「パッ」と掴むとどうも其の沢山の絵画や書の作品が僕には藝術だとは認められなんだと云うばかりでのことだ。

 

なんですが其の美術館巡りは我が趣味の壱つでもありかうしてクソ暑い中ではありますが其れが出来まさに幸せだったと云うそんな御話だった。

 

帰るともう倒れ込んで仕舞い矢張り目や頭が痛くなります。

其れは暑さでさうなったこともあるがおそらく半分はコロナ・ウイルスの方でせう。

 

 

まああれだけMIRO展に人が来て居ればおそらくはすでに館内には其れが蔓延して居ることだらう。

ですが其れもまた嗽をしさらにアルコール消毒し風邪薬を飲めばかうして回復します。

 

そんな訳で我が美術館遍歴の場合には最近むしろ其の👩共との闘いと云う様相を帯びて来つつもまたある。

またさうしていつも思うのが「何故👩共は藝術が分からぬのにまたあえて其れに群がるクセがあるのか?」と云うまさに其の部分です。

 

其の分かる、分からぬはあくまで其れを本質的に理解して居るかどうかと云うことだ。

根本的に藝術とは群れるものでは無くまさに個として自立しさうして表現するものです。

 

其の表現とは其れこそ「反戦」であれ「詩」であれまた「死」であれ何でも良い訳です。

 

MIROの場合は矢張りどうしても「ポエム」の方を感じて仕舞います。

ですが其の音樂性のやうなもの、其れこそ共感覚的な表現のあり方こそが矢張り独特なものとなる。

 

かうして詩人の場合にはまた大衆とは異なる視点にて其の作品を見詰めて居ることだらうからまた其の点を中心にミロのことを論じてみたいと思って居ます。

ちなみにコンビニへ寄り金をおろすことを忘れて仕舞い図録の方が買えるものか心配でしたが其れも何とか買うことが出来た。

 

さうした高名な画家の絵画展は生涯に何度も観られる訳では無くおそらくはMIROの場合も我に取りおそらくは此れが最後でせう。

だから其の高い値段の図録もまた是非買って置かねばならない。

 

其れと絵葉書の方もいつも弐、参枚程求めます。

 

今回は此の黑い大きな絵画が凄く気に入りましたので其の絵葉書もまたしかと求めて来ましたのです。

 

 

 

ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子ー福岡市美術館


 (fukuoka-art-museum.jp)

 

知の巨人立花 隆がかって思い描いた人類の未来とは?-壱 人類の未来への鍵は個に於ける認識の転換にこそむしろ掛かって居る-

 

さて其れでは其の知の巨人としての立花 隆先生がかって考えられた人類の未来のことに就きそろそろ此処でもってじっくりと考えてみませう。

 

 

 

『サピエンスの未来 伝説の東大講義』(立花 隆):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

すみませんがまだ読んでは居りません、ですが是非読みたい本です。

 

立花隆「地球は人類にふさわしくないものに変わりつつある」 49年前の「デビュー作」にあった予言 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

尚現存在に取り壱番大事なこととはズバリ思考であり認識です。

其れも何処を向き思考乃至は認識を積み重ねて居るのかと云う点が最も大事な点です。

 

逆に申せば例えば科学的ー科学技術的ーに世界を「進歩」に取っての資源として捉え其れを収奪か又は搾取することにより人間にとっての諸価値を高めて行くと云う考え方などはむしろ非理性的な考え方です。

わたくし自身の論点とは其のやうな非理性的な考え方に何故此の科学文明が陥って仕舞ったのかと云うことを哲學的な観点より明らかにすることにこそあった。

 

其れを壱言で申しますと理性がカタワ化する即ち偽の理性へと変質して仕舞う其の「原始退行化」の流れを理論的に明らかにしてみた訳です。

全体論としての理性ー人文理性ー⇔分析理性ー科学及び科学技術ー

 

其処で即ち右の部分ばかりをやりますと理性としてのバランスが崩れ結局は、

全体論としての理性ー人文理性ー<分析理性ー科学及び科学技術ー

 

となって仕舞います。

すると人間が本来持ち合わせて居る筈の感度の部分ー直観的能力や直感力ーも鈍って来て所謂「洗脳」状態へと至らざるを得ない。

 

其れを譬え話でもって説明致しますと、

 

森=木木ー植物型生命ーや動物ー動物型生命ーや土壌や岩石等の集積物であり且つ其れの相互作用系

と云うのが其の分析理性による自然理解ですが、

 

例えば詩人や共感覚者ー藝術的感性ーによる自然への見方は其れとはまるで違うまさに「自然の豊かさ」や完璧性を直に其処に感じ取るものだ。

要するにさうした部分視なのでは無くむしろ全體的に其の価値を感じ取り其れを評価してさえ居るのです。

 

 

ですので、あくまでわたくしの見方に限れば、

其の分析理性ー科学及び科学技術ーが膨張した分さうした本来人間が持ち合わせて居る全体論的認識が制限を受け、

 

其れでもって自然破壊が長きに亘り引き起こされ地球が壊されて行ったと云うそんな理解での仕方です。

 

理性⇔本能

 

此の部分もまた屡述べて来たことですが其の理性其のもののバランスが崩れることにより上記の関係性もまた異常となって来ます。

 

理性→本能

 

大まかに申しますと其処に理性の原始退行が引き起こされることにより理性が屡本能化したりもまたする。

具體的に申せば科学者が成果を盗作したり捏造したりすることがまた頻繁に起こっても来る。

 

實際に今さうしたことは頻繁に起きて居ることでせう。

 

では何故本能ではイケナイんですかとさうした疑問が生ずるかとは思うが其のことは是非中学や高校レヴェルでの倫理社會などから是非學んでみて下され。

まさに其れは近代社會に於ける根本での大原則です。

 

近代社會と云うもの其れ自體が其の理性により組み上げられた社會としての要件を満たすものなのだ。

ですので理性的に生きられなくなったが最後人類は近代的世界を生きる者ではよもや無くなりむしろケモノの如くに欲望モロダシの態にて生きて行く他は無くなる訳だ。

 

そんな訳で現在其の近代社會に行き詰まりの態が見られるのは其の理性としてのバランスがそも狂って仕舞って居るからなのだ。

 

であるからわたくしは是非其の過ちの部分を治すつまりは人間の認識の方から其れをそも変えて行きませうとさう決意し此の御話を書き続けて来たのです。

なんですがわたくしの言ってることはまた確かに高尚な理論でもまたあるので其れがまた壱般の人人にはほとんど理解して貰えない訳だ。

 

でもってイキナリまた其の立花 隆先生の御話の方がスッ飛んで仕舞いました。

 

 

ー農耕という技術は遷移を人為的に妨害して、ある種の植物だけを常に繁栄させておこうとするものである。もし人間が畑の耕作や除草をやめれば、ただちに遷移は進行をはじめる。

この遷移の系列が、人類の時代をもって終わるということは、生物学的な常識から考えられない。30億年の地球史のなかで、それぞれの時代においてわがもの顔に地球を支配していた三葉虫や恐竜などがそうであったように、われわれ人類も自己の活動それ自体によって環境を自らの存在にふさわしくないものに変えつつある。

もし人間が、自ら変えてしまった環境に生物学的に適応できなくなれば地球の支配権を次の生物に譲らなければならないのはあきらかである。

この遷移の系列が、人類の時代をもって終わるということは、生物学的な常識から考えられない。30億年の地球史のなかで、それぞれの時代においてわがもの顔に地球を支配していた三葉虫や恐竜などがそうであったように、われわれ人類も自己の活動それ自体によって環境を自らの存在にふさわしくないものに変えつつある。

もし人間が、自ら変えてしまった環境に生物学的に適応できなくなれば地球の支配権を次の生物に譲らなければならないのはあきらかである。

 

遷移には革命がつきものである。優占種はその時代の環境に最も適合しているからこそ、優占種でありうるのであって、環境が変化すれば、凋落せざるをえない。たとえ、社会主義の次の段階が共産主義であるという予測が正しいとしても、その移行を担う主役は、社会主義社会の中でいま醸成されつつあるまだ知られていない種であって、現在の体制を担っている優占種ではないだろう。

 


たとえば、進化史という遷移系列の未来を考えてみよう。現在の環境変化の進行から、優占種の交代が行われるとき、次なる優占種はいかなるものであるかについては、ほぼ科学的な予測ができる。次代の優占種は必ず先代の優占種の内部あるいはその近縁のものから生まれてくる。

 

 

気候一つとっても、環境はローカルによって個別性を持っている。また、同じ気候区にあっても、砂丘の上に展開される遷移系列と、内陸部で展開される遷移系列とではおのずから異なってくるのは当然である。

社会的な遷移についても同じことがいえるだろう。マルクス嫡子ちゃくしたるべきヨーロッパ社会主義はついに誕生せず、ヨーロッパ社会はすでに別の遷移系列をたどりはじめている。それを正確に跡づけて未来を予測している人は誰もいないが、ヨーロッパ社会の次代の相貌は、この社会が現在内包しているものを分析することによってのみ知られるのであって、マルクスに帰ることによってではないのは明らかである。ー

「数年以内に君たちは人生最大の失敗をする」立花隆が“6時間の最終講義”で東大生に語っていたこと | 文春オンライン (bunshun.jp)より

 

 

まずは其の社會のあり方に就いてですが、其の社會の抱える矛盾の淵源も結局は個としての人間の認識上の癖ーケモノ性ーの部分へと還元される筈だと個人的にはさう考えて来て居ます。

社會⇔個

 

と云うことですが其処に先の如き理性的にバランスを欠いた傾れ込みが常に起こるので其の社會主義にせよさらに理想としての共産主義社會にせよ其れがあくまで理性的には理想として成り立つにせよ現實的にはむしろなり得ないと云う御話とならざるを得ない。

要するにわたくしの論理としましては現存在は近代以降もまるで理性的になど生きられては居ないと云うこととならざるを得ない。

 

では其の理性的に生きる事、理性的に社會を組み上げることとは具體的にどんなことですかとさう問われるならば其れは是非御自分の心にでも聞いてみて下され、などと云うまるで禅問答の如き結論となって仕舞います。

要するにまずは認識其れ自體を社會的洗脳の側から自分側へと持って来なければ何も話が始まらぬと云った感じでせうか。

 

尚其の體制に関しては現行の資本主義を採るよりはマルクス主義に限らず其れこそ倫理的な資本主義や限定された資本主義へと変わらざるを得ぬ部分へとすでに近代社會は追い込まれて居ると見るべきです。

ですがさうまでなってもいまだに其の価値ヒエラルキー主體での搾取社會からは抜け出せぬ文明ですので結局は何も変われずに其れこそ今後頻発して来るであらう気候変動による大災害やまた此処日本に於いては特に大地震の脅威こそが最も大きな社會的リスクとして考えられるものです。

 

其れから其の「優占種」の交替と云うことですが、個人的にはあくまで近代とは理性と云うよりも観念としての抽象領域が只ひたすらに膨張=暴走した自然に対する破壊過程だとさう感じて居りよって「優占種」の交替が起きる前に全地球的に生態系が破壊され生命全滅の危機が生ずる筈だとさうも考えて居ます。

 

大體其れが2100年辺りから引き起こされて来る可能性もまた高くある。

ですので其れはまさにすでに「かうしてもう長きに亘りやらかして仕舞った」ことですので過去の文明の行為を今幾ら悔やんでももはやどうにもならぬ現實としての様です。

 

問題はむしろ大衆が其れとは程遠い認識をして居ることでせう。

ですが其れもまた其れは其れで良いのだらう。

 

人間に就きこんなに苦しむのは詩人や純文學作家や画家や音樂家、また宗教家や哲學者などで沢山であり其処であえて人類の明日に対し絶望して居ない方が樂と云うものです。

但し其の樂なのは事の本質をあえて見ない形での樂だと云うことと常にならざるを得ない。

 

 

 

ー『世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、 世界の変革は不可能です。 

それなしの変革は、盲目的になり、エントロピー増大の方向に向かうだけです。 

それは進化ではなく、退化です。』ー◆人間はどこへ行くのか、その1 | 遺言 (taorikeiko.com)「サピエンスの未来」~伝説の東大講義~より

 

尚此の部分だけをこちらより引用させて頂きました。

 

まさにわたくしが述べ続けて来たこととは其のことです。

現存在の抱える問題とはまさに其の認識上の誤謬の部分にこそあります。

 

また其れは此れ迄に繰り返し述べて来た如くに我我個が其れ其れに精神的に自立しまさに自律的な価値を生きられるかどうかにこそ掛かって居ます。

故に我我現存在に対し本質的に提示される問題とは其れこそ其の世の中の様が悪いことには無く其の悪い世の中の価値観にあえて同調し歩んで仕舞う其の理性を欠いた様=人間理性としてのおバカさ加減にこそ生じて来て居るのだ。

 

尚個人的には人間の社會がさうして価値を変えつつ成り立たせて行くことを「進歩」と呼び所謂自然界での「進化」とは区別して居ります。

「進化」は「破壊」を生ずることは無いが「進歩」はむしろ「破壊」をこそ其処に呼び込む訳だ。

 

其れもまた其れこそ少しく悲観的につまりは大袈裟に考えますと2100年頃迄に此の現代文明が地球を破壊し尽くして居る確率が八拾パーセント程もまたあることでせう。

対して其の逆に樂観視するのだとしても五割程の確率にて其の壊滅的な破壊が齎される筈だ。

 

ですのでどうのかうのでは無く現存在は今やまさに其の宇宙の大破壊者となるかどうかの瀬戸際にこそ立って居るのだ。

 

ああー、あああああー、怖い!!!

またさうして頭の方がおかしゅうなって御座るのか?

 

そんなんじゃないわい。

其れこそもうそれどころでは無い。

 

 

ですが其れはまた認識の上での転換により自らの心理の上での幸福の達成に繋がる機會なのでもまたあり得ることだ。

要するに其れは其れとしてまた惑わされずに自己としての内面的完成に対し努力を重ねることもまた可能である。

 

ですが其れにもまた限界乃至は限度がまた常にある。

其れが其の盲目的変革に過ぎぬ限りは此の社會的な迷走の挙句での様様な不利益がまさに物理的に我我個としての生存条件を狭め続けて行くことだらう。

 

ですので問題は要するに「今個として何処を向き何を見詰め且つ信じて居るか」と云うことにこそ掛かって居る。

言うまでも無くさうしてスマフォやゲームに洗脳されて居るやうでは其れはまともな認識だとはよもや申せません。

 

またすぐにさうして👩に飛び付くことや其れから酒を飲む事などももう止めた方が良い。

また動画などは眞面目なNHKEテレやBBCが制作したものを是非視ませう。

 

 

さて其のエントロピー増大と云うことは無秩序化と云うことです。

無秩序化とはアナキストのことでは無くアナキストとはむしろ秩序的な統治上のスケールダウンのことである。

 

其の無秩序化とはまさにケモノのことでせう。

其のケモノ共がさうして寄ってたかって貴方方の其の大切な實存的価値を奪って行くのです。ーさうして根こそぎに搾取且つ収奪致しますー

 

ああー、あああああー、怖い!!!

分かりましたからもう其の劇画モードだけは止めて下され。

 

 

さて「進歩」とはむしろ其の「退歩」を往々にして誘発するものだ。

よってもはや余分な進歩は要らず後はもう地球環境を救うことにだけ是非科学技術を是非使って行くべきだ!

 

でも火星へ逃げれば良い話ですよ。

君は何処の小学生か?

 

へっ?

君は壱體何処の小学校でもって學問を學ぶ小学生なのか?

 

ゴヤ市立弥富小学校の6年生ですが…。

バカ、其れは此のワシの母校だ!!

 

其れもより正確には我は中根小学校の第壱回卒業生なのだが5年生まではしかと其の弥富小学校に通ったのだ!

社會の先生、では人類はもうお先が眞っ暗なのですか?

 

其れも眞っ暗暗の暗だ…。

 

ですが此処まで見通しが暗いと逆にかう何だか笑って仕舞いますね、わっはっはっはっはっはー。

社會の先生、では人類はどうしたら助かりますか?

 

ああ、其れはもはや助かりませんのでアナタだけが救われれば其れで良いのです。

それでーいいのだーそれでーいいのだー、ぼんぼんばかぼんばかぼんぼん。

 

でんさーいいいっかだー、ばーかぼんぼん。アイドル・フォー 天才バカボン 歌詞&動画視聴 - 歌ネット (uta-net.com)

保守としての其の価値ヒエラルキー地獄ー+マセラティMC20にて三河の山中を駆け巡りたい話ー

87.保守としての其の価値ヒエラルキー地獄ー+マセラティMC20にて三河の山中を駆け巡りたい話ー

 

 

 

 

軽自動車とフェラーリが衝突 小学生が死亡 広島・福山市 (msn.com)

イタリア高級車「マセラティ」暴走 運転手が逃走 事故の車は盗難車か(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース

「マセラティ」歩道へ突っ込み大破 運転手は逃走 | マセラティ | 日本ニュース - Bing video

 

まあ其の伊太利亜車は明らかに遊ばんが為の狂走車ですね。

元元遊ばんが為の狂走車なのでかうして暴走し且つ小学生を轢き殺したりもまたする訳だ。

 

 

【車両紹介】車好きがヤバい!と惚れ込む1台 □マセラティ MC20 を徹底紹介!!! @ Maserati Nagoya Channel M.N.C - Bing video

マセラティ MC20 試乗記・新型情報 2022 - webCG

マセラティ MC20 中古車試乗インプレッション - Bing video

 

其の事故が起こる前に此のマセラティが是非欲しくなり實は色色と研究をして居りました。

まあ所謂スーパーカーとしては極め付けの🚙で其の評価の方もまた概して高評価です。

 

勿論宝くじが当たれば買いますのですが、實はそも宝くじを買って居りません。

何故かと云うと別にスーパーカーなど要らないからなのですね、其れもより本質的な意味では。

 

何故ならすでに其の伊太利亜や中國の万年筆でもってもう目壱杯に遊んで居ます。

其れもかうして精神と関連する万年筆の方がより理性的な趣味の物でもあり得るからだ。

 

 

其のスーパーカーはまさに現實を夢の世界に変える物なのだらうが結局は理性的に眺めた場合に其の資本主義としての悪の度合いが高くなりませう。

其れ即ち悪の資本主義をさうして成り立たせて行くことに対しより理性的に対処することこそが其のスーパーカーや🚙を選ぶことでは無く自転車をあえて選ぶと云うこととなる。

 

だけれども確かに今我が数億円を持って居れば山奥ー奥三河ーに木の家を建てガレージには此のMC20をば置くことでせう。

尚足助より奥三河へと至る道は、

 

1.交通量が少なく路面が荒れて居らずまるで鏡のやう

2.景色が最高

3.事故るにせよ自分でもって木立へと突っ込みまた谷や川へ落ちて死ぬるだけの話

 

とのことで實はまさにスーパーカーの為の道路なのです。

ちなみに昔夜中に此処でNISSANのCIMAー家の🚙ーを横滑りさせたことがあり咄嗟に逆ハンドルを切りましたが其れもまた大きな🚙ですので結構怖かったものです。

 

ちなみに昔我はさうして🚙馬鹿でしたが今は兎に角其の三河の自然の方がより大事でありまた興味自體もそちらにこそあります。

 

さて問題は資本主義はかうして夢の如き現實を欲望に対し常に用意して居る点でせう。

其の夢の如き現實とは欲望としての上層部に対する充当の部分でせう。

 

 

要するに其のスーパーカーや豪華🚢や✈などはまさに其の人間の欲望としての上層部に対する充当の部分でせう。

 

だが我は概して其の種の価値を否定的に見詰めて来て居る。

と言うか自家用車其れ自體に対しすでに批判的です。

 

但し其れを知らずに批判的に見詰めるのでは無くむしろ其れをやり切った上であえて其れを批判的に見詰めるのです。

 

近代の破壊とは其の資本主義が用意した欲望への全的な容認より生じて居るものです。

よって本質的にはあくまで資本主義こそが地球の破壊者です。

 

ですが近現代人はむしろ其の本質的意味には目を向けず此れ迄かうして欲望をばかり社會的に成り立たせて来て居た。

其の結果気候変動を齎し文明の存続其れ自體を危うくして来ても居る。

 

 

尚欲望には實は要るものと要らぬものとがあります。

其れは飯は最低限食わねば死ぬが其処には豪華な食事はむしろ必要無いとさう云うことだ。

 

豪華な食事も豪壮な御城や御殿もまた本質的には要らぬことでせう。

其の豪華な食事や豪壮な御城や御殿、さらにスーパーカーや豪華🚢や✈などは所詮価値ヒエラルキーとしての構成物の上部です。

 

其の価値ヒエラルキーとはそんな上下の価値の差を生み出す原理だと云うことです。

其れの分かり易い例が封建制であり王制であり且つ文化的伝統なのでもまたある。

 

其の人間に取っての古い伝統の世界が個としての価値観に対し洗脳を行い諸の搾取に対し隷属させて居る可能性が高くある。

と言えばまさに理性的に構築される左派原理となるが問題はさうして非理性的に駆動される體制維持の原理が實は自然の破壊者とならざるを得ぬと云う保守思想に対する原理的矛盾の部分です。

 

保守的な思考にはまずそんな意味での自己矛盾の様が常に突き付けられて居る。

 

何故なら其れは基本的に価値ヒエラルキー社會なのだから。

其れでもって躍起となり資本主義は欲望を常に社會的に最大限追求して行く。

 

 

さうして所詮は其の欲望を常に社會的に最大限追求して行くことと価値ヒエラルキー社會であることがイコールで結ばれて居るのです。

其の社會的矛盾のあり方は然し価値ヒエラルキー社會である限り其れこそ資本の論理であれまた宗教的権威であれ或は政治的、経済的體制であれ全部が其れに該当ししかもまるで変わらぬものだ。

 

従って其の価値ヒエラルキー社會こそが破壊の元凶の部分でありつまりは其れが破壊者其のものなのだ。

其の欲望の歯止めが効かずに要らぬ部分にまで価値ヒエラルキー社會と云う上下関係を成り立たせることで現存在は地球を破壊することにさうして勤しんで行く。

 

例えば、

 

自転車<🚙

🚙<スーパーカー

 

地球上の暮らし<宇宙開発

家での生活<海外旅行

 

タダの人<芸能人、文化人

労働者<投資家や資本家

 

不細工な妻<美人妻

出来の悪い我が子<出来の良い我が子

 

とのやうに何でも其の価値尺度のヒエラルキー化をするので其処ではすでに人間の価値の勝ち負けが観念的に最初から決まって仕舞うのです。

 

でもって現存在は誰しもがより偉いとされる価値を目指す訳だ。

 

発展途上國<先進國

つまりは其処に観念的に規定されし意味でのヒエラルキーの上位者が下位者を搾取する構造がしかと築かれる訳だ。

 

 

尚所謂保守的に齎される価値と其の価値ヒエラルキー社會との親和性は常に高くあります。

例えば所謂伝統的な意味での芸道や宗教の世界こそがまさにさうでせう。

 

尚以前わたくしは🏥でもってかって製薬會社で用心棒?のやうな仕事をされて居た元警察の幹部の方の御世話になったことがあった。

其の方は富山出身でもって県立壱宮高校を出られた非常に頭の良い方でした。

 

まさに其の方とは多くのことを語りあったが何故か話が弾むとでも言いますかピタリと話題が合う訳です。

だから人間と云う者は外見では無く内面でのことがほぼ全てなのだらう。

 

其のバリバリの右の方ー元警察官はさうして退職後も警察組織と密接に繋がり合って居るやうだったーの思想にだがわたくしは物凄く驚いたものでした。

其の方は我我🏥の管理會社にさうして入って来られた訳だったが其処でやられたこととは管理業務上の改善では無くむしろ會社側の待遇改善のことばかりでした。

 

 

つまるところ彼はー拾歳程上の方だったー「現場を保持、つまりは保守するとはまずは職場の待遇としてきちんとすることである」との思想の持ち主だったのです。

其れも現場の會議に出ると其のN氏は其れも上手い具合に高校の後輩だったウチの會社の部長を常に罵倒して居たものです。

 

「そもお前がデキんので全部がダメなのだ、まずはお前からシャンとせよ。」

 

ですが我はまさに其処にこそ「體制を維持」することへの特攻精神を學ばせて頂いたのだった。

其の特攻とは敵艦へ體当たりすることでは無く戦闘員が働き易い環境を整えることにこそあった。

 

また無論のこと課長級はもっともっとボロボロにやられましたのです。

つまりはまさにバカでありアホ呼ばわりでした。

 

 

さて組織と云うものはまさに其のやうに大抵はダメなものです。

何故ダメかと申しますと其の部長だの課長だの肩書に胡坐をかき下の者を搾取するに及ぶので其処で必然としてダメになります。

 

其れは丁度政治家や官公庁などが権力を握った途端に自分が偉くなり其れでもって下の者共を搾取しまくることで其の自分の偉い地位を死守せんが為にさうなるのです。

ですが我が人生でもって兎に角壱番感銘を受けた部分こそが其のN氏の自衛的特攻精神其のものだった。

 

特に其の自軍への特攻と云う部分にこそ物凄く感動致したものでした。

ちなみに戦争映画などでも戦闘時に後ろから其のにくたらしい自軍の兵隊の頭を撃ち抜くなんて云う壱種怖い御話がありますものですがまあ其れにも近い御話なので御座りませう。

 

ですので要するに其の上下関係の価値ヒエラルキー社會にはそんな構造的な盲点のやうなものが潜んで居り實は其れこそが組織其れ自體を破壊へと至らしめる敵であったと云うあくまでそんな怖い現實上での御話でした。

 

 

1.人間腹が減っては戦が出来ぬ

2.欲しがりませう、勝つ前に。

3.部長と課長は偉く無い

 

おおまさにさうしたことです。

 

尚僕の此の頭の良さはN氏にも認められて居り其れでもって哲學的な内容の話なども屡して居たものでした。

ある時などは「死」に就いて延延と講釈させて頂いたものだった。

 

そんなこんなで我もまた色色と社會的経験はかうして積んでも来た訳ですがどうにもかうにも其れは何やらゴタ混ぜでの所謂チャンバラごっこのやうなもので別に其れが僕の思想其れ自體に大きく影響した訳ではなかったがかうして驚かされることだけは屡ありましたものです。

 

 

つまるところは保守すると云うことはむしろ偉ぶって自分だけ良い給料を取り其れでもって外車とかを乗り回して居ては決してイカンと云うことなのだ。

さうでは無くまずは自ら遜り我はかうして責任者ですが自転車壱台があればもう其れだけで感謝の気持ちで壱杯です。

 

またそんなに贅沢なビフテキやら高級ブランデーなどは要らず奈良の蕎麦と金沢のビーバーとがあればもう其れでもって極楽浄土だ。

 

其れにそんな独逸の高級な万年筆は要らずこんな参千円の中國の文鎮万年筆でもって大満足だ。

またMC20も要らん。

 

 

でもほんたうは其れが欲しい?

ほんたうは其れが欲しい…。

 

だが年を取ったら率先し運転免許を返納し🚙には触ったりなどしては決してイケません!

 

だが早過ぎないか、其の運転免許の返納は。

いいやさうでは無い。

 

六拾参と言えば其れ即ちはや半分死んで居ると云うことだ。

 

ええっ、爺ちゃん大丈夫?

明日も無事に生きられますか?

 

其れは分かりません。

明日の朝はもう死んであの世へ旅立って居る可能性もまた35パーセント程もある。

 

 

爺ちゃん。

はい、何でせう?

 

もしや今でも其のMC20をバリバリに乗りこなせますので?

あったりマエダのクラッカー。

 

もう逆ハンは切るわ、時速三百キロで中央道を突っ走るわで。

でも中央道で三百キロは無理でせう。

 

其れと東名はわざと割り込みなどする根性の悪いトラックが多く居るから三百キロはまさか出せないよ。

だからコレから独逸へと飛びアウトバーンにて三百キロ以上で突っ走って来い!

 

 

保守と云うことの本質とは兎に角あくまでさう云うことです。

其のことを我は其のN氏のまさに捨て身での組織改革の姿勢から學びました。

 

逆に今其の保守政党や大企業などが其の価値ヒエラルキーに胡坐をかき庶民に対し搾取しまくりです。

 

其れで夏場に節電したら何やらポイントが付くだの言われて誤魔化されまた年金はかうして實は額が下げられて居るのです。

其れは昨年の物価を元にさう決められるのださうだが果たしてそんなので此の物価高の御時世を乗り切れるとでも云うのでせうか?

 

此れはもはや社會が悪いとさう申す他は無く特にクロダ、こやつがまずは悪人だがさりとてキシダがまた良いとは言えずよってほんたうは政界、財界の全員を牢に入れねば世の中は決して良くなりません。

黒田東彦・日銀総裁 「物価の番人」から値上げの音頭を取る“物価マフィア”に (msn.com)

 

「そもお前がデキんので全部がダメなのだ、まずはお前等からシャンとせよ。」

 

 

では革命ですか?

すわ仏蘭西万歳ですか?

 

まあ「日本革命」が何時起きてもオカシクは無い状況です。

ですがまずは其の警察の指導の方から悪代官共をやっつけられぬものかとさうも思いますのです。

 

即ち今むしろ必要なのは其の體制側からの内部告発だの造反劇だのもしやそんなものなのやもしれません。

伝教大師最澄の願文より學ぶーさうして延暦寺は静かな山の中にあるまるで別天地のやうな御寺だー

86.伝教大師最澄の願文より學ぶーさうして延暦寺は静かな山の中にあるまるで別天地のやうな御寺だー

 

 

 

 

さて其れでは認識上物事をどう捉えて行くべきなのかと云うことに就き再度述べます。

 

1.ヒエラルキー認識の解體

2.眞我ー直観的認識=般若智ーによる価値の再構築

3.理性への正しい解釈

 

と大體此の参点がしかと出来れば現存在の認識としてはまさに横綱級ープレジデント・クラスーでせう。

 

でもって1.と2.と3.の過程を纏めると其れがまさに「個的脱構築」での精神的な流れとなります。

 

また此の精神の上での変容の流れは所謂佛教に於ける修行やまたジャイナ教による苦行の流れにも通ずるものだ。

 

 

4.理性⇔獣性

そも人間の理性は不完全なるもので其処はかのカントが述べた如くにあくまで限定的なものです。

例えば神は實在しますが現存在は其の神を直接把握は出来ぬ訳だ。

 

また佛も實在することでせうが其れを現存在が概念的に把握することは出来ません。

人間は其のやうに常に不完全であり悩み苦しみに惑い聖なる心の段階より隔てられたところでの単なる現象でしか無い。

 

つまりは其れを偉いなどと思っては最初からイケません。

ところが近代的原理は其の人間共をあえて持ち上げて行った訳だ。

 

要するに人間は神の僕として此の世を統べる者である、などとまた勘違いをして仕舞いました。

よって現存在に取っての現代の不幸とは近代思想に元元含まれて居た誤謬の部分が肥大化し其れが自然ー環境ーと根本対立を引き起こしたこと=人間の根本矛盾=人間と云う自己矛盾と云うことに尽きて居ます。

 

 

では何だ、さうして人間其れ自體が何ぞ悪いものだとでも言うのか?とさうして血相を変えて皆は怒りますがあくまで其れが眞相の部分なのであり其れは分かって無いのはアナタ方が社會に洗脳されて居るからなのですよとさう實に嫌らしくも詩人はほんたうのことを述べて仕舞いました。

 

そんなんの壱體何処が詩人か!

だってかうしてあくまで理性的詩人なのですもの…。

 

 

さて其の獣性を眞近に見れば見る程に所謂獣には理性は無いと云うことが實感されて参ります。

即ち家に居る🐈共は所詮は獣です。

 

だから平気で道路へ飛び出したりも致します。

其れもトラックが走って居ると云うのに。

 

やられたと思いましたが車輪の間を通り抜けどうやら助かったやうだ。

 

勿論其れを見て居る我が視座はほぼ獣に取っての神の視座です。

其の神は獣の誤りを逐壱正すことは出来るが他方で此の神の如き人間の誤りを正すことは出来ない。

 

何故なら其の人間自身が自己矛盾的存在であるに過ぎぬ生命なのであるから。

尚わたくし自身に取り常に周りの認識に対し欠けて居るとさう判断されるのが其の人間自身に対する懐疑の眼差しです。

 

だけれども幸か不幸か詩人には其の眼差しがむしろ強くある。

何が違うのかと言えばまさに其の点での認識の違いがある。

 

 

尚お釈迦様は最終的に人間はやってはイケナイものだとさう判断なされた訳です。

 

ところが世間の宗教者やまた中には僧侶ですら其のことがまるで分かって居ない人人が居られます。

特に世俗レヴェルでは「お釈迦様の教えは人間の役に立つ」筈だとさう信仰などされても居るやうです。

 

でもお釈迦様の説かれた「解脱の方法」とはそも其の人間であることを辞めんが為の教えなのです。

 

またイエス様の場合でも其の侭に人間をやって居ては金輪際ダメだとさう判断され神の國へと入る為の教えをさうして説かれて行ったのです。

では果たして其処では何が悪い即ち悪の対象として考えられるものなのだらうか?

 

ズバリ其れが人間です。

其の人間がそも悪なので其れを辞めよ、又は其の邪なる信仰を止めよとさう佛陀とキリストは御説きになられました。ー互いに相手が邪教となることもまたあり得ますがあくまでさうして共に同じことを述べられたのだー

 

 

まずは其の御弐方の視座こそが「完全なる正答」其のものです。

だからどうのかうのでは無くズバリと人間が全て悪いんです。

 

もうズバリと馬鹿野郎でありクソ垂れでありもう即刻食われよ此のアホ共めが…。

 

…てなものでせう。

 

でもさうして現存在自身に対し罵倒して頂けること程嬉しい教導は他に御座りません。

 

人間共はまさに其処にひれ伏し只只神佛に対し頭を垂れ続けねばならぬ。

でもって詩人の仕事とは特に宗教詩人の仕事とは其の聖なる認識の所在を明らかにし其れに対し如何に己が心を向けて来て居るかと云う事を周囲に対し告白することだ。

 

なる程、だからアナタはかうして人間界に対し常にもの申されて来て居るのですね。

さうです、ですがわたくしの述べて居ることは其の聖なる認識其のもののことには非ず。

 

 

只其の狭き門、不滅の法門へと至らんが為の其の精神の方向性、精神のあり方をのみ述べて来て居るだけのことです。

 

さてより正確にはお釈迦様の場合には其の善悪規定にて人間を判断される訳ではあくまで無い。

其れも禅宗や原始佛法などではそも其の善悪規定其のものを脱論理化、脱概念化し謂わば精神として乗り越えて行く訳だらう。

 

されど其れ以外の多くの宗教は其れもキリスト教イスラーム教などの壱神教等に於いても人間の行為をあえて善悪規定し其処で宗教や宗派に応じた謂わば勧善懲悪の世界観をつくり上げて行く訳です。

ですが禅宗や原始佛法からすればまた其れも概念化、分別化の檻に捉われし善悪となるが故に其処はまた認められぬと言えば認められ得ぬこととなる。

 

左様に禅宗や原始佛法はあくまで観念的には常により潔癖です。

尤も自分の宗教や宗派の考え方に囚われて居るー洗脳されて居るー人人からすればむしろ其れを悪く言うことなどもまたある訳ですが…。ー曰く、禅宗は金がかかるよ、釈迦の教えはあくまで方便だよ、などと。ー

 

さて問題は其の聖なる認識の中での軋轢や葛藤では無く現代人としての現存在に「精神としての潔癖さ」が欠けて仕舞って居ることなのでせう。

さう言うとまた誰かに怒られさうですが其れは事實としてさうでせう。

 

 

逆に申せばそんな「精神としての潔癖さ」が弱まった世界であるからこそ其の現存在が本質として持つ悪の部分がより活性化されかうして日日噴出して来る訳だ。

 

ではアナタだけは違うのだと?

まさかさうは言ってませんのですよ。

 

だけれども僕はかうして半分が其の聖なる心の持ち主ですのでまさに其のケモノが暴れ出して居る様がしかと見えるのです。

また所謂共感覚の世界の話ですか。

 

また所謂藝術的感性の発揮の御話ですか。

さうですよ、其れで壱體何が悪いと仰るのか?

 

いや悪くは無いですが只此の話は面白く無い。

いやだから其の面白く無いと云う心其のものがまるで面白く無い心である。

 

では例えば君に取り何が面白いのだ?

いやあ、ですから其れは酒飲んだりネエチャンの尻を撫でたり競輪、競馬でもって大勝ちすることこそが…。

 

また分厚いビフテキにかうしてかぶりつくことなどが…。

其れもガブリ!と。

 

 

まあ何だか知らぬが趣味が違うよ、まるで趣味が。

 

君には精神の悩みと云うことがそも理解されて居らぬのか?

さうですね、こんなボンクラ野郎ですのでそんなややこしい精神の上でのデリカシーの話などはもう願い下げだな。

 

すると君には其の精神の上でのデリカシーが元元欠けて居るの?

さうなんだ、だから僕はそんな純文學だの哲學だの宗教だのとは無縁にかうしていつも元気なのだ、どうだ、分かったか、此の気鬱詩人めが!

 

 

うーむ、其れも確かに壱理ある。

そもかうして詩人の人生は純文學と哲學と宗教だけのまさに精神だけの世界であった。

 

だがケモノである彼の其の心はこんな気鬱詩人よりも明らかに元気なのだ。

うーむ、さうすると矢張りと言うべきかかの芥川 龍之介の場合などもまた其の生活力の構築に失敗しああして早う世を去ったのではないか。

 

おお其のケモノ臭い世間の者共の心の有様よ!!

 

 

ちなみに以前から感じられたことなのだったが、奥三河の山の中で壱日石採りをし名古屋へ帰るともはや其の空気が臭くて仕方が無いのだった。

要するにそんなゴミ臭が都市全體を覆って居るのである。

 

特に感覚的にピユアーな部分を持つわたくしには其のことがまた強く感ぜられたのだらう。

 

 

さて先週の土曜に『「12年 孤独に自分と向き合って〜比叡山 籠山行〜」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK』と云う番組を視て先に此処で我が比叡山の佛法の根本での部分を批判的に見詰めたことに対し考え込んで居た。

但し其の批判部は撤回しないこととあえてしてみた。

 

兎に角さうして我は最澄が好きであり且つ尊敬してさえも居る。

だけれども其の好きなのと思想的に納得し得るかと云うこととはまた別の話である。

 

但し其れもまた思想以前に其の比叡山での修行はかうして尊い訳だ。

勿論其れはかの永平寺での修行が尊いことと同じくしてあくまで其れは尊いのだ。

 

其の「拾弐年籠山行」が終わるとまた色色と世間での感覚とは違うことが引き起こされるさうである。

 

 

―ひとつの境地を極められていたように感じますね。達成した人はどれくらいいるのでしょうか。

宮本:私で116人目でしたが、達成者はもっと少ないです。7~8割はギブアップというか、亡くなられていたり、中には姿が見えなくなったりという方もいらしたようです。修行中の食事は1000キロカロリー程度ですし、栄養不足になってしまうことも。ただ、体が順応して、それで生きていけるようになります。舌が敏感になって、野菜のおいしさ、米のうまみといった自然の味わいを感じるようになることも驚きました。

―確か、成人女性で1日に1800キロカロリーは必要だったと記憶しています。俗世の人間には計り知れません。宮本住職は見事達成されましたが、下山の時はどんな感覚でしたか。

宮本:侍真職は、次の人と交代しないといけない修行のため、私も渡部住職がいらしたから、2009(平成21)年に下山しました。BS放送がない時代から、いきなり4Kの世界になり、携帯電話はスマートフォンとなっていた。また、徒歩以外で移動したことが12年ありませんから、車のスピードに慣れず、目が回りました。

―タイムスリップのようですね。

宮本:人と会話もしないので、コミュニケーションも取れなくて……。籠山行中は、浄土院の本堂で、御廟に訪れる方の会話を漏れ聞く程度です。自分の思うことを言葉にすることが難しかったですね。そうそう、トイレの使い方がわかりませんでした(笑)

―12年経てば凄まじい進化をしますものね。他に驚かれたことはありますか?

宮本:どこもニンニクくさく感じましたね。匂いがきつい。テレビもラジオもネットも週刊誌もないので、情報の多さに驚きました。東京でのオリンピック開催が決まっていたことも知りませんでしたよ。

 

―本当にタイムスリップ……!十二年籠山行を通じて、強く感じられたことを教えてください。

宮本:生かされている、という実感ですね。毎日淡々と過ごしていますが、ずっと自分を見つめています。そして、死が身近なぶん、生きているという感覚も、現代社会とは思えないほど強かった。生き生きと楽しんでいたと、振り返ってみれば思います。

新型コロナウイルスの影響で、死が身近になった感覚は私達にも起こりました。先のことが不安になる人も多いと思うのですが、宮本住職は12年という長い期間に不安でたまらなくなることはなかったですか?

宮本:もちろん、指導僧の顔を潰すのではないか、本当にできるのか、プレッシャーや不安はつきまといました。大切なのは、今、ここだけを生きることです。時には嫌になることもありました。でも、1回くらいやってみよう、もう1回だけやってみよう、と重たい腰を無理やりあげていると、3日もやれば慣れて、まだできるようになる。先のことを考えるより、まず、やってみましょう。疲れたら休んでも大丈夫ですから。

どこか楽しそうに修行の日々を語られる宮本住職。1200年続く最澄の教えは、今も比叡山延暦寺、そして何より住職たちの中に息づいているのだと感じました。…瞳孔が開き、幻覚も…12年にわたる厳しい修行「籠山行」達成者に聞く、修行と俗世【比叡山】 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン (intojapanwaraku.com)より

 

其の拾弐年籠山行が終わると宮本 祖豊住職は「世間がニンニク臭かった」とつまりは俗世間の匂いはキツイとさう思われたのでした。

尚僕はそんな立派な御坊様とはまるで違いタダの宗教ヲタクの自称詩人ですが、其の感度に関しては其れとまさに同じことでさう感じることが多い。

自分ではさうした潔癖さが何より嫌いですがさう感じられること自體はあくまで自称詩人として仕方の無いことです。

さて死はより正確にはまさに生と対になるものです。

 

死⇔生

つまりは、

生→死

なのでは無く生だから死で死だから生なのだ。ー生即死、死即生ー

さうして自然界ー獣性=本能が支配する世界ーはある種清い世界ですが其れは人間の煩悩や罪に対し所謂「効く」世界なのでは無い。

其れをあえてゴタ混ぜにしてまた善悪規定をも取り入れ謂わば不純化することによりあえて神を取り入れやうとしたのが最澄による天台の思想なのだったと今我は理解する。

 

従って最澄による思想以降は日本の佛法はより分からんものと化して行く訳ですが、あくまで個人的には此の比叡山の環境と申しますか静かなる佇まいには矢張り強く魅力を感じます。

宮本 祖豊住職は我と同い年でかって大學受験に失敗されたとのことですがまた其処から良くも此処比叡山にて修行の道に入られたものです。

ちなみにわたくしは修行は嫌いでまた掃除なども好きでは無い。

 

だから何時まで経っても家が綺麗にならずまさにこれではダニが涌くぞよ、其れも野良猫が始終家には入り浸るので大層危険である。

とさう思いますのですがとりあえずはムヒとキンカンだけはすでに用意して居り従って其れでもって此の夏場を乗り切らう!

としますがすでにもう何やら體中が痒い訳です。

其れと比べますとおお其の塵壱つ無き御寺の様が!!

 

其の掃除、掃除でまさに掃除地獄をくぐり抜けて来し尊い御坊様方。

要するに其の寺でも教會でも至って綺麗ですね。

他方で場末の飲み屋だの競馬場だの公衆便所だのそんなところは何故か滅茶苦茶に汚い訳だ。

わたくしが今拘るのは其の思想以前にかうして宗教が概してきちんとして居ることです。

 

おそらくは政治家や官僚、其れに色んな組織上の様様なことが今汚れて来て居る可能性が高く御座ります。

其の中で壱番汚いのが所謂自然破壊の様となるのでせう。

要するに其れは人間の心が醜くあったことのまさに現れでせう。

 

ー「修行中は精進料理ですので、肉魚を食べようと思っても、すぐには身体が受け付けない感じで、むしろどこへ行ってもニンニクの臭いがきつくて気持ちが悪くなりました。また、車に乗って比叡山のドライブウェイを下りたのですが、やはり歩く以上のスピードを目にすることがなかったので、景色に目が追いついていかず、なんとなく車酔いするような感覚もありました」。

 

尚わたくし自身は矢張り生まれつきに変わって居るのか、幼い頃に其の肉🐟を體が受け付けませんでした。

だから私の生涯はむしろ聖なる何かから還俗して行くやうな過程其のものであり其の事が兎に角我に取っては苦しみの連続でした。

其の後文學に目覚め様様な純文學と接したがむしろそちらの世界の方が元来の自分の世界でありだから本来はまさに其処でこそ生きて居たい訳だが勿論世間は其れを許しては呉れない。

なので其処でバランスを取る積もりにて家庭教師だの塾の先生などをやった。

また参拾、四拾と次第に山へ入るやうになり其の折に分かったことが我は其処にて独りで居る方がむしろ幼い頃の本来の自分に戻れると云うことであった。-そんな風に根っから此の人間社會が嫌いなのです-

 

「やはり20年もの間、他人とほとんど接することがない、会話がないという状態だったので、延暦寺、あるいは天台宗の方から修行の話を聞かせて欲しいと言われても、やっぱり自分の思ったこと、考えていることを言葉に出すというのが非常に難しい。“人に伝える”ということでの苦労がありました。いわばコミュニケーション能力が非常に落ちてしまったため、今度は、社会で経験を活かして人のために何かをしようというときに、大きな壁になってしまう。そこはある意味で“バランス”のいい修業、籠るにしても、期間を決めて修行をする。そして社会との関わりの中で多くの人のために、という修行も大切になってくるのではないかと思いました」。

「中断するなら死か還俗」「“悟り”なんていうものは得られませんし、煩悩もあります」比叡山延暦寺「十二年籠山行」を達成した住職が見たもの | 国内 | ABEMA TIMESより

 

其の人間界での所謂コミュニケーションの部分が酷い言い方をすれば此の破壊文明を成り立たせて来て居ます。

さうした面ではわたくしの場合はあくまでさうして「人間でもってヨシ」とはせぬ考え方でありよって其の種の孤独行やまた永平寺での如き深山での脱俗主義を大いに肯定する者です。

逆に「人間でもってヨシ」とする思想へと傾くと其れこそ佛教にせよキリスト教にせよある面では堕するのだとさう思えてならない。

 

まさに、「人間ではダメ=✖」だ。

壱言で申せば其れが我が宗教解釈の根幹にある考えでありでも其れはオウム教の如くにじゃあ人類は抹殺されてしかるべきものだ、などとは思わず要するに其れー人間と云う社會関係ーからは逃げたー離れたー方が良いと云う考え方です。

 

『願文(がんもん)』を読む (yuyusangai.com)

では此処で此の最澄の願文に就き是非學んでみませう。

此処での【『願文』現代語訳解釈文】を読む限りは最澄もまた独りの人間として苦しみに苦しんだ人であったことが此処よりしかと分からう。

勿論其処は何より共感乃至は共苦出来る部分です。

 

但し其の善悪規定での所謂善行に就いてはとりあえず善行を強調するのは釈迦の佛法よりは隔たった大乗の教説からのことだとさう規定することが出来る。

御釈迦様御自身の教えはもっとかう自律的なもので要するに「コレをやっちゃダメだ」と云う形での常に人間に対しては厳しいものです。

 

おそらくは其の部分が社會化され要するに人間化されたのが大乗の教説なのでせう。

但しかうしてイザ最澄の肉声のやうな願文に接しますと彼最澄がとても反省力の強い要するに可成に眞面目で且つ潔癖な人であったことが此処からも感じ取れる。

 

また其れは自嘲が過ぎる内容なのでもまたあるのですが其れでも佛道修行に対する最澄の信念のやうなものがヒシヒシと伝わって来るまさに魂の叫びでの文でせう。

かうして此処までの気持ちがあったが故に其の偉い學僧の最澄は格下の空海にも頭を下げ密教の教えを乞うたのでした。

 

 

さて元元我は大乗佛法其れ自體に対し概して批判的な人間ですので其れこそ論理を駆使し其れを批判することもまた可能ですが實は其れをやりたいなどとはほぼ思いません。

と云うよりも我は比叡山延暦寺へ行ったことが無いので是非行きたいだけのことです。

 

或は幼い頃旅行の折に寄ったことがあるのやもしれぬが其れもまるで覚えては居ない。

 

天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]

かうして面白さうな動画もまた此処にはあります。

 

比叡山の修行 | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]

居士林のご案内 | 修行体験 | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]

今はやって居ないさうですが此の居士林にて在家の為の修行が出来るさうです。

 

尚同じ山でも御岳山には縁がありかっては何度も出向いた我ですが何故か比叡山にはかうして縁が薄い訳です。

 

 

さて佛法が語る眞理の根本の部分とは好奇心の醸成では無くまさしく其れの消去でありまた學的な論理の涵養では無くまさに其れの消去にこそあります。

要するに人間であることの認識の全否定こそが釈迦の佛法の要諦の部分です。

 

逆に人間を神の次元にて統壱し全肯定するのがキリスト教の教義としての要諦の部分です。

ではどちらかがより分かり易いですかとさう問われれば誰しもキリスト教の方がより分かり易い。

 

なので元元其の潔癖だった佛法も次第にキリスト教化、即ち壱神教化し其処に阿弥陀佛だのまた大日如来だのが其の神様の代わりに置かれることとなりました。

 

天台本覚思想はさうした意味でのまさに神化された佛法でせう。

ですが神化された佛法は自然破壊などはせずむしろ自然を大切に扱いさうして山の中を駈けずり回り常に修行を欠かさぬ訳だ。

 

ちなみに我は別に山の中で修行をして居たのでは無く只遊んで居ただけのことなのです。

さうして石だのまた大木だの渓流だの大岩だのと交感して居ただけのことだ。

 

さう云うのが生まれ付きに好きな人とさうでは無い人があるやうです。

我は勿論其ればっかりをむしろして居たい方で要するに兎に角山が大好きだったかの宮澤 賢治のやうなものなのです。

 

ちなみに其の賢治は山へ行くとむしろ元気になれたさうですが其の点では僕なども全くさうですね。

 

 

さて要するに釈尊の佛法の方を尊重する禅宗は謂わば善悪規定以前での認識を目指して居りだからまさにあんな👩まみれでの壱休禅師のやうな風狂の僧がまた輩出したりもまた致しましたのです。

但し其れは世間の👨共が御触りサロンなどがとても好きなこととはまるで次元の違う類での👩遊びの態です。

 

要するに至極理性的に人間を眺むればあくまで其れは余計でありまさに不要物です。

御釈迦様の智慧とはまさにそんな理性のレヴェルでのことでありだから其れは何宗の教義の方がより優れて居るだとかまた禅宗はだから偉いだとかさう云うことでもまた無いのです。

でもって御釈迦様はお若い頃に👩に触り過ぎよってもうイヤだとさうなられて以降はあくまで佛法は女人禁制とさうなりましたのでした。

 

 

さて其の我と同い年の宮本 祖豊住職は今末期癌を患われて居るのださうだ。

確かに人間もイザ還暦を過ぎればもはや何時死んでもオカシクはありません。

 

生⇔死

其の本質的関係性を無視しつつあえて虚的価値観の上での大伽藍を築き上げて行くのが現代文明の奉ずる「前向き」だけでの価値観だ。

 

だが其処には常に死の影がさうして寄り添って居る。

其の死は宗教や宗旨等とは関係無くかうして常に人間に対し襲い掛かって来る。

 

どんなに偉い坊主であれまた聖職者であれ其の自然界の齎す理からは免れ得ぬ。

自然界の掟とは或はさうしたことであるのやもしれぬ。

 

ならば自然界を神とみる其の思想、其れを佛其のものと見る其の思想が全的に誤りであるとはまた言い難くもなる。

そんな壱種難しい御話では御座りまするがとりあえずは其の御寺のやうに我が家にも是非行き届いた清潔さが是非欲しいと思うこと頻りでの今の我です。ー特に梅雨時は其の綺麗さこそがさわやかに過ごす為の大事な要件となるー

あくまで今の我に取り最高の価値を齎すジンハオの『龍と鳳凰』

あくまで今の我に取り最高の価値を齎すジンハオの『龍と鳳凰

 

 

JINHAOの「龍と鳳凰」 重量級の万年筆



 

 

JINHAO classic Emboss Gun gray Dragon and phoenix GIFT Fountain Pen | eBay

さて本日は上海からペンが届き其れのペン先交換をして居りました。

 

今回は素早く拾分程度で作業が終わり現在使用中ー今左手に其れを持って居るーですがまた凄いpenに仕上がったものです。

其の上海は要するに香港と同じくして中國の資本主義としての牙城其のものでせう。

 

資本主義の良いところはかうして世界中から物を集められる点にあるが資本主義其れ自體は本質的にはむしろ悪の行いなのだらう。

ですが我我は其の悪の資本主義をやりつつかうして地球を壊し続けて行くことしかもはや出来ない。

 

我は其の悪をやるのならなるべく個として限定し其の範囲でもってむしろトコトンやったれと云う考え方です。

 

尚我にはかって香港にペン友達が居てかっては屡意見を交わしあって居ました。

其れも英語が不得意なのですが何とか念力と及び翻訳サイトの力でもって会話して居たのであります。

 

壱度其の香港の彼に五拾萬円近い金を国際送金したことさえもがありました。

其れはモンブランの限定万年筆の代金でしたが其の後送られて来た品は名古屋市北部の人に買って貰い今は手元には無い。

 

嗚呼其れと伊太利亜の羅馬には拾年程懇意にして居たショップがあり其処の若き店主に当時我が書いて居た万年筆物語のところを教えてあげたことさえもがまたありました。

要するに我はさうして根っからの万年筆愛好家なのです。

 

 

最近は然し其の万年筆趣味としてのカルト度が増して仕舞いかうして壱種不可思議な中國の安ペンの世界に嵌り込んで仕舞って居る訳だ。

ですがあくまで飲む、打つ、買う、に嵌り込んで居るのでは無く至極安全な趣味の世界です。

 

どだい万年筆の趣味の人は矢張り世界的に眞面目な人の方がまた多い。

例えば此処日本ですと教師と医師とでほぼ八割方を占めて居るものです。

 

其れもわたくしが扱って来たやうな高級限定万年筆の世界などは結局高額な品となる為に其のファンとしては圧倒的に大學教授や病院長などがまた多い訳です。

また中学校や高校の先生などもまた結構居られる。

 

そんな眞面目な趣味の世界故ー其れも万年筆は基本的に読み書きの為の道具ですのでーかっては矢張り学校の先生や御医者様との交流がまた多くあったものでした。

また我は今そんな多くの経験を積ませて呉れた万年筆の世界に心より感謝して居ります。

 

こと純文學的な意味でのまた社會的な意味での精神的な苦しみの種はかうして尽きませんのですが其の万年筆だの書籍の世界などとかうして長く付き合って来られたことに対してはもはや「感謝」の壱語より他にありません。

また其の何かと問題の多い資本主義社會に対してもかうして今過去を振り返れば此の万年筆愛好家としての我が活動を支え続けて呉れたものこそがまさに其の資本主義社會としての日本であった。

 

其れにもまた正直言えば「感謝」の壱語より他にありません。

 

 

さて其のジンハオの『龍と鳳凰』は此れで参本目となります。

 

Jinhao Vintage Fountain Pen Dragon Phoenix Bent Nib Calligraphy Pen Gray-Red | eBay

最初に求めたのはコチラで其れは首軸をも交換しダイアモンド・メダルと云う古い米國ブランドの巨大な八号金ペン先を付けて使用中です。

またコレが正直改造の出来が良く九拾点です。

 

改造の出来が良いとかうして頻繁に使えるpenとなるものだ。

 

でもって今回のブラックの『龍と鳳凰』には独逸ペリカンの90年代製18CPF金ペン先を付けてみました。

独逸物のコアなファンの方方にはまさに垂涎の金ペン先です。

 

尚90年代のPelikanの限定万年筆には其の多くに此の18CPF金ペン先が付いて居たものです。

此のペン先は元より評価が高い金ペン先ですが我に限りかうしてお構いなしに中華万年筆と合體させて仕舞うのです。

 

でもって今其れを書いて居ますがまさに素晴らしい書き味が其処に得られて居ます。

 

 

尚我は万事に於いて先入観のやうなものを持って居ないのでかうして常識人がやらぬやうなことをあえてやって仕舞うことがまた多い。

なんですが其の癖に例えば小学生の登下校は規律正しく行われて居なければまたならぬのです。

 

さらに道を歩く時、また🚙を運転する時はまさかスマフォなどを視て居てはならぬのです。

だから其れが出来ない人人は基本的に我に取りまさか人間ではあり得ない。

 

まあ其の様やケモノ並だと云うこととなります。

 

だから拘るべきところ、其の拘るべき領分がまた世間の人人とは異なることがかうして多い。

ですが根強い独逸物の万年筆のファンの方方からはまさに御叱りを受けて仕舞うやうなことを我は常にして来て居る。

 

だがまさに良い筆記感だ。

其の細い首軸に無理矢理大きな金ペン先を入れても居ますので普通の人が見るとオカシクもまた思われるのであらうがーペン先が飛び出て見えるーイザ万年筆の仙人に取ってはあくまで此れで良いのです。

 

 

尚其のペン先が飛び出て居ることからキャップを被せた場合に閉らないのではないかと思ったが何と完全に閉まりました。

此処からも此のジンハオの『龍と鳳凰』の改造への許容度は高くありまさに様様な改変に適した万年筆であることが良く分かる。

 

先に日本の家電は「やり過ぎ」であり且つ許容度もまた低いことを述べたが此の中華万年筆はまさに其れとは正反対での御品です。

 

其れとかうして今極度の円安だとは言え元元単価が低い物ですから今でも参千円もあれば手に入る品です。

参千円と申しますと此処日本での大き目のデリバリーピザがまさしく其の御値段でせう。

 

さてでは此のゴテゴテのまるで怪獣の如きフィリグリーの万年筆の重さ及び筆記時の全長を量ってみませう。

 

黑ー116グラム、178ミリ

赤ー110グラム、170ミリ

 

です。

 

 

尚中國の万年筆の良いところは元元筆文化の國ですので結構軸が長い物がまた選べる点でせう。

第壱竹の軸の筆は例外無く皆長い訳だ。

 

要するに其の長い軸こそが漢字文化を支える重要な機能なのだらう。

逆に欧米圏の万年筆の方が軸は短めです。

 

其れはおそらくはあくまで記号的なアルファベットと絵画的、具象的な漢字の書き表し方がそも違って居るからなのでせう。

ですからアルファベットはまず藝術表現とはならないが書道と云う文化は矢張り立派に藝術たり得るものです。ー但し西洋にもカリグラフィーなる西洋書道の世界がまたあるー

 

尚此の重さより分かることなのですが此のジンハオの『龍と鳳凰』は所謂文鎮万年筆の類であり其れでもって原稿を執筆するやうな万年筆では無く謂わば署名用位での御品なのです。

ですが其の辺りの部分もまた我は使用法に拘らないので此れ壱本で何でもやっちゃいます。

 

要するに長年のペンに関する経験及び柔軟な思考や価値観により實際此れ壱本で何でもやれちゃう境地にすでに至って居ると云うことである。

 

 

JINHAO classic Emboss silver black Dragon and phoenix GIFT Fountain Pen | eBay

 

ちなみに昨年ゴールド鍍金?の『龍と鳳凰』をもまた得て居ます。

其れにはまさに今は貴重となったOMASの金ペン先を付けて居りますが結局ゴールド鍍金?の部分が安っぽいのでむしろ鋳鉄軸の方が良いのやもしれません。

 

ちなみにこちらはシルヴァー鍍金版ですが結局はシルヴァー鍍金?の部分が安っぽいので矢張りむしろ鋳鉄軸の方が良いのやもしれません。

 

尚中國の此の種の文鎮万年筆は今や至極出来の良い品となって居ます。

勿論もしも此のペンが万単位の御品であれば我もまたコレを買うことは無かった筈です。

 

ですが所詮は弐、参千円での御話でありしかも参本買ったにせよ壱万円以下です。

また其のpenを改造すれば至極面白くなると云う話なのでもまたある。

 

 

さてあくまで思想的には資本主義もまた是非限定されて行くべきです。

但し其れは常に難しいことだらう。

 

たまたま我の場合はかうして不思議なピースが上手く噛み合い限定的万年筆趣味の世界でもってむしろ以前以上に樂しく万年筆の世界を遊べて居ます。

ですが普通資本主義とは贅沢ー大金を使うーすることによりより大きく愉しみが与えられるであらう価値ヒエラルキーでの世界其のものです。

 

なのだがむしろ其れに踊らされて居ては悪の履行者、理性無き只欲望其のものを貪るだけの人間とは言えぬ人間へと次第に変質して行って仕舞う。

従って其処に求められて居るものとはむしろ理性的な意味での金額や分野の限定でありまさに其れは理性的にこそかうして成就されるものだ。

 

わたくしはさうしていつしかペン趣味其れ自體、ペンに対する欲望其れ自體を限定化して行くことに成功しさうして次第に其処でこそ喜びを得られるやうになった訳だ。

 

また今わたくしが至って居るpen趣味とはまさに廃品利用のオンパレードともなって居ります。

即ち参拾年程前に熱心に集めた伊太利亜や独逸の万年筆のペン先や部品、廿年程前に熱心に集めた中國の万年筆のペン先や部品、さらに拾年程前まで熱心に集めた米英の古い万年筆のペン先や部品などがかうして現行の万年筆に付けられまさにオンリーワンでの価値を醸し出して行くのである。

 

まさにソコまでやるが故に安い万年筆がまた壱級品に化けたりする訳だ。

まさにソコまでやらぬと世界で壱本だけの我が万年筆とは決してなり得ない。

 

 

Big Jinhao Dragon Totem Fountain Pen, Medium/ Bent Nib Classic Pen Writing Gift | eBay

 

尚ジンハオにはさらに大きく重い此の金属軸の巨大なペンがある。

此れもまた今年求めて居るが其れは鍍金無しの方である。

 

其れは144グラムあり筆記時に177ミリの長さがある。

 

此れは改造に時間がかかり結局壱箇月程かけて1920年代の米國シェーファーLIFETIMEのペン先となしさらに所謂EYE DROPPER化して來て居る。

其の1920年代の米國のLIFETIMEのペン先は至極硬くてゴツイペン先である。

 

即ち重い軸、其れも百グラムを優に超えるやうな文鎮軸の場合には柔軟なペン先よりもさうしたゴツイペン先の方が基本的には合うのである。

またEYE DROPPERと云うのは所謂点眼式と云うことであり要するにpen軸の中に其の侭沢山インクを入れてある訳だ。

 

但しEYE DROPPER化は安易に行うとインクがあちこちよりダダ漏れしてまるで用を足せなくなって仕舞う。

即ち其れは万年筆の上級者向けでの所謂秘技なのでありよって余り其れを真似したりはせぬやうにした方が無難である。

 

さて我が今使う中華万年筆ー新旧合わせてすでに参拾本程もあるーの中で最も所謂「書き味」の方が良いのがまさに此のジンハオのドラゴンpenである。

 

 

ではたった今其れを書いてみやう。

 

うわっ、クソ重っ!

でも何かいい感じの書き味やなあ。

 

何かかうすっげえ高級な筆記感さえもがかうして致します…。

 

1.EYE DROPPER化によりインクの流れが頗る良いこと

2.其の龍の意匠のクソ重い金属軸とLIFETIMEの硬めのペン先が完璧に調和しむしろ軟らかい筆記感が其処に醸し出されること

 

ですので万年筆には限らず物との付き合い方はかうして何処までも奥深いものなのだ。

また其れはかうして経験を積めば積む程に以前には知り得なかった新たな領域がまた必ずや見えて来るものである。

 

 

モノと人間の関係とはさうしてむしろ年を重ねる程に深くしかも豊かなものとなり得る。

されどソコにもまた感度の良さや気付きの力が是非必要となることだらう。

 

此のペンの場合は当初柔軟な古い日本の萬年筆の薄い金ペン先ー巨大なペン先ーを付けてみたが其のマッチングには結局失敗し壱箇月の後にLIFETIMEの硬めのペン先を付けてみたところ其れが完璧に合って居たのである。

よって此の改造には95点が付けられることだらう。

 

 

でもそんな文鎮万年筆ばかりを使うと筆記上の感覚の方が何処かオカシクもなりませんのですか?

 

…我に限ればなりません。

 

我はさうしてすでに万年筆の方での達人の域にある訳なのでもはや何をやらうがむしろ上手く行くことの方が多く要するに万年筆がすでに分かって居るか、又は万年筆の方からそんな分かって居る人間の方にこそ擦り寄って来たりもまたする訳です。

 

なる程、するともはやモノである万年筆ともすでに心が通じ合っても居る訳だ。

確かにそんな感じでせうね…。

 

 

もう万年筆からは好かれて好かれて仕方が無いと云った感じでせう。

でも腹が減って死にさうになればこんなもんは早う売ってすぐに🍱でも買うことでせう。

 

まあソコはモノ以前にまずは食い気の方が満足されませんとまるでガマンなどまるでならぬものです。

つまりはもしや🌸よりも団子なのですか?

 

いや🌸の方も良いが、でも腹が減っては🌸も万年筆も何もまた無いと云うことでせう。

もしやアナタはコレから何かを食おうとして居ますね?

 

其れはもしや🐈の生肉ですか、其れとも人肉ですか?

いや詩人に取っての夏場の常食はあくまでこんな奈良の蕎麦でせう。

 

ああ美味い、奈良の蕎麦はまた夏場には最高だねー。

其の奈良の蕎麦と中華万年筆はかうしてあくまで今の我に取り共に最高の価値を齎すものなのだ。

今日本の小学生の躾がなっていないことへの苦言ー『羅生門』より考える人間の生の哀しみへの共感力のこと

85.今日本の小学生の躾がなっていないことへの苦言ー『羅生門』より考える人間の生の哀しみへの共感力のことー

 

 

 

さて本日もまた此の社會は騒騒しい限りですが、兎に角僕が言いたいこととはある程度此の社會の動向とは距離を置き個個に取り自分のやりたいことを進めることこそがむしろ壱番の幸福であると云うことです。

されど「正義のミカタ」でも今朝やって居りましたのですが行き過ぎた自由化政策でもって電力の安定供給が切迫して居りよって今年の夏は節電を強いられる虞がまたあるさうですが其れなどはまた酷い話ですね。

 

では高齢者や暑さに弱い人人、其れに🏥などは果たしてどうするのでせうか?

此の点壱つを取ってみても与党の政策はまるでダメでした。

 

公明党に関しては個人的には頑張って来たかと思いますのですが、但し其れも自民党の其の悪の體質に何時の間にか宗教政党としての心の清さが汚されることになる故にズバリ自民党とは縁を切り左翼政党と肩を組むべきです。

 

世間の實相はかうして今や須らくが恐怖化して居ります。

 

尚資本主義社會や民主制への拘りが強くあればまさに正義の味方だとさう勘違いして居る人が多いやうですが其の考え方はズバリ誤りです。

正しくはさうしたイデオロギーには拘ること無く其の場に応じむしろ己の幸福を追求すべく其のデカいイデオロギーの方をこそ放棄することこそがむしろ正解なのだ。

 

 

其れは「逃げ」であるかのやうに見え實は至極理性的な選択なのだ。

イデオロギー対立はかうして常に此の世に「不幸」を生み出しますので其れに就き御勉強を重ねるにせよ最終的には其れを是非放棄して行くべきものです。

 

要するに認識の方は大でも行動乃至は意思決定は小でもって行かねばならず要するに小欲知足でもってして生きるのが人間にとっての最も理性的な精神の段階なのです。

 

但しオレは左翼でもって社會主義としての思想闘争をやるんだとかオレは右翼でもって天皇陛下万歳でもって是非特攻したい!などと云うのもまあやってみる価値が無いとは思いません。

またオレは宗教家だとかオレは藝術家だとかまあ其れ其れに言い分はあることでせうがでも所詮其れはわたくしには敵わないのだから余りさうは言わぬ方が良いです。

 

だが最終的に其の社會的矛盾による被害は實際に我我個が被ることとなる。

 

 

其れと今後の米中対立の様はまさに深刻です。

個人的にはどちらの社會のあり方もまた悪いと思います。

 

また日本の社會のあり方は其れ以前に至極危ういです。

 

例えば昨日歯医者へ行く折に丁度小学生の下校の時間と重なった訳です。

すると其の小学生の下校の仕方が余りにも酷いと云うか醜いつまりはダラケて居る。

 

即ち我我還暦世代が小学生の頃は所謂分団にて規則正しく並び登下校する訳だ。

其れは昭和四拾年代初頭の頃であり考えてみればまだ戦争が終わって弐拾年と少し程しか経って居ないのです。

 

 

だから其処に何か統制が取れて居ります。

では今の小学生は果たしてどう下校するのでせう?

 

1.歩道壱面に拡がり所謂みんなで下校する

2.また御喋りをしたりプロレスごっこなどをしつつ下校する

3.自転車に乗ったオッサンが来ても誰もまるで道を譲らない

 

4.小学校の先生にはそも其れを指導する心のゆとりが無い

5.要するに少年少女への躾の面がまるで出来て居ない

 

とのことで我は其の様には常にショックを受け続けて居ます。

其の点では戦前の教育にもむしろ學ぶべきところが多多ある。

 

 

でもって、其れが實は小学生だけでは無くむしろ男女のカップルやまた知人の集団が歩道を移動する時などでもほとんど同じなのです。

だから我は其れに対し怒ることが多いのですがすると大抵は追いかけられますがとりあえずはこちらは自転車なので逃げ足だけは何せはやい訳だ。

 

かうして此の社會はもはやダメ、其れも根本でダメになって居るのではないかとさう思うことが頻りである。

其の種の危惧はまたイデオロギー以前での人間としてのケジメであり躾の次元での御話です。

 

 

ですので其の種の次元での精神の整え方の方が我我に取りむしろより重要な課題なのです。

さらに其の電力供給の問題にせよ論点は同じところにあり要するに其れは危機に対しまるで備えて居ない政策のあり方がむしろ危機其のものを生み出して行くのです。

 

だから此処日本國が今抱える問題とはウクライナに於ける戦争の問題でも無くまた台湾での有事の際の問題でも無くまずは國民への躾の話であり政治としての政策上の誤りに対する反省其のものでせう。

 

なんですがイザ長い時間をかけさうして壊れて来て居る訳ですので其れもすぐに治ることではありません。

なのでなるべく世間とは違う意見を是非汲み取り自己防衛へと勤しんで置くこと位しか個に取っては出来ません。

 

問題は現在日本の政党政治其のものがポピュリズム化して来て居り其れに洗脳されし大衆が自分の頭にて考えること無く件の亡國政党を選んで仕舞うことだ。

 

 

さて現代文明に於ける全ての問題がまさに其の「やり過ぎ」と云うことです。

其れは人間の獣性に対しまるで歯止めが掛かって居ないと云うことです。

 

なので歯止めを掛ける思想がむしろ求められて居るのであり其の観点からすれば戦前的な右の思想と共産主義思想はむしろ〇として考えられやう。

怖ろしいことにさうして思想さえもが弐元分離して仕舞います、あくまで現實的には。

 

あくまでさうした観点からは盲目的な親米政策の流れや盲目的な民主制至上主義はむしろ壱番悪い思想的な流れとなる。

またTVに出て来るやうな大學教授や評論家の類は何故かそこんトコに嵌り込んだ輩が多い訳だ。

 

だから僕は其れを馬鹿だとさう断じて居る訳です。

 

 

ですので兎に角僕が今皆様にお伝えしたいこととは「御自分の世界」をあえて構築し其処から何でも判断して行って下さいと云うことです。

其の結果右翼とならうが左翼とならうが其れはアナタ方の自由であり我が関知するところでの価値ではありません。

 

また自力救済を選び取らうが他力救済を選び取らうがまた無宗教者とならうが其れは其れこそ「信教の自由」なのでありドレが正しいとは言えぬことです。

なのですが、其処にもまた最低限でのケジメと申しますか其れとも躾と申しますか其のことは國籍やさらに宗教や思想、信条の違いとはまた別の次元での人間としての責務です。

 

我はまさに其の部分の崩壊をこそ危惧して来て居る。

また其のことが偉い筈の日銀だの政府の人人にもむしろ壱番欠けて来て居る部分なのではないか。

 

ですのでさう云うのは普通偉い人間だとはまさか言えぬ筈なのです。

「偉い」とさう言えるのは理性的な分別を持って生きる人人のことをこそ言う。

 

 

ではさうしてすぐに🌸に飛びつくお前がそんなに偉いのか?

すいませんが其れは偉いとしか言いやうが無いですよ。

 

さうして自ら限定して🌸の匂いを嗅ぎまくる訳ですので其れはとても理性的な行為なのだとさう思う。

なんでもさうして自分が壱番のお前は逆に文學地獄へと堕ちて居やあせぬか?

 

文學地獄?

果たして何だ、其れは。

 

ほれ、かっての文豪連中が皆堕ちたアノ観念の地獄のことだよ。

うーむ、確かに彼等は其の地獄へしかと堕ちたのでせう。

 

ですが我はむしろ今其の地獄をこそ天國化して来て居る…。

 

何?

地獄の天國化?

其れはどう云うことか、早う説明せよ。

 

だから純文學はさうして常に人間の生き様の醜さを赤裸々に描き続けて来ました。

まあ其れは人間の生としての壱種の極限状況の描写です。

 

例えばかの芥川 龍之介などはかって『羅生門』にて其の極限としての生の本質的意義を問うて来ている。

 

 

ーすると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏のどぼとけの動いているのが見える。その時、その喉から、からすの啼くような声が、あえぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、かずらにしようと思うたのじゃ。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑ぶべつと一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色けしきが、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、ひきのつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「成程な、死人しびとの髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸しすんばかりずつに切って干したのを、干魚ほしうおだと云うて、太刀帯たてわきの陣へ売りにんだわ。疫病えやみにかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料さいりように買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 老婆は、大体こんな意味の事を云った。芥川龍之介  羅生門 (aozora.gr.jp)より

 

其の老婆が今まさに為しつつあるのは生きんが為の生のあがきであり闘争である。

人間はまさに其の種の哀しきあがきなり闘争世界に常に晒されて居ざるを得ない。

 

但し個人的にはそんな極限での生の闘争を其れこそ理性的に見詰めて行く眼差しが他方にあらうかと思う。

また其れは此の有名な短編作品である『羅生門』の作者としての芥川 龍之介の視点である。

 

 

ー老婆の話がおわると、下人はあざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰にきびから離して、老婆の襟上えりがみをつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、おれ引剥ひはぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色ひわだいろの着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。ー
芥川龍之介  羅生門 (aozora.gr.jp)より

 

其の生の不条理さと矛盾の様を芥川は此の短編作品壱つでもって描き切った。

さうして誰もが本質的には悪を行うことでこそ己が生を成り立たせて行くのだ。

 

 

其の様を潔癖に見詰めれば見詰める程に生はまさに生きるに値せぬ修羅場と化すのである。

要するに其れが地獄へと変質して仕舞う訳だ。

 

だけれども其れはあくまでほんたうのことなのだ。

純文學はさうしてほんたうのことだけを見詰め続けて来た。

 

また其れが余りに苦しくもあり其の故にかって多くの文士が自決に追い込まれても居る。

 

勿論其れはまた生を正直に見続け過ぎて居ると云うこともまたある。

文學者はさうして生の眞相を見た挙句に生の全てに対し絶望しがちである。

 

其の意味では我も亦同様に絶望して居るのだと言っても良い。

だがこと宗教に限れば其れは絶望に値することなのでは無いとさう答えて呉れやう。

 

其れも佛教にせよさうしてキリスト教にせよ其れは絶望其のものでは無いとさう必ずや説かれる筈だ。

文學と宗教の違いこそがまさに其の点にこそ宿って居る。

 

但し佛教各宗派やキリスト者が此の話の筋にどう評価を下すものかはまるで計り知れぬことだ。

或は其の罪は赦され其の煩悩を悪とは断ぜられぬのやもしれぬ。

 

 

ではあっても壱つだけ其処に言い得ることがある。

其れは生は哀しいことだと云う事實であり實相である。

 

個人的に文學とは其の哀しみを直に感じつつ生きることであるかとさう思う。

だから文學とは陽の下での希望だの期待だのの御話では無くまるで月夜の下での怪談話のやうなものなのだらう。

 

其れももう長くそんな怪談話に付き合って来たやうな気がどうしてもする。

だけれども今思えばそんな怪談話であったが故に其れがまた何か美しいものであったやうにも見えて来るのである。

 

 

ちなみに先日Eテレの方で中國人には此の『羅生門』の話がそも理解不能となる旨が解説されて居て其れを面白く視て居た。

 

何故なら中國人に取り「老婆」とは「妻」と云う意味なのださうだ。

だからこそ此の短編小説の意味合いがまた全然違ったものとなり多くの中國人はむしろコレを変な小説だとさう思うのださうな。

 

 

平安京の計画の大枠(平面計画)は基本的に中国の長安城を手本としたものであり、またやはり長安を模した日本の平城京を踏襲したものでもある。ー平安京 - Wikipediaより

 

かうしてかっては中國が我が國に取り全ての御手本であった。

だから中國を否定的には扱わぬのが我が精神のスタンスなのである。

 

だが純文學でもって扱うこととはまさに其の普遍的な意味での生の哀しみである。

其れは何処にありまたどんな體制にせよさうして哀しくも苦しいものなのであり決して樂なものなのでは無い。

 

まさに其の点では純文學にせよ宗教にせよ其の視点は同じところにある。

だけれども現代の日本の小学生が陥って居ることだらう洗脳と云うかまたは勘違いと云うかさう云う部分は其の純文學や宗教による本質的視点よりはまさに最も遠い視点なのであり要するに其れは近代的な意味での倒錯の論理としての精神的な意味での合理化が其れに当たることなのではないか。

 

人間の精神がさうして合理化されるに及ぶと利己主義に陥りさうして生の哀しみへの共感力が失せて行くのである。

よって現代の日本の小学生の精神のあり方は至極危ないと我はさう見詰めて居ざるを得ない。

 

さうしてみんなでもって歩んで行く誤った道筋程怖いものは此の世には無い。

其れはまさに戦争や紛争、侵略などよりもより怖い話なのであり要するに今日本の小学生の躾其のものがなって居ないと云った御話である。