目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

本物の愛の語り手でありさう生くるべき人間の価値としてのショーペンハウアーの金言ーショーペンハウアー『自分を救う幸福論』より學ぶ 2ー

4.ショーペンハウアー『自分を救う幸福論』より學ぶ 2

 

 

 

 

元よりたった今人間界に問われて居るのは「人間は如何に生きるべきか」と云う問いの筈である。

ところが世間を見て居るとまさに其のことに対しそれぞれが勝手なことを其の洗脳度に応じて述べて居るばかりである。

 

兎に角僕には此の世界がバラバラになりつつあるやうに感ぜられてならない。

 

其の「人間は如何に生きるべきか」と云うことに関して古来より多くの哲學者や宗教家が考え抜いても来て居る。

また藝術家の多くもまさに其のことに就き表現し続けて来た。

 

其の意味では其れはまさに真摯なる精神の上での探究である。

なのであればすでに其処には何らかの解答が含まれて居る筈だ。

 

其の理性としての探究の中におそらくは此の人類の苦境に対する処方箋はすでに見出される筈なのだ。

無論のこと其れは現代にさうして繋げられて来た精神的努力に対する共通の課題であることもまた確かなことだ。

 

であるが故に今何教であるだとか、また何宗であるだとか、さらに何主義であるだとかまた何をやっているだとかそんな価値分別上の固執に凝り固まってなど居てはむしろ何も見えては来ないのではなからうか。

そんなバカバカしいばかりでの価値構築の上に胡坐をかき誰が上でまた誰が下だなどとそんなことをいつまでもやって居てはもう罰が当たるぞよバチが。

 

 

まあまあ落ち着きなされ。

汝の怒りもまた御尤もながら世の中の無能振りはまさに今始まったことでは無くむしろ何千年単位でもってして続いて来たことなのですぞ。

 

まさにさうでした。

またイキナリ怒り狂って仕舞いどうも御免なさい。

 

 

「人間は如何に生きるべきか」

僕の場合はかのショーペンハウアーこそが其の問いに就き答えて呉れて居たものとさう思うのです。

 

何故ならショーペンハウアーの金言こそが人間の哀しみに寄り添うものでもまたあったからだ。

 

さて僕は哲學が好きで此れ迄に多くの哲學者の著作物を読んでも来て居る。

かって特に好きだったのはレヴィ・ストロースありさらにフランクフルト學派などの方にも大きく興味があった。

 

片やアンリ・ベルクソンなども好きでありまたニーチェの文學性に傾倒したりした時期もあった。

だが同時に梅原日本學や老荘思想にも親しんで来たので謂わば洋の東西の思想に就きさうして學んで来たのである。

 

 

「人間は如何に生きるべきか」

勿論此の命題に関してはむしろ宗教の方が其れと常に向き合って来たのだとも言えやう。

 

即ちお釈迦様とイエス様がしかと其れと向き合って来られて居る。

其の宗教的な生の構築はけだし正解である可能性が高い。

 

何故ならお釈迦様とイエス様はまた邪教以外の教祖の方々は人間が本能的に生きることをまさかヨシとはされて居ないからだ。

宗教とは左様にまさに人間を精神的に規定するものである。

 

 

対して近現代社會は其の人間を精神的に規定する以外での道をあえて選び取り突き進んで来た。

故に近現代社會其のものが地獄へ堕ちて行くのはまさに其れは至極当たり前のことともならう。

 

但し宗教は其の人間が地獄へ堕ちることをもしかと見据えて居る。

むしろ人間は地獄へ堕ちるものだ、だからちゃんと信仰を持ちませうとさう古より我我に対し説き続けて来たのだ。

 

 

ところが宗教は壱般に厳しい。

どだいお釈迦様とイエス様の教えはどう見ても高峰なのだし其れが少しダラケて大乗佛教だのプロテスタントだのとなるにせよ其れでも凡人には我慢がならぬ程に其れは厳しい。

 

また新興宗教に至っては高額なお布施などが大変だしまた夜毎に會合へ出たり朝起き會などへ出掛けたりでまた其れも物凄く凡人には負担であらう。

だから其れをやられて居る方方は元元偉い方方です。

 

ですが僕はさうした社會的活動により救われるのだとは特に今は思えないのです。

自らを救うのは逆に自らの認識を正すことによるのではないか。

 

 

丁度お釈迦様が苦行を捨て菩提樹の下で瞑想の修行に入られたやうに僕は僕で社會的宗教活動を離れ個としての思想的探究へと勤しんで参りましたのです。

其処にまず見えて来ましたのがかの天才哲學者カントが見出した理性への信仰の様でした。

 

カントはほぼ完全なる理性的哲學を述べましたが其処にはまさか東洋の視点までは入って居なかった。

ところが其のカントの影響を受けたショーペンハウアーには何と佛教の視座までもが盛り込まれて居たのであります。

 

要するに其の、

 

解脱せよ!

目覚めよ!

 

との視点のことです。

 

 

其のカントは理性を信じては居ましたが別に解脱しやうとして居た訳ではありません。

だがショーペンハウアーに至っては70%位は本気で解脱したいとさえ思って居ります。

 

なんですが、ショーペンハウアーは別に宗教的自我其のものを生きて居る訳では無くあくまで哲學としての自我を生きて居るのです。

なので其処に限りどうも甘い部分がありますね。

 

例えば藝術が好きだとかそんな逃げの部分があってソコが宗教よりは學問的であり謂わば書斎完了型、観念のみでもって終わって仕舞う型の方なのです。

其のショーペンハウアーの影響を強く受けたニーチェはまさに凄い文學的哲學を完成させたが仕舞いには発狂して仕舞いました。

 

まあ其れにはショーペンハウアーの罪の部分が多分にあることでせう。

ですが彼の其の罪深さと同時に優しさが強く其処に感じられるのは壱體何故なのだらうか?

 

 

其の優しさとは救いと云うことなのでもまたある。

ショーペンハウアーの哲學の根底にはまさに其の救いが、まさに罪深き人類に対する救いの手が差しのべられて居るのです。

 

ショーペンハウアーの哲學は壱言で申して其の「優しき救いの哲學」です。

先に申しましたがわたくしは自分を優しい爺であるとさう申しました。

 

ですが其の我の優しさとはウソの優しさであり謂わば甘ちゃんとしての逃げの思想であることに他ならない。

だがショーペンハウアーは其処までは逃げて居ない。

 

 

ショーペンハウアーは人間をあくまで厳しく見詰め眞の意味での人間に対する優しさを持ち得た人です。

またわたくしも其の人間の哀しみに寄り添う慈しみの心を生じて居ります。

 

ですが我は長年社會生活をして来た分だけ思想的哲學的に不徹底でした。

また別に哲學が専門なのでも無くかうして文學も石も万年筆もやりショーペンハウアーの如くに隠棲して哲學三昧をして来た訳ではありません。

 

 

ですので其の人間の哀しみに寄り添う慈しみの心さえもが不徹底なのです。

でも其れはみんながおそらくは同じなのです。

 

結局はみんながさうして不徹底なのです。

即ちどんなに利口な奴でもカントやショーペンハウアー並には考えられないのだ。

 

であるからこそカントやショーペンハウアーからこそ學ばねばなりません。

勿論お釈迦様やイエス様から學ぶのが最善なのですが御勉強好きに限りカントやショーペンハウアーからもまた是非學ばねばならない。

 

 

さてショーペンハウアーは「👩の敵」だと申しました。

ですが、實はショーペンハウアー程🚺共にとり優しい御爺ちゃんは居ません。

 

其れは何故か?

 

何故なら女性は元々根本での煩悩が何かと多いので厳しく律せられねばならぬ現象だからなのだ。

また無論のこと其れはお釈迦様の思想と完全に壱致する部分です。

 

ですので結論的にはショーペンハウアー程人間の苦悩に寄り添う優しい哲學者は居りません。

 

 

さてキリスト様の教えではないのですが元より此の世には偽善者が満ちて居ります。

其の偽善者は優しい言葉で誘惑しまさに悪の世界へと善人を誘い込むのです。

 

曰く、

 

百萬出せば其れがすぐに弐百萬にもなります。

此の宗教をやれば必ずや天國へとイケる。

 

等等と。

 

また自称詩人の甘い思想などを信じて居ては金輪際ダメだ。

信ずるなら僕の代わりにショーペンハウアーの思想の方をこそ是非信じて下され。

 

 

巧言令色鮮し仁 - 故事ことわざ辞典 (kotowaza-allguide.com)

さても其の美辞麗句での優しさこそがウソコキです。

 

よって現代文明の構成物としての多くもまた其の美辞麗句でありみせかけの優しさなので多くの場合はウソコキです。

尚、僕は仁所町と云うところに住んで居ますが自分の心にはむしろ其の「仁」が欠けて居るものといつも自己反省して居ります。

 

さてかって谷川 俊太郎氏は『やさしさは愛じゃない』と云う詩をすでに六十年代にものして来て居る。

 

『やさしさは愛じゃない』
  やさしさしかなかったんだね、
  でも やさしさは愛じゃない、
  やさしさはぬるま湯、
  私はふやけてしまったよ。

  ひっぱたいてくれればよかったのに、
  怒り狂ってほしかったのに、
  殺してもよかったのに。

  あなたは私を誉めたたえてばかりいた、
  その眼鏡の奥のひんやりしたふたつの目で、
  男の、
  欲望の、
  きりのない、
  みのりのない、
  やさしさで。

『やさしさは愛じゃない』  幻冬舎
詩・谷川俊太郎 写真・荒木経惟 による写真詩集 

 

 

現代文明が齎す快適性や優しさとは眞の意味では愛と云う言葉には重なることの無い虚的な価値となることかと思う。

但し他方では眞の意味での優しさや眞の意味での愛が此の世には確かに存在して居たやうにもまた思うのだ。

 

然しもはや其れは「過去」にのみ存在するものだ。

いつしか我我は其のみかけとしての快適性や優しさに捉えられフニャフニャとなって仕舞った。

 

其のフニャフニャと云う時代の利己主義がコロナ禍なり温暖化を加速させて居るであらう可能性がまた高くあらう。

だがほんたうはさうして自らを叱りつけむしろ叩いて欲しかったのだ。

 

 

尤も全共闘世代迄は其の虚としての社會の価値観と本気にて闘った訳だが其の後はもうイケなかった。

だから僕の甘ちゃん振りも僕壱人の責任なのでは無く半分はそんな虚無の時代としての責任なのだらう。

 

だがむしろ僕はかうして思想的には世の価値観と常に闘い続けて来た積もりだ。

其のー文明のー冷たい目の奥に潜むキリの無い且つ實り無き欲望と刺し違える積もりでもってして…。

 

 

対してショーペンハウアーが唱えたところでの金言こそがむしろ本物としての愛でありさう生くるべき人間の価値観をも指し示すものだ。

 

 

203「人生は戦いだから、勇気と気迫を持て」ーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

かやうに人生は戦いだとまさに彼ショーペンハウアーはかって述べて居る。

つまるところ其れは人生には安心、安全と云うことが望み得ないことを述べて居るのである。

 

其の人生の戦其れ自體を放棄することなどはまず無理である。

だが最終的に其れは理性的放棄により縮小して行くことは出来る。

 

其れでもまだ人生の戦の場其れ自體は残る。

だから理性的放棄に完全に至るまでは戦わざるを得ない。

 

 

でも其の理性的放棄もまた誰にでも出来ることでは無い。

いずれにせよ理性的であれまた非理性的であるに関わらず人生の戦いにはかうして否応なく参加することが強いられて居る。

 

其処でもってよりにより知性的に恵まれ生まれし者は余計に苦しんで生きて行かざるを得ないことであらう。

だがだからこそ其の知性には壱つの方向性が与えられるのだ。

 

まさに其れこそが眞理探究に特化した方向性のことだ。

問題は文學的且つ哲學的自我をまた宗教的自我を完遂させるか否かと云うことでは無く少なくとも個として其の方向性を決して見失わぬことである。

 

 

故に人生との戦いに於いてどんな苦境に立たされやうとも其の理性的態度を放棄してはならない。

 

だって放棄せよとさう言って居るのではなかったのか?

馬鹿!

 

むしろ眞理の方向性を見ない馬鹿を放棄せよとさう言って居るのであり逆に利口を放棄したら其れこそ只のバカではないか。

だから其の放棄の対象が違うのだよ、むしろ世間の馬鹿を放棄し己の利口を是非保存しなされ。

 

此のやうに「勇気」と「気迫」を持って生其れ自體と闘えとかって老哲學者は述べて御座る。

さても果たしてコレの何処が厭世思想なのだらうか?

むしろ此れ程迄に勇気付けられる言葉が他にあらうや?

 

で、今の文明の状況に対しても是非此れを引用し壱言だけ述べて置かう。

「人生ー文明ーは戦いだから、勇気と気迫を持て」

 

かくして文明は是非今先哲の言葉から真摯に學んで置くべきことだらう。

ショーペンハウアーの悲観論は案外まともなものだーショーペンハウアー『自分を救う幸福論』より學ぶ 1ー

3.ショーペンハウアー『自分を救う幸福論』より學ぶ 1

 

 

 

 

元より其の思想、哲學とは生活上の飯の種にはなり得ぬもので、また藝術にせよ宗教にせよ多分にそんな性質を帯びて居るものである。

従って文學者や哲學者また宗教家などは其の生の本質的課題を常に考えて行くものであり故にむしろ其の生活上の課題の解決能力が弱くなりがちなのだ。

 

わたくしもまた多分にそんな部分がありだから生活者としてはダメなのだらうがさりとてやれることと言えばかうして何かに就き語ることのみなのでまさに其れを長年に亘りして来た訳だ。

するといつの間にか此処での記事も千を超えて仕舞った。

 

だがわたくしにとり其の数などはどうでも良いことなのだ。

第壱三流出版社にでももし拾って頂けるのであれば無論のことわたくしは千位の記事はすぐにでも書いてやる積もりである。

 

でもわたくしはプライドだけは芥川賞作家並なのでまずは其れも難しいことであらう。

 

尚、私は以前に東京の掲示板ですでに千以上の記事を書いて来たので要するにすでに弐千以上の記事をネット上に投稿して来て居るのである。

 

まあそんな個人的な自慢話のことはどうでも宜しいことで問題は人間の社會が今後どうなって行くのかと云うことなのやもしれぬ。

だが其れもよーく其処で考えてみればたちどころに分かる筈だ。

 

まともな理性の持ち主であればそんなこと位はすぐに分かる。

其れが分からないのはおそらく認識論の方が狂って仕舞って居るからだらう。

 

だからわたくしは其の誤りを今正さうとして居るのだ。

だから至極眞面目なのだが兎に角寒い。

 

何故なら私の部屋には暖房が無い。

よりによって何故?

 

 

いやストーヴをね、台所へ持って行って居るのだ。

其れでももって古いストーヴも片付けで捨てて仕舞ったのでもう暖房が無いのだよ。

 

嗚呼、さう言えば電気ストーヴは何処かにあったのかな。

 

兎に角わたくしは死ぬか生きるかと云う其の緊迫感を持って其の人類の精神の課題を是非考えたいのだ。

 

お前、然し其れでは凍え死ぬぞ。

いや我は殺しても死にゃあしません。

 

何故なら色んなものを食うのでいつもかうしてメラメラと體が燃えて居りますのです。

 

 

さてコロナ禍の問題だが其れは畢竟「大の思想への限定ー制限ー」なのだとさう考えられやう。

どうも思想には其の大と小の性質の違いがあるやうに思われる。

 

大の思想=発展化、構築型⇔小の思想=鎮静化、非構築型

 

でもって釈迦の思想や他の印度の解脱思想、さらに老荘思想などは明らかに東洋型の小の思想の流れである。

対して近現代思想は明らかに其の大の思想の流れである。

 

其の大の思想の流れの顕在化即ち近代化こそが大問題ばかりを社會的に引き寄せて居るものと考えられる。

なので東洋型の小の思想の流れへとシフトするとすれば確かに問題はより小さくなって行く訳だ。

 

かって其のことを述べられて居たのが梅原 猛先生であった訳だが其の晩年に新たなる思想の流れを創られることも無く亡くなって仕舞った。

かの梅原 猛先生にしてさえもが思想としての近代の超克を其処に成し遂げられなかった訳だ。

 

 

だから其れをこんな壱自称詩人へと振って来るな。

こんな適当な奴に其の大任をしょわせるな。

 

そんな訳で皆様はたった今僕がどうして生活力には欠けて居て要するに妻子などはとても養えずかうして訳の分からぬやうな哲學のことばかりを飽きもせずに毎日述べ続けて居るのかと云うことがお分かりになった筈である。

 

つまるところ其の大任があらうことかわたくしの頭の中に全て任されて仕舞って居るのだ。

もはやコレは信長公級の大任でありプレッシャーであらう。

であるこそわたくしは自らを信長詩人だとさう名乗って居るのだ。

 

 

で、問題はあくまで其のショーペンハウアーの所謂悲観主義哲學のことである。

其のショーペンハウアーは変わり者の哲學者であることは先に述べた。

 

つまりは当時かのヘーゲル進歩主義哲學とは正反対のことばかりを延々と述べ立てて居た訳だ。

また其のショーペンハウアーの思想が何故わたくしの頭の中身とピタリと壱致したかと云うこともすでに述べた。

 

要するに彼は常に世の中を批判的に見詰め世の趨勢とは反対のことばかりを述べて居たのである。

 

だとすればショーペンハウアーこそが非國民であり且つ思想犯だったのですか?

いや独逸では昔から何をどう言おうと逮捕はされなかったのだ。

 

我が國でも江戸時代までは滅茶苦茶な批判をする學者がまた多く居たものであった。

其れがどうも全体主義國家となって仕舞ったのが近代としての明治以降のことだったのだと思われる。

 

 

其のショーペンハウアーの思想こそが明らかに小の思想=鎮静化、非構築型のものである。

即ちショーペンハウアー悲観主義哲學は近現代思想とは眞逆の流れを元元担って居る。

 

と云うことは近現代思想の行き詰まりに対して元来有効な思想的批判力を有すると云うことなのでもまたあらう。

 

さて今回彼の思想を取り上げるのは、先にも述べたやうに難しい哲學の上での論議を展開する為にさうするのでは無い。

 

むしろショーペンハウアーの思考の實効的な側面即ち現世利益性に就き個人的に是非語ってみたかったので其れをする限りでのことだ。

事實としてショーペンハウアーは偏屈な哲學者であったと同時にむしろ博學で役に立つ知識を多く持って居た人だったともされて居る。

 

 

其の彼の博學振りを示すテキストとして以下の著作を用いることとしてみたい。

ショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也/訳 本・コミック : オンライン書店e-hon

 

現在は注文出来ぬ本ながらアマゾンの方では新品も売って居る。

私個人は五年程前に此の訳書を求め半日で読んで仕舞った。-金言集なのですぐに読める本だ-

 

しかしながら、まさに其の内容からほんたうに我の心は救われたのであった。

ある意味では御経の数数よりもむしろこちらにこそ救われたやうな気さえもがして居る。

 

『ショーペンハウアー 自分を救う幸福論』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)

こちらなども大いに参考とならう。

 

 

尚個人的にショーペンハウアーの哲學は壱種の悲観論なのではあれ厭世主義ー老荘思想の如き厭世主義ーの類ではむしろ無いのだと思う。

其れはまさに、

「大いなる悲観は大いなる樂観に通ずる」

とのむしろ樂観的な悲観論を展開して居るもののやうにも思うのである。

 

であるからしショーペンハウアーの哲學によりむしろ華厳の滝から飛び降りやうとはまさか思わぬ筈なのだ。

さうでは無くショーペンハウアーの考えはむしろ生を援護し其れをどう乗り切るかと云う前向きな視点から語られたものである。

 

但し其の前向きなことの対象が生活力だの金だの名誉だの社會の安泰だのそんなことに対し向けられて居る訳では無くむしろ自己の内面に巣食う認識上の誤謬に対し向けられて居ると云った訳だ。

よって五年前にわたくしはまさに此の著作により大いに勇気付けられた訳だ。

 

即ち世間での価値観ー認識ーもまた前向きなものだが其の認識其のものの向けられて居る対象がそも間違って居るので結局こんな状況を招いて仕舞うと云うまさに其のことに就きショーペンハウアーは語って呉れて居るかのやうなのだ。

 

では早速に此の著作をテキストと為し講義へと入らせて頂くがまずは普通のやり方ではまるで面白くは無いので本の終わりの方から論じさせて頂くこととしてみやう。

其れもこんな変わり種の哲學者の哲學はむしろ逆方向から是非攻めて行くべきものなのだからして。

 

 

ーまとめよりー

此の本の訳者である鈴木 憲也氏はまずショーペンハウアーが人間の醜い面を暴露したとさう仰せである。

但し其の人間の心の醜さは人間自身のせいでは無いと彼が考えて居た旨をも其処に併せて書かれて居る。

 

果たして其れは何故か?

所謂盲目的なる表象としての意志ー本能として規定されし意志ーには元来目的など設定されては居ないからなのだ。

 

其のことは我我が自然を観察して其処には意志など無いとさう見られることとまるで同じことなのだ。

つまるところ人間は半分自然であり且つ半分観念なのだが其の観念が理性的に駆動されぬ限り結果的には其の観念もまた原始退行ーわたくし自身の理論ーし本能に置換吸収されて行かざるを得ぬ。

 

であるからして人間の意志にも元元目的などは無い。

では人間は所詮動物達のやうにー精神的にー救われぬ存在なのか?

 

いやむしろ救われるべくして生まれた現象なのである。

何故なら人間には理性の力が宿って居るからなのだ。

 

 

「私たち人間は、理性を使って自らが悲しい存在(創造主の意志に動かされるだけ)であることを自覚し、できるだけ超越・克服していかなくてはならない。」ーショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也のまとめよりー

 

つまりはまずは理性を使い認識すること、まさに其れに尽きておる。

さてもところでジャニーズなどにキャアキャア言って居て果たして其れで理性を使い生きて居ると言えるのだらうか。

 

また男共もすぐにピンサロだの不倫だのへと走るのだしまたさらに大博打だの酒浸りだのへ走り易いのでもあらうがそんなものが少しでも理性を働かせ生きてことになる筈が無いではないか!

 

とどのつまりは理性を使った認識が普通の現代人にはなかなか出来ない。

いやさうでは無かった。

少なくとも此処の読者は眞面目なのでむしろ我以上の理性の使い手としての熟達者ばかりなのだらう。

 

だが君等はちょっと我が堅い話をし出すといつの間にやら逃げて行くこともかうしてちゃんと分かって居るぞ。

でも其れではイカン。

むしろわたくしが述べる哲學のカテゴリーだけを是非読みなされ。

 

だから、我我はそんな情けない=悲しい現象に過ぎないのだ。

其のやうに認識することこそが悲観主義であることの要諦なのだ。

 

其の哀しみをこそしかと見詰めよ!

 

其れも自称の詩人さんはな、其の哀しみをかうしてずっと見続けて来たのだ。

 

「人生で幸福や心の安心を積極的に求めると、必ず幻滅を味わう。なぜなら、人生は生活者による『苦痛』と、満足した状態で感じる『退屈』との間を行ったり来たりしているものである。だから、この世では、苦痛と退屈の波をスムーズにすることが幸せに通じる。」ーショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也のまとめよりー

 

此の部分に就きかって我も述べたのだったが、

幸福⇔不幸

とのことなので幸福なる状態と不幸なる状態は紙壱重であり且つ裏腹の関係となる。

よって本来ならば其のどちらも求めてはならない訳だ。

 

まさに其れが釈迦の見解なのでもあり、まさに解脱へと認識を高めて行く為の唯壱の方策である。ー其れも自力救済としての意味に於いてはー

ショーペンハウアーの哲學は壱種の解脱哲學だともまた考えられるのだが個人的には釈迦の思想程厳しいものでは無く若干キリスト教や釈迦の思想以外の印度哲學の影響が見て取れるので其の点では完全に解脱を完成させる程潔癖では無い。

 

ですがとりあえずは彼が主張することとは理性的認識による本能的意志の否定である。

であるから結果的には我が述べて居ることとまるで同じことを述べて御座る。

いや然し其れは我がショーペンハウアーの哲學に結局嵌り込んで仕舞ったが故にさうなって居るのやもしれぬ。

 

さらに彼ショーペンハウアーは藝術殊に音樂が大好きだった。

まあ僕の場合は画なども音樂と同じ位に好きなのですがショーペンハウアーは兎に角音樂を褒め称え其れが「人生の苦悩の万能薬になる」とまで述べて居る。ーショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也のまとめよりー

また人間の心理のあり方としては「同情」する心であることを重要視した。

「同情とは愛だ。」とまで述べて居る。ーショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也のまとめよりー

 

ショーペンハウアーは佛教を最大限に認めて居るが他方ではかうしてキリスト教もまた認めて居たのである。

要するにショーペンハウアーもまた多くの宗教の教義と同じやうに「本能を其の侭に生きてはならない」旨を述べむしろ其の眞理を哲學的に論理化させて行ったのだと云えやう。

従ってショーペンハウアーは常に宗教を重視して居る。

 

即ち「同情」するには是非とも宗教的な見地が必要なのだ。

佛法には「異の苦」や「同苦」と云った言葉があるが結局其れは他人の苦しみに自己の苦しみを重ねる程に敏感であれと言って居るのではなからうか。

 

またキリスト教などでは「汝の敵を愛せよ」などともまた言うのである。

 

ところが本能の侭に生きて居ては此れ等の命題を履行することなどは不可能だ。

よってつまるところは人間は本能を自制し生きることで初めてまともな人間ー理性的な人間ーとなれる訳だ。

 

だが其れを忘れた途端に壱挙に地獄へと堕ちる。

尚其の地獄へと堕ちる奴等が多過ぎるやうに感ぜられる昨今の世相である。

 

 

さて其の藝術至上主義は我の場合も全く同じことでむしろ若い頃よりわたくしはさうであった。

元元我は詩や文豪の小説などを独學にて研究して行くと云うまさに市井の文學マニアの壱人であった訳だ。

 

従って文學に限れば専門書の類もかっては屡読んで居たものだった。

しかも其れを趣味としてして居たのであるから今思えば其れも大したものであった。

 

然し藝術の分野と云うものは根っこの方では繋がって居るものなので自然と画や音樂へも引き寄せられて行くこととなった訳だ。

 

いずれにせよショーペンハウアーの考え方はむしろ全然オカシクは無く至極まったうなものだと云うことが以上からもお分かり頂けることかと思う。

ショーペンハウアーが注目されるやうになったきっかけとは『人生知のための金言集』だったのであり其れが何と彼が63歳の頃に出した本であったさうな。

 

で、僕は今年何と其の63歳となるのである。

さてもなんて縁が深いのだらうか、彼ショーペンハウアーとは。

 

尤も彼ショーペンハウアーは女の敵として評価が確立して居る人物なのだがわたくしの場合は別に女の敵でも何でも無く分け隔てなく人を愛してやまぬ優しい御爺ちゃんです。

灯油の巡回販売のオジサンより學んだことー我が守り抜くべき實存の内容ー

2.灯油の巡回販売のオジサンより學んだことー我が守り抜くべき實存の内容ー

 

 

 

 

さて僕の悩みとは昔からかうして壱種観念的なもので其れは所謂世間的な意味での具體的な悩みとは傾向の異なるものでもありました。

 

其の本を読むのはすでに小学生の時分からのことで従ってもう半世紀以上に亘りそんなことを続けて来た訳です。

なのですがひとつ小説でも書いて賞でも取ったらうだとかさうした建設的な文學的見地に立って居る訳でも無く實はもっと根源的な問題を此の頭の中でグルグルと弄繰り回して居る訳です。

 

其れもまあ本気になればある程度はイケるのやもしれませんが僕の場合はもっと詩的な問題即ち哲學や宗教からインスパイア―される部分をこそかうして考え込んで来て居る訳だ。

但し其の観念的なものに特化した悩みのあり方は今むしろ社會のあり方の根本課題として普遍化されて来て居るかのやうで、ソコがむしろわたくし自身にとってはやっと世間が自分の悩みの方に近づいたのかな?などと思うこと頻りであります。

 

 

で、其の世間的な意味での具體的な悩みと哲學的、宗教的な悩みとの間には實は本質的な差異など無いのです。

其のことを教えて居るのがまさに佛法であり、また其の佛法にも色々とありませうが釈迦による原初の教えと其の後の変質した大乗佛法をも全てひっくるめて佛法の教えであるとさう捉えて置く方が良いことでせう。

 

哲學的、宗教的な悩みー抽象的精神的で高尚な悩みー⇔世間的な意味での具體的な悩みー具體的肉體的で下賤な悩みー

 

まあ下賤とは申しましたが其れもほんたうは下賤なのでは無くまた精神的なものが高尚であるとは必ずしも言い切れない。

但し精神的なものこそが人間自身の歩むべき道筋を指し示して呉れることでせう。

 

其の意味では其れを是非大事にして置かねばならない。

ところで僕の悩みとはむしろ世間には其の精神の場を大事にする感覚が欠けて居たことです。

 

故に僕は悩みを悩んで居るのでは無く世間の無知に対しもう長いこと悩まされて来た。

対して僕自身は自分の認識には自信がありむしろずっと其れを信じても来て居た。

 

 

さうかうと相変らず屁理窟をこねて居りましたら昼過ぎに灯油の巡回販売のオジサンがまたやって来た。

其のオジサンが兎に角面白い人なので拾分程も話し込んで仕舞いました。

 

オジサン、ところで京都には帰ったのですか?

 

其れが雪も降りまたどうたらかうたらで結局元日に帰りまたすぐにこちらへと戻りましたところです。

京都の神社へは行きましたか?

 

どうもそんな余裕は無かったやうだ。

私は元元電気工事士で冬場の閑散期に此の仕事をやって居るのです。

 

エッ?蟹屋ではなかったのですか?

蟹屋蟹屋で電気工事は電気工事です。

 

今日は何時まで働くのですか?

七時頃までは。

 

 

此の寒いと云うのに大変ですね。

いえ此の灯油を皆さんが待って居るので…。

 

だから灯油缶をマンションの四階や五階まで持って行くのだから。

 

うわっ、其れは厳しい。

 

 

でも女房子供を食わさないといけませんので。

ところでアンタ幾つですか?

 

五十七です。

何だワタシの方が五つも上じゃねえか。

 

でもオジサンは丈夫でいいなあ。

ワタシなどはもうボロボロでまた余計に精神の方も使う性質ですのですでに引退して居ます。

 

アレッ、でも頭が黒いから若いですよ。

ー其の爺は何せ頭が白いので確かに七拾歳位にしか見えないー

 

 

要するに労働とは常に厳しいものだ。

 

労働はさうして普通人間を本質的に規定するものなのだ。

また妻子があれば我のやうに観念を生きることなどはとても出来ない。

つまりは世間的な意味での具體的な悩みー具體的肉體的で下賤な悩みーをこそ生きて行かざるを得ぬ。

 

哲學的、宗教的な悩みー抽象的精神的で高尚な悩みー⇔世間的な意味での具體的な悩みー具體的肉體的で下賤な悩みー

 

すでに此処に於いて其の高尚と下賤の価値分別は崩れ去らざるを得ない。

僕は観念を生きるんです、と云う其の我が価値観は其の京都の出稼ぎジジイの生のあがきによる圧倒的な迫力に押されほぼ死にかけて居る。

 

 

つまるところ労働とは観念には非ず。

まさに其れは肉體によるあがきである。

 

肉體には飯がどうしても必要でまさに其れを得んが為にかうして四苦八苦しつつ世間の人人は働いて御座る。

尤も我も亦其の轍を踏んでは来て居る。

 

確かに其の労働こそが我に取り究極的な試練でもあった。

だがもはや適当に其れを終わらせて仕舞った。

 

で、うまい具合にさうなった途端あちこち體が壊れて来た。

 

 

さても京都の何処の人ですか?

山科です。

 

其れも京都では弐度程死にかけた。

 

エエッ?

其れは壱體どうしたと云うのだ?

 

壱度は自転車で走行中に車に跳ね飛ばされて右の尻の方から地面に叩きつけられ死にさうになった。

また歯が悪くて其処から黴菌が入り其れで首を手術し入院する羽目となり危なかった。ーさう言いつつ首の大きな傷跡を見せるー

 

 

うわー、凄いネタだ。

是非ソレを使わせて下さい。

 

ネットでもって逐壱ソレを書きますので。

其れでは灯油の巡回販売の京都山科在住の57歳のオジサンがかって経験した災難と云うことで宜しいのですね?

 

嬉しいな、是非書いて下さい。

では書いてるソコを教えて!

 

いや、ソコはね、主に旧仮名でもって書かれしかも内容が堅過ぎて壱般人が視るやうなところではまるで無いのです。

よってもう少し壱般的なものにしてからお伝えすることにします。

 

 

まあ僕も色色と此れ迄にありましたのですがむしろさうした具體的な災難の類では無く大きいのはむしろ精神的な苦しみの方でした。

ー但し我にも色々と災難がかって降りかかった。1.学生の頃に山の中で狂走しカーヴを曲がり切れず車を潰したこと2.15年程前に赤信号無視ー運転者は高齢の🚺ドライヴァーーの🚙に突っ込まれ車が大破したことー

 

個人的には精神的な苦しみの方がより御上品だとはまさか思えず逆にグオー、ギャオーなのはソチラの方ではなからうかと屡思ったりも致します。

逆に其の闘争の範囲、悩みを齎すものの範囲が具象的である分現實的な悩みの方が救われて居るだらう気さえもが致します。

 

精神的な悩み苦しみはまさに其の意味ではよりタチが悪い訳です。

ですから其の精神の追求者であったかっての文豪連中が何故か情けない死に方を選んで居たりもまたする訳だ。

 

 

其れに現代では其の精神的な悩み苦しみを和らげて貰おうとしてカウンセリングへ通ったりすれば其処で火を点けられて悶え死ぬ虞さえもがまたあるのです。

 

しかしながら庶民は皆さうして頑張って生きて居ります。

其処ではまさに観念もクソも無く善も悪も無いのであります。

 

要するに全てが生きんが為、飯を食わんが為の闘い其のものなのだ。

 

 

さて悩みにはさうして抽象的に齎されるものと具象的に齎されるものとがある訳だ。

抽象的⇔具象的

 

本質的には其の価値としての優劣は其処に無く相互に入り組んだ悩み又は苦を其処から生じさせて居るのであらう。

だが抽象的な悩みに係ううちに具象的な悩みの重みをしかと思い知らされる瞬間と云うものが人生には屡出て来るものだ。

 

逆に具象的な悩みに係ううちに抽象的な悩みの重みをしかと思い知らされる瞬間と云うものも人生には屡出て来るものなのだらう。

即ち抽象的な事柄=観念には具體性ー現實味ーが欠けて居り具象的な事柄=生活には抽象性ー観念性ーが欠けて居るのである。

 

其のどちらかの優劣を其処に競うべきでは無くむしろ其れをありのままに見、其れを己としての性質にあえて取り込んで行くことこそが事の全体性を回復する為の壱手段なのではなからうか。

即ち、

抽象的に生きる者には現實味が無く、

逆に、

具象的に生きる者には観念性が欠けて居る。

 

無論のこと個人的には前者の世界をもう長いこと生きて来た。

であるが故に今の私は何でも述べることが出来る。-何に就いても語ることが出来る-

 

しかしながら其の世界には多分に「待った無しでの生へのあがき」のやうなものが欠けて居るのやもしれぬ。

だがわたくしは今日其のことをまさに彼京都のオジサンから學んだ。

 

 

尚私は其の事を家に居据わる🐈共からも學びつつある。

言うまでも無く猫共の生に観念などは無い。

 

勿論感情はあるが彼等はまさか観念では生きて居ない。

其の打算無き生はされど壱面では美しい。

 

さうして運命に従い生まれ且つ死んで行く彼等の生は我が實存に対し何ら劣るところが無い。

 

我我人間の生にとっての眞の意味での目的とは其の観念性の齎す波と具象性の齎す波との双方に身を委ねてみることではないのか。

さうだ、おそらくはさうなのであらう。

 

 

故にどちらかに偏ると魔道へと堕ちるのであらう。

とは言え我にはそんな重い灯油缶を四階、五階のマンションまで運ぶ體力などもはや無い。

 

さうか、では矢張り観念的な意味での世直し=価値観を正すこと、もはや其れしか無い!

さうしてたとえ何が起きやうとも動じない認識力を自ら得るのではなかったか。

 

でもそんなお前が世直しなんぞ出来る柄か、此の悪たれ詩人めが!

さうでした、世直しなどでは金輪際無く其の悪たれ詩人の心の改造こそが是非必要なのでした。

 

其の「生へのあがき」こそがまさに具象的な意味での人生の眞實だ。

だが我は其れを見据えた上で是非認識論に於ける是正をこそ展開してみたい。

 

まさに其れが生活力と観念力の相剋であり相即を図ることなのだ。

さうして結局は其のどちらもが大事だと云うことなのでもまたある。

 

 

生に対し眞摯であればある程にさうして労働に対しまた思考に対し眞剣になって行かざるを得ない。

だがどうなのだらうか?

今此の世では其処まで眞剣では無くとも大金を稼いだりして居るケースなどもまたある訳だ。

 

むしろほんたうの意味で正されねばならぬこととは其の種の不公平であり不平等なのではなからうか。

また労働のあり方に関しても普通に働けば普通に食えるやうな社會を築き上げることこそがむしろ当たり前のことだらう。

 

 

ちゃんと飯を食って働いて下さいな。

いや飯なんぞ食ってる余裕は無いですよ。

 

朝もまた昼も忙しく食えないのだし夜に少し食うだけのことでして…。

 

さても何と云う厳しい労働なのであらうか。

まさに我が甘ちゃん振りこそが何処ぞ間違って居たのではなかったか。

 

 

わたくしが陥った其の甘ちゃん振りには確かに生活力即ち妻子を養うだけの肉體力が欠けて居る。

いつしかさうして我は観念を生きる者となって仕舞って居る。

 

だが今の私にはもはや其れしか取柄が無い。

わたくしはわたくしなりにかうして観念を生き何かを世に問うて行く他に道は無い。

 

 

観念もクソも無く善も悪も無い生きんが為、飯を食わんが為の闘いとはまさにさうしたことであった。

また多くの人人がまさに其のやうなギリギリでの闘いを強いられて居る訳だ。

 

其の實存としての闘いに口を挟む余地などどんな藝術にもまたどんな哲學にも其れは無い。

まさに其の生きんが為の闘いこそが其の侭に文學であり且つ宗教ですらある。

 

そんな訳で我は今日其の灯油の巡回販売の京都人のオジサンから多くを學んだ。

其れは私に取り眩しく感ぜられるやうな👪を守る為の労働の尊さであった。

 

 

さらに所詮は其れが出来ぬわたくし自身の不甲斐無さでありまた其れを覆う観念の檻の根深さに気付かされた訳だ。

 

まあさう深刻に捉えるな。

所詮お前には守るものなど無いのだから…。

 

そんな余計に落ち込むやうなことを言うな!

僕ちゃんにも守るものならちゃーんとあるわい。

 

例えば🐈でしょ、其れに石でしょ、其れに本でしょ、さらに万年筆でしょ。

そんなもんは守るやうなものではないぞよ、あくまで常識的には。

 

 

うわあー、結局やってもうたのかな。

もう守るものさえ我には無いのだ。

 

だからもうそんなに深刻に悩むな。

ほうれほれ、美味しい納谷橋饅頭だよ、其れに新春特製海老天丼だぞ。

 

「納屋橋まんじゅう」の製造・販売が終了 名古屋名物に開店前から約100人が列「30個買いました」(メ〜テレ(名古屋テレビ)) - Yahoo!ニュース

 

とのことで、其の納谷橋饅頭は今後無くなります。

納谷橋饅頭は炭焼きをしますとウソみたく美味くなりましたものです。

 

 

だが生の上での闘いとは具體的肉體的に語られるものばかりなのではあるまい。

我はかうしてひとつの精神の道を歩むのだから。

さう決めたのだ、いやいつしかさうなって仕舞ったのであるから。

 

抽象的精神的でしか成し得ない道をあえて選んで生きて行くこと、まさに其れこそが我が守り抜くべき實存の内容其のものなのだ。

ショーペンハウアーを學ぶ前に言って置くこと

1.ショーペンハウアーを學ぶ前に言って置くこと

 

 

 

 

哲学言葉「神は細部に宿る」の意味とは?細部に神は宿るの英語訳や類語も | BELCY

 

さても此の世での価値観をまずは逐壱疑って置く方が良いことだらう。

何故なら今此の世界はアンバランスに満ちた悪い世の中=社會となって居るからだ。

 

無論のこと其れは人間の持つ価値観が偏って居るが故にさうなって居る筈だ。

ところが人間界は人間界を批判する力には元元欠けて居やう。

 

まさに其れこそが利己的に成就される欲望の典型的な成り立ちである。

 

 

例えば「愛」と言えばかのキリスト教なのでは無いが良いことのやうに思われ易い。

だがキリスト教が認めて居るのはむしろアガペーであり世俗の色欲、生の保存欲などでは無い筈である。

 

また佛陀はより理性的であったのか、其の愛をも弐重否定し其の利己的な欲望其れ自體を全否定しやうとした。

 

 

愛⇔非愛

 

「愛」には必然的に其の「愛では無いもの」が含まれて行かざるを得ない。

まさに其れは憎しみであり殺意であり破壊への衝動ですらある。

 

故に釈迦は其の相対概念其のものを逐次否定して行く。

其れは其の相対認識其れ自體の否定であり根本的放棄である。

 

他方でキリスト教は愛を否定する道を選ばず其の愛を昇華するー高めるー道をこそ選んだ。

 

 

愛⇔愛では無いもの

の対立は最終的に其のやうに神と👿との対立其のものだ。

 

但し佛陀の教えの中に其の対立が顕在化して居る訳では無い。

厳密には佛陀の教えは無神論でありしかも内部から自分でもって自己の認識を変えて行くことなのだ。

 

佛陀の教えの中には其の意味での超越者などは何処にも居ない。

勿論其の佛陀其れ自體が超越者なのだがあくまで其れは自己の内部に宿る超越者なのだ。

 

 

今此の世界はアンバランスに満ちた悪い世の中=社會となって居ることは、まずは其の「愛」の無理解より生じて来て居るものと見ても良いことだらう。

其れも其のキリスト教的な意味でのアガペーに対する無理解である。

 

何故なら神の愛が普遍化されたものであるのならば当然に其の愛の影響力は細部にも宿る筈だ。

但し東洋の神神もまた細部にこそ宿る。

 

即ち神とは大なるものであると同時に小なるものでもあり得る訳だ。

 

 

大⇔小

此の両極を行ったり来たりするものがまさに神の御業なのであらう。

 

但し其れではあくまで他力救済となりついには自力救済出来ぬので釈迦は其の対立的認識の両極否定を行った訳だ。

釈迦は其のやうに人間の認識の誤謬をむしろ普遍的に正さうとした。

 

対してキリストは人間の認識の誤謬を神の愛の次元へと棚上げしー其れを打ち消すことでー矢張り普遍的に正さうとした。

 

で、結果的には共に悪=👿と闘って居ることとなるのである。

 

尚、神はまだしも抽象的な意味で「生きる存在」なのだが佛はどんな意味でも「生きる存在」なのでは無い。

其れ即ち佛とは永遠の生との決別のことであり神とは永遠の生との格闘の保証のことである。

 

 

永遠の生との決別=慈愛⇔永遠の生との格闘の保証=愛

 

愛とは闘争の意でもまたある。

何故なら愛は憎しみと対になり生ずるものでしか無いが故に。

 

故に👪愛や共同體、また國家への愛は半分は戦争や破壊などと云う過酷な面を孕んで居るものとして見て置く方が良い。

尤も其れがリスキーなものであることが分かる者は其処には比重を置かず其れこそ神の次元へと其の愛を高めやうとし教會などへも頻繁に通うやうになる訳だ。

 

だが大多数の者は👪愛や共同體、また國家への愛こそが大きくて良い愛だとさう信じて御座る。

でもわたくしは其の大の愛への執着こそが謂わば社會的に齎される洗脳なのだとさう感じて来ても居る。

 

 

最終的にはキリスト者であるのならば其の愛の洗脳を打ち消し眞の意味で大きな神の愛へと至るべきなのだらう。

佛教徒であるのならば其の愛の洗脳を打ち消し眞の意味で己を利己愛の軛から解放すべきである。

 

尚、慈愛とは生きとし生けるものを慈しむことであらうが其の言い方がむしろ誤解を招いて居るものとわたくしは見て居る。

慈愛とはさうして訳も分からずに只本能ー煩悩ーにより生かされて居る状態への理性的な憐憫の情のことをこそ言う。

 

つまるところ佛教では生きて居ることが必ずしも良いことでは無くむしろ悪いことー迷いーと認識されて居る訳だ。

ところが大乗佛教は其の根本の部分を現世利益追求性にて誤魔化して居り故に我我大乗佛教徒が願うこととは其の生からの己の抹消どころかより良く此の世にまた生まれ出て来たいと云う思いの成就である。

 

だが其れはむしろ他力救済として壱元化して行く精神の流れのことであらう。

他力救済はさうして最終的に其の超越者との壱元化を乞い願い歩むものだ。

 

 

大⇔小

美⇔醜

高級⇔低級

 

神及び佛に於けるー本来のー認識論では弐要素をしかと見ねばならぬと云うのに近代社會は左側ばかりを追い求めて行く。

より進歩しより大きくまたより欲望の要請に対し豊かであることこそがつまりはより便利で合理的に欲望を成就して行くことこそが近現代社會の目的である。

 

ところが先にも述べたやうに、神は細部に宿ると云う意味に於いて其れは大きさを超越する存在である。

またより正確には美醜さえをも超越する。

さらに神は低級なものをも等しく愛する。

 

其れは佛がらい病病みなどの悲惨なる病気に罹った人を差別したりせぬことと全く同じである。

また佛にも大きさや小ささ、出来や不出来、さらに利口か馬鹿かと云った分別的認識がそも無い。

 

つまるところは其の神と佛のみが其の分別的認識ー迷いとしての認識ーを離れ我我生命とはまた別箇の価値を其処に生じさせて居る訳だ。ー分け隔て無く愛し分け隔てなく憐れむー

我我人間は確かに生命の中では最も進んだ認識能力を持つ。

 

 

我我は文明に於いて主に幸福を生きることを主眼ー目的ーとなしつつ其れに対し邁進して来た。

だが確信を持って其れをやって居たところ何故か神佛に於ける認識とはかけ離れたものとなって仕舞ったのは其れは壱體如何なる理由によるものなのか?

 

なので其れはそも其の確信其のものが間違って居た可能性が高いのではないか。

 

かうしてみんなでもってより良い明日を目指せば必ずや文明はまた生活はより良くなる。

第壱其れはイエス様やお釈迦様がさう述べて居られたことだらう。

 

いーや、イエス様やお釈迦様はかって其のやうなことを述べられたことなどは金輪際無い。

第壱教會や御寺にでも出向いてみ給え。

 

教會も御寺もちゃんとさうして生の両面を見詰めて居るではないか!

だからイエス様やお釈迦様は幸福のことばかりを其れも物質的幸福のことばかりを述べられて居たのでは無くむしろ精神の苦難の道、まさに其の心の艱難辛苦の道のことに就きしかと述べて居られやう。

 

 

すると現代社會が今オカシイのはイエス様やお釈迦様の教えを反故にして勝手にみんなで赤信号を突き進んで居るからなのですか?

まさに其の通り。

 

其れも政治家も教師もまた識者も誰もかれもがさうしてイエス様やお釈迦様の教えを反故にして勝手にみんなで赤信号を突き進んで居るのだ。

 

ああー怖い!

もうダメだ、絶望だ、此の人類のやり方こそがすでにドツボに嵌って居ることだらう。

 

ようやく気付いたのか。

其れにつけても気付くのがちと遅過ぎる。

 

だから其処でもってひとつよーく考えて見やう。

ほんたうに此の文明のやって居ることはまともなことなのかと云うことをしかと考えてみねばなるまい。

 

 

…まともだとは言い切れない部分がある、確かに。

だったら其れがまずは君の理性が気付いた疑問点である訳だ。

 

であればむしろ其処から価値の逆ヒエラルキー化をしてみよ。

其の正の価値ヒエラルキーに対する眞逆の価値をあえて生きてみるのだ。

 

でもさうなると非國民となりまた浮浪者ともなりかねずさらに思想犯として牢屋に入れられて仕舞いさうですが果たして其れでも良いのでせうか?

別にまるで構いません。

 

何故なら君の心にはイエス様やお釈迦様の教えがさうしてしかと息づいても居やうから。

 

 

常識⇔非常識

其れ即ちイエス様やお釈迦様の教えとはむしろ世間の価値観ー世俗としての価値観ーに逆行する非常識な教えであることがほとんどなのだ。

 

では常識とは何か?

今此処で其の内容を具體的に列挙してみよ。

 

其れはまずより金持ちになりより豊かになりさらにより多くを知り人間としての格を上げて行くことだ。

 

 

其れ見よ、其の価値観の全てが間違って居るぞ。

正しくはより貧乏になり即ちより心を磨き鍛えまた余分な學を捨て去り人間としての格をむしろ下げて行くことだらう。

 

其のやうに心根より謙虚になることで初めて見えて来るものがありまさに其れが神佛の世界ぞ。

 

第壱人間としての格を上げると人の哀しみに無頓着となるものだ。

また金を持ち過ぎても心は次第に悪の方へと傾いて行き易い。

 

さらに知識を持ち過ぎると結局は周りをバカにし人の哀しみに無頓着となる。

だからそも君の其の近代的に洗脳された価値観こそが全て誤りなのだ。

 

 

だったらどうすれば良いのですか?

まさかアンタの言うやうに社會としての価値観を切り捨て唯我独尊でもって生きて行くとすればむしろ死ぬのではないか?

 

いや個としては死ぬにせよ其の悪い社會の影響はすでに捨て去って居るが故にむしろ身軽ですよ。

身軽即ち樂だからむしろコチラの方でこそ長生きが出来るのだよ。

 

 

さうかなあ、どうも信用がならない。

其れは全てが螽斯詩人の逃げの言葉だとしか思えないのでありますが…。

 

 

大⇔小

美⇔醜

高級⇔低級

 

 

其の認識として、

大>小且つ大<小、

美>醜且つ美<醜、

高>低且つ高<低

 

と云う価値の絶対化は宜しく無い=間違って居る訳だ。

正しくは相対価値は相対的にのみ規定し得るものなのだから。

 

故にむしろ其処に絶対的価値ヒエラルキーを築くこと自體が危険極まり無いことなのだ。

対して神佛による価値ヒエラルキーはむしろ其の観念的上下関係を粉砕するものだ。

 

さう神の愛と佛の慈悲こそが其の観念的上下関係を粉砕し得るのである。

神の愛と佛の慈悲はあくまで与えられるものでありさうして人間が妄想するものには非ず。

 

すると近代とは人間ー文明ーの妄想により観念的上下関係を設定し突き進む壱種の自滅行為のことなのですか?

まあ最初からさうだとさう述べて来た筈です。

 

文明の誤り=問題とは須らく認識上の誤謬のことであり其れぞまさに其の妄想的社會的自我が成し遂げるもののことだ。

であるからこそ認識上の誤りをまずは正して置かねばなりません。

 

 

では神佛を信じることで其れを為し遂げることが出来るのですか?

神佛を信じることこそがおそらくは最善の選択となりませう。

 

ですが現代人はすでに其の選択を選び得なくもなって来て居る。

要するに其の妄想的社會的自我による洗脳の度が酷くもはや戻れない心理的状況へ陥って居ることだらう可能性が高くある。

 

ではどうするのですか?

どうしたらみんなはまともに戻れるのですか?

 

 

いや誰も自分がまともで無いなどとは思っては居ません。

逆にこんな理窟詩人の言うことを戯言だと思いつつみんなは此処を読んで居るのです。

つまり僕の方の頭がオカシイのだとさう決め付けて居るのです。

 

さてもところで君は誰ですか?

僕はみんなで壱緒に赤信号を渡る常識人ですが其れも結局は理窟詩人さんの片割れのやうなものです。

 

いやー、君みたいな変な常識的な考えがこんなに精神的に潔癖な僕にもあったとはまた驚きですね。

 

 

ではどうするのですか?

どうしたらみんなはまともに戻れるのですか?

 

ですからまさに其れをこれから此処にて考えて行かねばなりません。

すると其の価値観の問題とは必然として社會的な課題となるが故に藝術の守備範囲では無くして結局は哲學及び宗教の上での模索となって行かざるを得ない。

 

其の壱環としてまずはショーペンハウアーの認識論と申しますか金言集の方から考えて行ってみやう。

尤も其れは難しい哲學的な談義なのでは無くショーペンハウアーの考え方が平易に述べられたものです。

 

 

平易に述べられては居るのですが其処で言われて居ることはまさに思い切り屈折して居ります。

 

と申しますのもショーペンハウアーはあくまで所謂常識人ではありませんのです。

其のショーペンハウアーは西洋人の癖に当時印度思想などまで學んだまさに変わり種の學者でした。

 

ショーペンハウアーの思想は大元で佛教思想に似て居り事實彼は佛陀の思想を最大限に褒め上げても居ります。

故にか彼ショーペンハウアーの思想はかって我が國の作家や思想家に大きな影響を与えたともされて居ます。

 

では私が何故ショーペンハウアーの書を座右に置くことになったのか?

まさに其れは他人の認識が自らとはまるで違うことーむしろ正反対であることーに対し長年に亘り悩み切って居たからなのです。

 

 

其の認識上の齟齬に関して「かうした認識の仕方は誤って居る」とさう彼は逐壱指摘し世間ーの所謂常識的なものの見方ーをやりこめて居ることに感動をさえ覚えました。

謂わば周りの見解こそが誤って居り自らのものの見方の方が正しかったと云うことをむしろ彼だけが述べて居て呉れたからなのです。

 

ショーペンハウアーはさうして常識的な認識をむしろしない人ですが其処に滅茶苦茶を述べて居る訳では無くあくまで今や大哲學者として世に認められた先哲です。

其れも当初彼の哲學は理解されず其れでもってヘーゲルの進歩哲學には負け何処かで隠棲しつつ考えて居たやうですが其処で書いた金言集が世に迎えられやがては其の哲學も知れ渡るやうになりました。

 

ショーペンハウアーは見栄だの虚飾だのを好むことであらう女性的感性をこっぴどく批判して居るが故に屡「👩の敵」であるなどともされて居ります。

要するにかの光源氏だの何処ぞの白馬の王子様だのに群がるバカ🚺共をバッサリと斬りそんなものは馬鹿の最たるものだ、位に罵って居ります。

 

 

其れはまるでアノ韓流ドラマだのジャニーズだのに群がるバカ👩の素の姿其のものでは御座りませぬか。

いや其ればかりでは無く松平 健や沢田 研二に群がるバカ婆さんの素の姿其のものでは御座りませぬか。

 

さう云うものでは無く本来ならばショーペンハウアーを愛しさうして慈しむことこそが眞の意味での知性的な女性の嗜みであることでせう。

ちなみに僕は其の知性的な🚺が實は大好き♡なのです。

 

つまりは其の知性的なメガネ👩の頭の中を逆に否定する即ちどうしたって其の知性では僕には敵いはしないことをズバリと指摘し其の知性的自信を打ち砕くことに限りない喜びを感じて居る者なのだ。

まあ其れでももしも僕が負けるやうでしたら我は喜んで其の知性👩の奴隷になっても宜しゅう御座る。

 

 

もしもさうでしたら實際僕は何でもやります。

掃除洗濯お買い物からペットまでもう何でもやらせて頂きます。

 

ですが事實上僕は自分より頭が良い👩を此れ迄に見たことが無い。

其れも男性の場合は何度も負かされて来ては居りますが女性の場合にはついぞ其れは無かったと云うことなのですが…。

年始としての神社巡りー實存的體験としての伝統の良さー

 

さて本日は眞理の話では無く實存としての具體的な體験の御話を是非致しませう。

 

本年となり2日と昨日5日に我は神社詣でをして居ります。

尤も私は神道に対し批判的見解を抱いて来ても居る。

 

但し救済宗教としては認められないと云う意味に於いてはさうなのだ。

 

ですがかうして神社は好きでむしろ其れが寺よりも身近な存在となって居る。

其れは確かにさうで、例えば寺へ気軽に入って行く馬鹿などは居ない訳ですが、他方で神社へはたとえ台風の日だらうが真夜中だらうがお参りをして来られます。

つまりは二十四時間営業でありしかも監視の目も例の防犯カメラ以外には無いものと来てる。

 

其れでもって我我が中学生の頃には悪い生徒らが神社の境内で裸になったりオシッコをしたりと悪さばかりをして居たものでした。

また賽銭さえをも盗むのです。

 

尤も今は必ずや防犯カメラが付けられて居ますのでそんな裸になり銭を盗む奴など此の辺りではまず聞いたことが無い。

 

 

しかしながら、全國的には其れも屡あるやうでそんな賽銭泥棒などが屡捕まったりもして居ります。

 

で、神社とは實はそんな壱種の心の解放空間なのでもまたある。

無論のこと其れはさうした悪人やまた我の如き善人の双方にとっての解放空間なのだ。

 

わたくしの場合はさうして賽銭は盗まず、まず銀杏だの楠の大木を愛でおまけに落ちて居る楠の葉を揉みしだき其の香りを愉しんだりもする訳だ。

また夏場に限れば何故か神社の境内には🐜が沢山居て其れを観察出来、其ればかりか我が子供の頃にはタマムシ (insects.jp)と云うものが屡其の神社の周りには出ましたものです。

 

ところが玉虫でも普通に居る奴はむしろウバタマムシ (insects.jp)の方でコイツは見た目が汚い訳だ。

 

ですが現在ではすでに絶滅して居るのか此処参拾年ばかりは此れを見たことがありません。

良く見られたのは半世紀以上も前のこととすでになり申した。

 

其のやうにまず神社には人為的なものではあれさうして自然が存して居ました。

また現在でも其れが存して居ることだらう。

 

 

よってわたくしは神社の最大の価値とは其の自然環境であり所謂願掛けによる現世利益の成就にあるのでは無いとさう結論付けて来て居る。

何故なら其の所謂願掛けによる現世利益の成就により人間の魂が救済される訳では決して無いからなのだ。

 

要するに其れでもって我我人間が持つ心の迷いを本質的に打ち消すことなどは出来ぬ相談です。

ですが表面的には所謂穢れを祓い環境としての清浄を保ち気分を壱新させて呉れるのがまさに神社の良いところです。

 

さうして神社と國や古代の文明への崇拝などを結び付けぬ形でのみさうしてわたくしは常に神社と向き合う。

 

より厳密には所謂万緑の思想万緑とは - コトバンク (kotobank.jp)神道の根の部分にはあり其れは所謂常見への憧れであり結局其れは素朴實在性に基づく倒錯の論理ではないかとさうも考えますが其の考え自體がまだまだ煮詰まっては居りません。

そんな訳で屈折しては居るにせよわたくしは神社へと屡喜んで出向きます。

 

 

西八幡社(軍水) (jinja.nagoya)

 

こちらが家から百五拾米ほど離れた神社であり其れが曹洞宗の寶蔵寺とくっつく形でもってある。

写眞は南側からのものでかうして長い階段を下から上へ上がる訳だが私の場合は北側ー上の側ーから此処を詣でる。

 

此の階段を降りたところが謂わば下町の方であり神社へ登り北側へ出ると壱挙に山の手の方となる。

 

我は子供の頃ほんたうに良く此の神社の境内にて遊んだものであった。

其れもほぼ毎日此処にて遊んで居たのである。

 

此処には楠や銀杏の大木がまたある。

 

尚社殿は高台にある訳なので此処からは南区や天白区などの名古屋市南東部を一望出来るが最近は周りに高層マンションが多くなり夜景が見辛くなって仕舞った。

但し🎆などは今でも見られるのだ。

即ち家より百五拾米程も歩けば遠方の花火が観られると云うまさに我に取り秘密の場所である。

 

曹洞宗の寶蔵寺は前の御住職に禅に関する教えを受けた我に取りまさに大事な御寺である。寶藏寺 - 曹洞禅ナビー寺院検索― 曹洞宗公式 寺院ポータルサイト (sotozen-navi.com)

實のところ我は先祖代々の墓には入らず是非曹洞禅でもって供養して頂きたいとさう願って居る。

 

金を積めば無論のこと其れは可能なのであらうが何せ金が無いのでそんな金無しの佛志にて禅宗よ我がタマシイの面倒を見よとさう若住職に談判してみるつもりなのであるがさう云うのは普通はまるで通用しない御話なのだらう。

 

即ち我と云う毒覚を汝等が受け容れることが出来るか否かに話は掛かって居る。

いや字が変な風に変換されて居た。

さう独覚であった、其の思い込みの強い独覚なのだぞよ。

 

 

山神社(下山町) (jinja.nagoya)

 

病院に勤めて居た頃に近くの下山町ー高級住宅が連なる山の手の街ーに素晴らしい神社があることを知り我もまた屡此処を訪れて居たものだった。

此処もまた高台となるので名古屋市北部の山山などが此処より壱望出来る。

 

其ればかりでは無く此処は周りを杜に囲まれた美しい境内が広がるのだ。

 

山神社 <名古屋市瑞穂区> - 水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。 (goo.ne.jp)

 

まさに杜に囲まれた素敵な神社でありしかも社殿は意外と見栄えのする古式ゆかしき場ともなって居る。

故に日頃から人気があり地元の人人がひっきりなしに訪れる場ともなって居る。

但し其れも決まって少人数でしか訪れぬので矢張り何時訪れても静けさに満ち溢れて居る。

 

つまりは我にとっての理想の神社なのだ。

 

伊勢神宮熱田神宮など大きな神域の良さもまたある訳なのだが日頃から日本の神神に親しむのであれば矢張りかうして地元の神社に限るのである。

此の山神社の場合は自転車でもって弐拾分程はかかるのだけれど兎に角事あるごとに行きたくなる神社である。

 

我は此の神社の杜で小さな天然の柿が落ちて来ることをも知って居りしかも其れを何度も食って居るのであるが其れが妙に細長い柿で異様に美味いものであった。

 

 

東八幡社(中根) (jinja.nagoya)

さうして其処からの帰りに今度は東八幡社へと出向く。

 

ーこの東八幡社は中根南城の北東にあることから、城の守護社とされたようだ。

明治10年(1877年)、字牛山にあった東山神社と、字大根山にあった白山権現社を八幡社に合祀して、東八幡社と名を改めた。西に八幡社があったので東八幡にしたということのようだ。西の八幡社は現在、西八幡社と称している。ー東八幡社(中根) (jinja.nagoya)より

 

西八幡社が我が家から百五拾米のところにあり此の東八幡社は大體壱キロ米程のところにある。

此の東八幡社の前をいつも自転車で通りつつ我は白砂のコノミヤへと買い物に出向く訳だ。

 

だからさうしていつも通るところなので屡動向を観察して居り特に楠の大木が見事なことも無論のこと知って居る訳だ。

其の楠の大木の根元で我は半日程寝て居たことが数年前にあったのだったが何で我はかうして浮浪者のやうなことをしたがるのか其のことがまるで自分でも分からぬのであるがおそらくは其の時何ぞ悩み事でも抱えて居たのであらう。

 

其れも人類規模の深い深い悩み事なので神様やお釈迦様でもなかなか解決のつかぬ大問題に押し潰されさうして只寝て居たのではなかったか。

だがさうして寝て居ると楠の梢でもって葉がサラサラと鳴り素晴らしく気持ちが良かった覚えがあるので結局は単に気持ちが良いから其れをして居た可能性もまた高くあらう。

 

 

さて坂を登らう。

さうして中根の方から家へ帰るには坂を登らねば帰れない。

 

坂の途中に趣のある其れこそ昔の寺子屋のやうな建物が昔からあったのだが其れが建て替えられて仕舞いどうやら其れが公民館のやうなものであるらしい。

道路に面した掲示板に「東八幡社 どんど焼き 1月9日 九時~十一時」と書かれて居た。

 

無論のこと其れを是非見たいものだ。どんど焼きの意味とは?期間はいつからいつまで?行けなかったらどうする? - 日本文化研究ブログ - Japan Culture Lab (jpnculture.net)

 

 

さて昨日は此の神社巡りばかりかコノミヤにも寄り食い物を買って来たのであった。

すると其処に何やら不思議なものが売られて居る。

 

 

岐阜県JAグループ 公式サイト | お知らせ | 「岐阜の七草粥」岐阜県内のイオンで販売開始 (ja-gifuken.jp)

七草|特産品|JAめぐみの (ja-megumino.or.jp)

 

まさに其れがコレだ!

此れが白粥と共に売られて居たのでさうしたものが大好きなわたくしは無論のこと其れを購った。

 

其の七草だの、また七夕だの、そんなものがむしろ壱番好きなわたくしはかうしたものには兎に角目が無い訳だ。

 

其の七草粥を本日作ってみたが結局は失敗して仕舞った。

其れは其れに投じた塩が普通の塩では無く特別に鹹い塩であるが故に所謂塩梅が悪くなりクソ鹹い七草粥となって仕舞ったのである。

 

 

が、七草の粥は良い。

まさに思想として反文明でもってもう最高だ。

 

嗚呼素晴らしき哉此の反文明の人生。

かうして馬鹿資本主義を否定し神社を経巡り七草粥を食うこと。

 

おおまさに、快なり、快なり、さうして快なり!

 

即ち贅沢とはかうしたことをこそさう呼ぶのだ。

贅沢とはたとえばかのTOYOTAが全米壱位の販売台数となることによりより大きく儲けると云うことでは無くかうして實存としての細細とした価値の集積をむしろ心より慈しむことだらう。

 

 

仕舞った!

此処に寿司でももしあれば其れこそ最高だと云うのにコノミヤで寿司を買うのをつい忘れておった。

 

だがコノミヤの寿司は所詮コノミヤによる庶民の為のスーパーの寿司だ。

でも家はグルメなのでもっともっとまともな寿司を食うのだ。

 

其れもいざ食おうとするのであれば必然としてさうなると云う話なのだが…。

 

其れにつけても其の「岐阜の七草粥」のパッケージを眺めて居るだけでも心が休まる。

さうして草の緑がまた七草と云うところが兎に角たまらずに好きなのだ。

 

 

  1. 芹(せり)……水辺の山菜で香りがよく、食欲が増進。
  2. 薺(なずな)……別称はペンペン草。江戸時代にはポピュラーな食材でした。
  3. 御形(ごぎょう……別称は母子草で、草餅の元祖。風邪予防や解熱に効果がある。
  4. 繁縷(はこべら)……目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にもなった。
  5. 仏の座(ほとけのざ……別称はタビラコタンポポに似ていて、食物繊維が豊富。
  6. 菘(すずな)……蕪(かぶ)のこと。ビタミンが豊富。
  7. 蘿蔔(すずしろ)……大根(だいこん)のこと。消化を助け、風邪の予防にもなる。七草粥の由来や春の七草の意味・覚え方、七草の日はいつ? [暮らしの歳時記] All Aboutより

新しいものにより醸成され得る価値観と古いものにより醸成されし価値観とでは後者のものの方により人間の本質的な意味での幸福や価値が含まれて居るものと見て置くべきだらう。

 

其の意味でわたくしは元来保守的な人間である。

さうした古きものの見方、古き風習や慣習の美しさを常に其処に感じて仕舞う者なのだ。

 

尚今回の神社巡りで最も驚かされたのが社殿に置かれた所謂門松の大層美しいことであった。

其の門松と七草粥は結局古くから存する日本の文化としての壱形態なのだらう。

 

さうした伝統的なものの良さと云うことを此の年始に改めて見知った感のする我である。

正月早早歴史を御勉強し此処にて論を張る我

 

無論のこと其のおせちは我が参段重を三つとも食ったのでは無く弐つは母方の親戚の方へと回したのである。

但し其処にはアワビの貝殻が入って居るので其れをすでに回収済みである。

 

我は左様に美に対する感度が尋常では無いが故に美しいものを何処までも拾い集めると云うある意味での徹底した趣味性にこそ生きておる。

 

其のアワビの貝殻!

 

其れが毎年増えて行くので部屋の中が其の貝の景色に彩られまるで竜宮城の如くである。

おお、まるで美の巣窟の如くに其れが積み重なって行くぞ!

 

尚其のおせちなのだが京都らしく古今和歌集の和歌などが書かれし和紙が添えられて居たりもしまさに其処がまことに雅である。

であるが、其れとは違うことをあえて此の際述べて置かねばなるまい。

 

 

其れは今年に入り我に取り壱番美味かったものが其のおせちの残りなのでは無く昨日スギ薬局にて買い求めたところでのタダの百円🍙だったと云う話のオチである。

つまり其の感覚的な欲望とは多分に相対的なものであるに過ぎぬ。

 

即ち金持ち共が幾ら拾萬、弐拾萬の高級おせちを今食ったにせよ、結局は其れに食い飽き只の🍙だの漬物だの、また味噌汁だのそんなものをやがては欲するやうになると云うそんな御話である。

さうしてもしも死ぬる前に何が食いたいですかともしもさう問われるのであれば、我は迷わず其の🍙だの漬物だの、また味噌汁だのそんなものを選ぶことであらう。

 

或は梅干し、むしろコレに限るのやもしれぬ。

 

さうして美食のし放題、道樂の追求の果てに残るのは至極ベーシックな何かであると云うことをこそ我は皆様に是非お伝えして置きたい。

 

尚其のことは物質的レヴェルでは何でも同じことだ。

但し其処で是非注意して置かねばならぬのは、例えば親の形見のオメガとトップカメラなどで買って来た現行品のオメガとでは其の価値はまるで異なる訳だ。

 

即ち親の形見のオメガは例え動かずとも大層貴重な品でありトップカメラなどで買って来た現行品のオメガは幾らでも代わりの効くまさにオンリーワンでは無いオメガなのだ。

つまり機能よりも思い出の方が其れに勝る場合もあるのである。

 

 

従って幾らでも代わりの効く👩と唯壱無弐のアンタのカアチャンー母や妻ーとでは其の価値がまるで違うと云うことにまず貴方方は気付かねばなるまい。

實存的価値とはまさにさうしたことであり要するに其れは他に代わりやうの無い価値のことだ。

 

其の意味での自己とはまた無論のこと其の實存的価値のことだ。

しかしながら、其の實存的な価値ーオンリーワンとしての価値ーに拘り過ぎてはならぬ。

 

まさに其処こそが難しい塩梅なのだ。

即ち其の価値さえをも相対化して見ねばならぬことを實は忘れてはならぬ。

 

其の絶対的な価値の相対化は社會レヴェルに於いてほぼ不可能なものとなり易い。

従って理性がある者は其の社會的価値をあえて相対化することによりあえて自己の比重を高めて行く訳だ。

 

 

然しまさに其のことこそが紙壱重での荒業なのだ。

其処で壱歩誤ればまさに精神の奈落の底へと彼は落ちて行かざるを得ぬ。

 

即ち其のレヴェルに於いては正気を保つことや生き続けることが極めて難しくなっても来やう。

其処をあえて踏み止まりヘラヘラと笑いながら生きて行くのは彼の馬鹿としてのクソ力ー生活力ーのことだ。

 

 

即ち元々利口と生まれし者はむしろ死んで当たり前なのだ。

だが其処に馬鹿も仕込まれて居るとさうして死なずとも済むのである。

 

利口とは偏差値は余り関係無くよって何処にでも其の利口が居りまた何処にでも其の馬鹿も居る。

だから元々利口と生まれし者はなるべくヘラヘラと笑いながら是非今を生きて行くべし。

 

インテリさん方、アナタ方こそがまさにヘラヘラと笑いながら生きて行かれるが宜しからう。

 

 

アアー、其のアワビの貝殻!

 

確かに皆様は其のことを逆に嗤うことであらう。

だが僕にとっては其こそが眞實なのだ。

 

確かに僕の美への耽溺振りこそは異常の域にあります。

其れに屡山から石をくすねて来たりも致します。

 

が、トラックで突っ込み宝石店を破壊し其処から弐千萬相当の高級腕時計や💎類を盗み出した訳では金輪際御座りませぬ。

つまるところ我が欲は常に限定されて居り小さい。

 

其れもかっては決してさうでは無く大金をはたいて美を追い求めても居りましたが最近はもう全部が千円、弐千円での世界です。

又はさうして零円での美の世界の饗宴です。

 

 

 

大河ドラマ「青天を衝け」|NHKオンライン

さて本日は此の大河ドラマの総集編を全て視たことから其れに就き述べる。

 

まずはドラマの出来ですが結局は良く出来て居ました。

だからNHKは価値があるのだと思いますね。

少なくともNHKを否定したらうと云うアノ政党の価値には逆に可成に疑問を感じます。

 

しかしながら、NHKは視聴料を強制的に徴収するのですから良い番組を創るのは其れは責務なのでありむしろ当たり前のことだ。

故に今後のNHKが環境問題や哲學的な課題など民放には出来ぬことをあえてやると云うのは其れも当たり前のことです。

尤も其の馬鹿民放も稀に利口になることがあり、またNHKもまたおバカ番組を垂れ流すことがあるが故にまさに其処でも両義的に捉えて置かねばなりません。

 

さて此の総集編で気になったセリフを以下に列挙してみませう。

 

1.拝金主義が「開けてはならぬ扉を開いた」ー三井組の番頭の台詞としての

2.人間に取り「欲望は道徳や倫理よりも強くある」ー徳川 慶喜の台詞としての

3.「快なり 快なり 快なり」ー徳川 慶喜の台詞としての

4.「政治経済を道徳と壱致せしめる」ー渋澤 榮一の台詞としての

 

1.拝金主義とは合理化の壱形態のことでせう。

近代化とは合理化の過程のことであり、其の合理化の矛盾により主體と客體への同時破壊が生じせしめると云うのがわたくしの哲學的見解です。

其の合理化の過程は、

1.社會的にはより壱層の合理化

2.個の範囲としてはむしろ非合理化

 

することであえて抑えることが可能なのではないかと云うことこそがまたわたくしの哲學的回答です。

 

2.「欲望は道徳や倫理よりも強くある」

まさに衝撃的な論理でせう。

最終的に「世界」とは其の欲望の発露の場であること以外の何ものでも無い。

 

「世界」とはまさに其の多様な欲望の発露の場です。

但し其の「欲望」其れ自體が相対的なものです。

 

其れは「國」を富ます為の欲望と「個」を富まさんが為の欲望は本質的には同じであることをも指し示して居る。

逆に申せば「國」を富ます為の欲望と「個」を富まさんが為の欲望に優劣など元より無いと云うことだ。

 

ですが、問題は其の欲望自體にあるのでは無く、概ね世間の人々が、其処に(「國」を富ます為の欲望=社會的欲望>「個」を富まさんが為の欲望)と云う倒錯の価値観を組み上げて居ることこそにある。

また同時に、デカい欲>小さな欲、などとも實は皆が考えて居る。

 

まずは其の認識上の誤謬をこそ正さねばなりません。

何故ならさうした価値観こそがまさに「欲望は道徳や倫理よりも強くある」価値観を堅固に組み上げて行くからなのだ。

 

つまりは事の大小の関係性、其の捉え方がまずは逆転して居りつまりは倒錯して居ります。

逆に「道徳や倫理により欲望が規定される」世界を組み上げることこそが人間の理性にとっての最終的な課題です。

 

 

3.わたくしは徳川 慶喜公の其の趣味人生を大いに評価し且つ尊敬さえして居る者です。

慶喜公は究極の放棄をして居り此れもまたドラマの中に出て来る台詞ですがまさに彼は「國を捨てた」人間です。

 

其処で普通は徳川政権への固執を捨てつまりは武士の世の中を捨てまた「國をも捨てた」慶喜公はまさに政治上の馬鹿政治家の壱人にさえ数えられるのやもしれぬのだがわたくしにはむしろ最大の偉人であるやうにさえ感ぜられる。

さう彼徳川 慶喜はさうして後半生を趣味に生き生涯を全うした偉人以外の何者でもありません。青天を衝け:草なぎ剛名演“史上最高の慶喜”ここに完結 最期は「快なり!」締め 視聴者「いい笑顔」 - MANTANWEB(まんたんウェブ) (mantan-web.jp)

 

 

「國」を富ます為の欲望=社會的欲望<「個」を富まさんが為の欲望

デカい欲<小さな欲

 

つまりはかうした逆転の価値観を實際に生きた稀有な人です。

 

で、幕末から近代明治の頃にかけてはまさに多くの志士、政治家の人々が社會と奮闘した上に若くして死んで居ります。

其の死を讃えるのが右の馬鹿的な考えですが僕の場合も昔はむしろさうだったのですが最近は其れに対し可成に懐疑的です。

 

其れ等が無駄死にだったなどとは無論のこと言えぬ訳ですが其処で「死んだのでは樂しくは無い」と云うのが今のわたくしの論理なのです。

 

即ち、

「實存としての命を大切にしやう」

「デカいことには命を懸けるな」

とのことですね。

 

ですから、かの三島先生による自決特攻に関してもまた「出来れば生きてずっと世を批判して頂きたかった」とさういつも思うのであります。

 

が、芥川の場合は仕方の無い部分もまたあるのやもしれません。

芥川の場合はあれ以上生きて居たらまずは間違い無く発狂して居たのだと思う。

 

 

アソコで慶喜公が政権を投げ出したのはむしろ「大いなる理性的成就の為の逃げ」であった訳で其れはあくまでバカ殿の放蕩とはまるで違う意味での立派な殿様の行いでした。

だから國だの會社だの共同體だの👪の為に歯を食いしばり滅私奉公して其れを守ると云う価値観其れ自體をわたくしの場合はすでに放棄して来て居ります。

 

でもってさうして責任放棄をして遊び呆けて来たのだな?

いやむしろ其処にて眞理探究に勤しんで参りましたのです。

 

何故なら眞理探究は其の放棄によってこそ成し遂げられることだからなのだ。

つまるところは価値観の逆ヒエラルキーであり其の価値ヒエラルキーの解体からこそ眞理探究への方途がまた拓けるのである。

 

4.渋澤翁が眞の意味での偉人であったことを今回初めて知った。

渋澤 榮一は三菱と競争ばかりして居た資本主義馬鹿だとばかり思い込んで居りましたが最終的に彼は「資本主義の限定」にこそ思いを馳せて居たことだったらう。

其の「資本主義の限定」こそが所謂修正資本主義と云うことですが結局は其れもなかなかに難しく逆に現代社會は廿世紀末より新自由主義体制へと移行し其処にて労働と自然の破壊が顕著に進められて行った訳だ。

 

要するに資本主義による欲望のあり方がより顕在化し其れが「破壊」の域にまで踏み込むこととなって仕舞う。

ですがかのケインズにせよまた渋澤翁にせよ其れを防ぐ為の方策をしかと考えて居たと云うことでせう。

 

だが慶喜公やお前はまさに其の資本による果實に群がりじぶんの趣味にばかり生きるまるで螽斯の如き道樂者ではないか。

其の無責任體質こそがな、まさに世を滅ぼすのだぞよ!

 

 

いえ道樂ー快樂の追求ーでは無く放棄です、放棄。

第壱お釈迦様もまた御自分の國を放棄され結局かの國は其の後滅んだのですから…。

 

おい、螽斯詩人!

へい、さても壱體何で御座りませうか。

 

 

お前はさうして新年早早信長公の名を語り此の正月にNHKばかりを視てさうして遊んで居るな。

いや遊んでなど居らずかうして死ぬ気でもって勉強して居ります。

 

さうか、其れは偉い。

まあさうして正月早早歴史を御勉強し此処にて論を張って居る事だけは認めてもやらう。

 

だが如何にもお前は食い過ぎだ。

どう見てもお前は色んなものを食い過ぎて居らう。

 

ですが食わぬと死ぬので食わねばならない。

其処では志も精神も何も無く生きることとは食うことばかりなのでせう?

 

 

さても其の道徳的、倫理的に生きることこそが實は現代社會に対し突き付けられて居るであらう究極としての課題なのだらう。

同時に個としてもまた常にさうなのだらうが實は社會に対し突き付けられて居る課題であるのだとわたくしは前前から感じて居るのだ。

 

其れに今や環境倫理などと云うことが屡語られる社會となって居る。

 

【環境倫理学とは】自然環境保護の思想と代表的議論をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)

 

其れをわたくし流に言えば「周囲により流されぬ眞の意味での自己の価値観の確立」のことなのだ。

だが大方の人間の認識ー価値観ーはむしろ周りが欲する価値観に従って居る。

 

さうした自律性無き価値観こそがまさに👿の囁きであり赤信号をみんなでもって渡ると云うことなのだ。

だから社會に於ける価値観が絶対であって良い筈などは無いのだ。

 

ところがみんなはさうしてみんなで御遊戯をしたがるばかりである。

だが我は半世紀以上も前に幼稚園ー其れも曹洞宗の寺院が経営する幼稚園ーでもって其の御遊戯を嫌がり独り体育倉庫で寝て居たのであった。

 

 

環境問題や自然保護の観点より遥か以前にそんなわたくしがまず問題として認識して居るのがさうして人類がみんなでやるー社會的に成り立たせるー行為としての悪の履行のことなのだ。

さうした意味でわたくしは人類が抱える課題とは須らく認識論に於ける誤謬の問題であるとさう捉えて来て居る。

 

即ちお釈迦様が今から二千五百年も前に指摘された「四顛倒 - WikiArc (wikidharma.org)」の法理に於ける人間の認識上の根本での誤謬である。

 

我は今年其れを何とか正して行きたいとさう強く願って居る。

また其れは先哲が述べた哲理の方を引き合いにすることで為し遂げられることだとさうも考えて居る。

 

従ってとりあえずはテキストを「ショーペンハウアーの幸福論」に絞り其のことを是非為して行きたい。

いや其れだけでは無く佛陀の教えの漫画版のムック本の方からも参考となる部分を抜き出し其れに就き是非語ってみたい。

だが余り眞面目に取り組み過ぎるとわたくし自身の精神が危うくもならう。

 

だから抽象性にばかり偏らず具象的にも息を抜きつつ語って行ければまさしく其れが幸いなのであらう。

年頭の感

 

新年明けましてお目出度う御座ります。

 

さて年末恒例のN響の第九は日本人指揮者であったが良く纏まりを見せなかなか良い出来ー日本的に良い出来ーであった。

数年前の独逸人指揮者の時はコレが同じN響かと思わせる程の厳しい、まさにベートーヴェンらしいシンフォニーとなったが其れとはまた別の完成度の高さが其処にはあった。

 

其の後の番組ではショパン・コンクール弐位となった反田氏がChopinのソナタを弾くなどしまさに其れに聴き入りついでに紅白の方をチョロリと視てまたEテレへとチェンジしてみたところ何とベートーヴェンの後期ソナタまでもが弾かれて居たのである。

 

よって此の年末のEテレの番組構成はまさに完璧であったのだと言えやう。

 

さうしてベートーヴェンの後期ソナタに酔い痴れつつ京都東山の料亭監修のおせちを食う我はまさに果報者である。

相変らずの世の中のバカバカしさとは別にかうして完璧な年末を過ごしてやったぞ!

 

もはや其れは誰にも奪えぬおおまさに信長詩人だけに許されし特権世界での快樂であらう。

 

 

しかも酒を買って来るのを忘れたので代りに珈琲を淹れ其れを食って居たのだ。

其れにつけても嗚呼、ベートーヴェン

 

然し我はかの第九には難癖をつけても居り要するに其れはアノシラーの詩の方が気に入らぬ訳だ。

何故なら今人類は勝利の雄叫びを上げるのでは無く意気消沈し全てを諦めて行く時なのではないか。

 

左様にベートーヴェンだのシラーだの生きて居た頃とはすでに時代が大きく移り変わって居る。

当時文明はお先が開けて居た訳であったが現状はすでに先細りでもっと言えば實はお先は眞っ暗だ。

 

そんな時に人類の進歩だ勝利だとそんな妄想に浮かれて居るとなるともはや道を踏み外すぞ!

故に壱刻も早う学校で宗教やまた哲學を教え「悲観主義」を徹底的に子等の脳味噌に叩き込まずしてどうする?

 

其処でまず教えねばならぬのはまさに「巌頭の感」だ。

さらに芥川と太宰の生き様だ。

 

またショーペンハウアーの厭世思想を徹底的にまずは教師の頭の方へと叩き込め!

さすればみんなが暗くなり程良いバランスの社會が其処に組み上がるであらう。

 

だから現代文明、まさにお前達が今やって居るやり方こそが変だ。

何処が変なのか?

 

結局は最初から最後まで変だ。

但し藝術や宗教其れに文學、哲學を除くものこそが変だ。

 

 

さうした観点からほんたうのことを言えば年末年始に海の幸、山の幸をさうして詰め込んだおせちを食う奴などは大馬鹿者だ。

だが其れはもう終わったことだ。

 

終わったことはもう変えられない。

我はすでに其れを食い尽しついでにウンコにしてブリブリと出して仕舞った。

 

どうだ、凄いだらう?

君等などにはまさか眞似など出来ぬ完璧なる年末年始だらう。

 

 

おまけにEテレにて凄い番組を幾つか視た。

實はEテレ程ぶっ飛んだ局は無く概ね其れが眞面目でもってふざけて居るのがNHKらしくは無いのである。

即ち総合TVの方でやれないシュールなギャグだのお馬鹿だのを平気でやるのが實はEテレなのだ。

 

言ってみれば其れは、

 

御勉強⇔おふざけ

の弐重奏と化して来て居るのである。

 

香川照之の昆虫すごいぜ! | NHK for School

兎に角其の東大出の香川がカマキリ先生に扮して自然の精緻な営みと大切さを説く樂しい番組だ。

本日ー元日ーも朝の壱発目から是を視たのであるが兎に角勉強になる。NHKスペシャル選「香川照之の昆虫“やばいぜ!” - Bing video

 

つまり此れは子供に見せる番組では無く實は大人が視て是非自然に就き學ばねばならぬ番組なのだ。

だが高度なる資本主義社會に毒されし所謂「常識的な大人」程かうした番組には縁が無いものと相場は決まって居らう。

 

 

植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之 - NHK

もう何と言って良いのか分からぬ程に不眞面目な番組ー彼山田氏が林田アナを口説くと云う其の番組の設定其のものが不謹慎極まりないーなのだが他面では至極眞面目に植物の多様な生き様を毎回取り上げて行く。

 

こちらの方が大人向けの半分エロ番組であらう。【衝撃】セクハラ?山田孝之がNHKの林田アナに問題発言! - Bing video

 

尚、わたくしも今年は是非もっと眞面目に眞理に就き語らねばならぬのだと思う。

ところが其れがなかなか出来ない。

 

出来ぬのだが、其れを是非やらねばなるまい。

でも何故か其れが出来ぬ。

 

すぐに下らぬギャグへと走って仕舞う訳だ。

だが兎に角今はかっての眞摯さを、其の厳しさと苦悩の深さとを是非取り戻さねばならぬものとさう考えて居る。

 

で、眞面目なものと云えば正直赤旗の日曜版の方がより眞面目である。

 

 

まずは1月2日、9日合併号の第弐部に小野 りりあんさんと云うモデルで気候活動家の方が所謂「気候正義」の實現に就き述べて居られ、其処で「そもそも破局的な気候変動を回避し、人類が絶滅しないで済むために残された時間は多くありません。」とまで述べられて居る。

 

僕の場合はかうして感度の良い文人の壱人なのでどうしても周りの意識の低さを批判的に捉えて仕舞うのだけれども、實際にはかうして意識の高い方方もまた世間には居られる訳だ。

 

さらに小野氏はグレタさんのファンだとさう仰る。

グレタ氏は「人の搾取も、生物の搾取も、もう終わらせよう。」

とさう最近さる公園での集会で訴えて居たさうである。

 

まさに其の通りで、其の「搾取」が大好きでむしろ其れが無いと生きて行けない資本主義社會其のものが搾取の元凶であり諸悪の根源であらう。

資本主義がさうしてヤバい體制其のものであると言うのにまさに其れをやらぬと欲が満足されぬと云う其の自己本位の様、さうした人類と云う種としての自己矛盾に就きどうしても我は語らねばならぬ立場に居るのであらう。

 

だが其のことはまさに實存的な社會との闘争なのでもはや爺となりし我としては大きく負担がかかる仕事でありよって何時我が悪にやられ倒れるとも限らぬおおまさに命を懸けし闘争なのだ。

でも中には其の究極の闘争を鼻でもってせせら嗤うおバカな輩も居ることであらう。

 

 

汝等は此の詩人の命を懸けた闘争をさうして小馬鹿にして居るのか!

お前等等もう地獄へ堕ちよ。

 

やがてお前等は皆神佛に裁かれ地獄の眞っただ中へと堕ちるのだ!!

 

まあいい、かうして元日から余り怒ると流石に余り宜しくは無い。

其れよりも何よりも僕の完璧な年末年始のことを事細かに語ることの方がずっと有意義なことだ。

 

 

次に1月2日、9日合併号の第壱部に俳優の仲代 達也氏が短く述べて居られる。

其の要旨は、「人間は弱いものであり👿のささやきには抗し切れぬものだ」とのことである。

さうして其の耳触りの良い甘い誘惑に乗せられることにより社會に於ける裏方的な努力の多くが吹き飛ばされて仕舞うとさう仰せである。

 

また其れは社會の習熟度を示す問題である旨も述べられて居り、また其処では社會のあり方を探る不断の努力無くして其の維持は望み得ぬとも述べられて居る。

此の部分はなかなかに深い御話である。

 

資本主義は相変らずかうして欲望を煽り自民党は相変らず権力の行使としての今を独占せんとして居る。

だが其処で重要なこととはまずは何が悪としてありまた何がほんたうの意味で善なのかと云う其の価値判断の基準を自律的に成り立たせることなのであらう。

 

 

人類が五千年を、また壱萬年を費やし段階的に成し遂げて来たことも其の「甘い誘惑の言葉」や「歯切れが良く勇ましい言葉」につい乗せられることにより崩壊へとなだれ込んで行く訳だ。

「甘い誘惑の言葉」はまさに資本主義社會がさう仕掛けて居るものであり「歯切れが良く勇ましい言葉」は戦争が好きな壱部の國粋主義者達が好むものでもまたあることだらう。

 

但し悪は外側に設定するべきだけのものでは無く自らの心の内側に設定するべきものなのやもしれない。

故に最も重要なことはまさに自らの欲望のあり方の方向性を変えることだらう。

 

まさに其のことが私流に申せば「社會の言いなりとなり生きない」と云うことです。

むしろ社會に対しては大いに疑惑の目を向け内面的に価値を評価し且つ再構成すべきです。

 

 

人間は小さい欲、限定された欲にこそ生きるべきであり其れ以上を欲しては決してならない。

ですが其の小さい欲、限定された欲の中に所謂常識的な社會的欲望はむしろ入って居ない。

 

其の部分が分からなくなるやうに我我は社會により洗脳されて来て居ると云うさう言うことです。

 

さてもさうして洗脳されて来た我我に取り最も難しいことが理性の力にて自らを規定するー限定するーことである。

よって我は率先して其の理性的限定を生きることとしてみた。

 

其れでもかうして案外樂しいものです。

いやソチラは樂しくとも他方では勿論苦しい。ー壱番苦しいのが社會としての価値観の其れへの無理解ですー

 

ですが其れこそが理性ある者の荊の道であるとさう述べて居る訳だ。

故に最終的に其の理性的自我はプチ佛陀やプチキリストの精神の流れへと合流して行かねばなりません。

 

 

其の聖なる精神の流れへとまさに自らの獣性を限定して行くのです。

佛陀やキリストがかって述べられたこととはまさに其の限定に就いてのことです。

 

まさに其れをこそ異なる方向性から説かれて居るのです。

曰く、「本能」を其の侭に生きるな。

 

とさう諭されて居るのだから。

 

 

仕舞った!

本能の侭にすでにおせちを全部食って仕舞ったが其れでもってもしや地獄に堕ちるのだらうか。

 

 

いやお前は良い子なのでおそらくは救って頂けることだらう。

いや僕は悪い子ですよ。

かうして常に欲深くして至極悪い子です。

 

さうでは無い、お前は自分の悪を認めるからむしろ善人なのだ。

さうしたお前の善はな、たとえ闘いに敗れ屍と化さうとも必ずや神佛が見守って居て下さることであらう。

 

さうか、良かったな。

僕はもうコレで満足だ。

もう何でも出来るぞ、むしろ我こそが完璧なんだ!

 

 

さてもお前は今自己の認識に己惚れたな。

だってアナタが善だと言ったでは無いですか、我が認識こそが正しいのだと…。

 

いや其の己惚れによりたった今汝の心は地獄へと堕ちた!

 

 

新年早早ついやってもうたー。

どうかどうか其の地獄行きの哀れな獣に御教え下され。

如何にすれば此の地獄より我が魂を救い出せませうや?

 

其れはまさに汝の今後の言動に掛かっておる。

今後は是非善を語り己を語らず悪を語らず己を語らず、でもって行くがよい。

 

其れではまさにプチ佛陀やプチキリストの発言であり面白くも何とも無くなるでは御座りませんか。

 

其れでもって萬事宜しい。

どだい其の受けを狙い馬鹿話をやり過ぎるのがまさにお前の悪い癖だらう。

 

 

分かり申した。

では今後は是非善の詩人となってみせませう。

必ずや必ずや眞面目な人間となってみせませう。

 

 

其の眞面目と云うのはEテレみたいなのではダメだよ。

もっともっと高尚でしかも難解な御話が果たして君に出来るのか?

 

…出来ます。

其れも必ずや成し遂げてみせませう。

だから我を此の苦しい地獄より御救い下され。

 

 

僕はもうこんな地獄の生活は金輪際イヤだ。

あれ、お前は確か完璧な年末年始を過ごして居るとさう申して居た筈だが。

 

まあソコはあくまで捉えやうです。

其の捉え方ひとつでまさに地獄にも極樂にもなると云うことだな。

 

では両方に行って居る訳だ。

さう、まさに両方へ行って居ます。

 

すると両義性のことか…。

さう双方向性のことだ。

あらゆる認識を其の両義性を踏まえたものへと転換せしめよ。

 

僕がまずは年頭に申したかったことこそがまさに其の眞理である。