目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

サクラクレパスのボールペンにしてやられた今年ー個性的なペンに於けるオンリーワンの価値ー

さて昨日はまたイオンへと出向いた。

何故なら売れ残りの夏物シャツの安売りを前回確かめて居たのでまずは其れを買いに行った訳だ。

 

黑のチェックが細かいとてもダサいシャツー千五百円ーでおそらく若い人は誰も買わぬことだらう。

ところがだ。

 

ところが私には其のダサいシャツしか似合わぬのである。

即ち今風の意匠のものを着ると似合わぬばかりかまるで馬鹿みたいにしか見えぬのである。

 

 

だから其の種の売れ残り品の安売りの時のみが私に似合う服をまさに購入する時なのだ。

要するに其れ等は意匠が地味過ぎて売れ残るのだらう。

 

だが私の外観もまた地味なのか兎に角其の種の服だのズボンだのしか似合わぬのである。

尚病院に勤めて居た時に壱歳上のそんな地味な服装が好きな👨が壱人部下に居たが其の人は食う方までもがまるで地味で兎に角栄養を摂らぬのでおそらくは免疫機能が弱ったのであらう、結局還暦にて癌で死んだのだった。

 

只其の服装の趣味が余りにも彼と我は似通って居たので其処は少し気持ち悪い。

だが逆に私は兎に角食う事が大好きで「色んなものを良く食う」と皆から良く言われて居たのでおそらくは当分の間殺しても死なぬことであらう。

 

 

いざイオンへ行けば勿論其れだけではまるで済まぬ。

では何ぞ美味いものでも買って来るのか?

 

いや食い物を買いに行く時にはさうもならうが今日は目的が違うので食い物には手を出さない。

其の辺りがまさに私の潔癖なところでこうと決めたことしかやらぬのである。

 

其れでもって無論のこと文房具売り場へ行く。

實は其の新瑞橋のイオンの文房具売り場は大幅にリニューアルされたばかりで以前の雰囲気とはまるで異なる高級感のある展示構成となって居るのだった。

 

 

しかも其処にはお目当てのペリカンの廉価万年筆がある。ツイスト・Twist(ペリカン)は捻った曲線が持ちやすさを生む廉価万年筆。

 

ちなみに此の万年筆の黑軸のものを私は弐、参年前此処で購入して居る。

当時は弐千円近くした非常に個性的な所謂子供へのペン字教育用の廉価万年筆だ。

 

ところが此のペン、實は大人の手にも余る程の巨大な万年筆なのだ。

筆記状態で178ミリ程もありしかもモンブランのNo,149-愛好家が一度は憧れる作家仕様の万年筆-並に太いのである。

 

故にこんなシロモノを日本の子供に買って与える親などおそらくは何処にも居ない筈だ。

よってワザワザ此れを購い喜んで居るのはほとんどが我の如き愛好家なのだらう。

 

 

其の黑軸のツイストは今どうなりましたか?

嗚呼、其れなら壱ヵ月程前にJS芯を仕込んだボールペンへと改造致しました。

 

其の改造は穴あけ行程が多く色々と苦労致しました。

 

ところがボールペンとしては其れは最高の部類のものとなった。

つまりは軽く大きな軸でもって兎に角筆記感が秀逸なのだ。

 

さうして先日イオンを訪れた折に其のツイストを確認しに行ったところが其れが何と千円にて安売りされて居たのだった。

 

要するにまるで売れなかったのであらう。

で、其の後ヤフオクも調べてみたのだが千百円で出されては居ても送料がかかるのでまさに此の新瑞橋のイオンのツイストこそがおそらくは此処日本での最安値であらう。

 

 

其れで結局此れを選んで買って来たところである。Pelikan ペリカン 万年筆 ツイスト ライム

 

此のペンは軸の意匠が面白く万年筆として使うにせよまた改造してボールペンとするにせよ色々と使いみちがある。

ペン先を金ペンにすることなども勿論出来るが軸はあくまでチープなのでむしろボールペン化する方が面白いのやもしれぬ。

 

尚かって私はペリカンの万年筆のコレクターでもあった。

其れも誰も持って居ないやうな高価な限定万年筆を常に弐拾本程も持って居たのである。

 

勿論其ればかりでは無くもっと實用的なモデルに就いても詳しかった。

 

兎に角さうしたモンブランだのペリカンだのと云った出来の良い万年筆を集めて居る人こそが偉いコレクターさんなのであり同時に万年筆が良く分かった人だと愛好家の間ではされて居るのである。

特にさうした独逸物は特に関東圏ではほぼ絶対的に権威的な代物だった。

 

で、無論のことこれだけ理性的な私なのでペリカンの万年筆は万年筆の一流品だと当時からさう信じ込んでも居たのである。

 

 

尤も其の信仰だけでは無く實際に独逸の万年筆は良く出来て居る。

特に限定万年筆などは信頼性が高くしかもやり過ぎては居ないモノが多く要するに常に節度があり実用万年筆としての意識レヴェルが高く保たれて居る訳だ。

 

なのではあるが次第に私はペリカンの万年筆からはむしろ離れて行くこととなった。

其れは何故か?

 

何処か面白味のやうなものに欠けて居るとさう思うやうになったからだ。

其れ等は多分八拾、九拾点位は取れて居るのだらうが結局其れは私が求める方向性では無かったのであらう。

 

じゃあ其処でもってアンタは何を求めたのだ?

 

うーむ、其れは謂わば駄菓子屋や縁日の露店の食い物でのやうな結局チープだと分かっては居ても何処かワクワクして止まぬ其の感じですかね。

まあ其ればかりでは無く高級感の方も求めては居たのだが万年筆に於ける本質的な意味での高級さを戦前の萬年筆に見出した頃から現行品はたとえどんなブランドでも其れには劣るやうに感じられ始めたのであった。

 

 

であるから逆に一部に古典的要素を持った伊太利亜の万年筆やまさに合理化などされては居ない中國の万年筆に惹かれて行ったのだった。

但し私は単なるゲテモノ食いなのでは無くむしろ正統派の万年筆コレクターなのだ。

 

なので当時持って居る万年筆はペリカンモンブランの万年筆が一番多かった訳だ。

 

ペリカンモンブランの趣味もより深まると其れこそ50年代物へと進む訳で其の当時のペリカンモンブランは確かに出来が良く何が良いかと言えば其のワクワクして止まぬ感じさえもが其処にするのである。

だが其処へと進むことが出来るのはまさに一握りの愛好家だけなのだと思う。

 

無論のこと私も其の部分は特にペリカンに於いて歩んだ訳だったが何故か我の場合はすぐに其処を飛び越えて戦前の萬年筆へと進んで行った訳だ。

 

尚申し訳無いのだけれどかってペリカンの万年筆のコレクターでもあった私は今ペリカンの万年筆を實は壱本も使って居ない。

ペリカンは其の「ツイスト」を改造したボールペンだけを使って居ることとなる。

 

 

尤も私はペリカンモンブランの万年筆の価値を否定して居るのでは無い。

 

謂わば其れは優等生的に信頼出来おまけに如何にも高級な万年筆ですらある。

だが強いて言えば其の達成された合理性の部分が私の求めるものとは少し違うやうな気がした訳だ。

 

だが戦前の萬年筆に限ればペリカンモンブランもまた突如として輝き出す。

しかしながら戦前のペリカンモンブランを探し出すことは容易では無い。

 

 

何故ならかの独逸は第一次大戦もまた第二次大戦も戦争に負けて居るからなのだ。

其れでもって國がボロボロとなるまで空襲を受けたりもしおそらくは其の折にほとんどの独逸の戦前物の萬年筆は焼けたのであらう。

 

其れはまた日本もさうなのであるがでもヤフオクには今でも戦前の凄い日本の萬年筆が出されたりもするのだ。

其れはおそらく空襲の無かった田舎の名士などが持って居たものが少しずつ出て来て居るのではないか。

 

然し東京も大阪も名古屋も皆空襲にやられたのであるからおそらく都會にあった良い萬年筆は其の時に皆燃えたのである。

然し独逸の場合はより徹底的に戦前の萬年筆が焼かれたとさう見て置くべきなのだらう。

 

 

其の独逸の戦前物と云う分野が憧れではあったのだが、

1.半端では無く高価となり易いこと

2.米國英國の戦前の萬年筆の方が得易いこと

 

との理由で結局私には手が出せない分野となった訳だ。

 

廿年程前だったかヤフオクでもってそんな超高級なモンブランの戦前の萬年筆を専門に出品されて居る方が居られ其れをいつも指を咥えつつ視て居たものだったが今思えば其れも懐かしい出来事だった。

独逸の戦前物などを蒐集するとなれば無論のこと其れはコレクターの中でも言わば一握りの特権層としての趣味なのだらう。

 

だが私は其の種の権威には何故か縁が無く代わりにL.E.Watermanと云う萬年筆にとっての最も原初的な価値に対しのめり込んで行くこととなる。

まさに其れが今から拾年程前のことだったのである。

 

 

いやー、万年筆に於ける壱種ややこしいお話をどうも有難うございます。

ですが其れと其のツイストとは一体どーいう関係があるのでせうか?

 

いやだからさうした万年筆に於ける深き趣味、まさにdeepな探究の世界を我もまた通過して来たと云うことこそが述べたいのだ。

即ちそんな世界を経験した上でツイストー独逸の子供向けの廉価万年筆ーを得ることと其処をまるで知らずに只ペリカンだと思い其れを購うことととの間には大きく隔たりがあるのだからこそ。

 

でも店員さんはまさかそんなことは知らぬ筈ですよね。

 

さうまるで分かって居ない。

第一我が色違いで弐本とも見せよと言うと「同じ物ですが…。」などと言いやがった。

 

だが其の子が美人なので其れも許す。

不細工な場合は決して許しはせなんだのだが。

 

 

言うまでも無く其れ等は同じものなのでは無くつまりは首と胴の色合いの組み合わせが違うので其の弐本は別物である。

 

さうか、コレから時折其の文具売り場へ通い其の子を一人前の店員に育て上げるべく是非教育せねばなるまい。

何もアンタから筆記具の世界を學ぼうなどとは誰も考えては居りませんが…。

 

 

馬鹿者!!

 

アノ名古屋丸善の兄ちゃんはな、此の参月に数年振りにふらりと我が店舗を訪れたところ、「どうもお久し振りです。また何か書かれましたら是非教えて下さい。」と事實さう言って居たのだぞ。

其の万年筆売り場の兄ちゃんこそが偉い子ではないか。

 

尤も万年筆売り場へ廿年位は通って居たから顔を覚えられるのはむしろ当然のことなのだがな。

 

君等若い者はさうして先哲から是非學ばねばならぬ。

其れを只のオッサンだと思い込みさうして小馬鹿にして居るともうとんでも無いことになるのだぞよ。

 

 

で、其のツイストの横に変なボールペンが売られて居たのです。

ズバリ其れは新発売されたサクラクレパスのボールペンでした。サクラ ボールサイン iD

 

かのサクラクレパスがボールペンをつくり売って居ることを知らぬ人も居ることかとは思うのだが實は其れがかうして売られて居るのである。

「何となく変だ」

と云うのが此の新製品としてのボールペンに対する私の第壱印象である。

 

さても一体何処が変なのだらう?

 

まず軸色が地味な灰色でもって変だ。

さうして何やら細かくしかもややこしいインクの話などが其処に語られて居る。

 

然し其の黑インクでもって六色あると云うのは一体全体何のことなのだ?

其れも我我愛好家でも??と思うやうな微妙な拘りを其処に語って居り其処からも一体全体サクラとはどんなメーカーなのだ?とも思わせられるのだが良く考えてみれば其れは元々画材屋なのだ。

 

要するに小中学校等へクレパスだのクーピーペンシルだのを納めて居る會社なのだらう。

だから元々メジャーな筆記具屋では無い訳だ。

 

 

ところが、今年の参月に我は此のサクラクレパスのとあるボールペンに惚れ込んで仕舞い其れを丸善にて参本も求めて来たところだった。

で、其の折にサクラクレパスの大阪本社へも問い合わせてみた。

 

すると姉ちゃんが出たので、「クラフトラボ5」は名古屋の何処で売って居るのかまずは其れを聞いてみたのだった。

丸善にはあります。」

 

「いやあー、オタクのクラフトラボ5、實はコレに見惚れて仕舞い今どうしても参本は欲しいのだが。」

「此のデザインはまさにボールペンとしての理想の意匠だ。ちなみに私はネット上で長年に亘り文具ライターをやって居た者だが…。」

 

「其れはどうも有難う御座います、兎に角クラフトラボ5は丸善にはあります。」

 

 

さて、其の丸善とはひょっとして東区にあるサクラクレパスの取次店である文房具屋のことではないのか。

 

なまじ文具のことが分かった私は其処まで気を回して其の丸善と云う文具屋に電話で問い合わせてみたのである。

「ボールペンも無いでは無いですが其のクラフトラボ5と云うものはありません。」

 

「でも取り寄せは可能でせう?」

「可能でせうがどうたらかうたら…。」

 

此れはイカン、此の店はそもペンを売る気が無い。

 

 

仕舞った!そも其の丸善とは要するに榮の丸善のことだったのではなかったか!

結局丸善名古屋支店にはしかと其れが置いてあったのである。

 

で、自転車でもって丸善まで参拾分もかかり行くと何と丸善の前の歩道に自転車専用駐車場が整備されて居り要するに自転車でもって丸善へと乗り付けることが可能となって居たのだ。-コロナ対策にて名古屋市が其のやうに整備をして居た-

だからむしろ此れ迄で壱番樂に丸善へ行くことが出来たのだった。

 

「クラフトラボ5」を参本も買い込みおまけに別売りのクリップも参個を求め帰りに万年筆売り場を覘くとかの兄ちゃんがしかと居るではないか。

 

「どうもお久し振りです。また何か書かれましたら是非教えて下さい。」

「どうもお久し振りです。コロナで万年筆が売れずで売り上げの方はボロボロですか?」

 

「巣ごもり需要がありさうでも無いのですが結局良くはありません。また是非お越し下さい。」

 

 

其のやうな経緯があり我はようやく其の焦がれ続けたボールペンを手にすることが出来た。SAKURA craft_lab 005 | 株式会社サクラクレパス

 

だが此のゲルインクボールペンは如何にも値段が高い。

だがこんなものを一体誰が買うのだ?

 

しかも別売りのクリップだけで330円もして居るぞ。

 

ですが此のボールペンこそがまさに美しい筆記具としての作品なのだ。

さうまるでピニンファリーナによるデザインの如くに其れは美しい。

 

おまけにサクラの意匠が天冠部を其の侭に形成して居る。

さても何て自己主張の強い作品なのだ。

 

 

丸善に取り置きを頼んで居たのは黑と朱と緑であったが實物を見て是非欲しくなったのは緑と靑と灰であった。

例のサクラ色の軸も勿論あったのだが兎に角パステルカラーの此の参色が是非欲しくなったのだった。

 

現在使って居るのは其のうちの壱本である緑である。

其れにJSの小振りの緑の芯を組み込み使って居る。

 

 

オリジナルのゲルインクレフィルは書き味が宜しくは無い。

つまり此のペンは其の美しい軸の意匠を愛でる為のものなのだ。

 

軸は精度が高く出て居り素晴らしい出来ながら若干重い。

 

だが個人的に世界壱美しい日本のボールペンなのだと思って居る。

 

【新製品】待望の「サクラクラフトラボ 005」、サクラマークを取り入れたレトロなデザイン| (buntobi.com)

【コレ買いました!】手に取って思わずウットリ! 超個性的ボディのボールペン「サクラクラフトラボ 005」

 

それにつけてもHPにあるやうなサクラクレパスの拘りとは一体全体何なのだらう?

 

さうしてサクラクレパスとは全くもって不可思議なメーカーなのだ。

元々はペン屋でも無いのに創るペンには思い切り拘りを持ちまさにオンリーワンの世界を醸し出して行くのが得意なメーカーなのだらう。

 

 

SAKURA craft_lab 開発者インタビュー | 株式会社サクラクレパス (craypas.com)

其のボールペンの高級志向、個性化を目指すサクラの試みは非常にユニークなものである。

003や004と云ったモデルにも惹かれるが如何せん其れ等は値段が高い。

 

ところが皮肉なことにコロナ禍にて世の中の価値観が大きく変わりつつある。

むしろ今流行って居るのは百円ショップの方である。

 

但し金持ちは金融資本主義にてより金持ちにもなりつつある。

だが多くの人々は今明らかに金が無い。

 

 

サクラ ボールサイン iD

此のペンは或はさうした背景から生まれたものだったのかもしれない。

所詮税込み178円で買えるペンである。

 

なのだが何処か拘りを感じさせて呉れるペンなのだ。

故にチープなのだがチープなだけでは終わらぬペンなのだ。

 

SAKURA craft_lab(サクラクラフトラボ) | 株式会社サクラクレパス

かうして画材を作るメーカーだからこそそんな微妙なインクの色にまで拘る。

 

新発売のボールサインでまず私はナイトブラックー藍黑ーと云うインクの色を選んだのだがほとんど其れは普通の黑でありブルーブラックの色味が出て居る訳では無い。

但しフォレストブラックと云う緑黑の黑インクの色にはスッカリしてやられて仕舞う。

 

即ちそちらの方は緑味が強く黑なのだが黑では無いと云うまさに不可思議な色合いを實現して居るではないか。

よって此のフォレストブラックのボールサインを今は好んで使って居る。

 

また其の軸は変わった面取り軸である。

ゲルインクのレフィルは大きなものが入って居り「クラフトラボ005」のタイプとは異なる。

 

ひとつだけハッキリして居るのは特に「クラフトラボ005」を使用する場合にはまさにオンリーワンの世界に属する筆記具を手にして居るやうにいつも思うことだ。

まさしく其れは此のペンが無難に纏められたものでは無く確りとしたコンセプトの下に創造された筆記具としての作品であると云うことを指し示して居る。

 

 

かのOHTOにせよ、またかのサクラクレパスにせよほんに目一杯にやって呉れて居るので我の如き唯我独尊での筆記具世界を貫く愛好者でも妙に納得させられるつまりは結果的に妙に惹かれ且つ何本も纏めてペンを買って仕舞うと云うこととなるのである。

つまるところは筆記具に於いても今や個性的であることこそが求められて居ることだらう。

 

なんとなれば筆記具、其れもボールペンだのシャープペンシルだのは今や何処にでも腐る程にあるからなのだ。

腐る程にある何かに対し人間が価値を見出すことなどは元々出来ぬ相談なのだからこそ。

 

クラフトラボにせよまたボールサインにせよサクラクレパスは独特な拘りを見せるメーカーなのであり謂わば癖は強いが我我ユーザーにとり妙に魅力的な筆記具を生み出し続けて居る。

また其れ等を使うにつれ其の如何にも個性的な本質が顕わになっても来る訳だ。

優れ物としてのOHTOのニードルポイントとJS芯が進歩した「ジェットストリーム EDGE」

 

其のWANCHERさんからまた「OHTO/オート 廃版モデル Dude / デュード メタリック 6角軸万年筆 ブラック」と云うのを落札し其れが昨日届いたばかりですが非常に個性的な廉価万年筆でした。-本体は大体千五百円程-

 

おまえは一体何をやって居るのだとさう皆様はお思いなのやもしれぬがこんなものは筆記具愛好家ならばむしろ当たり前のことなのです。

酷い時は最近でもー参年程前にー壱度に拾弐、参萬使ったことさえもがありました。

 

其のやうに我は如何にも業の深い筆記具愛好者ですので子供の教育資金だの孫へのお年玉だのそんなものには金輪際金を使わず概ね筆記具へと金が吸い込まれて行くのです。

 

いや其ればかりでは無く本代と筆記具代、と正直これだけでもう結構大変ですのでむしろ食うものをなるべく切り詰めまた服や靴はなるべく買わずに其の分を本や筆記具へと投入して居ると云う訳だ。

私はそんな筆記具愛好家の中でも筋金入りの方で、かっては某万年筆掲示板でもって万年筆と文化を語る掲示板の主筆を務めて居りました。ー弐千弐、参年頃から13年にも亘りー

 

 

要するに普通では無いのです、文房具に関してまるで普通では無い。

其れで稀に文房具通などがTV番組に出たりもするのですが彼等ともまた違い私の場合は筆記具のみを深く追及すると云うより一途なタイプです。

 

ですので此の分野こそがむしろ我の趣味としての本職の方なのだ。

対して鉱物の方は決して専門的にやって居る訳では無く謂わば自然愛好の一環としてやって居るだけのことだ。

 

 

されどこと癒されるか否かと云う部分では筆記具よりは石の方がより本質的に癒されませう。

文房具の世界は極めて人間的な世界のものでありつまりはチマチマしても居り社會性のやうなものさえ出て参りますので其処が鬱陶しいと言えば鬱陶しい訳だ。

 

只、我我愛好家は良いペンと出遭ったり良いペンを自分で作ったりしますともう其れだけで至福の境地へと舞い上がって仕舞いますのです。

だからまさに其れが馬鹿なのだが私は生ものー生き物ーにはなるべく興味を持たぬやうにして居る手前、其の筆記具やら石やらへの愛を抜きにしては此の世を生き抜いては行けません。

 

其れと筆記具とは結局は文明其のものの利器のことです。

即ち人間の技術力の賜物でもまたある訳だ。

 

なのですが、其の範囲が狭いとでも言うか要するに机上に限定されて使われるものですので🚗だの✈だの🚢だののやうに人間が活動する為のものでは無い。

むしろ沈思黙考し意思決定する為のものである訳だ。

 

ペンは剣よりも強いなどとも言われますが要するに其れは観念の為の表現の道具なのであり従って其れは常に観念的営為と密接に連なって居ります。

つまりは其の観念的営為の為の武器こそが筆記具なのだ。

 

また其れは武力行使の世界とはまさに正反対のもので、其処では所謂力の論理が通用せぬことだらう理性的な武器なのだ。

 

だからどんな藝術家もペンを使いまた絵筆を用い作品を創ります。

要するに其の表現の世界とも密接に結び付いたものなのだ。

 

 

左様に平和裏なうちに終始する筆記具の世界ですが、其のペンの世界の全てが平和な白い鳩のやうなものなのかどうか、其れは人類の歴史が終わってみないと何とも言い難いものです。

其れが逆に眞っ黒な魔境だったのかもしれぬ訳で、だから私は其れがそんなに高尚な趣味だとは實は余り思いたくは無いのである。

 

あくまで哲學的に申せば観念とはさうした一種哀しいものですのでそんなものをやりつつ威張って居るのは逆に理性の無い奴がすることです。

 

 

さて、其のOHTOと云う會社ですが、一言で申せば其れは特に個性的な筆記具メーカーです。

 

オート (文具) 

 

左様に筆記具の分野でのパイオニア的な存在なのですがメジャーなメーカーでは無いのでおそらくは知らない人々も居られることでせう。

 

尚私がOHTOの筆記具に惹かれたのは拾年位前からでむしろ最近のことです。

私には大きな文具店を回ると云う趣味がかってあり要するに其処にて最新の筆記具などを探査して来るのです。

 

尤も万年筆コレクターとしての私の本質とはむしろ過去に遡り特にアンティークの萬年筆を正当に評価することでもまたあった訳だ。

其れを論理的にやった人が居なかったのでなるべく理論的にやらうかとさう思いました。

 

ですのでほんたうはむしろ今の文具店には興味は無くむしろ百年前の丸善へでもタイムマシンに乗り是非行ってみたい訳です。

ですが其れは無理ですので米國英國のアンティーク・ペン屋と常に懇意にしておき其処に良いモノが出たりまたは世界オークションで良いものが出れば其れに飛び付きさらにヤフオクの方もチェックするわでもう何だか知りませんがむしろ仕事の方よりもソチラの方が忙しくおまけに掲示板の方で万年筆物語を連載もするわでほんたうに良くぞソコまで徹底してやって居たものだった。

 

其の戦前の萬年筆、其れもアンティーク・ペンに手を出す愛好家は日本にはまず存在して居りません。

海外には其れこそツワモノのコレクターさん方が居られますが日本人で其れをやられた方はほんの一握りの方々でしかも裕福な方々だったのだらうと思います。

 

其処へもって何で我のやうな貧乏詩人が入り込んで行ったのか其れが自分でも不思議で御座りますが兎に角私は其のアンティーク・ペンの魅力に就きとりあえず理論的に筋道を立てて述べてみたつもりです。

だから私はね、其処いらに居る愛好家とは正直申しまして別格なのです。

 

 

また威張ったな。

だって威張らぬと眞實が皆様に伝わらぬではないか。

 

金輪際私はウソなどこいては居ない。

私はね、正直者だからかうしてほんたうのことしか言えぬのだよ。

 

 

で、其のOHTOの筆記具に惹かれたのは「ニードルポイント」を持つボールペンに惹かれたのでした。OHTO ball pen NO.600 - オート (文具)

其れが確か拾数年前に天白区の有名な文具ショップに置いてあり其れを壱本買ってみたのであります。

 

【ボールペン2色+シャープペンシル】オート マルチA 複合筆記具

其れが此れの赤ですが、後に黒の方も求めて居ます。

 

此れが恐ろしく個性的な複合筆記具で、値段が高めで金属軸でもって重いものです。

 

逆に私は軽い筆記具の方を常に好みますが、其の軸の重い軽いよりも何よりも個性的なデザインやコンセプトの面白さなどの方をより重視して筆記具をまずは選ぶ。

要するに主張のあるものの方が無難に纏められたものよりも好きなのだ。

 

人間などもさうで、主張のある人間の方が私は好きだ。

だが私自身にも主張がまたあり過ぎる訳なので其処でもって大抵は喧嘩別れすることになるから人付き合い自体が實は嫌いである。

 

ところが私は見た感じでむしろ主張の無い如何にも無難な人に見られ易いのです。

だから其処にギャップがある訳で私がかうして掲示板だのブログなどで主張を繰り返すのはむしろ其のギャップの部分を埋める為に行うことなのだらう。

 

兎に角此の赤いOHTOのインパクトたるやまさに横綱級のものでした。

何やらコイツにスッカリやられて仕舞い其れでもって實はそんなに使用しては居りませんがつい先日掃除して居たところ赤も黑も出て参りましたところです。

 

 

次に其のOHTOにやられましたのは今から五年程前のことでした。

 

Amazon | オート ニードルポイント油性ボールペン0.7 ラジアル NBP-707RDシルバー

其れがまさにコイツです。

 

コレのシャープ版を初め手に入れ余りの個性の強さにしてやられすぐさま追加で弐本ばかりを求めて置きました。

またボールペンの方もあると分かり其れも弐本求め兎に角凄いとさう思って居たのです。

 

ですがコレもまた行方不明となりつい先日部屋の掃除中に発見されたのでした。

何故そんなに行方不明となり易いのか、其処が皆様には分からぬことでせうが其れは部屋が汚かったばかりでは無くまさに持って居る筆記具の数が多いからなのだ。

 

おそらくは千本単位であることかと存ずる。

 

但し万年筆の数を多く持って居る訳では無くボールペンやシャープペンシルなどがまた多いのです。

万年筆の方は随分減ったとは言え弐百本位はある筈です。

 

ですが其処にボールペンやシャープペンシルを入れるとすぐに千本位になって仕舞う訳だ。

其の万年筆の方はなかなか無くなりませんがボールペンやシャープペンシルはすぐに何処かへ入り込んで行ったりするものなのだ。

 

 

RADIALのシャープペンシルの方を今左手に握って居りますが矢張り金属軸で重めですが物凄く書き易いものです。

ですが出て来た此れのボールペンの方は實はニードルポイントではありませんでした。

 

なのだがニードルポイントに惚れ込んで居る私は此れこそが欲しい訳だ。

ですがかうして今や何処でも買えぬやうだ。

 

いや何処かに残って居るのやもしれぬ。

諦めずに探すべきだ。

 

などとコレクターとはさうして結局欲望を煽られる世界のことですのでむしろ解脱とは正反対での心の領域でのことです。

ですが生ものでは無いものへの執着は我としては容認されるものなのです。

 

また其れは爆弾をつくる訳でも無くまたテロをやる訳でも無く平和裏に考え文明を反省し理性を磨いて行く為に使用されるべきものなのです。

其の筆記具を「探す」ことがまた面白いのであるが其れを幾ら熱心にしたにせよ全ての欲しいモノが得られる訳では無く結局は縁のあるモノだけが何故か手元に吸い寄せられて来るのです。

 

ですが其れもまた私は一応やり切って来ては居るのです。

其のやり方が半端なものではなかったが故にさうして「万年筆物語」さえもが書けたのでした。

 

 

其のニードルポイントを銘木の軸に組み込んだものがありー改造してー其れを良く使います。

其の書き味は大変優れて居ます。

 

其れもJS芯ージェット・ストリーム芯ーと甲乙付け難い程に優れて居る。

なのでOHTOのニードルポイント付きのボールペンは私にとりまさに別格なのだ。

 

最終的に筆記具趣味は其の書き味追求、筆記感の追求の世界へと集約されて来るものです。

軸の方も勿論大事なのですが、ペン先の方が良くありませんと自然と其の筆記具からは遠のいて仕舞いがちである。

 

 

GS01-S7 - OHTO

こちらは是非求めたく思う。

 

【ボールペン2色+シャープペンシル】オート マルチB 複合筆記具

さらにこんなものもまたある。

 

【楽天市場】【OH27】【OHTO/オート】Dude/デュード 万年筆 ブルー/バイオレット/ブラック/シルバー M(中字)ニブ 6角軸削りだしのアーバンデザイン FF-15DD【即納/宅配便・ミニゆうパケット 日本製 国産 正規品 定番デザイン メタリック 六角形軸】

 

其のDudeはこちらでも求められるやうです。ー或は此処もWANCHERさんなのか?ー

Dudeは小振りでもって重めの金属軸の万年筆で其処が如何にもOHTOらしいコンセプトの下に作られて居るボールペンだ。

 

此の角軸と云うものが意外と筆記具には少なく例えば鉛筆以外ではなかなか得られぬものです。

私は最終的に其の角軸の万年筆やボールペン、またシャープペンシルが好きになりました。

 

角軸は筆記具の軸としては壱種のオールド・ファッションであり意外と探しにくい意匠なのです。

近年でもってあえて其れを発売ししかも売れたのがパイロットのカクノです。カクノ | 製品情報 | PILOT

 

 

とは言え私も最近は万年筆業界の事情に疎くなり此のペンを知りませんのでしたが数カ月前に早速壱本求めてみましたところまさに其れが最高の携帯万年筆でした。

廉価万年筆なのですが千円以上はするものなので確りと作られて居り書き心地の方もまずは宜しい。

 

で、筆記具を携帯して使うと大抵は何かトラブルが起こるものなのです。

其れも我我愛好家のやうに頻繁に筆記する人の場合は實際何が起こるか分かりません。

 

良くあるケースが机の上のペンを落としペン先を曲げて仕舞ったりすることです。

またボールペンでも床に落とせばペンポイントにダメージが生じ書けなくなったりもする訳だ。

 

だから大事な万年筆を携帯し外で使うなど其れはまさに自殺行為です。

故に私は廉価万年筆を携帯することがほとんどです。

 

 

とは言え自分の部屋の机から万年筆を落とすことが何故か最近増えて来て居るのは一体何故なのだらう?

ズバリ其れは筆記具の本数が多過ぎるからです。

 

今机上にあるだけでも五拾本近くの万年筆、ボールペンやシャープペンシル等が複数の筆立てなどに入れてあります。

そんなものはまともな人のやる世界のことでは無く要するに筆記具に対する異常者のやることだ。

 

此処五年程は其処に弐拾本程の改造手作りペンが入って来た訳です。

實は昨日もまた壱本凄い奴を制作して居ります。

 

 

角軸の萬年筆で至極残念だったのはかのL.E.Watermanの1920年代の萬年筆かとも思われますが其の角軸ー七角形の軸か?ーのものがかってイーベイ・オークションに出されて居たのでしたが其れを落札出来なかったことです。

さうした眞にレアーな品こそが實は壱期壱会なのです。

 

根性の据わったコレクター程まさにさうした千載一遇のチャンスを見逃さぬものなのだ。

だが私もまた其れを続けては来て居たのでありたまたまソコで頑張れ切れなかったと云うことなのだ。

 

ちなみに私は其の種の失敗と言いますか武勇談と申しますかさうした経験又は修羅場を兎に角色々と踏んで来ても居ります。

尚掃除中に腕時計もまた出て参りまして其れは私が使った数少ない瑞西の腕時計のひとつであるTISSOTの自動巻きです。

 

 

但し私はどちらかと言えばタグ・ホイヤーのファンです。

 

新品 タグホイヤー モナコ 銀座NJタイム CBL2113.BA0644 TAG HEUER 時計 (nj-time.com)

タグ・ホイヤーで欲しいのはズバリ此の四角腕時計としてのモナコです。

 

中古 タグホイヤー モナコ 銀座NJタイム WAW131A.FC6177 TAG HEUER 時計 (nj-time.com)

ですが相当に無理して何とか買えそうなのはコチラのレディースの方です。

 

ちなみに私は體はむしろゴツイのですが手首だけは細く實はレディースで丁度良い位なのだ。

ですがタグ・ホイヤーは九十年代に無理して買った限定腕時計をまだ使わずに保管して居ます。

 

だからもう要らないのです、腕時計は。

 

もしも腕時計へ行くとこんな穏やかな筆記具趣味が壊れて仕舞いますのですしまた使う金の桁が違っても参りませう。

 

でもみんなは腕時計の方が多分好きなのだよ。

さうか、まさに其れは大変だな。

 

酒を飲んだり腕時計を集めたりするとすぐに数千万単位で金を使って仕舞いさうだから我はさうした危険なものには決して手を出しません。

 

 

さて本日数カ月振りにイオンへ出向きましたところ、文具売り場でとんでもないボールペンを見つけて仕舞いました。

 

ジェットストリーム エッジ|ボールペン|三菱鉛筆株式会社

 

何とJS芯入りの面取り軸モデルです。

其れが兎に角素晴らしく恰好良かったのでしたが0.28モデルの方の黑が売り切れて居り結局またアマゾンの方で買う事になりさうです。

 

しかも此処での解説を読みますとポイントチップの形状を変え細くして居り要するに一種ニードルポイントに近づいたものとして居る訳だ。

なのでおそらくは此れ迄のJS芯付きボールペンとは書き味の方が大きく異なるのやもしれない。

 

で、其のことは一般の方々にはまさにどーでも宜しいやうなことなのでせうが我我筆記具マニアと致しましてはまさに壱大事なのです。

 

従って其の変化を直に体験してみるより他は無い。

そんな訳で其のどーでも宜しいやうなことに限りむしろしかと拘ると云う筆記具愛好家の業に就き述べさせて頂きました。

 

其処を逆に申せばみんなにとりむしろどーでも宜しいやうなことであるからこそ燃えるー萌えるーのです。

要するに筆記具が命、筆記こそが我が生涯、なのであります。

 

其れはお気に入りの筆記具があれば此の世で生きることの辛さもまた半減すると云うことでせう。

ですがあくまで其れは本質的救済では無いので悩みが深過ぎる場合には何の気休めにもなりません。

 

只愉しいだけだと云うことです。

特に私の場合などは孫など居てはむしろ苦しいだけでありかうして観念と戯れつつ筆記具に萌えて居ることだけが此の世での愉しみなのだ。

 

 

いやもうひとつがあった。

無論のこと其れは石です。

 

石と筆記具のどちらがより好きかと申されましてもどちらか壱方には決め切れぬ程に共に好きです。

 

ではおまえがもしも余命壱年であるとした場合に、其の読書と石とまた筆記具とではドレを最終的に選ぶのか。

まあ目が本に釘付けになりつつ右手にペンを握り左手で石を握って居る事かと存ずる。

 

さうか、全てを墓迄持って行くつもりだな。

いえ私は普通の墓には入りませんので。

 

しかも誰かが無理矢理入れたにせよ必ずや幽体離脱し此の世に舞い戻り相変らず小難しい本を読み筆記具や石で遊ぶかとさう思いますのでまあさうご心配なさらずに。

だから本も筆記具も石も残して置かないとダメでせう。

 

何処かに貸倉庫を借り其処に全部を保管して置くと良いのかもしれない。

 

 

ですがもはや我は筆記具のことをやり切って来た。

其の点では石よりもずっとやりましたものですからもはや思い残すことなどは無い。

 

また観念の方もほとんどをやり切って来て居りますが故にもはや思い残すことなどは無い。

 

思い残すことがあるのだとすれば其れはもっともっと自然と深く交わって居たかったと云うことのみ。

故に採集の方で其れも出来るのですからもはや完璧ですよ、完璧。

 

 

とのことで今年の参月、四月に私は地元の各地に出没し石を採りまくって居りました。

当時は今よりも涼しくまさに絶好の晴れの日が続いて居たものだった。

 

私は其処でも様々な発見を致しました。

 

ですが、其れも私にとっては重大事なのですが社會ーみんなーにとってはむしろどーでも宜しいやうなことなのです。

 

ですので結局私にはどーでも宜しいやうなことを一大事と捉えるやうな感度がある。

 

其の感度はまたあらゆる方面にも伸びて居りますが社會を対象として其の感度なり理性力を発揮するとたちまちに矛盾の側からやられて仕舞いかねません。

 

従ってかうして筆記具と戯れて居ることだけが社會の不合理や文明のリスクの面から顔をそむけて居られる貴重な時間でもまたある訳だ。

 

筆記具生活は左様に愉しい。

近頃は筆記具がまるで生きて居るかのやうに思われる。

 

無機的に命ー価値ーをしかと吹き込まれた我にとってのお気に入りの筆記具はむしろ其の全部が生きて居ます。

 

さう我と共にかうして今を生きて居るのです。

銘木ボールペンに癒される夏の日々

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WANCHER 三角軸銘木ボールペン ウォルナット軸

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三角軸銘木ボールペンのヴァリエーション



 

本日詩人はつい先ほどまで京うちわが是非ひとつ欲しいなとさう思って居た。

其れはEテレの例のヴェニシアさんの番組でやって居たものだな?

 

 

京うちわ | 京都式 (kyotoshiki.jp)

全商品 - 京うちわ 阿以波 (ocnk.net)

 

うわあ、何て美しいのだらう。

 

こんなもので扇ぐかまた鑑賞したりすれば此のクソ暑い日本の夏もスッカリパラダイスとなり得るのではないか!

だがどうにも値段が高くまるで手が出ぬ。

 

但しヤフオクにて千円でもって中古品が出て居た。

が、どうも取引をすること自体が面倒だ。

 

實は面倒なことをして居る時間其のものが無い。

兎に角色々と家のことをやらねばならぬので。

 

ですが筆記具の改造にはまた嵌って仕舞い先程もまた竹ボールペンを壱本作って仕舞った。

 

果たしてソレはどんなものなので?

例の筆の軸のボールペンですか。

 

 

いやさうでは無い。

まさに其れはコレを使った改造ボールペンだ。

 

 

Amazon | Akozon 万年筆 ペン 竹製 天然 0.7MMペン先 細字 高級 手書きギフト 書道家 芸術家 学生 愛好家 

Amazon | Perfeclan 耐久性のある天然竹の万年筆に適用子供の誕生日プレゼントライティングプライス14.5cm

 

かうして幾らでもアマゾンで買えるのが竹軸の安い万年筆だ。

ところが此の品が凄く良いのである。

 

元々細身でもって長いペンが好きな私は此の種のものを此れ迄に五本位は得て来て居る。

だが拾年前位までは此の種のペンは大抵品質が悪くすぐに壊れたりもしたものだった。

 

其れで此の弐年程の間に弐本を求め評価してみることとした。

すると其れ等が非常に品質の良いペンであることが分かったのだ。

 

此のペンは中國製だったか、其れとも東南亜細亜製だったか、兎に角亜細亜のペンである。

其の竹の扱いの上手い亜細亜の國の産なのでどうも出来栄えが良いのであらう。

 

だから安いからと言って馬鹿になどしてはならぬのだ。

どんなものでもさうだが此の世に於いてバカにし得るものなどは無く且つ眞に尊敬に値するものなども同様に無い。

 

 

他方で私は以前から変わった形ー鼓型ーの銘木ボールペンを持って居て其れは地元日進町の工房でもって作られたものを拾年程前に百貨店で求めたものである。

其の銘木ボールペンの首軸金具を見て居たところ、何となく其れが竹万年筆の軸に嵌りそうな気がしたのである。

 

其れは所謂筆記具に於ける私の直感なのだ。

さういうのはまず百%当たることが多い。

 

でもって其の首軸を竹万年筆の軸に嵌めてみると思った通りに其れが完全に嵌った。

もリフィルの長さまでは合わぬ訳で其処はスペーサーを入れることで対処する。

 

イザ書いてみると其の竹軸のボールペンが素晴らしく書き易い訳だ。

元々東洋の言語であり漢字文化圏に属する日本語であるから本来ならばさうした竹の軸の筆記具の方が書き易くもなるのだらう。

 

で、余った万年筆の首軸の方を鼓型の軸の方へ付け替える。

するとこちらの方も完全に嵌りむしろ書き易くなった。

 

 

 

非常に簡単なことなのだけれども先入観があると其処に邪魔され其の種の自己流の改善のやうなものへは至れぬものである。

 

然し私は今長きに亘る筆記具との付き合いによりむしろ其れを自由自在に為せるやうになったのだった。

まさに其れがひとつの不思議なこと、全くの不可思議な境地だとさう述べて居るのである。

 

 

さうかうするうちに此の雨の中をヤフオクにて落した銘木 三角 ボールペン ウォルナットが届いた。

 

何しろ其の雨の降り方が昔ー弐、参拾年程前ーとは異なりヒステリックなものともなって居る。

まさに盆を覆したかのやうな降り方なので其れこそアッと云う間に道路が冠水したりもする。

 

大分のWANCHERさんには昔ー廿年位前から拾年程前までー大変お世話になり其処では主に中國の万年筆の魅力に就き開眼させて頂いたのだと言える。

中國の万年筆、特にかっての英雄の万年筆を私は萬佳さんから多く求めて居たのだった。

 

其の中國の万年筆は欧米の万年筆、特に独逸のモンブランペリカンのやうな精度には欠けた部分があったがまた其れ等とは違う魅力を秘めて居たのである。

 

 

また其のことは時間が経つうちにより顕著になって来た部分である。

モンブランペリカンが持つ精度があり所謂モノが良いとされる部分とは違う其の中國の万年筆の魅力とは一体何なのか?

 

結局其れは手作り品の良さ、合理化など為されては居ない感性の部分に訴えて来る要素があり其れがおそらくは我の心を掴んだのであらう。

但し中國の万年筆は一般に其の寿命が短い。

 

どうも其れは軸の方の作りの悪さ乃至は雑さに由来するものなのかもしれない。

だが結局は其れも使い方ひとつで変わるものなのだ。

 

 

其れに所謂コスト・パフォーマンスに優れるのは中國の万年筆であり且つ印度の万年筆である。

 

欧米圏と其の欧米圏との価値観を共有する日本の万年筆の値段は21世紀となると特に高級品に於いて顕著に上がり現在は大体拾万程は出さぬと高級品は得られなくなって居る。

ところが其の所謂高級品が皆高級な品であるかと言えば意外とさうでは無いのである。

 

其れは現代の高級万年筆がまさに合理化ー省手間化ーされて居り筆記感や個性的な外観などの感性にて把握される部分が意外となって居ないからなのである。

またペン先、万年筆の金ペン先はかっては鍛造、鍛金することで作られて居たのだったが現在は制作工程の合理化によるものなのだらう、機械による鍛えが若干施されるのみで其れも酷いものによっては書いて居る途中でペン先が曲がって仕舞うものさえある位なのだ。

 

故に其のペン先に限ればむしろ戦前の物の方がモノとしては明らかに良くなる。

但し戦前のペン先を今フルに使う場合には様々なトラブルが生じ易いこともまた確かなことなのだ。

 

 

然し其処も半分位の確率でフル使用してもまだ何とも無い個体がある訳だ。

なのでいずれにせよ戦前の万年筆は取り扱いが難しくなりプロやまたセミプロとしての我我位の知識と経験が無いと扱えぬ代物となるのである。

 

ですが概ね現行の万年筆は無難なものとされ過ぎても居り其れに反比例し魅力が減じられて居る訳だ。

だから手作り万年筆だの限定万年筆だのとまさにあの手此の手で付加価値を付けて行く訳だが其の万年筆としての本質的性能に関しては矢張りどうあがいたにせよ戦前の万年筆の方が上であると個人的には見て居る。

 

で、手作り万年筆だの限定万年筆だのとなると大抵は値段が高くなって行く訳だ。

さうして何処かで必要以上に儲ける人達がーメーカーをも含めてー現代の万年筆を売る人々の中に居ることであらう。

 

要するに現在でも金さえ出せば良い万年筆を得られようが其れが得られる確率はむしろ大昔に比べ大幅に低くなりつつある訳だ。

 

 

話が違う方向へと進んで仕舞ったのでまたボールペンの話に戻します。

 

対してボールペンは所謂進歩を遂げ素晴らしいものになりつつあるのだと私は思う。

其の進歩を齎したものとは低粘度の油性インクを開発した日本の筆記具業界としての技術的な力である。

 

特に三菱鉛筆が開発したジェットストリーム (ボールペン) はボールペンによる筆記の世界にまさに革命を齎したのだと言える。

 

ちなみに昔からuniシリーズのファンだった私は当初より此の低粘度油性インク芯の書き心地の良さに気付いて居り従って発売当初より此れを使い続けむしろ最初から其れをベタ褒めして居た訳だった。

尚私は万年筆に限らずボールペンや芯ホルダー、鉛筆やシャープペンシルなどむしろ何でもござれの筆記具愛好家なのだ。

 

万年筆のコレクターには気難しい人が多く其れこそボールペンなど嫌いだと言う人がむしろ多いのだが其の点では私は気難しくは無く他の面で気難しいとも言い得ることだらう。

しかも私は万年筆のコレクターとしてはむしろdeep派で其れこそ人が見向きもせぬやうな百年以上前のアンティーク・ペンの世界をずっと標榜して来たにも関わらず。

 

従って私が制作する改造ボールペンには全て此のJET STREAMの低粘度油性芯が組み込まれて居る。

何故なら今でも其のJET STREAMの低粘度油性芯以上のものを使った試しは無いからなのだ。

 

 

さて銘木 三角 ボールペン ウォルナットの話に戻れば、此のボールペンに限り其のJET STREAMの低粘度油性芯が組み込まれては居ない。

其れには所謂パーカー規格の独逸製油性芯が入って居り其の書き心地はJET STREAMの低粘度油性芯程に軽くは無い。

 

されど決して悪くは無い書き心地である。

其れは決して昔ー弐、参拾年前ーのボールペンのやうに筆圧の要る重い書き心地なのでは無い。

 

然し私が此の銘木三角ボールペンを得るのは實は参本目なのだ。

 

で、壱本目の黒檀の軸のものはすでにJET STREAMの低粘度油性芯仕様へと改造してある。

尤も改造は少々手間がかかり難しいので其の方法はあえて述べないのだが。

 

 

WANCHERさんの銘木ボールペンは細身であるところも個人的に気に入ったところである。

細身のペンは今なかなか得難く、されども銘木ボールペンとしてのパトリオットタイプは概ね軸が太目なのでかうしたスッキリとしたシェイプのペンが欲しくなるものなのだが其れが何故か何処にも無い。

 

さうかうして居たところたまたまヤフオクにてかの懐かしい萬佳さんが何と銘木ボールペンを沢山出品されて居られるではないか。

しかも其の軸には何より個性があり私が好む多角形の軸即ち角軸だったのである。

 

其れには此の三角軸と六角軸とがある。

其の六角のタイプも壱本持って居るが三角の方がより個性的であり好きである。

 

さて画像のウォルナットの軸のものは今回初めて落札出来たのだったがモノと云うか出来が一番良いものであった。

 

まさに素晴らしい物なので或は弐、参本は持って置くべきものやもしれません。

ちなみに其の値段は送料込みで大体弐千円弱である。

 

 

新商品開発ストーリー JETSTREAM|プロジェクトについて|新卒採用情報 三菱鉛筆株式会社 (mpuni.co.jp)

ジェットストリーム開発秘話 市川秀寿 物語 完結編 予算超過の問題児 裏技を使ってついに発売!三菱鉛筆uni jet stream ジェットストリーム・アタック 黒い三連星 市川秀寿の闘い - YouTube

 

JET STREAMの低粘度油性芯は兎に角モノが良くサラサラと樂に書ける。

筆記感で言えば其れはむしろ筆の方に近いもので要するに良く出来た万年筆並に力を入れずに書けるのである。

 

ところがパーカー規格即ち独逸のシュミットの芯の方も若干ネットリ度は増すものの實際素晴らしい書き心地なのだ。

此処からも矢張りと言うべきか其の技術力は日本と独逸の独壇場なのかもしれません。

 

只、其れーJET STREAMの低粘度油性芯ーを中國製の竹軸に組み込んでみたところ我にとり恐るべきペンとなって仕舞いつまりは最近やったペン改造の中では一番の結果を出して仕舞った訳だ。

だから物事は一体何が起こるものか分からぬものなのだ。

 

だが何があったにせよJET STREAMの低粘度油性芯こそは常に凄いのである。

またWANCHERさんの銘木ボールペンも魅力的で大変宜しいと個人的にはいつもさう思って居る訳だ。

夏はカレーと氷でせう

まあさうして其の資本主義に大きく疑義を呈して置きながら他方では資本主義の齎す多様な物の世界にドップリ浸かると云うまさに素晴らしく矛盾的な暮らしをもう長く続けて来て居ります。

 

ですが其れは皆様も同様のことで、さうしたモノの世界にせよ色恋の世界にせよまた酒だ薬だ煙草だにせよ何でも分かっちゃ居るけど止められぬのが所詮は人間の本性だと云うことです。

此の本性と闘うのが理性ですが、其の理性も過ぎますとかっての文豪達のやうにまたキチ外画家の如くに或はキチ外音樂家達の如くに早死にしたり気が狂ったりどうしてもするのです。

 

 

だから馬鹿であることの方がむしろ幸福だと云うことだ。

命を縮めかねぬ其の本質への遡及の世界など捨て是非馬鹿にならうではないか。

 

どだいこんなクソ暑い夏に御勉強などして居るのは如何にも頭のおかしい人のやることだ。

其れもよりにより其の印度哲學をカレーを食いながらやって居る人の気が知れぬ。

 

カレーを食いながら?

勿論其れはレトルトカレーのことだな。

 

 

いや其れも以前はカレーを煮て作っても居たのでしたがもはや其れが面倒でならぬのだ。

さう食に関する活動の其の全てが面倒なのでなるべく簡単にして仕舞いたくなる。

 

御飯を炊くのも面倒なのでパック御飯又はスーパーの饂飩、或は仏蘭西パンで其れを食せば良い。

さすれば余った時間を思考に費やすことが可能だ。

 

 

また家は壱年程前から宅配🍱をとって居たのだが其れが年寄り向きのものだった故今後我の分はガストでとることとした。

 

ガストの「若鶏の唐揚げ弁当」は大体四百円以下だが安くて美味い。

尤も此ればかりだと飽きるので「ハンバーグ&若鶏の唐揚げ弁当」を少しだけ其処へ混ぜる。

其れにグリーンサラダを二つばかり頼み、其れを「若鶏の唐揚げ弁当」と「ハンバーグ&若鶏の唐揚げ弁当」へと混ぜ込み同時にレモンを弁当から引き抜く。

 

其のレモンで檸檬水も出来れば檸檬シャーベットなどをつくることも可能だ。

 

 

かうして五千円以下で我の一週間分の飯が用意出来るのである。

尤も其れとは別に「若鶏の唐揚げ」×弐も頼むのだが此れは🐈が食う分である。

 

其の鶏肉食はどうも體には良いやうだ。

だが個人的に何故かチキンカレーは食わぬのである。

 

 

カレーは色んなレトルトカレーが何故かいつの間にか家に集まって来て東南亜細亜の缶入りスパイシーカレーなどが参缶もあったので食ってみたところ其れが至極美味かった。

 

またいつもカリー屋カレーだと飽きるのでたまに安売りされたジャワカレーのレトルトを買って来るが其れもまた美味い。

ちなみにジャワカレーのレトルトで激辛と云うものがあるがなかなか売って居らず今回其れを始めて手に入れたのであるがまだ食っては居ない。

 

何故なら激辛カレー物は気を付けて食わぬと胃の方をやられて仕舞うのである。

以前に何度か酷い目にも遭って居り一旦胃がやられると壱週間程も体調が悪い。

 

 

商品一覧 - 新宿中村屋オンラインショップ

中村屋のレトルト印度カリーも美味いが但し此のシリーズのものは食したことが無い。

 

 

左様にレトルトカレーは今や膨大な種類が世に出されて居り其れをチェックし順番に食って行くだけで大変な労力を要する訳だ。

 

 

ご当地カレー,ポークカレー>飛騨なっとく豚カレー 中辛

飛騨牛カレーの方が或は一番美味いのやもしれぬが此のポークカレーこそがまさに絶品である。

高山出身の従弟の嫁が何故か時折家へ持って来て呉れる。

ちなみに飛騨牛カレーを食ったことは無く其れが今後の課題である。

 

但し飛騨牛カレーは何せ高いのでまさに其処にこそ反発するのだ。

さうしたブランド化されたものの価値がひねくれ者の私にはどうにも気に障るのである。

 

 

男乃カレー ビーフ オリエンタルカレー ネット通販サイト

此の男のカレーが結局一番美味い。

だが其れを知って居る人はおそらく少ないことだらう。

 

かくして私はカルト人間なので人のやらぬことをあえてやり知らぬことをあえて知りまた言わんでも良いことを言い皆が食わぬものを食いたがる。

 

 

オリエンタル 懐かしの定番 「即席カレー」

我我にとってカレーと言えば此のオリエンタルのしかも此の印度人のコックさんの顔が付いたパッケージのものでなくてはならぬ。

 

つまり他のものは實はカレーでは無い。

此の「即席カレー」のカレー粉は今味わえば決して美味いものでは無いのだが其れは我我が小学生の頃に食わされた謂わばソウルフードであり此処以外には世界中の何処にも無いものなのだ。

 

 

ーオリエンタルの由来は、東洋食品の東洋を「東洋風の」カレーの意味合いも含めて英語読みにしたものである。因みに東洋食品は1922年大正11年)に「東洋商会」への社名変更を経て、カレーのオリエンタルに遅れる事20年後の1965年(昭和40年)にオリエンタルコーヒー商となり、コーヒー豆焙煎などの輸入食品商社と不動産業として現在に至る。

個人創業の時代は妻と2人で商品をリヤカーに積み、チンドン屋先導で売り歩く商法を取った。あんパンが1個5円の時代に、5皿分1個35円と高価ながらも飛ぶように売れたという。法人化後の1953年(昭和28年)からは、踊りや大道芸など様々な芸人宣伝カーに乗せ、興行とカレーの試食会を兼ねた斬新な宣伝活動で、オリエンタル坊やのキャラクターのスプーンや風船を配るなど、全国各地を巡り、テレビやラジオの提供(がっちり買いまショウなど)やCMソングなどの広告宣伝で知名度を上げ、1961年昭和36年)に販売部門を分離した株式会社オリエンタル洋行を設立して、全国各地へ販売網を拡大。個人創業から工場化後も、職人による添加物が少ない自然なカレー作りに一貫してこだわり続け、1966年(昭和41年)に稲沢市へ工場移転後も受け継がれた。

1962年(昭和37年)には、インスタントカレー第二弾である容器入りのチャツネを付けたオリエンタルマースカレーを発売。稲沢市の新工場のレトルト設備完成に伴い、1969年(昭和44年)にスナックカレーを発売(5年後に販売終了)。南利明出演のスナックカレーCMの「ハヤシもあるでよ〜」の名古屋弁フレーズは当時の流行語になった[1]1973年(昭和48年)に清涼飲料事業に進出。グァバドリンクや炭酸飲料などを各地のオリエンタル洋行を通じて主に自動販売機などで販売された。ーオリエンタル (食品メーカー) より

 

オリエンタル会社のマスコットキャラクター「オリエンタル坊や」

 

 

此の印度人の顔の黑い坊やこそが何よりカレーの美味さを引き立てるのだ。

 

尚私の自慢はオリエンタルの金のスプーンを持って居ることなのである。

しかも其れを五年程前オリエンタルのカレーを買った時に当てたのである。

 

オリジナルグッズ | 株式会社オリエンタル

こちらにも其の金のスプーンが載って居る。

当選確率がハンパない懸賞の特賞? - オリエンタル オリジナルゴールドスプーンのレビュー

此のやうに何と純金張りが施されたスプーンなのだ。

 

だが勿体無いのでたとえ当たったにせよ決して使えぬスプーンなのだ。

だから私は通常オリエンタルの普通の銀色のスプーンーステンレス製のーでもってカレーを食って居る。

 

しかしながら其のスプーンの柄の部分にはちゃんとオリエンタル坊やの意匠が付いて居るのである。

其の印度人の坊やの意匠がスプーンに付いて居ると何故かどんなカレーも美味しく食べられるのである。

 

尚、其のステンレス製のオリエンタルの普通の銀色のスプーンは確か高校へ行って居た頃にすでに使って居た気がするのである。

であるとすればすでに五拾年近くも使い込んで来た訳だ。

 

 

 

かき氷

其れは此の蒸し暑い日本の夏を乗り切る為の必需品である。

 

だが、店のかき氷は値段が高い場合が多い。

また安いガリガリ君商品情報|赤城乳業株式会社ならば良いかともまた思うのだが最近は其れを買うのもまた億劫になって来た。

 

其れで自分でもって何かを凍らせてみることを考えてみた。

其れも只の氷では不味いので砂糖水とか其のやうなものをつくり其れを凍らせて行くべきだ。

 

 

試しにチェリオの自販機で「レモネード」と「ゆずスパークリング」を購入し其処へ水を混ぜ凍らせてみたところ結構美味い氷が出来たのだが半分水を混ぜて居るが故に何ぶん固い訳だ。商品一覧 < チェリオ オンラインショップ

 

其の半分水を混ぜるのは甘過ぎるからなのだ。

市販の清涼飲料水は左様に甘過ぎるから私の場合は其れを倍に薄めて飲んだり凍らせたりする。

 

只有望株なのは「ミルク紅茶」や「カフェオレ」を其のままに凍らせてみることだらう。

おそらくは其れは大変美味くなることだらう。

 

ちなみに昨年の夏に私はとある洒落た喫茶店で紅茶かき氷なるものを初めて食したのであったが其れがまた絶品だったのである。

さうか、抹茶かき氷があれば紅茶かき氷があるのはむしろ当たり前のことなのでありまた我は元々紅茶派なのでまずは自販機にて其の「ミルク紅茶」を買って来まずは最初につくってみるべきだったのだ!

 

 

次に凍らせてみたのがスジャータの百%ジュースである。

果汁・野菜飲料│スジャータめいらくグループ

 

うわあ、然しいつの間にやらこんなに種類が増えて居たのか。

但し百%ジュースで無いと其れこそ水分が氷となり固くなって仕舞うことだらう。

 

 

私は其の百%ジュースとしてのフルーツフェスタのオレンジでもって試してみたが其れがまさに成功したのであった。

 

其の凍ったものを弐、参拾分外に出し解凍する。

するとスプーンにて崩せる位となり其れを盛れば程良いかき氷状態に!

 

其れを食ってみよ。

ジャリジャリ。

 

 

さう、まさかかき氷程やわらかい氷とは決してならぬのだがいやあむしろこちらの方が氷としては豪快でしかもサッパリして居るぞ。

其のサッパリして居るのは市販のかき氷製品の如くに余分な糖分が入って居らぬからなのだ。

 

其れに量の方もある。

其のフルーツフェスタのオレンジ壱本を丸ごと凍らせると弐、参日はかき氷を連続して食って居られることともなる。

 

おまけにスギ薬局ですと百円程で売られて居るのである、其のフルーツフェスタ壱本が。

 

 

白桃100%│スジャータめいらくグループ

おお何と!

一番美味そうな氷となりさうなのがまさに此れである。

 

マンゴーブレンド│スジャータ

グァバブレンド│スジャータ

さらに此れ等もまた如何にもイケさうだ。

 

 

要するに此のスジャータさえあればコンビニでかき氷を買う必要などは無いのである。

 

スジャータでお馴染のめいらくグループスジャータめいらく株式会社は家から自転車でもって拾分程のところに本社がある。

 

此のやうにむしろ自分でもって工夫してみること、常識的な発想に留まらずチャレンジしてみることでむしろより良くなる、即ちより自分的に納得出来豊かにさえなれる可能性すらもが我我には常に選択肢として残されて居るのだ。

 

 

ちなみに本日私はNHKでもって大谷 翔平が活躍する大リーグ中継を視て居た。

総合TVでの大リーグ中継などは滅多に無いことなのでまさにTVに齧りつき其れを視て居た。

 

謂わば彼は異次元の天才なのでさうして超人的な活躍が出来るのであらう。

また彼のバッティングでのアノ打ち方、アレはどう見てもホームラン狙いのすくい打ちで普通ならコーチなどが直して仕舞うものなのだらう。

 

だが彼はやってるじゃないか。

其のオンリーワンの世界でもって彼は自らを発揮して居るだけのことなのだ。

 

自己へのチャレンジとはまさにさうしたことなのではないか。

自己實現の為に己を貫くこと、まさに其れが思想であり反抗で無くて何なのであらう。

 

 

で、傍から見てどんなにバカバカしく見えやうが此の度の私の其のかき氷への挑戦、自分にとっての美味しいかき氷の完成に向けての努力こそがまさに我にとっての思想であり反抗其のものなのだ。

 

其れもな、オリエンタルの👨のカレーを食ってからスジャータでつくったかき氷を連続して食うことこそが今の私にとっての一番の夢なのだ。

 

しかもな、其の特別なカレーを食う時のスプーンは必ずやオリエンタルの純金張りのスプーンでなくてはならない。

 

拘りとはかうして様々な部分に持ち得るものである。

其れがどんなものであれ、其処には常にストーリーがあり何より實存としての必然性のあるものなのだ。

印度の万年筆への熱い思い

 

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Click Ebonite Fountain Pen


大島康徳さん死去、70歳 中日で2度のリーグ優勝貢献 大腸がん闘病「余命1年」宣告から4年8カ月

 

いやだからこんな風に人間の寿命と云うものはまさに人により違い、其れこそ昔の藝術家のやうに僅か参拾歳で死ぬる人もあれば九拾までも生きる人も居る。

だが私はまずは還暦までは生きるべきだとさう考えて居たのである。

 

であるから還暦以降の生は其れは余分な生でありまさにオマケみたいなものだとさう考えて置くべきなのだ。

大体天才型の人間はさうは長生き出来ず凡人に限っていつまでもダラダラと生きて居るものなので私の場合はどう考えても前者の可能性の方が高く従って八拾のヨレヨレになってまで生きて居る我の姿などなかなか想像し難いものなのだ。

 

再選の木下富美子都議、無免許運転か 交差点で事故

 

いずれにせよ其の寿命の話とは別に権威や権力の上には胡坐をかかぬ方が良いことだらう。

自分は議員なので偉いだとか、また地位があるので威張っても良いだとかそんな風に社會的に胡坐をかいて居る奴程地獄へ堕ちる時の其の度合いが酷くなる。

 

地獄へ堕ちる奴とはそんな威張る奴のことなのだ。

 

どこやらのカルト詩人も他の面でまさに威張って居るやうだが…。

 

馬鹿者!

あくまで其れは文人としての矜持である。

 

文人はな、まさに遊びでは出来ない仕事だぞよ。

其れも命を懸けてな、やらねばならぬ事業だぞよ。

 

 

「三島喜美代 命がけで遊ぶ」 - 日曜美術館 - NHK

 

昨夜はこちらの番組を視感銘を受けた。

此のアーティストの婆さんは家の母と同年代なのだけれどもこんな高齢でも一級の藝術家として活躍して居られる。

 

さても藝術とは一体何なのだらう?

たとえ藝術は無くともかうして腹は減り飯を食う訳だがもしや心の飢えを充たす為に其れはあるのやもしれぬ。

 

藝術はまた観念は齢を取らぬ。

肉体はかうして劣化して行く訳だが藝術家や哲學者となるのはたとえ八拾歳であれ可能なのだ。

 

だから藝術とは純粋に人間的な営為である。

其れ即ち観念のなせる技なのだ。

 

 

時代が生んだ「情報の化石」。女性アーティスト・三島喜美代の作品が公開中

三島喜美代 今、世界が熱視線を送る作家 | 富裕層向け情報 現代アート投資 - ENRICH

 

藝術はまた金と結び付き易い。

金と結び付いた藝術は或は堕落するのやもしれぬ。

 

其れも体制と結び付いた藝術が墜落するのと同じで要するに不純なものとなり易いのがメジャー化された藝術なのだ。

 

だが藝術にもまた色々とある。

 

三島氏の藝術はまた即物的に現代の不安、近代社會に潜む危うさをストレートに表現して居る。

其の即物的になり過ぎた文明への批判や危機感が其処には込められて居るのやもしれぬ。

 

また其ればかりを一貫してやって居られる点こそが女性的な律義さなのだとも思う。

 

また藝術は麻薬のやうなものだとも仰って居る。

まさに其れからは逃れられぬのが藝術家なのだと。

 

 

我もまた感度の部分で表現したい部分が無いでは無い。

だが私の場合は絵や造形や音樂の方へは向かえなかった。

 

私の場合にはあくまで文の世界なのである。

其の文の世界は何かと七面倒臭くより間接的な表現の世界である。

 

 

さう云うのよりはもっともっと解放されたいと云う気が何処かにある。

もっともっとパッと分かる奴でしかも悩みの無いものの方が良い。

 

でもゲージツ家でしかも悩みが無いのだとするとひよっとして其れはマッド・サイエンティストの場合と左程変わらずつまりはとても危険な存在なのではなからうか?

特に其の思い込みが強いと云う点でまさにさうなのではないか。

 

要するにキチ○科学者とキチ✖藝術家はほとんど同類のやうに思えるのだが果たして其処はどうなのだらう?

 

まあ仰る通りでキチ○科学者の群れは地球を破壊ししかも其の大罪を省みぬ訳です。

またキチ✖藝術家の群れは俺らはゲージツ其のものだとか何だとか吹聴し訳の分からぬ駄作を羅列し其処に危険思想さえをもしかと込めて置くものだ。

 

でも貴方方はそんな魔道に堕ちること無くさうして日々生活に追われて居るのですから其れがむしろ幸せだとさう申して居るのです。

 

幸せ?

すると幸せとは何も知らずに生を終えることなのですか?

 

さうです。

むしろ何も知らぬ方が良い。

 

さうしてキチガイなどにはならぬ方が良い。

 

でも凡庸であることは哀しいことでもある。

知る者は常に苦しく其れは理系でも文系でも何系でもまさに苦しいことなのだから。

 

 

 

さてまさしく印度哲學中の我に合わせてか印度から万年筆が届き其れが如何にも印度らしい訳の分からぬペンでした。

印度のペンは左様に分かりにくいところこそがまさにサイコーです。

 

かうして印度人が其のエボナイト軸のペンを作る。

其れもかの印度のことですから🏭が其れを作るのでは無くまさに印度人の手が其れを作るのだ。

 

しかしながら其の印度人の手には印度哲學としての血統が脈々と受け継がれておる。

 

其れによりとどのつまりは欧米の価値観からはどうしても外れて仕舞う。

如何に英國の価値観が混じって居るにせよ印度人の其の哲學的本質は変わることが無い。

 

 

だから我我は其れを手に取った瞬間、???と必ずや思うことであらう。

なのだが印度ではむしろ其れは常識の範囲内でのことなのだ。

 

第一印度人の家には便所が無いと云うことを聞いたことさえもがある。

 

 

なぜインドのトイレ普及率は5割以下なのか | アジア諸国 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

なる程、さうだったのか。

 

ヒンドゥー教では「浄と不浄」という観念が強く意識される。物理的な清潔、不潔とは異なるものだ。神聖視する牛のふんは不浄とみなされず、宗教儀式や日常の燃料として重宝される。一方で人の排泄物や汗などは不浄とされる。カーストも浄と不浄に基づき、最上層は浄とみなされ、下層の人は不浄とされる。古代インドの経典には「大小便に用いた水は家から離れた所で処理すべきである」と記されている。ー

「家から離せ」ヒンドゥーの教え トイレが遠いインド:朝日新聞デジタルより

 

ウンコやオシッコは必ずしも印度に於いて嫌われて居ないにも関わらずかうして「大小便に用いた水は家から離れた所で処理すべきである」なのである。

ところがかって日本でも便所は家の外にあった訳だ。


半世紀以上前の母の實家ー名古屋市南区星崎町ーで實際に私は其の家の外の便所を使用したものだった。

其れと我が家は五拾五年程前までまだ汲み取り式の便所であった。


従って私もまた其の便所を小学生の低学年の頃まで使って居たのである。


しかしながら其の便所はとても臭いのである。

しかも蛆が涌くのである。

便所の壁やら便器の周りに其の蛆共が自然に涌き出て来るのである。


故に我の實感として其の意味での不浄を放逐した近代文明の力は認めざるを得ない。

然し何故か近頃其のとんでもなく臭く汚かった便所のことばかりが思い出されてならぬ。


 

ー「水洗は便利なシステムかもしれませんが、聖なるものではありません。野外で用を足せば、太陽の暑さによって肥料になり、微生物が分解して姿を消します。水洗は乾燥できず、いつまでも汚いものとして残るのです」
 「彼ら(ダリット)が汚く、差別されて然るべき存在というわけではありません。社会がそのように区別していただけで、彼らも喜んでそうした仕事をしていたのです」ー

6億人がトイレのない生活をしている国 『13億人のトイレ』 | BOOKウォッチより

 

此のヒンドゥー教の高僧の発言によればむしろ野糞、立小便こそが大自然と一緒になり生きる術だと云うこととなる。

尤も其の高僧も自らの家に水洗トイレを完備して居たさうであるが思想としてはあくまで其のやうにウンコやオシッコが肥料となり自然消滅する方法の方がよりスマートな汚物処理としての方法である。

 

また一面では其の野糞、立小便こそはとても気持ちが良いものである。

實は我も昔は山の中で良くウンコを垂れたりションベンしたりしたものであったが兎に角其れはサイコーに気持ちが良かったのである。

 

逆に申せば其の野糞、立小便の愉しみを滅し合理化して仕舞ったからこそ都市生活は綺麗でスマートなのだけれども何かが物足りぬのだ。

其の綺麗だけれども何かが物足りぬのは欧米による近代合理主義文明の癖のやうなものなのではないか。

 

女性に危険が迫る「インドのトイレ事情」とは | ハフポスト

いやそちらの方面のことは良く分かりませぬがもしやアノ顔が黑めの印度人は性欲の方が強くあるのでせうかね?

 

要するに其の印度が欧米型の文明をやり近代を受け容れたと云うのにいまだかの國はウンコを垂れたりションベンしたりするのに至極困る國であると云うことなのだ。

 

其処からすると日本はまるで違うねえ。

特に最近都會は綺麗過ぎるのではなからうか?

 

さうかと言って何かと神経質な我は綺麗な便所でないと使えない訳なのですけれども。

 

嗚呼何せ我は感覚が細かいのでむしろ👩に生まれて居たらおそらく物凄い良妻賢母となって居たことであらう。

何より其処が少し惜しい。

 

 

ところで其の印度の万年筆は何処がどう良いのですか?

 

一言で申せば合理化されて居りません。

故に所謂アイ・ドロッパー(点眼式)の原始的なインク供給方式を採り筆記感をも含めてよりストレートであり其れが原初的に味わえるものだ。

 

然しそんな印度の万年筆も次第に合理化されつつある。

例えば両用式などのより近代的なインク供給方式とし現代社會ー都會ーに合った物へと変化させて居るところです。

 

ところが其れをすれば本来の印度の万年筆の魅力である素朴さや応用力の幅広さが減じて仕舞うことともなる。

要するにさうして全ての価値は変われば変わったで全的に其れが良くなるものでは無くむしろ破壊される面が生じて来る訳だ。

 

印度人の思想もまた其のやうにいつしか合理化されて行くのですか?

個人的には大きくは変わらない方が良いやうにも思います。

 

私は日本人の精神は大きく変わったとさう最近感じて居る。

其れは合理化されたと云うことに尽きるのではなからうか。

 

彼等は今合理化された価値による価値ヒエラルキーを築き其の内部でのみ価値を決めつつある。

 

だからこそ想定外の出来事には脆くも崩れ去りまた数的還元された価値には如何にも弱い。

また権威や権勢、権力に抗する反骨心さえをも失って仕舞った。

 

むしろ其れは視野狭窄によるものなのではないか。

 

其の昔ながらのエボナイトの軸のペンにせよ、かっての日本のペンはまさに其の古き良き素材にて作られて居た訳だ。

だが今や其れは稀少な高級材となり日本や欧米のエボナイトの軸のペンは高級万年筆となり兎に角皆其の価格自体が高いのである。

 

だけれども印度のペンはまた其れとは違うのである。

つまりは弐千円、参千円でもって其のペンが得られる訳だ。

 

 

そんなに安いのはモノが悪いのでは?

 

いや其れが決して悪くは無いのである。

何故なら其れは印度人の職人さん方が丹精込めて作った壱本の作品だからなのだ。

 

つまりは手作り品なので?

さう手作りの品なのだ。

 

 

此処五年程私はさうして印度の万年筆をあれこれと集めて来た訳だった。

rangahandmadepensと云うところのペンを主に集めて居たが、其れが今年に入りどうやら辞めて仕舞ったやうである。

 

或は印度型のコロナに感染したのやもしれぬ。

また米國でも有名な五つ星のアンティーク・ペン店があったのだけれど其れも今は世界オークションには出して居ないやうだ。

 

Vintage Fountain Pens  (fivestarpens.com)

うーむ、どうも店の方はやっては居るやうだ。

 

Ranga - Page 1 - Peyton Street Pens

あれ、さうか、此処にもあったのだな。

 

其の印度のRangaの手作り万年筆だが、矢張り五年程前からだらうか、此の米國のペン屋が其れに見惚れ自分の店用に改造して売ったりもして居る訳だ。

だから本家のRangaー父と息子でやっているーがたとえコロナにやられてもペイトン・ペン屋の方が復活したのでRangaの手作り万年筆の在庫があると云う話のオチである。

 

さう實は其のペイトン・ペン屋の方も米國で猛威をふるったコロナにやられたのか確か昨年は探しても出て来なかった筈なのでおそらくは生き返ったのであらう。

とのことで、こんなペンの世界のことでもコロナにより激動の時を迎えておったと云う話だった。

 

 

今回のペンは思ったよりも細く長い軸のタイプでまるで昔のオノトの如き姿をした一種マニアックなもので弐本で大体五千円弱である。

 

壱本は改造に回そうかとも考えて居るところである。

teal-blueと云う其の藍乃至は紺の軸色が素晴らしく、其れは以前求めたteal-blueの別のタイプの軸に感動し更に求めたものであった。

 

緑色の方は印度の万年筆に良くある色だが此れはリップルーさざ波模様ーがむしろ無い方が良いやうだ。

印度の万年筆の軸は和の感性からすれば柄が少しウルサイ感じもまたする。

 

日本人は何せ感性が細かいので其処は少しく彼等とは感覚が異なるのやもしれぬ。

だが印度の万年筆はコスト・パフォーマンスに優れる良いペンである。

 

壱番良い点が其処に手作りのペンのぬくもりのやうなものが感じられる点なのだらう。

だからRangaには早く復活して欲しいところであるが或は復活はもう無いのやもしれぬ。

 

物もまた人なども全ては一期一会での出遭いでのことであり、先のことはもはや誰にも分からない。

だが五年間に及ぶRangaペンとの付き合いはさうして丹精込めて彼等が作って呉れた万年筆は記憶として残り且つ物としてずっと残る。

 

人間にはいつかは何かとの別れの時がやって来る。

勿論其の場合にも、記憶や其の思いは失われたりはせずにずっと残るのだ。

夏休みとしての七月を樂しく過ごす法

安倍前首相「反日的な人が五輪開催に強く反対」 月刊誌の対談に

 

かうしたことを言うしか無い安倍氏は何せ頭の出来が悪いのでむしろ可哀想である。

是非同情申し上げておきます。

 

其の反日と云うのは儲け主義にかまけて日本の自然を壊す奴等を反日と云うのであり🗾社會を正しく革命へと導き自然を守り良い國にしやうと云うマルクス主義者の考えなどは如何にも愛國者であらう。

だから安倍氏は兎に角頭が悪く、そればかりかアノ🐊麻生氏などはもっと頭が悪く、さらに其れに加えかの小泉の如きタワケの血が入るともう信じられぬ位の阿呆のオンパレードとなって仕舞い其れでは政治の意味其れ自体が無くなって仕舞うではないか。

 

どだい官僚なども頭が良いとされて居るのだが最近は國のことを想わず自己利益にばかり群がるやうな輩が出て要するに頭だけは良いのだが心の方がなって居ないのではないか。

 

其れは多分自民党の政治が腐って来たことの何よりの証拠だらう。

さらに言えば其れは江戸幕藩体制がもはや通用せぬと云うことをも指し示して居る。

 

 

だからどう考えても此の際マルクス主義の重要性を是非學ばねばならぬのではないか。

 

 

NHKオンデマンド | こころの時代~宗教・人生~ 「あなたを知ってしまったから」

昨日此の番組をEテレにて視聴し日本社會と云うか資本主義が抱える暗部の部分を痛感させられた次第である。

問題は其の安価な労働力として高度経済成長を支えた東北からの出稼ぎの方々が高齢となり且つ社會の不安定さもありホームレス化しかうして大都市圏でホームレスとして野垂れ死んで行くと云う其の事實であらう。

 

NHKオンデマンド | 福島モノローグ

次に此の番組を視たが、視るなり即感動した。

此の人は都市部の土方仕事にかって従事した福島人であり年齢は私と同じ61歳である。

 

で震災以降🐂や🐕や🐈を救う為に避難勧告を無視し地元に残り其処で自給自足の生活を続ける独り者の方である。

此の方は私と違い可成に爺に見えるのだが兎に角畑を耕し🐂の世話をし頑張って居られる。

 

逆に言うとかように土地さえあればホームレスにならずには済むのである。

其れでも生活は苦しいのだと云う。

 

 

然し少なくとも其れが人間的な生き方に見え逆に彼が輝いても見えたのだった。

我我還暦世代が知って居ることとはかっての其の高度経済成長の様である。

 

さうして当時はさほど疑問には思わなかったのだが結局其のホームレスの問題もまた福島の原発事故の問題も結局大都會と云う合理化システムが自然に強いる収奪であり搾取の問題へと帰するのだ。

 

大都會とはさうした偽善だの欺瞞だの兎に角其の価値観が腐ったものであることがかうした番組からしかと分るではないか。

要するに都合の良い部分でやりたい放題に収奪と搾取とを重ね、イザさうして天災だの人災だので都合が悪くなると容赦なく弱い者ー田舎の出稼ぎの奴等ーを切り捨てて行くのだ。

 

 

保守派の抱える問題点とはひとえに其の体制としての腐敗、劣化の部分にこそある。

であるからこそ政治家や官僚は常に理性的に自らのあり方を反省して置かねばならない。

 

ところが其の理性が働かなくなることこそが其の腐敗であり劣化なのだ。

 

行政に限らず立法、司法の面でも其れに携わる者は常に理性的に自らのあり方を反省して置かねばならない。

だが其れが諸矛盾によりやがて崩れ始めて来る。

 

なので其れを批判し正常な状態へと復帰させるのが作家の発言やジャーナリズムなどの文の力なのだ。

かの三島先生が為されたことも結局は其の文による批判であり且つ戒めであった。

 

また立花 隆氏などは臆せず強大な権力と闘い文としての眞實を全うされたのだらう。

 

 

だが個人的にはもはや社會のことなど論じて居たくは無い。

かやうに私はすでに一種の世捨て人なので社會のことなど論じて残り少ない生を終えたくは無い訳だ。

 

だから此の七月のことを是非考えてみたい。

 

私は62年前の梅雨明けの頃に生まれた。

だから此の七月の始めの頃は、私が此の世に生まれる直前の頃で全く不可思議な時節なのである。

 

良いか悪いかで言えば何故か私には良い、さうして優しい季節なのだ。

 

ところが決まって大雨が降る頃で、自然災害などもまた起き易い時節である。

だが一方では七夕や月面着陸のことなども其の七月のことで何故か其のやうに宇宙と関連した時節でもまたあるのだ。

 

 

六月の終わり頃から七月の始めにかけての其の梅雨の晴れ間の陽射しや空程美しいものは此の世には無い。

其れは夏のエネルギーが溜まっては居るがまだ爆発しては居ない自然の様其のもの。

 

イザ其れが爆発すれば猛暑となり植物達も皆其のカンカン照りにやられ決まって元気を失って仕舞う。

だが此の七月の緑はまだ元気でしかも色鮮やかなのだ。

 

だから私は此の季節をこそ愛す。

芽吹く春の歓びよりも色とりどりの秋の訪れよりも何よりも此の不可思議な時節を好む。

 

 

學生の頃には皆夏休みと云うものがある。

此の夏休みと云うものこそが實は大事である。

 

ところが大人になると夏休みも何も無くなって仕舞う。

其の経済成長の為に夏も働く訳なので、日本人は普通三日間だけの盆休みを貰いさうして東北や北海道などから出稼ぎに来て居る人などが帰省する訳だ。

東北や北海道の素晴らしい自然から離れてあえて地獄の如きかの東京で日銭を稼ぐのは如何にも辛からう。

 

いや別に東京だけでは無く関西でも中部でも其れは同じことなのだけれども。

 

要するに金が無いので其れをやるしか無い訳だ。

左様に此の度の官僚の不祥事の問題も其の地方の搾取の問題も全ては其の金の問題へと帰結するのである。

 

 

だが東海地方ー静岡をも含めーは比較的裕福なのだ。

庶民レヴェルでは金が無いと言っても其れは田舎程無い訳では無く事實としてかのTOYOTAやかのイチローなどはむしろ世界壱の金持ちなのだ。

 

だから私もまた貧乏なのであるがすぐに死んじゃう程に困って居る訳でもまた無いのである。

 

 

嗚呼、夏休みが早く来ないものか。

あ、さうでは無かった。

 

さう言えばすでに毎日が夏休みであった。

只其の夏休みも金と体力が無いとジュラシック大恐竜展 | テレビ愛知 だのToyota Municipal Museum of Art 豊田市美術館だのさうしたものを訪れることは難しい訳でだから身近な部分で夏休みをやると云うこととならう。

 

 

サア、其れでは文房具の世界に埋没して行かう。

即ち現實逃避である。

 

其の現實逃避には、金、👩、酒の面で逃避することがむしろ一般的なのだ。

 

だから官僚も金を騙し取り豪遊などをする訳だ。

また👩に惹きつけられることをガマン出来る人などはまず居ない。

 

また酒、此れは仕事中にも関わらず必ずや飲みたくなるものだ。

私の父は其の酒飲みの地方公務員だったが良く飲酒運転でもって警察に捕まりさうになったのだけれど現行犯では無かったので結局新聞沙汰にならずには済んだのだった。

 

で、私の場合は何故か其の三つとはまるで縁が無いと来てる。

 

では何を愉しみに生きて居るかと云うに、其れはまず三島先生だの五木先生だのまた芥川 龍之介先生の文の世界に交わることである。

 

 

要するに読書である、読書。

しかも其れが相当にマニアックな域にも達して居り例えば今読んで居るのは印度哲學の本である。『インド哲学10講』|感想・レビュー - 読書メーター

 

かうして印度の哲學を學ぶことこそが實は今我我現代人に取り一番大事なことなのではなからうか。

でも其れをみんなは決してやらぬ。

 

だからこそみんなはダメなのだ。

 

 

つい先ほども鑑定団の再放送を視つつ飯を食ったが棟方 志功と百隠禅師の絵の本物を私はズバリと当てた。

 

尤もマチスリトグラフでは誤って仕舞った。

但しかうして私は高率でもって絵画に於ける真贋を見極めることが出来る。

 

其れは私が藝術に対する心眼をまさに有して居るからなのだ。

 

 

で、私はかうして日々雨が降る中を一心不乱に印度哲學を研究して居る。

尤も印度哲學を体系的に勉強したことなどは此れ迄壱度も無かった。

 

要するに私の頭の中其のものがほぼ其の印度哲學的なものなのであえて其れを學ぶ必要は無かった訳だ。

 

私の二元論、其の限定的二元論は私が自分の頭でもって考え出したものであり謂わば生きた知識である直観其のものなのだ。

其の点に於いて私の頭の中は決して大衆的なものでは無くむしろさうした先哲による観念的闘争の世界のものなのでもある。

 

私は其れを威張って居るのでは無くどうにもかうにも、兎に角自然とさうした領域へと結び付けられて仕舞う自らの頭の中身が自分でも不思議で仕方が無いのでありまたそんな不思議さは此の七月と云う不可思議な夏の季節と無関係では無いのではないかとも思うのである。

 

要するに私自身が其の七の化身のやうなものなのではあるまいか。

ちなみに私は所謂共感覚者であり数字に色が感じられるのだが其の感覚によれば七月は深いブルーの色をして居る。

 

其の「印度哲學拾講」を読みまず思ったのは自分の思考はほぼ印度哲學による二元論の内容と重なると云う部分であった。

 

いずれにせよ私は文人なのではあってもさうして極めて特殊な方へ頭や感覚が働くタイプである訳でであるからこそ其の部分を世間的なバカバカしいものに振り回されたくは無く要するに邪魔されたくは無いのである。

では「印度哲學拾講」を読んで居て樂しいのか?

 

 

大変樂しい。

つまり君達とは価値観が違うのだらう。

 

ボクにとってみんなが樂しいものはむしろ苦しいもので、逆にみんなが苦しいとさう思うものこそが僕にとっての至福の時其のものなのさ。

 

 

此のカルト詩人めが。

他にもまだ何か隠して居ることがあるだらう?

 

何かをかうコソコソとやりさうして独りで愉しんで居るのではなかったか!

まさに其の通りで御座ります。

 

即ち読書と文房具、此れ等こそがかうして僕を熱中させるものなのです。

では一体お前は今何をやって居るのだ?

 

 

はい、中國の万年筆でもって愉しんで居ります。

 

其れを改造しプラチナのペンの首軸を付けたりパイロットのブラックのインクで軸を染めたりして物凄く満足して居ます。

其の木軸の英雄万年筆は昔ヤフオクでもって何本も得たものですが現在は結局零円です。

 

其れも五年近く放ってあったのでしたが、ふと気付くと木製の軸は今最高に価値のあるものです。

 

科学的に合成された素材よりも何よりも銘木だの金銀だのさうした自然由来での素材こそが眞に価値のあるものなのです。

今私は左手に其の軸を握って居りますが其れは鉄刀木の軸のものだ。

 

此の種の唐木の価値は常に高くある。

然し概ね唐木製の軸は高価となる。

 

 

所謂文明としての価値観、製品としての価値ヒエラルキーに組み入れて仕舞えばまさにさうなる訳だ。

ですが廿年近く前に此れ等を入手した時には壱本弐、参千円だったのです。

 

当時中国製の安価な万年筆はまさにそんなものだった。

然し其の素材が良い=自然が良いから今でも大きな価値を蔵して居る訳だ。

 

 

当時拾萬程も出して買った欧米の万年筆の其の多くは壊れたり売ったりして次第に減って来ても居ます。

 

もしやおまえは親中派なのではないか?

いやさうでは無く欧米の物、また社會制度の全てが上質な価値であるとさう思い込むことは愚かだと云うことを申して居るのです。

 

其の哲學にせよ、印度の哲學は流石に何処までも行って居るものです。

印度にせよ中國にせよ、さうして東洋の文化文物と云うものは欧米の文化文物に匹敵するやうな価値をかっては備えて居ました。

 

で、私が文房具の世界でやって居ることとはまさに其の東洋と西洋との融合なのです。

 

 

例えば分かり易いのは、日本の筆の軸に万年筆の首軸だのボールペンの芯だのを組み込む訳だ。

 

すると筆万年筆だの筆ボールペンだのが組み上がる訳だ。

私はさうした自製の筆記具をこよなく愛する者です。

 

其の筆の軸はかってダイソーでもって大量に買い込んで来た百円筆の軸なのだ。

ですが此れも自然素材なので其れが壱級品にも化ける訳です。

 

確かに自然にも価値ヒエラルキーが生じて居り良い木は良くまた良い石は良く逆に悪いものは悪いのだ。

ですが其れは人間界に於ける価値ヒエラルキーのやうに金銭的な価値還元を受けて居る訳では無い。

 

 

なる程、すると七月詩人はさうした俗的且つ低級なる価値ヒエラルキーを離れて哲學だのペンの世界で自由に飛翔することを樂しんで居るのだな。

まあさう云うことです。

 

此の世界は純粋に私だけの世界ですので其れは社會の馬鹿に邪魔されるやうなものには非ず。

しかも金もかからず労力も要らぬ訳だ。

 

 

でも「印度哲學拾講」を買うのに金を使っただらう?

弐年前には。

 

さう此の弐年間はほとんど精神的な余裕が無く読めずに居た本なのだ。

 

さうして豊かさとはひとつには時間なのでもある。

社會は其の時間をも掠め取り我我個から思考を奪おうとして居る。

 

また其れは私のやうに「思考」を中心に生きる人間でさえなかなか達することの無い精神的余裕なのだ。

 

我我は兎に角いつも忙しい。

其の忙しいこと其れ自体が近現代人の病気なのだ。

 

 

かくして中國の万年筆を左手で握りつつ右手でもってキーボードを叩きまた「印度哲學拾講」のページを捲るのだ。

 

嗚呼、其れから蒸し暑い夏に向いて居る筆記具の軸と云うものがある。

其れはまず先に述べたところでの涼し気な竹の軸である。

 

もうひとつあり、其れはブナの○材である。

 

ブナは白く美しく手触りが優れて居り如何にも優しい。

例えば其れを筆にしたり万年筆やボールペン等に改造することが可能だ。

 

兎に角ブナは優しく涼しくこんな夏にはまたとない材なのである。

しかも其れもカインズでもって弐百円で買えるものなのだ。

 

つまるところ理性的な生活とは、其の理性の働きが欲するところでの精神の領域とはむしろ荒い金使いとは無縁の領域にこそあらう。

だからそんな精神的に高踏的な生き方こそが眞の意味での此の世での愉しみなのだ。

 

其れは権力にしがみつくことでもまた不正をして豪遊することでも無い。

むしろ理性はさうした荒い生き方を何より好まぬ筈だ。

今私が食ってるモノ、これから是非食ってみたいものー万人に共通の食の愉しみー

さて其れでは久々に何を食うかと云うことに就き語ります。

 

まず何を食うかと云うことに就き語ること其れ自体が幸せなこと其のものです。

何故なら誰しもギリギリの状態に追い詰められて居ると食い物のことなんぞとても語って居られぬからなのだ。

 

尚私は食う事が兎に角好きです。

ですが過去には随分と屈折した食生活を送っても居たものだった。

 

まず私は何せ感度が普通で無いので幼い頃肉類を體が寄せ付けませんでした。

またネギなど匂いの強いものがダメでよって極度の偏食と申しますかまるで御坊様の如くに精進料理しか受け付けぬと云う特異体質だった訳です。

 

ですが肉を食わぬとパワーが出ないので親に治され中学生位からは其れを食うやうになりました。

 

 

なので元々野菜類は大好きな訳です。

ネギ以外は全て好きですが其のネギも今は好んで食う程です。

 

兎に角私は元々生まれが違って居る訳でだから精神の方もまた違って居るのか色んなことをかうして申します。

 

で、早速今何を食ってるかと云うことに就き述べて置きたい。

 

私は左様に食を重視しますので兎に角此れ迄に色んなものを食って参りました。

 

 

其れは壱種食に対する拘りがあることなのだらうと思う。

 

ですが普通とは違うところがあり其れは値段やブランドには拘らずに食を愉しむことを目指して居る点です。

 

要するに昔はデパ地下だの高級スーパーへは昔良く出没して居りましたが最近は其れがどーでも良くなって参りました。

其れで食ってるものは兎に角安くて美味いスーパーだのドラッグストアのものばかりです。

 

 

其れは万年筆のコレクターとしてもまるで同じことで、かっては高級万年筆コレクターとして名をはせた私でしたが今は逆に安万年筆の愛好家です。

其れも印度製の万年筆に五年程前から嵌って仕舞い、しかも其れが壱本弐千円、参千円の世界のことですので弐、参箇月に壱本、弐本買ったにせよ懐具合が苦しくなる訳では無い。

 

だがかっては壱本が拾萬、弐拾萬の世界の話でしたので物凄く金がかかり其れこそ服を買うどころでの話では無い訳だ。

また子の教育に金をかける余裕など何処にも無い訳でだから私には女房も居なければ子も居ないのです。

 

そんな訳で今はまさに等身大での樂な筆記具蒐集が出来て居りむしろ初めて万年筆蒐集の世界が愉しいと思えるやうにもなったところだ。

 

万年筆を売る方も医師の方々を中心に長くやって参り其れこそ拾萬、弐拾萬の高級万年筆を日本全國に売り捌いても来ました。

ですが最後の取引をしたのが例の東日本震災の直前の話で其れも千葉の病院の偉い先生に凄い万年筆を壱本お譲りしたのでした。

 

まさか其の病院は大津波でやられては居ないことでせうが兎に角其のすぐ後にもうエライことになって行ったのです。

 

印度の万年筆を實は今も壱本買ってあるのですが其れが何時まで経っても届きません。

変異種コロナの関係なのか兎に角来ないので次第に心配にもなって来て居るところです。

 

 

尚総合的に言って印度や中國の万年筆の品質は著しく向上して居り昔のやうに信頼に足らぬ三級品ではありませんので先入観で持って其れ等を見ない方が良いです。

むしろ欧米製の一流メーカーの新しい製品の質が昔程良いものでは無くなりおまけに万年筆ユーザーの減少によるものであるのか、兎に角壱本壱本の値段がべらぼうに高い訳です。

 

全く馬鹿じゃないかとさう思わせられますね。

さう云う馬鹿万年筆を金融グローバル成金みたいな奴等がおそらくは買って居るのでせう。

 

其れ即ち馬鹿は馬鹿に惹かれると云うことなのだらう。

 

尚私は現代の万年筆を全否定するのでは無く21世紀になってからの現代の万年筆を主に否定して居るのです。

むしろさうして八拾年代、或は九拾年代迄の万年筆はたとえ限定品であるにせよ良いモノが多かった訳だ。

 

 

そんな訳で今も私は其の弐本で五千円の印度製の手作り万年筆をかうして首を長くしつつ待って居る訳だ。

 

で、食い物のことですが、其の万年筆での趣味と同じやうに低価格化、脱高級化して行って居る訳だ。

 

しかもシンプルなものを兎に角好みます。

例えば今は何やら蒸し暑くなりつつある。

 

其の蒸し暑さは實は此処名古屋程酷いところは御座りません。

實は南國の島々よりも蒸し暑いのであります。

 

だとするとズバリマンゴーですか、其れともパパイヤですか?

いやバナナで充分です。

 

實はつい先ほど従妹が買って来て呉れたマンゴーを一箇食ったばかりですのでバナナの方が是非食いたいのです。

でもバナナは夏には少し蒸し暑くはありませんか?

 

でもメロンは高いのでバナナでも良いではないか?

ほうれ、此れがバナナだよ、其れもトロリとして美味いではないか?

 

うわあ、暑苦しい。

是非もっとスッキリしたものを食わせてお呉れ。

 

 

スギ薬局にてー

あれ、何故かこんなところに蕎麦があるぞ。

 

ドレドレ、奈良大和路割子そば税込みで百五円か。

 

安い!

まずは此れを食ってみやう!

 

尚同メーカーのうどんも横に並んで居るのであるが家の場合は夏に饂飩は食わぬのだ。

 

 

蕎麦、其れは明らかに夏に至極美味い食い物であらう。

また寿司、此れもまた明らかに夏に至極美味い食い物であらう。

 

其の寿司はな、蟹本家の蟹の太巻き寿司に限るぞ。

 

だが此れは値段が高い。かに寿司 販売情報 | 札幌 かに本家

 

だから誰かが買って来たものを食えば良いのである。

 

そんなものはワザワザ買いに行く程のものでもあるまい。

 

 

其の奈良大和路割子そば税込み百五円であるが、兎に角コレが美味くてしかも安かった。

 

だから最近はコレを四つづつ買って来る。

さうして其の三つをじぶんが食って仕舞う。

 

ひとつには、また腹が出て来て居る。

かうして年寄りになってもまだパクパクと食って居ると何せ代謝の力が落ちて居るので余分な栄養が皆脂肪として蓄えられて仕舞う。

 

だからかうして腹が出て居るのであるが、其の腹の出て居るお蔭で癌になりにくくもなって居る可能性が高い。

だから還暦以上で長生きしやうとしたらかのライザップなどは金輪際するべきでは無い。

 

逆に少し腹を出してやるべきだらう。

 

だが私の場合は今買って居るズボンのウエストサイズの上限が94なので其れに嵌らぬ程に腹が太くなると兎に角困るのである。

實際今すでに嵌らぬのであるが其処を何とか嵌めて居ると云う訳だ。

 

 

蕎麦は低カロリーでもって其の腹の出っ張りに何より効くのではなからうか。

 

しかも美味い!

うわあ蕎麦ってこんなに美味い物だったっけ?

 

いや確かにアノ開田高原にて何度も長野の蕎麦を食って来てもおる。かいだそば 木曽馬の里

だが名古屋人は別に蕎麦になど拘りは無いのだ。

 

さうだ、我我が拘るのは味噌だけだ、其の味噌。

其れも三河産の味噌だな。

 

さうして赤味噌は兎に角三河産に限る訳だ。

また🍤の海老は兎に角三河湾産の車海老がベストであらう。

 

 

そんな訳で、我我は関東人や東北人程蕎麦の質には拘らず要するに何でもエエんですわ。

 

此の割り子蕎麦にはしかもネギや刻み海苔まで付いて居るぞ。

 

関西文化通の家の母は蕎麦は貧乏藩の食べ物で美味くは無いとさう云うのであるが私はどちらかと言えば江戸前寿司や蕎麦の方を好む。

 

蕎麦だけ食って其れでもって果たしてガマンが出来るのか?

大食いの君の其の胃袋が果たして充たされて居るのか?

 

 

いや仏蘭西パンなどもまた食って居ます。

パンにもまた開眼して居るので兎に角パンが食いたくてなりません。

 

其れと申しますのも三月に鳳来町天然酵母パンを貰って食ったからなのです。

其れも棚山での採集中に兎に角腹が減ったので山の中で其れを全て食いました。

 

天然酵母パンは美味いのか?

美味いのですが其れもまた高いので余り興味はありません。

 

 

ルヴァン信州上田店 | 上田城の城下町 北国街道柳町【公式】

かうした有名店の天然酵母パンにせよどう見ても観光料金に設定されて居るので旅行へ行った時に食べてみたい気はするが大きく興味は無い。

 

要するにいつしか私は所謂高価なものが好きでは無くなって仕舞った訳だ。

 

但し天然酵母パンは何処か左翼思想っぽくて要するに田舎でもって文化的に意識の高い暮らしを営みませうと云うメッセージ性もまたある訳ですので元々嫌いな訳ではありません。

ですがいつもそんな良いものばかりを食べて居ると自然とブルジョワ思考へと陥って仕舞うのではないでせうか。

 

 

ですので私が買って来るパンとはどこにでもあるヤマザキ仏蘭西パンでコレが實は九拾円台です。

また此の仏蘭西パンは其の侭で4、5日は持ちます。

 

しかもレトルトカレーと合わせますともう最高に美味く其ればかりかツナ缶+マヨネーズ+サラダでもう其の侭に喫茶店メニューと化すのであります。

 

其処にマヨネーズをタップリとかけたのでまた腹が出たのであらう。

 

いやさうじゃなく其れはポテトチップスのせいです。

ポテトチップスも最近美味いのが沢山出て居てつい其れを食うのが愉しみなのでついこんなんなったのです。

特に湖池屋の奴が。湖池屋プライドポテト|商品情報|株式会社湖池屋 

 

 

とのことで、拘りが無いやうで居て實はあると云う其の微妙な域を生きて居るのがまさに今の私の筆記具趣味であり食の趣味なのだ。

で、其のマヨネーズの消費量がどうしても増えるのでピュア・セレクトと云うタイプに変えてみたところだ。

 

 

パンのトラ八事店の高級食パンの価格を見てびっくり仰天、食パンの値段設定にリピートするか自問自答

 

此の八事のパンの🐅と云うのが有名でしかも自転車で15分位で行けるのですがひねくれた私の場合はまだ一度も行って居ません。

其れは此の店の真横にとある👩が住んで居り其れが私がかってちょっかいを出して居たまさに高級な八事の👩だったからなのだ。

 

まあ東京で言えば白金位のレヴェルのところなのでそんなものは普通手など出せやしないのである。

だが何せ私は頭がオカシイので其の女に五年程ちょっかいを出し続けて居たのであった。

 

 

だが其の話とは別にむしろ食欲の方だけは是非追求して置かねばならぬのだらう。

 

かうしてもう最近は色気は無しに其の食い気のみだ。

其れもまだ物欲はあるのだが兎に角色欲はもはや無いと来てる。

 

ではズバリ申さう。

私は此のパンの🐅八事店のカレーパンが是非食いたいのだ!

 

つまりはカレーだ、🍛。

 

いや違った、カレー🐼、🍛パン。

いや🐼では無くあくまでカレーパンだ。

 

 

パンのトラ八事店は三河で絶大人気のパン屋!おすすめメニューを一挙紹介!

 

また此処での此の石窯バゲットを見よ!

此の如何にも固さうなパンを見よ!

 

ちなみに私の場合は其の固いパンが好きなのである。

 

仏蘭西パンは其れもスーパーにある仏蘭西パンは安いのだが皆軟らかいのである。

 

でもアンタもう歯の方がボロボロだらう?

其れもポテトチップスだの飴だのケーキだのそんなものばかりをいつも食って居るからだ。

 

 

さうしておまえの食生活はそもオカシイ、まさに乱れに乱れて居るではないか!

 

いやでも其の一方で蕎麦だの豆腐だの牛蒡だの納豆だのそんな體に良いものばかりをかうして選んで食って居るではありませんか。

うーむ、どうも極端なのだな、そも其の食の選択の仕方其のものが極端だぞ。

 

 

極端⇔中庸、中道

 

まあ其の食の選択がそもオカシイので其のうちに固いものは何も食えなくもなりませう。

だから今、まさに今其のカチンコチンのバゲットを食って置きたいのですよ。

 

 

しかもな、實はもうひとつどーしても食って置きたいカレーパンがあるのだ!

 

其れはな、

 

かの高級レストラン、シェ・コーベのカレーパンである。

 

 

レストラン シェ・コーベ | おうちグルメ

 

いや、どうも違って居たやうだ、此の🍛ライスの間違いだったのやもしれぬ。

此の🍛はな、兎に角最高の🍛ライスだ。

 

其れに何とビーフカレーではないか。

 

印度料理屋では普通佛教やヒンズー教の関係からなのかビーフカレーが無いんである。

だが私はビーフカレーしか食わぬのだ。

 

又は野菜カレーしか食わぬ。

 

 

とのことで、とりあえずはパンの🐯でカレーパンと石窯バゲットを買って来ることとさらに最終的にはシェ・コーベの🍛を食うことだけが今の私に課せられた食の追求の上での究極の目標なのだ。

だが其れとはまた別にスギ薬局で買って来る奈良の商品案内 ー割子そばーを至極気に入っても居る訳だ。

 

どだい150円近いこの商品を105円で売って居るスギ薬局は偉いのだぞよ。

さうして偉いと思い味が気に入れば自分はトコトン買う。

 

 

名古屋市内でおすすめの高級食パン専門店6店、乃が美 い志かわ よいことパン HARE/PAN 京 フルール ドゥ リュクス

 

まあかうして上には上がありキリが無く、其れは食に於いても物に於いても全くに同じです。

都會でやり易いこととは高級な物を手に入れ易いことですが、其の高級なことにも實は限度があり其れは物的な限界と精神的な意味での限界です。

 

要するに都會でもって得られる所謂高級なものは値段が高く設定されて居るものなのでむしろそんだけの金を出すのであれば至極美味いのは当然のことなのだとも申せませう。

ですが私は今安くて美味いもの、安くて良い物の方にあくまで食の興味が移って居る訳です。

 

ちなみに三十円台の木綿豆腐でも至極美味いものがあるのです。

 

其れを冷ややっこで醤油をかけて食う時などもはやバラダイスでせう。

其の冷たい豆腐こそが兎に角美味いのだ。

 

 

が、私はむしろ何でも逆方向へぶつけるタイプですので暑くて辛い🍛などは汗が出るので最高で、また辛い台湾🍜などもまたわざわざ夏に食って居たりも致します。

いずれにせよ夏はまた食い物が美味いー。

 

其の熱くて辛い料理とバニラアイスかまたはガリガリ君の相性がまた抜群なのだ。

 

 

まあ、兎に角食いたいものだらけである。

其れも金さえあれば一挙に攻めて行けるものを、かうして節約を強いられる年金生活なので兎に角安くて美味いものだけを根性を入れ探すのだ!

 

さうして夏になるとむしろ私は食欲が増して来るのである。

 

かうして日々日光浴を重ね何やら土人のやうな顔をしつつ兎に角何でも食うので體は意外と元気なのだ。

其の體が元気なところへ精神の苦悩などを垂らすからいつも不機嫌さうに飯を食って居る割には美味いなあと體が喜びつつ食っておるのだ。