4.ショーペンハウアー『自分を救う幸福論』より學ぶ 2
元よりたった今人間界に問われて居るのは「人間は如何に生きるべきか」と云う問いの筈である。
ところが世間を見て居るとまさに其のことに対しそれぞれが勝手なことを其の洗脳度に応じて述べて居るばかりである。
兎に角僕には此の世界がバラバラになりつつあるやうに感ぜられてならない。
其の「人間は如何に生きるべきか」と云うことに関して古来より多くの哲學者や宗教家が考え抜いても来て居る。
また藝術家の多くもまさに其のことに就き表現し続けて来た。
其の意味では其れはまさに真摯なる精神の上での探究である。
なのであればすでに其処には何らかの解答が含まれて居る筈だ。
其の理性としての探究の中におそらくは此の人類の苦境に対する処方箋はすでに見出される筈なのだ。
無論のこと其れは現代にさうして繋げられて来た精神的努力に対する共通の課題であることもまた確かなことだ。
であるが故に今何教であるだとか、また何宗であるだとか、さらに何主義であるだとかまた何をやっているだとかそんな価値分別上の固執に凝り固まってなど居てはむしろ何も見えては来ないのではなからうか。
そんなバカバカしいばかりでの価値構築の上に胡坐をかき誰が上でまた誰が下だなどとそんなことをいつまでもやって居てはもう罰が当たるぞよバチが。
まあまあ落ち着きなされ。
汝の怒りもまた御尤もながら世の中の無能振りはまさに今始まったことでは無くむしろ何千年単位でもってして続いて来たことなのですぞ。
まさにさうでした。
またイキナリ怒り狂って仕舞いどうも御免なさい。
「人間は如何に生きるべきか」
僕の場合はかのショーペンハウアーこそが其の問いに就き答えて呉れて居たものとさう思うのです。
何故ならショーペンハウアーの金言こそが人間の哀しみに寄り添うものでもまたあったからだ。
さて僕は哲學が好きで此れ迄に多くの哲學者の著作物を読んでも来て居る。
かって特に好きだったのはレヴィ・ストロースでありさらにフランクフルト學派などの方にも大きく興味があった。
片やアンリ・ベルクソンなども好きでありまたニーチェの文學性に傾倒したりした時期もあった。
だが同時に梅原日本學や老荘思想にも親しんで来たので謂わば洋の東西の思想に就きさうして學んで来たのである。
「人間は如何に生きるべきか」
勿論此の命題に関してはむしろ宗教の方が其れと常に向き合って来たのだとも言えやう。
即ちお釈迦様とイエス様がしかと其れと向き合って来られて居る。
其の宗教的な生の構築はけだし正解である可能性が高い。
何故ならお釈迦様とイエス様はまた邪教以外の教祖の方々は人間が本能的に生きることをまさかヨシとはされて居ないからだ。
宗教とは左様にまさに人間を精神的に規定するものである。
対して近現代社會は其の人間を精神的に規定する以外での道をあえて選び取り突き進んで来た。
故に近現代社會其のものが地獄へ堕ちて行くのはまさに其れは至極当たり前のことともならう。
但し宗教は其の人間が地獄へ堕ちることをもしかと見据えて居る。
むしろ人間は地獄へ堕ちるものだ、だからちゃんと信仰を持ちませうとさう古より我我に対し説き続けて来たのだ。
ところが宗教は壱般に厳しい。
どだいお釈迦様とイエス様の教えはどう見ても高峰なのだし其れが少しダラケて大乗佛教だのプロテスタントだのとなるにせよ其れでも凡人には我慢がならぬ程に其れは厳しい。
また新興宗教に至っては高額なお布施などが大変だしまた夜毎に會合へ出たり朝起き會などへ出掛けたりでまた其れも物凄く凡人には負担であらう。
だから其れをやられて居る方方は元元偉い方方です。
ですが僕はさうした社會的活動により救われるのだとは特に今は思えないのです。
自らを救うのは逆に自らの認識を正すことによるのではないか。
丁度お釈迦様が苦行を捨て菩提樹の下で瞑想の修行に入られたやうに僕は僕で社會的宗教活動を離れ個としての思想的探究へと勤しんで参りましたのです。
其処にまず見えて来ましたのがかの天才哲學者カントが見出した理性への信仰の様でした。
カントはほぼ完全なる理性的哲學を述べましたが其処にはまさか東洋の視点までは入って居なかった。
ところが其のカントの影響を受けたショーペンハウアーには何と佛教の視座までもが盛り込まれて居たのであります。
要するに其の、
解脱せよ!
目覚めよ!
との視点のことです。
其のカントは理性を信じては居ましたが別に解脱しやうとして居た訳ではありません。
だがショーペンハウアーに至っては70%位は本気で解脱したいとさえ思って居ります。
なんですが、ショーペンハウアーは別に宗教的自我其のものを生きて居る訳では無くあくまで哲學としての自我を生きて居るのです。
なので其処に限りどうも甘い部分がありますね。
例えば藝術が好きだとかそんな逃げの部分があってソコが宗教よりは學問的であり謂わば書斎完了型、観念のみでもって終わって仕舞う型の方なのです。
其のショーペンハウアーの影響を強く受けたニーチェはまさに凄い文學的哲學を完成させたが仕舞いには発狂して仕舞いました。
まあ其れにはショーペンハウアーの罪の部分が多分にあることでせう。
ですが彼の其の罪深さと同時に優しさが強く其処に感じられるのは壱體何故なのだらうか?
其の優しさとは救いと云うことなのでもまたある。
ショーペンハウアーの哲學の根底にはまさに其の救いが、まさに罪深き人類に対する救いの手が差しのべられて居るのです。
ショーペンハウアーの哲學は壱言で申して其の「優しき救いの哲學」です。
先に申しましたがわたくしは自分を優しい爺であるとさう申しました。
ですが其の我の優しさとはウソの優しさであり謂わば甘ちゃんとしての逃げの思想であることに他ならない。
だがショーペンハウアーは其処までは逃げて居ない。
ショーペンハウアーは人間をあくまで厳しく見詰め眞の意味での人間に対する優しさを持ち得た人です。
またわたくしも其の人間の哀しみに寄り添う慈しみの心を生じて居ります。
ですが我は長年社會生活をして来た分だけ思想的哲學的に不徹底でした。
また別に哲學が専門なのでも無くかうして文學も石も万年筆もやりショーペンハウアーの如くに隠棲して哲學三昧をして来た訳ではありません。
ですので其の人間の哀しみに寄り添う慈しみの心さえもが不徹底なのです。
でも其れはみんながおそらくは同じなのです。
結局はみんながさうして不徹底なのです。
即ちどんなに利口な奴でもカントやショーペンハウアー並には考えられないのだ。
であるからこそカントやショーペンハウアーからこそ學ばねばなりません。
勿論お釈迦様やイエス様から學ぶのが最善なのですが御勉強好きに限りカントやショーペンハウアーからもまた是非學ばねばならない。
さてショーペンハウアーは「👩の敵」だと申しました。
ですが、實はショーペンハウアー程🚺共にとり優しい御爺ちゃんは居ません。
其れは何故か?
何故なら女性は元々根本での煩悩が何かと多いので厳しく律せられねばならぬ現象だからなのだ。
また無論のこと其れはお釈迦様の思想と完全に壱致する部分です。
ですので結論的にはショーペンハウアー程人間の苦悩に寄り添う優しい哲學者は居りません。
さてキリスト様の教えではないのですが元より此の世には偽善者が満ちて居ります。
其の偽善者は優しい言葉で誘惑しまさに悪の世界へと善人を誘い込むのです。
曰く、
百萬出せば其れがすぐに弐百萬にもなります。
此の宗教をやれば必ずや天國へとイケる。
等等と。
また自称詩人の甘い思想などを信じて居ては金輪際ダメだ。
信ずるなら僕の代わりにショーペンハウアーの思想の方をこそ是非信じて下され。
巧言令色鮮し仁 - 故事ことわざ辞典 (kotowaza-allguide.com)
さても其の美辞麗句での優しさこそがウソコキです。
よって現代文明の構成物としての多くもまた其の美辞麗句でありみせかけの優しさなので多くの場合はウソコキです。
尚、僕は仁所町と云うところに住んで居ますが自分の心にはむしろ其の「仁」が欠けて居るものといつも自己反省して居ります。
さてかって谷川 俊太郎氏は『やさしさは愛じゃない』と云う詩をすでに六十年代にものして来て居る。
『やさしさは愛じゃない』
やさしさしかなかったんだね、
でも やさしさは愛じゃない、
やさしさはぬるま湯、
私はふやけてしまったよ。
ひっぱたいてくれればよかったのに、
怒り狂ってほしかったのに、
殺してもよかったのに。
あなたは私を誉めたたえてばかりいた、
その眼鏡の奥のひんやりしたふたつの目で、
男の、
欲望の、
きりのない、
みのりのない、
やさしさで。
『やさしさは愛じゃない』 幻冬舎
詩・谷川俊太郎 写真・荒木経惟 による写真詩集
現代文明が齎す快適性や優しさとは眞の意味では愛と云う言葉には重なることの無い虚的な価値となることかと思う。
但し他方では眞の意味での優しさや眞の意味での愛が此の世には確かに存在して居たやうにもまた思うのだ。
然しもはや其れは「過去」にのみ存在するものだ。
いつしか我我は其のみかけとしての快適性や優しさに捉えられフニャフニャとなって仕舞った。
其のフニャフニャと云う時代の利己主義がコロナ禍なり温暖化を加速させて居るであらう可能性がまた高くあらう。
だがほんたうはさうして自らを叱りつけむしろ叩いて欲しかったのだ。
尤も全共闘世代迄は其の虚としての社會の価値観と本気にて闘った訳だが其の後はもうイケなかった。
だから僕の甘ちゃん振りも僕壱人の責任なのでは無く半分はそんな虚無の時代としての責任なのだらう。
だがむしろ僕はかうして思想的には世の価値観と常に闘い続けて来た積もりだ。
其のー文明のー冷たい目の奥に潜むキリの無い且つ實り無き欲望と刺し違える積もりでもってして…。
対してショーペンハウアーが唱えたところでの金言こそがむしろ本物としての愛でありさう生くるべき人間の価値観をも指し示すものだ。
203「人生は戦いだから、勇気と気迫を持て」ーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
かやうに人生は戦いだとまさに彼ショーペンハウアーはかって述べて居る。
つまるところ其れは人生には安心、安全と云うことが望み得ないことを述べて居るのである。
其の人生の戦其れ自體を放棄することなどはまず無理である。
だが最終的に其れは理性的放棄により縮小して行くことは出来る。
其れでもまだ人生の戦の場其れ自體は残る。
だから理性的放棄に完全に至るまでは戦わざるを得ない。
でも其の理性的放棄もまた誰にでも出来ることでは無い。
いずれにせよ理性的であれまた非理性的であるに関わらず人生の戦いにはかうして否応なく参加することが強いられて居る。
其処でもってよりにより知性的に恵まれ生まれし者は余計に苦しんで生きて行かざるを得ないことであらう。
だがだからこそ其の知性には壱つの方向性が与えられるのだ。
まさに其れこそが眞理探究に特化した方向性のことだ。
問題は文學的且つ哲學的自我をまた宗教的自我を完遂させるか否かと云うことでは無く少なくとも個として其の方向性を決して見失わぬことである。
故に人生との戦いに於いてどんな苦境に立たされやうとも其の理性的態度を放棄してはならない。
だって放棄せよとさう言って居るのではなかったのか?
馬鹿!
むしろ眞理の方向性を見ない馬鹿を放棄せよとさう言って居るのであり逆に利口を放棄したら其れこそ只のバカではないか。
だから其の放棄の対象が違うのだよ、むしろ世間の馬鹿を放棄し己の利口を是非保存しなされ。
此のやうに「勇気」と「気迫」を持って生其れ自體と闘えとかって老哲學者は述べて御座る。
さても果たしてコレの何処が厭世思想なのだらうか?
むしろ此れ程迄に勇気付けられる言葉が他にあらうや?
で、今の文明の状況に対しても是非此れを引用し壱言だけ述べて置かう。
「人生ー文明ーは戦いだから、勇気と気迫を持て」
かくして文明は是非今先哲の言葉から真摯に學んで置くべきことだらう。