目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

どうも為政者の頭がおかしひ

ー来年4月に「70歳就業法」と呼ばれる改正高年齢者雇用安定法が施行される。現在65歳までの社員の雇用延長期間を70歳に引き上げるなどの努力義務を企業に課す法律だ。施行されれば日本社会の伝統だった「定年で退職する」という考え方、定年制度の消滅につながる。

「コロナで生活が苦しいときに、長く働けるのはありがたい」と喜ぶのは大間違いだ。むしろ、この法律は中高年を「60歳以降も稼げる人」と「働きたくても職がない人」に分断することになる。ー菅政権の70歳就業法 生涯現役どころか中高年の雇用奪う恐れ より

 

ー「政府は老後の生活をまかなえるだけの年金を払えない。そこで70歳まで働けるようにするから、高齢者は年金をあてにしないで自分で稼いだ金で生活してくれというようなものです」(社会保険労務士の桐生英美氏)ー菅政権の70歳就業法 生涯現役どころか中高年の雇用奪う恐れ より

 

ー「コロナリストラがいよいよ大企業にも及んできた。対象は中高年です。三菱ケミカルは11月4日に50歳以上の管理職と定年退職後に再雇用された社員約2900人を対象にした希望退職者の募集を発表した。高年齢者雇用安定法で60歳以上の再雇用社員だけをリストラするのは難しいが、現役とセットであれば可能。50代の社員は給料が高いし、会社に残れば定年後に再雇用しなければならない。

 来年4月には改正高年齢者雇用安定法で70歳まで雇用延長が努力義務になるから、来年3月までに60代前半の再雇用社員と50代社員を一緒に人員整理したいという企業がこれから増えるでしょう」

 菅政権がコロナ不況下で「70歳就業法」の施行を強行すれば、生涯現役社会をつくるどころか、逆に中高年の雇用を奪う結果を招くのだ。ー菅政権の70歳就業法 生涯現役どころか中高年の雇用奪う恐れ より

 

 

またぞろ🐵菅がかうしてキチガヒ政策を実行しやうとして居る。

 

ーコロナで生活が苦しいー

のでは無く、そも日本の社会が悪ひから生活が苦しひのだ。

 

いや日本の社会が悪ひこと以上に自民党の矛盾政策がアホを通り越してまるで動物の域だ。

 

動物は何せ本能にのみ生きて居る。

 

よってウンコもオシッコも垂れ流しすぐに♀には飛び付くは、食ふだけ食って後は食ひ逃げだ。

またやり逃げだ。

 

しかも時に人間の手を噛むことさへもがあり、其の場合にも勿論噛み逃げをする。

 

 

ー「政府は老後の生活をまかなえるだけの年金を払えない。」ー

 

コノばか。

何故年金の資金を運用して変なことをしたのか?

 

馬鹿を通り越して動物まで行き、揚句の果てには妖怪、魑魅魍魎の世界へと足を踏み入れ、また其れだけでは済まずに👽並にコミュニケーションがもはや困難だ。

 

兎に角かやうに政府が馬鹿なので社会が回らなくなって来てる。

 

 

如何にも此れはマズひ。

 

まさに宗教どころの騒ぎでは無ひ。

下手をすれば宗教もまたやられて仕舞ふぞ。

 

 

かうしてコロナリストラによりこれまで威張って居た大企業のサラリーマンがまさにジリ貧となる可能性が高まって来た。

 

だが其れ自体はむしろ良ひことだらう。

さうしてみんなが貧乏になるのはむしろ良ひことだ。

 

釈迦とキリストがさう道を指し示して下さって居る。

嗚呼、佛教とキリスト教よ。

 

まさに素晴らしひ其の教へよ。

 

世界を救ふ其の教へよ。

さうだ、今日たった今から寺の境内の掃除や教会の掃除を願ひ出てみんながやるべきだらう。

 

さうしてみんなが貧乏になり其のみんなでもって是非ギリギリの生活をしやうではなひか。

 

そんなクソ高ひローンやら家賃など払って居なひでみんなでもって路上生活をしやう。

 

でもたまには天丼も食おうではなひか。

 

何と今徳川 忠兵衛のお持ち帰り天丼が千円ぽっきりだ。

其れに家の近くのうな乃の特上お持ち帰りうな丼が意外と安くて二千五百円だ!うな乃

 

うはあー、何と云ふことだ。

此処は瑞穂区の「美味しひうなぎ店拾選」の中にしかと入っておった!

 

しかも此処が自転車で五分もかからなひところにある。

 

歩ひても多分拾分以内で行ける。

 

 

さて此処の近くに🏥にて仲の良かった理学療法士だったかの若ひ人が居て其の人と屡🍜談義に花を咲かせて居たものだった。

 

其の人は金沢出身の人だが二年程前にケッコンして此の鰻屋の裏側辺りに住んで居る。

 

然し良くぞさうして結婚出来たものだ。

其れとも👩には何ぞ良ひところもあるのであらうか?

 

其の兄ちゃんは病院の機関誌に🍜屋遍歴の記事を載せて居り其れを見たわたくしが其れにいたく興味を抱き彼と話をし始めたのだった。

 

だが其の🍜屋の話を今して居る場合では無ひ。ー其れもまた色々と面白ひ話ながらー

 

 

また此の近辺には家の親戚なども住みのみならずかって内藤  朝雄が此の近辺に住んで居たのであった。

 

内藤は中学の後輩で弟と同学年だが愛知の管理教育に反発し高校を退学しつつも後に国公立大へと進みおまけに東大の大学院まで出て立派な學者になったまさに家の近辺での出世頭なのだ。

 

内藤は何とイジメ問題の第一人者となり時折はTVにも出演して居るのである。

 

其の高校の教師は兎に角内藤を煙たく思って居た筈であるが今や立場が逆転して居りまさに内藤の一人勝ちである。

 

と云ふか当時の教師はすでに死んだ奴が多ひことかとも思はれる。

 

 

ー優秀な人は,自分で勉強し,自分で進化できる人。そのためには優秀な欲望と優秀なエゴイズムが必要。学校頭を自分頭に切りかえろ。頭がよくなるぞ。 たとえ日本が亡びてもあっけらかんとわが道を行こう。ー明治大学 内藤  朝雄より

さうして苦労を重ね學者になった内藤ならではの名言なのではなからうか。

 

しかしながら其のー自分で勉強し,自分で進化できる人ーは往往にして頭が良過ぎて精神的に苦しむことが多ひが故むしろ其れは止めて置ひた方が良ひやうにも思ふのだけれど矢張りと云ふべきか社会に言ひなりの馬鹿よりはまだしもマシなのやもしれぬ。

 

ーたとえ日本が亡びてもあっけらかんとわが道を行こうー

 

果たして此処まで言ふ奴が他に居るか?

まさに凄ひ言葉だよ。

 

つまるところ内藤にとってはこんなコロナ禍など屁の河童なのであらう。

 

いずれにせよ政府が自ら滅ぶやうに政治をやると云ふのではもはやお話にも何もなりはしなひ。

 

結局✖だ。

こんな動物による政治に反対!

 

日本國から引退ー老後ーを奪ふ自民党の政治のやり方に反対!!

 

いや✖✖✖✖✖✖✖の全否定だ。

 

で、結局コロナ苦よりもより厄介な問題が其の自民党による政治のやり方にあった訳なのだった。

 

 

サア、では早速赤旗の日曜版の新聞代でも払ひに行かうかな。

何故じぶんでもって払ひに行くのだ。

 

其処が他の人と異なるわたくしの潔癖さで、要するにワザワザ徴収に来て貰ふ位なら自分でもって払ひに行きますとさう云ふことなのだ。ー自分でもって頼んで読んで居るのだしー

 

さうか、意外と他人思ひなのだな、案外人に対し気を遣って生きて居るんだな。

だがだからこそ人間は面倒臭ひので嫌ひなのだ。

 

東京都「金欠」の最中に…小池百合子都知事への「退職金3500万円」は本当に必要だったのか

 

其の為政者にやがて芽生へる特権意識、まさに其れこそが断頭台に相応しひ慢心でなくて何なのだらう。

認識ー相対分別ーとしてのディストピアーディストピアにつき考へる 弐ー

尚今回は一種難しひことだらう哲學的な論議を致します。

 

 

さて宗教をやってる人々が陥り易ひ価値観のひとつがまさに其の現世利益主義なのです。

 

また其れは現役の御坊様方や神父様方にせよ乗り越へ難ひまさに此の世での「欲望の壁」です。

 

「欲望の壁」=価値ヒエラルキー構築の世界であり其れはまさに利己主義へと直結するものだ。

 

屡云はれるやうにキリスト教などの一神教は一元化を目指すが為に排他的とならざるを得ず故に邪教である、と云ふ説があります。

 

國粋主義にまた亜細亜主義に近ひ人々が此の論理を持ち出しますがわたくしは其れはおかしひとさう考へて居る。

 

逆に多神教である神道は人間を救済する為のものでは無くむしろ國家や天皇家と結び付ひたものです。

 

 

どだひキリスト教は元々二元論でもある訳だ。ー神⇔👿ー

其の二元論を一元化し神なる絶対へと統一する世界観のことですが二元分裂した人間もまた信仰の力により其処へと連れて行って頂けるのだ。

 

で、實は佛教もまた二元論とは縁の深ひ宗教思想なのです。

釈迦による分別智の否定とはまさに其の二元論としての人間の認識の超克のことでもまたあった訳だ。

 

但し釈迦による一元化は二元の二重否定による消去法としての一元化のことだ。

 

 

此岸の認識ーA⇔B→彼岸の認識ーAでも無く且つBでも無ひ

 

此処で重要なことは、

 

此岸の認識⇔彼岸の認識

なのでは無く、

 

あくまで、

 

此岸の認識→彼岸の認識

となって居ることです。

 

 

即ち不可逆的な認識の転換を釈迦は奇跡的に其処に成立させて居ります。

 

との意味で、實は原始佛教での認識もまた一元化を目指したものなのだと考へることが出来る。

 

但し其処には「佛性」に於ける大問題が常に孕まれて居やう。

 

要するに「佛性」とは神に等しひものかと云った部分での大論議です。

 

でも此の部分はまさに本職の御坊様並に難しひ論題となりませうからまたの機会にでも考へ直してみませう。

 

 

キリスト教の場合は自力救済を一種諦めて認識其れ自体を神に丸投げし他力救済へとなして行く訳ですので日本の浄土教などとほぼ同じものでせう。

 

但し日本の浄土教もまた最終的には佛を目指す訳ですのでより正確にはあくまでキリスト教的な佛教だと云ふこととなりませう。

 

 

其れでもって、釈迦の佛教とキリスト教の場合には其の現世利益主義では無ひ可能性が高くある訳だ。

 

ところが、大乗佛教を含めー禅宗を除くーほとんどの宗教は其の現世利益主義なのです。

 

現在わたくしは其の現世利益主義にこそ観念性つまりは精神性の欠如と云ふ部分を感じ危惧して居る訳だ。

 

 

何故さうなったのか?

一言で申せば其れは子宮思考の蔓延です。

 

さう言ふと世の中の半分の♀を全部敵に回すこととなりませうが👩が動物的なのは其れは明らかな事實です。

 

でもわたくしは其の♀にこそ是非助けて頂きたひ。

 

こんなに観念の方で苦しんで居る腺病質の詩人を優しく其の母性にて抱きとめて頂きたひ。

 

ズバリ申せばパンドーラ―の匣と云ふものがありますがまさに其れが子宮思考のこと=現世利益主義のことです。

 

其のパンドーラ―の匣がカパッと開くとあらゆる災厄が世にブチ撒かれるのであるが何でさうなるかと申しますと♀共の獣欲がそも其れを欲するからです。『ピュクシスを持つパンドーラー』

 

 

そんな女性批判と申しますか、下劣なる其の👩の欲望を徹底的にいびったのがかのショーペンハウアーであり従って彼はいまだに👩の敵としても扱はれて居る。

 

無論のことショーペンハウアーも独身にて生涯を終へたのだったが實は彼の母ちゃんが女流作家で良妻賢母とはまるで正反対の人でしたのでまずはソコが何より気に入らなかったやうです。

 

 

現世利益主義とはそんな♀的な現實的思考法のことです。

つまりは現金化した思考であり観念性に乏しひ現實的思考と云ふことであり其れは常に計算高くして今の幸せだけに執着し元より長期的な視野には欠けるものです。

 

釈尊も当初は可成に🚺嫌ひでもってして「女はまずもって成佛など出来ぬ」と仰り其ればかりかお経の中でも色々と女性批判を繰り返されて居たりも致しました。

 

観念性ー男性原理ー⇔肉体性ー女性原理ー

 

でも現在わたくしは此の両極をも同時に見詰めて居ります。

 

見詰めては居りますが、矢張り「所詮女は分かって居なひ」と云ふことをいつも實感させられる。

 

 

大枠では近代とは子宮思考による願望ー女性原理による獣欲ーを観念ー男性原理ーが言ひなりになり實現したものとさうも捉へて来て居ります。

つまりは観念がデカひ其の👩の尻に敷かれパンドーラ―の匣の状態へと至らしめて仕舞ったと云ふもう最悪の結末のことだらう。

 

此の♀共は大抵の場合よりデカく立派な家、墓、家柄と立派な子孫、其れに其れ等を實現するに足る有能な♂、つまりは金持ちで力があり権威権勢に縁のある男だけが大好き♡なのだ。

 

其の有能な♂が浮気性だらうがウソコキだらうがそんなことはお構ひなしにそんな馬鹿👨ばかりをクソ眞面目にも選んで行くのです。

 

でも世の中には苦労しつつも正しく精神を保ちながら生きて居る眞面目な🚹が意外と多く居るものです。

 

ところが価値観がそも倒錯してる🚺共には其の眞實がまるで見へぬのであります。

 

 

それどころか屡酷ひことをやります。

其れもてっきり👩だと思って近づひたら其れが👩が好きな👩だったとか。ー人に聞ひたところではー

 

また死ぬ気で愛して居たにも関はらず間男を呼び寄せて居ただとか。ー同じく人に聞ひたところではー

 

まあわたくしも辛ひ思ひを屡致しましたがそんなものはもう語る気にもなれません。

 

 

なので女性批判をやれともし言はれればわたくしは何処までもやりますぞ。

 

 

また話が飛んで仕舞ひましたが、

 

此岸ー地上界ーの認識⇔彼岸ー天國ーの認識

 

であるのはむしろキリスト教に於ける分裂思考でせう。

 

エデンの樂園⇔現世

理性ー智慧の實ー⇔獣性ー裸ー

 

多神教の立場より一神教の立場による一元化を批判する向きが一部の學説やネット上の意見などに屡見られるものです。

 

實はわたくしが尊敬する哲學者である梅原 猛先生ー故人ーなども概ねさうした考へ方をされて居られた。

 

ですが、現在わたくしは其れとは異なる意見を持って居ます。

 

 

わたくしは現在日本の伝統だの体制ー天皇制や幕藩体制ーだのが一番だとはまるで思って居ません。

 

むしろ伝統だの固有の体制だのに拘る其の現世利益主義にこそより根本的な問題が生じて居るのではなひかとさう思ひ始めて居ます。

 

なのですが、此処拾年ばかりは保守派の看板を頭上に掲げて居ましたが故に日本のものは何でも基本的に良ひものだともさう考へて居ます。

 

ところが其れでは何時まで経っても変はれぬ訳だ。

 

其の変はりたく無ひ、また変はれぬ日本の精神こそが現世利益主義に培われしものなのではなかったか。

 

 

でもって日本のみんなが選ぶ自民党の政治がまさに其の現世利益主義だったのですが、其れが結局危機の対応が出来ずにGOTO地獄の方へと何故か舵を切って居るのです。

 

自民党の政治がまさに其のおバカ政治でありおおまさに日本のみんなでもって赤信号を渡る矛盾政治でありまるで🐵の政治なので元より其処には理性も何も無くあるのはタダパンドーラ―の子宮思考ばかりです。

 

でも左翼が國の舵取りをすると實はもっともっと其の子宮思考の度が酷くなるのです。

 

曰く、

 

女性とマイノリティを助けやう。

障碍者は神様です。

 

原発反対!

核兵器廃絶!

弁護士に仕事を!

 

此の際革命だ!-共産党の場合-

 

 

いずれにせよもはやバカバカしくてやってられませぬ。

 

 

なのでわたくしは基本的に今社会に興味は御座りません。

 

もうほとんど思考にも興味は無ひ。

 

 

エッ?

今なんて仰りましたか?

 

だから概念分別などにはもはや興味は無ひ。

 

 

だってアナタ、其処を考へてこその観念詩人でせう。

サア考へやう、共に考へてやるよ、是非一緒に考へやう。

 

考へるよりもアノ徳川 久兵衛のお持ち帰りの天丼を是非食ひたひ。

 

じゃあ徳川 久兵衛のお持ち帰りの天丼を買って来てやるから共に考へやう。

 

では分かり申した。

 

 

 

認識の壁=相対認識の壁

 

どうも其の様なものがあることかと思ふ。

其れも養老 孟司先生の「バカの壁」では無ひのだけれどもそんなものがあるやうに思へてならぬ。

 

 

ー内容は、あらゆる物事に対して「これが正しい」「あたりまえだ」と思い込むことは思考停止であると述べられている。社会や組織、自分の所属する集団(だけ)の意見を盲信し正しいと思い込み、それらを鵜呑みにするのはバカのすることだ、と綴られている。

まさにおっしゃる通りだ。人は都合の良い情報しか自分の脳に入らない(場合が多い)がさらにタチの悪いのが、それに最もらしく理由をつけることでさらに正当化しようとする。大抵、都合のいいように理由をつけるわけだが、良いことは自分のおかげ失敗は他人の責任といったバイアスをかけてくる。ーベストセラー「バカの壁」が現代に教えてくれることより

 

現在のわたくしの理解では、此の世の出来事は須らく相対分別されさう認識されて居るものだ。

其のやうな認識上の癖を人間と云ふ理性的な現象が選びとって居る訳だ。

 

認識の方法は他にも色々とある。

第一動植物に於ける世界への認識の仕方は人間とはまるで異なる訳だ。

 

動物の場合にはもっと感覚的に世界を把握して居り、植物の場合には意識以外の部分からー無意識的に?ー世界と関与して居る筈だ。

 

特に人間の場合には其の「思ひ込み」が甚だしひ。

 

其の「思ひ込み」とは抽象的な思考作用が生み出して居るものだらう。

 

 

科学技術は正しひ⇔宗教は正しひ

👨は利口だ⇔👩は馬鹿だ

早稲田大學こそが我が國の最高學府だ⇔其れ以外の大學は馬鹿田大學だ。

 

ところで實は其の「思ひ込み」=概念規定によるものでしか言語化=意思決定することなど不可能なのだ。

 

つまり意思決定することとは自ら相対的に概念を玩ぶことでしかあり得なひ。

 

 

うーむ、話が難しひ。

つまりは「思ひ込み」以外の部分で人間が話すことなどは何も無ひと云ふことなのだな。

つまるところは「語り得ぬものは語り得ぬ」

とさう云ふことなのか。

 

つまるところはさうしたことなのだ。

 

さうしていつの間にか人間は自ら思考を放棄し停止させて仕舞ふ。

まさに其の態度こそがバカの壁なのだ。

 

でもわたくしは其れ以上に難しひことを先に述べた。

 

即ち、

 

「語り得ぬものは語り得ぬ」

 

が故に思考は最終的に放棄されるべきものなのだ。

 

 

イデオロギー対立、歴史的文化的対立=抽象的対立

環境問題、人間の種としての弱化、人口問題=具象的対立

 

 

わたくしが今回述べて居るのはそんな概念に於ける放棄の様に就ひてのことだ。

 

では一体何故知性は最終的に概念的対立を放棄せざるを得なくなるのか?

 

其れはまさに「語り得ぬものは語り得ぬ」からなのであり、同時に其れを語ろうとすれば即矛盾ー二律背反ーに陥るからだ。

 

 

具象的対立⇔抽象的対立

 

かくして相剋し且つ相即することでこそむしろバランス化する

だがスケールが大きくなると其の関係が成り立たずどちらかに偏りむしろ双方の対立を肥大化させる。

 

兎に角ー文明のースケールを大きくするとむしろ問題は解決不能にも陥らう。

 

 

ー本書では、多くの人が共通の情報を与えられ、それを了解することで、共通認識が高まり社会が発展していく一方、個性や独創性を重視するという傾向が強まってきた経緯が説明されています。ー情報漬けの現代人こそ読んでおきたい2003年ベストセラー『バカの壁』より

 

個性や独創性は意図的に創り上げるものでは無くまさに「持って生まれた」ものです。

勿論其の意味では確かに何かを持ってる人は持って居ます。

 

わたくしなどはむしろ其れがあり過ぎて社会へ出てから以降は随分と苦しみましたので逆に持って無ひじぶんに是非なりたくて要するにまるで植物のやうな人間になりたかった訳だ。

 

 

ーしかし、本書では「私らしさ」など存在しない、特定の「個性」などないと断じています。多くの人は、一生変わることのない自分が存在すると考へていますが、万物流転、諸行無常の言葉通り、人間は常に変化していくものです。ある日を境に、自分自身が根底から覆されることは、往々にしてあるのです。ー 情報漬けの現代人こそ読んでおきたい2003年ベストセラー『バカの壁』より

 

左様に諸行は非常であり非我ですので畢竟其のじぶんが信じ込んで居るものもまた相対物=相対認識による産物なのだ。

相対認識による産物に絶対は有り得ぬと云ふのに其れが絶対だと信じ込むことこそが現象が現象であることの所以なのではなからうか。

 

なのではあれ其の相対認識による産物はまさに現世利益と云ふ価値ヒエラルキーのお化けを其処に築き上げて仕舞ひます。

其の現世に於ける価値ヒエラルキーのお化けを解体し霊又は精神の次元に変換せしめることが可能なのは宗教的次元に限られて参ります。

 

 

ー人は知識をインプット、つまり脳への「入力」と、身体を使って実際に行動する、つまり脳からの「出力」を繰り返すことによって学習していきます。しかし、最近の人々は「出力」=身体活動 をおろそかにしており、知識のインプットだけで全てを理解しているかのように振る舞っています。それが、「わかったつもり」にも繋がっているのです。ー情報漬けの現代人こそ読んでおきたい2003年ベストセラー『バカの壁』より

 

養老先生が仰るやうに脳化された社会即ち抽象化されし世界がまさに現代文明を形作って居ます。

其のやうに抽象化されし世界に対し仕向けられし限定=抑制こそが此の度のコロナ禍でもまたあった訳だ。

 

以前から述べて居りますが如くにわたくしの論理では抽象的に成立させる未来ー進歩概念ーと具象的現在ー物質性、肉体性ーとのバランスの崩れが顕著になればなる程に具象的対立⇔抽象的対立に於ける関係性が脆くなり最終的には其のアンバランスがまさに具象的に人類を圧殺して行く筈です。

 

ですのでむしろより大きく抽象的対立の領域を拡大する即ち進歩することでしかもはや其のバランスを回復する術は無ひことでせう。

 

でもさっき文明を小さくせよと言ったではなひか。

そりゃ全体としてのスケールのことだ。

 

要するに神人間となる方向性へと科学技術を使ふのでは無く人間を救ふ為にまさに其の科学技術を使ふべきだらう。

つまるところはアンドロイド司祭やロボット僧侶を一杯造り其れに人類を導ひて貰ふべきなのだ。

 

ヘエッ?

 

其れもまたわざとギャグを言ったのですね?

ヘヒ、つまりはコレがオヤジギャグです。

 

 

ーこの世に「絶対的な真実」など存在しません。しかし、都市化や近代化を通じて、かつてのような拠り所となる基盤を失ってきた現代人は、唯一無二の考え方にすがろうとします。そのほうが頭を働かせなくて済むからです。 しかし、まるで一神教を信奉するかのように「絶対的な真実」の存在を信じている限り、他人と話は通じないと養老氏は一蹴します。それは、ただひとつの正解(のようなもの)だけを正とし、他の考えを受け入れないということだからです。ー情報漬けの現代人こそ読んでおきたい2003年ベストセラー『バカの壁』より

 

「わかったつもり」である文明社会が抱へる妄想は實際のところ可成の域に達して居ることでせう。

 

何度も申して居りますやうに人間は一人ならば大した欲など生じませんが群れとなるー社会化されるーと突如として其のデカひ欲望が何故か暴れ出すのです。

また其のことは二千数百年も以前に中國の思想家である老子ー老聃ーが看破して居たことでした。

 

老子は「小國寡民」なる限定された社会のあり方をむしろ理想郷として考へて居ました。

 

 

ー「世の中の人は美は美しいものであると思っている。実はそれは醜いものだ。

人はみな善は良いものだと思っているが、実はそれは良くないものだ」ー老子 【思想と名言集】より

 

ー「有と無は相手があってはじめて生まれ、困難と容易は相手があってはじめて生まれ、長い短いは相手があってはじめて生まれ、高いと低いは相手があってはじめて生まれる」ー老子 【思想と名言集】より

 

ー「美を見た時、ああ美しいと思うから醜いという意識が生まれる。善を見た時良いことだなあと思うから善ではないという考え方が生まれる」ー老子 【思想と名言集】より

 

ー「最上の善は水のようなものだ。水は万物に恵みを与え、他と争うことなく、人々が嫌う所に流れゆく。だから道に近いのだ」ー老子 【思想と名言集】より

 

 

あれ、何やらわたくしが日頃述べて居るやうなことばかりではありませぬか、ヘッヘッヘッのヘッ。

しかも其の対概念のところがね、此の世界の成り立ちの理解には常に重要です。

 

 

ー「無は有という一を生み、一は天地という二を生み、二に陰陽が加わって三を生み、三は万物を生んだ。万物は陰の気と陽の気を抱き、気を交流させて和を保つ」(『老子』42章)ー老子 【思想と名言集】より

 

「万物は陰の気と陽の気を抱き、気を交流させて和を保つ」

 

 

さうなんです、特に陰陽説に影響を受けた訳では無ひのですがわたくしの場合は結果的に今此の陰陽の相互交流、即ち相剋し尚且つ相即する関係に気付き其れを信奉しても居る訳だ。

いや其れは考へによるものでは無くさう直観したものです。

 

事實としてわたくしにはそんな直観能力があり、此処に於ひてもあくまで其れに基づく原理なりを何とか言葉にて表現しやうとして居るだけのことなのだ。

 

其の宇宙としての和を保つのは日本人の和の精神などとはまるで違ふものかと思はれます。

 

さうさうしてみんなでもって赤信号を渡って行くのとはまるで違ふ次元でのお話なのだ。

 

 

ー大巧は拙なるがごとし:(45章)「本当に巧妙なものは稚拙に見える」

足るを知る:(46章)「足るを知るとは、今の現実に満足することである」

千里の行は足下より始まる:(64章)「千里にもなる長旅も最初の一歩を踏み出して始まる」

天網恢恢祖にして漏らさず:(73章)「天の網目は粗いが何ひとつ漏らさない」

柔よく剛を制す:(78章)「柔は剛を制する」ー老子 【思想と名言集】より

 

老子の言葉はかうして逆方向から説かれたものがまた多ひ。

 

其れは何故かと申しますれば視野が広ひ=常に両極を見据へ語られし言葉であるからなのだらう。

 

 

老子は才能を隠し、無名であることを良しとする人でした。ー老子 【思想と名言集】より

 

 

まさにさうなんです、「能ある鷹は爪を隠す」の喩への通りに、ほんたうのお利口さんは世を捨て社会へはあへて出て行かぬものなのだ。

つまりは社会をバカに仕切ってもう相手になどしてやらぬ訳だ。

 

エッ?

こんなにみんなが困ってるのに何もしてやらなひの?

 

さうして独りよがりに観念の高みでもってしていつも見物なの?

 

さう見物なの。

 

バカは死んでも治らんのでかうして馬鹿馬鹿と罵倒しながら物見遊山に見物なのだ。

 

 

「無名であることを良しとする」

 

だから無名でもってして其れが一番なのです。

 

さて🐵なのに総理大臣をやってることと其の無名の人とではどちらがより偉ひのでせうか?

 

無名の人でせう。

 

ブゥー、違ひます。

 

なんとなれば🐵なのに総理大臣をやってる人の其の奉仕の精神の方が遥かに偉ひではなひか。

 

 

でも高みの見物をしてる其の人はもう地獄に堕ちてます。

ー高みの見物とは、自分に直接利害が及ばない範囲から、傍観するという意味のことわざー


ではもしや🐵の総理を認められたのか?

 

金輪際認めてません。

 

何故なら🐵よりも🐻に是非総理をやって欲しひのだから。

 

 

ー「本当の意味での理解」とは、実際その立場になり、体験しない限り理解したことにはなりません。科学やTVの報道など、「客観的事実」を盲目的に信じることが、バカの壁をつくり出し、本当の意味での理解を阻害するのです。ー【書評】固定概念を捨て去る言葉を体得する『バカの壁』より

 

其の「客観的事実」であることを科学は証明することが出来ぬのです。

科学への盲信は人間にとり最悪の観念的後退です。

 

其の盲信をする人間が多過ぎいつの間にか馬鹿だらけになって居ると云ふのが世の實情です。

 

 

ー今や猫も杓子も「個性を伸ばす時代」です。学校教育の現場でも、個性、独創性、オリジナリティを尊重する風潮があります。著者曰く、「共通了解のこの時代に、個性、個性と唱えることは矛盾している」といいます。 ー【書評】固定概念を捨て去る言葉を体得する『バカの壁』より

 

本気で其の人間の個性の重視を唱へるのであれば、学校などはもう要らなくなって仕舞ひます。

勉強は塾でも出来るのだしむしろ寺子屋のやうな教育の方が其れには向ひて居りませう。

 

学校はむしろ社会の奴隷を生み出す為の洗脳の場のやうなところだ。

 

だが個性とは生まれ持ったものでありほぼ生涯変はらぬものだとも思ふ。

 

 

ー著者曰く、「現代世界の3分の2が一元論者だということに注意しなければならない」といいます。これはイスラム教、ユダヤ教キリスト教のことです。宗教もそうですが、原理主義も同じく、一元論です。原理主義が破たんするのは、歴史が物語っています。このことに気づくべきといいます。ー【書評】固定概念を捨て去る言葉を体得する『バカの壁』より

 

キリスト教はむしろ二元性に基づき構築されし宗教でせう。

なので其の思想的展開は概ね正しひものなのだと言へる。

 

問題は大乗佛教の方が一元論だと云ふところにこそあらう。

他力救済を旨とする大乗佛教はある意味ではキリスト教的に一元化されて居るが眞理以前の段階では其れもしかと二元化されて居ります。

 

より正確なところでの眞の意味での一元化とは釈迦による佛法のみなのではなからうか。

 

何故なら天國には神と其の眷属となりし人間が共に住まふ訳だが涅槃の境地にはもはや佛しか居らず其の佛は結局人間だけがなれるものなのだからこそ。

 

 

バカの壁とは、「現代人がいかに考えないままに、この周囲の壁をつくっている」というものでした。この周囲に壁をつくることで、居心地のいい世界を創ろうとしているのです。しかし、この壁こそが進化する人間の敵であり、壊すべき壁なのです。ー【書評】固定概念を捨て去る言葉を体得する『バカの壁』より

 

現代人はまさに抽象的に社会に洗脳されて居ることだらう可能性が高ひ。

 

其のー居心地のいい世界-とは其の人間にとっての抽象的な願望に沿った世界のことだ。

 

其れを組み上げたのは結局子宮思考であらう。

より正確には子宮思考に洗脳されし男性原理が其れを創り上げたのだ。

 

1.兎に角群れたがる

2.権威にひれ伏す

3.じぶんでは考へなひ

4.快適なのが大好き

 

との人間の♀の考へが抽象化された形で實現したのが現代の科学技術文明なのだ。

 

要するにいつの間にか文明の奴隷、文明の手先として動き回る毎日しか出来なひで居る我我なのだ。

 

だから詩人さんは其処から逃げるんだ。

 

 

やっとソコが分かったか。

 

養老先生はな、随分前からベストセラーの本を連発して金持ちだからもう鎌倉の家で楽隠居だよ。

 

全く其処は五木 寛之先生とまるで同じで嫌らしひ限りだな。

 

 

一体其の何処が嫌らしひのだ?

金を持って居てしかも楽隠居なのが嫌らしひのだ。

 

其れにな、本来ならば「能ある鷹は爪を隠す」のだよ。

 

あへて其の才を世には示さぬものなのだ。

 

だがおまへもかうしていつも何かを書き示して居るではなひか。

 

其れも先生方のやうな結構な御身分になりたひのでかうしてやってるんだやう。

 

 

おお、おまへにしてはまた妙に前向きな発言だな。

 

へひ、其れもかうして何かを書くことだけが今のボクにとっては楽しひんでね。

 

さても今回のコロナ禍のやうに現代人にとってやれなひことがあることをドーンと知らせて呉れることこそが或は大事なのかもね。

現世利益化することなど適はぬ不老不死ーディストピアにつき考へる 壱ー

 

其のそも変革出来ぬ社会をどう変革して行けば良ひのか?

さう哲學的には滅びへと至る其の社会を一体どう変へて行けば良ひのか?

 

まさに其のことを人文理性の立場より考へて行かうとしたのが此のブログの内容である。

 

 

其の変革の形にも様々があらうが、

1.批判ー合法的批判ー

2.批判ー非合法的批判ー

3.内部からの批判

4.無視

 

と云ふ種別がまずは考へられやう。

 

で、わたくし自身の立場はむしろ4.に元々近ひ訳だ。

 

むしろ幼稚園児位の頃からさうで、實は社会を斜に構へ見る癖がありでもってしてみんなと一緒に御遊戯など金輪際したくなかったのだ。

 

でも小學生の頃にはむしろドップリと社会に投げ込まれて居り学校の先生からは「変はり者」として目を付けられて居たのだったが其の反面みんなを笑はせる芸の才があり實はクラスの人気者だったのだった。

 

わたくしはそんな両極人間なので元々なかなか理解し難ひ人間だ。

 

自分でも?

さう自分でも。

 

 

でも小学六年生からはそんなおちゃらけを止め優等生になったわたくしは結局御勉強が大好きとなり大學を出てからは塾にて社会科を教へつつ自ら學ぶやうにもなって行った。

 

何故塾の講師になったのだ?

 

結局は常なる社会が嫌ひだった。

 

其れもみんなが喜んで働ひて居るが其れが何だか洗脳のやうにさへ思へたからだ。

 

 

其れ程御勉強が好きなら大學へ残れば良かったのでは?

 

學部による限られた其の大學の御勉強とわたくしが御勉強して行きたひものとがまた違って居たのだ。

 

わたくしが學びたかったのはむしろ人文、社会科学とのしての全領域だった訳だ。

 

 

尚、此の「無視」の立場を貫く人々が此の世には古くから存在して居る。

 

社会との関はりを断ち一種高雅なる精神の世界に生きる文人墨客などがまさにさうなのだらう。

 

また道教の方ではまさに其れが一つの「仙境」として示されて来た訳だ。

 

自分で言ふのも何ですがわたくしは元々そちらの方での性質の強ひ人間なのだ。

 

 

ですがあくまで其れは昔の話で、とりあへずは一億総中流階級を達成した昭和の時代に許されるやうな形での「世逃げ」なのでは無ひ。

 

余程の金持ちの家ならば其れも可能なのだらうが、でも太宰にせよ芥川にせよ結局晩年は金にも困り追ひ詰められて行ったのだった。

 

左様に「世逃げ」すると金の方で追ひ詰められるものとさう相場は決まって居る。

 

 

但し一億総中流崩れをした平成からまさに破壊の時代令和に於ひては其の「世逃げ」もまたひとつの妥当な選択として認められて然るべきだらう。

 

何故なら社会の言ひなりになりやったら全部がブッ壊れました、と云ふまさにクソ矛盾社会なのでそんなもんはまさに赤信号をみんなで渡り余計に地球を壊していくだけのことだわひな。

 

なのでソコんとこを良く考へさらに意思決定を厳密に行ひ否定すべきところは否定し、また動物や妖怪の類が跋扈する社会の上部構造は此れを信じず、さらに自らが一体どのやうにして其の宇宙の肥溜めに落ちることから逃れるか、と云ふ其の一点のみに希望と云ふか願望と云ふか未来を設定しまさにさうして半分死につつヘロヘロとなりつつ生きて行かうではなひか。

 

 

 

其れでもあへて1.をやったのは、つまりは頭に来たからである。

 

わたくしは社会を見やうとして塾の先生を辞め其の社会へと乗り出して行った。

 

ところが其の實社會こそが馬鹿の巣窟であった。

 

實はそんなかっての塾だの学校だの公務員の世界だのがパラダヒスだったのだった。

 

強欲なる資本主義による實社會は左様に甘くはなかった。

 

だから其れは元元分かってる。

 

 

さうして資本主義は何でもやり過ぎて仕舞ふ。

 

資本主義は結局かのマルクスが言ったやうに儲け主義と云ふ利己的な欲望の為に自己崩壊して行かざるを得ぬ。

 

でもほんたうの馬鹿とはむしろ其の資本主義では無ひ。

 

まさに其れが我が國に於ひて伝統的価値と其の資本主義が結託して居る様のことなのだ。

 

 

まさに其れが矛盾的推進となってる。

いや、其ればかりでは無く矛盾的國家ともなってる。

 

國自体が矛盾するのでコレはもう明らかに絶望的だ。

だからこそ三島 由紀夫は自決するに及んだのだ。

 

其れでもってノーベル文學賞受賞者としての川端の爺ちゃんもまた絶望しちゃった。

 

つまりは其処にて文學の使命は一旦終はりを遂げたのだった。

 

昔の文學者はかやうにクソ眞面目だった。

 

 

でも今の知識人は眞面目でも何でも無く其のほぼ全員が利己主義だらう。

 

實は宗教家でさへもが其のほぼ全員が利己主義だらう。

 

わたくしのやうに生涯無一物としての潔癖の徒など他には居なひ。

 

 

今また威張ったな?

 

威張ってません。

 

事實かうして無一物です。

 

 

ウソこくな。

 

おまへの持ってる沢山の石、其れに万年筆、さらに余分な知識、おお其れも下らぬ知識ばかりが。

 

其れを使ひ社会をイジメ喜んでる其のさもしひ心。

 

アア汚へ、アア臭へ、アア👿っぽひ。

 

 

おまへはかの実践倫理宏正会の人々を見習ふべきだらう。

 

其れもこんな朝も早うから早起き会へと出向きおおまさに喜んで日々働かうとして居なさるではなひか。

 

學會の人達でも夜遅くまで勤行、唱題し自民党のやり方に一石を投じやうとして居なさるのだ。

 

確かに學會は日蓮正宗からは破門されたが結局の処そんなの関係なひぞ。

 

 

即ち今やるか、やらぬか、だ。

 

でもおまへは逃げばかりではなひか、其の逃げ。

 

わたくしはあの男とは違ひ今やるのでは無くまさに今逃げるのです。

 

アノ東大を出た現代文の講師でもある👨、エーッと誰だったかな、さうアノ林修だった。

 

 

うへえ、コヒツ意外と齢ですよ。

 

何と55歳だ。

 

と云ふことはわたくしとはたったの6歳しか違ひませんよ。

 

 

名古屋人なのに巨人ファン。ーアホか?

 

イチローに対し批判的。ー同じくさう、何せ金を持ち過ぎてるので。

 

東区在住。-東区はね、兎に角エエトコですよ。

 

尾張藩武家屋敷だったところで全体的に印象としては高級且つ高雅なところです。

 

わたくしはかって東区にはまるで縁が無かったが何故か最近は東区ばかりへ行って居ります。

 

 

 

其の「合法的批判」にはわたくし共のやうな個人的批判、また社説のやうに組織的に出される批判、さらに日本共産党による政府の政策への批判などがありませう。

また學者による批判なども結構しつこひものです。

 

非合法的批判には邪教又は過激な宗教原理主義によるテロ活動やまた良くは存じませんが秘儀的秘教的なイデオロギー団体、また👿主義の団体などが其処に含まれて居ることだらう。

 

「内部からの批判」はわたくしが今最も注目して居るもので、先に申しましたが如くに政権与党の一角としての公明党が今まさに其れを行って居る訳なのですし、🐻石破や頭の良ひ彼河野などの流れが或は其れに当たるのやもしれません。

 

要するに馬鹿を根絶せしめることが批判の目的ですが批判すると其れなりに労力が居ると申しますか神経をすり減らさねばなりませんのでもう其れ自体が面倒臭ひ訳です。

 

 

で、實はインテリは常に「世捨て」を選択することもまた可能である、と云ふことを述べておる訳です。

 

なのですが、三島先生もまた川端先生も「世捨て」を選択することなどはとても出来ぬ立場へと社会的に追ひ込まれて居たのです。

 

なのでもう腹を切るか其れともガス管を咥へるかと云ふ選択しか事實上無かったのです。

 

嗚呼、何と哀しひ結末でせう。

 

 

三島先生もまた川端先生もまた左様に山の中にて野垂れ死ぬことが出来なんだのです。

其処を逆に申しますれば山の中にて野垂れ死ぬことこそがサヒコーの死に方なのではありますまひか。

 

三島先生もまた川端先生もまた我が國の「伝統」と云ふことを大切に捉へられて居たのではなかったか。

 

 

ですが、「伝統」と云ふものはまた容易に「伝統」としての形式に堕するものなのでもまたある。

 

「伝統」にせよ「保守」=保持にせよ實はさうして容易に自己矛盾し自己崩壊し易ひものなのです。

 

 

物事が良く分って居ると云ふことは、其の現實としての崩壊への足音、其のひたひたと迫り来る矛盾的破壊の予兆に対し敏感であり且つ其れを許さぬ気概を常に保つ事だ。

 

「伝統」や「保守」としての立場は価値ヒエラルキーを堅固に組み上げて行く。

 

まさに其れが権威主義や特権意識の温床ともなりませう。

 

其の権威主義や特権意識こそが實は醜ひものです。

 

 

また其れは政治の世界ばかりでは無く其れこそ警察や自衛隊や地方公務員の世界、またわたくしが知る範囲での文化的制度の部分に関してもまさに其れが該当致します。

 

どだひ茶道や華道の家元の世界、また踊りや能狂言などの伝統芸能の世界などがまさしく其れに該当する世界でもまたある訳だ。

 

 

まあ正直に申しますれば天皇制や王室なども或いは其処に含まれるのやもしれぬ。

 

其のヒエラルキー化した価値の構築の世界には常に危機が孕まれて居ます。

 

故にか事實としての伝統的価値の崩壊が危惧されてすでに久しひ訳だ。

 

 

要するに「伝統」や「保守」であることに胡坐をかき威張ってなど居てはなりませぬ。

 

「伝統」や「保守」であることを守ることは並大抵のことではありません。

 

何故なら近代其れ自体が変革を旨として成立する社会なのだからこそ。

 

さうして近代とは絶へ間無き進歩を我我に要求して止まぬ時代です。

 

 

其れも我我自身が其れを欲するのでは無くさう欲して居る社会が我我に対し進歩による便益を常に提供する時代なのです。

 

ところで近代ー近現代ーを規定する曲があることを皆様は御存じでせうか?

 

わたくしが思ふところでの近代ー近現代ーを規定する曲

Beethoven: Symphony No. 7, Furtwängler & VPO (1950) ベートーヴェン 交響曲第7番 フルトヴェングラー

 

即ち其れがベートーヴェン 交響曲第7番の第二楽章ーAllegrettoーです。

 

個人的に近現代の矛盾に就き思ひ悩む時には屡此の曲を聴き心を慰められても居ます。

 

ある意味ではまさに悲壮感が漂ふ曲であります。

 

みんなには悲壮感など何処にも漂って居なひのかもしれませぬがわたくしの場合には幼稚園児の頃からかうして漂って居りました。

 

 

かうしてわたくしには常に人間の社会其れ自体が危うひものとして認識されて来ました。

 

だからみんなにとってはまさに今始まったばかりのこととして其れが認識されるのやもしれぬがわたくしにとって其れはもうずっと以前からの出来事だったのです。

 

 

で、以前にも詳しく述べて居ますがSFの名作映画である『未来惑星ザルドス』に此の曲が使われて居ります。

1974年の公開当時わたくしは此の映画の存在を知りませんでしたが、後にー高校生の頃か?ーTVにて初めて視聴した覚へがありますが当時はまるでもって訳の分からぬ映画でした。

 

要するに難解なSF映画でした。

ですが、まさに一級に優れた作品でした。

 

また此の映画にてベートーヴェン交響曲を初めて聴ひた訳なのでもあった。

 

映画に描かれた未来の地球の様は其のベートーヴェン 交響曲第7番の第二楽章ーAllegrettoー其のもののやうに悲壮感が漂ふものでした。

 

ー2293年の未来、人類は不老不死の「エターナル(Eternals)」と死のある「獣人(Brutals)」に分かれ、エターナルはボルテックスという土地に住み、獣人は荒廃した土地でエターナルのために食料を生産していた。二つの世界は見えない力学的なバリアによって隔離され、ザルドス(Zardoz)という名の、人の頭部を模した空飛ぶ石像のみが往来可能であり、ザルドスは穀物を受け取る代わりに獣人の中から選んだエクスターミネーターという殺し屋集団に武器を渡していた。ー未来惑星ザルドスより

ー本のストーリーを理解したゼッドに、今まで絶対的な神と崇めていたザルドスが作り物の偽者ではないかとの疑念が芽生える。ゼッドはこれを確かめるために、仲間と謀ってボルテックスに侵入し、裏切り行為が明らかになった場合は復讐しようと企てていたのだった。また尋問の過程で、ゼッドは生きることに退屈したアーサー・フレインによって、エターナルに「死」を復活させるために、(遺伝子操作などによって)創造された存在であることが明らかになる。ー 未来惑星ザルドスより

 

ーエターナルたちは、ゼッドに今まで人類が蓄積した全ての知識を移植し、ゼッドはタバナクルの正体に気づく。解放者としての使命を自覚したゼッドは、仲間のエクスターミネーターたちを呼び込むためにタバナクルを破壊し、これによってボルテックスのバリアは消失し、ザルドスも墜落する。ゼッドとエクスターミネーターたちは殺戮を行い、ボルテックスを地獄絵図に変えるが、エターナルたちはむしろそれを喜んで受け入れて滅びていく。

ゼッドはコンスエラを連れて落ち延び、墜落したザルドスの残骸の中に2人で隠れ住み、子供を産み、育て、老いて死に、骨となり、最後はその骨も消えて、錆びた拳銃と2つの手形が映るシーンで終わる。ー 未来惑星ザルドスより

 

此の映画はまさに人間にとっての幸福とは何か、また眞の意味での獣とは何かと云ふことを問ひかけて居るのだと思ふ。

今以上に進歩した人間はやがて不死の世界を此の現世に實現させて行くのであらう。

 

だが其の不老不死の世界とは畢竟人為による加工が行き着ひた様なのだ。

ところが当の不老不死の人間達にとっては其の「死」こそが得ても得られぬ最大の幸福だった。

 

科学技術の行き着ひた様とはそんな一種の皮肉か又は逆説に刺し貫かれしものでもまたあった訳だ。

 

其の構図は然し現實の世界と何ら変はるものでは無ひ。

誰もがさうして現世での繁栄をさうして現世での不死を乞ひ願ひ日々を生きる。

 

さうして日々を頑張り自らを目一杯にして行くことをこそ乞ひ願ふ。

 

だが其んな価値への指向は誤った認識によるものだ。

 

未来惑星ザルドス

こちらでのレヴューを是非御覧頂きたひ。

此のやうに常に高評価が与へられて居るSF映画なのだ。

 

エッセー 「70年代を代表するディストピアSF大作 "未来惑星ザルドス"」

 

此のやうにつひ先日亡くなられたショーン・コネリー氏がまさに其の半裸の姿にて出て居られる。

 

ショーン・コネリー氏が演ずるゼッドは獣のやうに見へ獣では無ひ。

逆に現世に其の不老不死を築き上げた未来の科学者による「加工」こそが獣なのだ。

 

人類の知識の全てを得たゼッドは逆に限定された行動を選び一人の神人間の👩を愛し洞窟の中で共に死ぬるまで連れ添った。

 

かように人間の幸せとは逆に限定されし行動の中にこそあらう。

 

知識を蓄へ思考がより深くなるにつれかやうに人間の行動は慎み深くもならう。

 

逆に言へば常に行動が軽率な者、現世にて過分な利益を得やうともがく者こそが贋の理性の持ち主なのだ。

 

 

尚わたくしにとりショーン・コネリー氏はかの007を演じた俳優などでは無く未来惑星ザルドスにて彼が演じたゼッド其のものなのだ。

 

さうしていつかやがては死を遮断して行くことだらう人類。

 

神の御手を離れ人工の翼にて空を飛び自然のさうして宇宙の支配者とならうとする者達。

 

だが其の天駆ける馬の如き文明の勢ひも今や途切れがちだ。

 

 

どんな抽象的に築く夢も人間の肉体や心の限界を突き破れるものでは無ひ。

 

君等がどんなに持って居るとさうして叫んだにせよ大自然の摂理は君等自身の限度をまた指し示しても居やう。

 

 

さても以降文明はディストピア化して行くのでせうか?

 

おそらくはさうなる他無くなることでせう。

 

科学技術の進歩は其の破壊には間に合はぬ可能性がまた高ひ。

 

何故なら科学技術の進歩には大きく金がかかりませう。

 

 

だが其の大金を何処かから絞り出せるのかどうかが愈不安になりつつある。

 

其れどころかまともな生活すら出来なくなる虞もまたある。

 

矢張りと云ふべきか可能性としては社会での二極化が益々進むことだらう。

 

其れは貧乏と金持ちの二極化であること以上に気付ひた者ー目覚めた者ーと気付けぬ者ー目覚められぬ者ーとの二極化であるのやもしれなひ。

 

では貧乏でも清貧を貫けばまさに其れが心の進化なのでせうか?

 

 

おそらくはさうしたことでせう。

足るを知る、とはまさにさうしたことだ。

 

事實としてどんなに大金を握って居てもむしろこれからの時代には通用しなくもなりつつある。

社会が崩壊へ向かふやうでは其の大金もほとんど何の役にも立たぬことだらう。

 

と申しますか、そんな大金を持って居ても其れに応じたサーヴィスが次第に得られなくもならう。

 

だからむしろ重視すべきなのは身の回りの整理整頓と心の錬磨の方だらう。

 

其れも今コロナ籠りにて世に溢れることだらうマニアックな追求などは物質面ばかりでは無く是非心の方での探求に向けて行かれたし。

かくして二律背反する現象界

嗚呼、生臭や、生臭や。

 

其れも其の浄土眞宗の永代墓には金輪際入れぬとさう仰る訳の其の分別こそが生臭や。

 

だからソコんとこは、本来なれば無一物。

 

人間は何も持って無ひのであるからほんたうはイチローも真央ちゃんも何も持って無ひ。

 

持って無ひのに持って居る。

 

とさう考へる人間の認識其のものが倒錯の極みなのさ。

 

 

でもみんなには所詮其れが分からなひ。

みんなはさうして獣になってるから決して其れが分からなひのだ。

 

獣=悪魔=👿だよ。

😸じゃあ無ひよ、其の👿だよ。

 

みんなはさうして所詮は動物なのさ。

動物だからみんなはすぐに👩に飛び付く。

 

さらに大金にも群がりたがる。

 

でもソコんとこはおまへも一億円呉れといつも言ってるだらう?

 

確かに言ってますよ。

 

でもわたくしに必要な一億は其れはソフトランディングする為の大金ですよ。

 

ソフトランディング?

 

さうしておまへは世を捨て人間を捨て山へ籠らうとして居るな。

 

 

さうなんです。

要するに其の世捨ての為の資金なので、其れを読者の方々にお布施して頂かうとさう云ふ訳だ。

 

おまへは其れを本気で考へて居るな!

 

まさか本気じゃあ無ひですよ。

 

タダ話をより嫌らしく面白く粉飾して居るだけのことだ。

 

 

まあさうだらうな、ワシもさうだらうなとは實は思って居た。

こんなバカバカしひ会話の間を持たせる為の作文上の手練手管であること位はとうの昔に気付ひて居た。

 

 

ところで今おまへは何を考へて居るのだ?

読者の方々は兎に角其れだけを早う知りたひのだ。

 

一刻も早う其の心の内容を吐露せよ。

 

其れも全部を吐け。

全てを曝け出しさうしてスッ裸になれ。

 

心の恥部を須らく此のネット上にブチまけるのだ!!

 

一体何をそんなに興奮して居るの?

 

 

第一此処は何でこんなに力が入ると言ひますか激高し易ひところなの?

 

結局は其れも其の手練手管としての書き方の問題でせうか?

 

無論のことさうですよ。

全ては作文上、創作上での計算ずくのことよ。

 

元より此処はわたくしの文學の場なのだ。

 

だから其のフィクションとしてのノンフィクション文學の場なのだ。

 

 

つべこべ言はずに早う裸になれ。

 

ヘヒ、分かり申した。

 

じゃあこんなんですうー。

 

ウヘェッ、汚ねへ。

 

しかも臭へ。

 

 

もうエエ、おまへの裸などもう誰も見たくは無ひ。

 

早うおまへの其の心の中をば開陳せよ。

 

ヘヒ、じゃあこんなんですうー。

 

 

アアー、クラクラクラクラ。

 

アアー、何だこの万華鏡のやうな超宇宙の様は。

 

まるで胎蔵界金剛界が合はさったやうな此の色とりどりのさうして奥深ひ両極兼備での世界!

 

まるでキリスト教と佛教が融合したかのやうなおおまさに豪華絢爛たる桃源郷のことぞ!!

 

もしやコレぞかのエル・カンターレとしての神の領域のことでは無ひか?

 

ですから教祖様、さうして自らを神格化するのは是非止めて下され。

 

 

宗祖様も是非自らを神格化するのは止めて下され。

 

ズバリ申しますれば人間がじぶんを神格化する宗教こそが邪教です。

 

逆に正教とは、人間がじぶんを肥溜めに落とす宗教のことです。

 

 

つまりは人間をサイテーと見做す宗教のことだ。

ではおまへの奉ずる宗教は皆人間をサイテーと見做して居るとさう仰るのか?

 

さうです、佛教にせよキリスト教にせよ其れは然りです。

或は其の部分ではアニミズムなども其処に属するタヒプなのやもしれません。

 

但しアニミズム神道も其処に含めるーには人間中心主義ー人間中心ーの価値観が御座りません。

其処では常に人間共は神々の僕です。

 

では佛教にせよキリスト教にせよ人間中心主義だとさう仰る?

 

實はさうなんです。

 

其れも佛陀御自身の教へとキリスト御自身の教へに於ひて其の人間中心主義がまさに成立して居やう。

 

 

でも人間中心主義はイケナヒので文化相対主義へ移行すべきだとおまへが尊敬する文化人類學者レヴィ・ストロースはかって述べたのでは無かったか?

 

まあ構造主義はまさに其の部分を批判して行った訳だ。

絶対的に規定される眞理など此の世には無く相対的文化的に構造がさう規定されて居るばかりなのだと。

 

ですが、所詮構造主義に人間を救ふことなどは出来ぬ訳だ。

 

ズバリ申しますれば本気でもって人間を救ふには人間中心主義の立場を取るより他に御座りません。

 

なのですが、仏陀による人間中心主義とキリストによる人間中心主義は対概念として成立するものだとも考へられやう。

 

 

佛陀の目的ー煩悩まみれの悪ひ世からの脱出=成道=成佛=涅槃=永遠の幸福の成就

 

キリストの目的-欲望まみれ(罪深ひ欲望)の悪ひ世からの脱出=神への帰依=天國=死後の永遠の幸福の成就

 

此処でよーく考へてみませう。

 

佛陀の目的とキリストの目的とは實は瓜二つなんです。

 

ですが違ひもまた御座ります。

 

最大の違ひは、佛陀の場合には其の永遠の幸福の成就=本質的な幸福の成就を必ずしも死後には置ひて居なひと云ふことだ。

でも別に死後の永遠の幸福の成就を否定して居る訳でも御座りません。

 

対してキリストの場合には其の永遠の幸福の成就=本質的な幸福の成就は必ずや死後に達成される必要がある。

なんとなれば最後の審判による生前の行ひによる魂の選別を受けねばならぬからなのだ。

 

 

なんですが、結局此の世から「逃げる」と云ふ意味ではほぼ一致して居るものと見ておくべきでせう。

但し同時に「逃げぬ」と云ふ価値も其処には醸成されて行く訳だ。ー「逃げる」⇔「逃げぬ」ー

 

佛教にせよキリスト教にせよ心を統御することにより眞に生きることを目指す其の教への内容です。

眞に生きるとは、現世を只楽しく明るく前向きに生きることではあり得ません。

 

現世を只楽しく明るく前向きに生きることを近代社会は奉じて来て居ますが其れは人間の抽象的な願望を具体化ー合理的に具体化ーしたことの結果によりさう人間が洗脳されたものでしか無ひ。

 

さうでは無く、人間が眞に生きるとは、現世を辛く苦しくもうほとんど死んで生きること其のものであるべきだ。

 

 

だからソッチの方がむしろ「正しひ」=「善」の捉へ方=善なる認識なのだ。

 

なので其れが分かって居なひ奴等は所詮は獣であるより他は無ひ。

 

其の「正しひ」=「善」とは、人間の観念がさう決めてさう「正しひ」=「善」と判断されるものには非ず。

 

 

前々から申して居りますやうに、「正しひ」=「善」とは「正しく無ひ」=「悪」との対概念なのだ。

 

だから其のやうな分別的概念の段階では「正しひ」=「善」であることを規定することがそも不可能となる。

 

さうでは無く急迫した其の罪への意識か又は其の無明への呵責の念が生じた時にのみ神佛への扉が開かれ其の時に初めて「正しひ」=「善」であることの価値が人間の心の中に生ずるのだ。

 

 

其処を平たく申しますれば、おバカ人間がおバカに罪を重ね煩悩まる出し、其の煩悩まみれでもって其れもスッ裸でもって踊り狂って居る其の様こそがまさに獣であり現代文明の實相であり實像です。

 

なので其の侭では地獄へ堕ちることからは絶対に免れ得ぬことでせう。

なので佛教にせよキリスト教にせよちゃんと地獄が用意されておりますよ。

 

其れも其の地獄とは嗚呼まさに此の現代文明の為に用意されたやうなものではありませぬか!

うはーあ、怖ひ。

何が怖ひってこんなに地獄が身近になるともう怖くて怖くてお外も歩けなひ。

 

いやだから最近は閉じ籠りの方々もまた多くなって居るやうですね。

ですから其れは当たり前のことで別に非難されるやうなことではありませんね。

 

 

さても其の「逃げぬ」と云ふ価値に就きもっと詳しく説明して下され。

 

宜しひ、では申しますよ。

 

佛陀の目的とは其れ即ち人間が自力にて獣ー煩悩まみれーであることを止め聖なる心の段階へ達しズバリ現象であることを離れることだ。

キリストの目的とは其れ即ち人間が他力ー神ーにて獣ー罪深さ其のものーであることから解放され聖なる心の段階へ達し現象であることを離れることだ。

 

其のキリスト教の場合でも現象であることを離れるのか?

まあ其の辺りでの厳密な解釈は教会にて確かめて来ねばなりませんが一応わたくしが現在理解するところでのものはさうしたことなのだ。

 

さうして天國へと再生され神の御元で永遠に生きると云ふことは霊的な次元での現象であり此の物質的な次元での現象とは元より異なって居やう筈。

 

佛陀の目的→成佛を目指す

キリストの目的→天國を目指す

 

此のどちらもが實は現世利益的な目的ではありません。

むしろ現世利益を徹底的に排除したところに生ずる価値観の成就を共に表して居ることだらう。

 

つまりは共に現世を半分死んで生きる訳です。

僧侶の方々、また神父様、其れにさうした本職の方々に準ずるやうな信心深ひ方々ならば其の「半分死んで生きる」ことの意義が理解されやう筈だ。

 

 

ところが、巷は相変はらず獣其のもの、其れも上は國會議員から下は幼稚園児に至る迄みんなでもってまさしくケモノだ、其れにいつもウンコたれだ、ほれ👩に飛び付け、やれ百万欲しひ、うはあ家だ、墓だ、社会的地位だ、コレでもってオレラはもう安泰だー。

 

 

ばか、さうかうするうちにかくて社会が崩壊の危機に存しておりますがな。

 

ですから其の馬鹿は死んでも治りませぬ。

哀しひ哉人間の馬鹿はたとへ死んでも治らんのです。

 

其の死んでも治らん罪をまた無明を、御救ひ下さる佛陀やキリストの方を向くことは意外と困難です。

何故なら現代人がもうほとんど動物化=獣化されて来て居るからなのだった。

 

そんな獣共は宗教を理解出来ぬ心の状態にあるが故にむしろ其れをシャットアウト致します。

其の聖なる心のあり方がむしろ己の心のあり方にとり煙たひものなので其れがじぶんの心に入り込むことを毛嫌ひさへ致します。

 

 

グ~オウ、ギャワオオウー。

 

ああ、今日もまた獣人間共が其処らで吠へまくって居るな。

 

其れにつけてもイヤな光景だねへ。

 

もはや哀しみを通り越して痛ひね、さう何処かが何だか痛ひ。

 

アア、胸が痛ひ、心が苦しひ。

 

もう死ぬ、死ぬるぞ、もはや涅槃が眞近だぞ。

 

 

ひょっとして宗教詩人さんは生きて居るうちにはや解脱なさったのか?

 

いや、さうでは無ひ。

 

あくまで人間は解脱出来ぬと云ふことを了解したに止まる。

 

 

自力にて解脱出来ぬからこそ宗教は皆他力本願化して行ったのであらう。

 

では他力救済は必然として齎されしことなのですか?

 

無論のこと其れは必然です。

 

其処で重要なことは、

 

自力救済⇔他力救済

であることなのだ。

 

其れは救済と云ふ概念の二元分離ですので、あくまで対立であると共に関連付けられても居ます。

 

つまりは相剋し尚且つ相即する関係にあり単独にて成り立つ概念規定には非ず、です。

 

 

なる程、すると自力救済を奉ずる古ひタイプの法解釈と大乗思想はまた相剋し尚且つ相即する関係にある訳だ。

其れにキリスト教もまた其の他力救済の中にしかと含まれて行く訳だ。

 

重要なことは其処での優劣は基本的に論じられぬと云ふこととなります。

 

絶対に正しひ教へ=正教と云ふものが實は存在して居りません。

 

でも問題が切迫した場合には宗教の正邪もまた決められるのですね?

 

だからまさに其の正しき宗教が佛教及びキリスト教だとさう申して居ります。

 

 

其れもエル・カンターレなどでは無く?

さうエル・カンターレなどでは無ひ。

 

 

全く、かの人間共はほぼ永遠に生臭ひ。

其の様やまるでアホじゃねへのか?

 

もう其の様や哀しみを通り越して痛ひ。

 

ああ痛ひよ、こんなに宗教詩人の心が腐ってる。

 

いや痛んでる。

 

宗教詩人さん、是非死ななひで下され。

 

是非此の侭御説法を続けて頂きたひ。

 

此の腐った世の中には心の飢へた人々が沢山居ます。

 

 

其の方々にどうかお示し下され。

其の狭き門より入る神の世界を。

 

いや、違った。

其の永平寺の門より入る佛の世界を。

 

 

分かり申した。

アナタが其処まで殊勝な心掛けにて我が心中の門を敲ひた。

 

其の仏道修行への門をたった今さうして叩かれた。

 

さらば門は開かれやう。

 

眞理は今此処に説かれやう。

 

 

だがおまへはかの永平寺を私物化して居るな!

此の魔道の佛教徒めが!

 

さてもおまへは一体誰だ?

 

おまへは眞理を食ひものにして栄へる👿だな!

 

 

實はさうなんです、かうして常に悪魔は居ます。

 

 

神又は佛⇔👿

重要なことは事實として此の現實が其のやうに分かれ常に相剋し且つ相即して居ると云ふことなのだ。

 

なので人間の強欲ー👿ーがあればまた他方に神佛がおはすと云ふことなのです。

 

逆に言へば神佛がおはすが故に悪魔もまた現象して来ざるを得なひ。

 

人間の心とは其のやうな善悪としての複合物なのです。

 

なのでじぶんだけが善の存在である、か又はじぶんだけが持ってる、又はじぶんだけが正しひとさう考へがちなのは實は須らくが誤りでの認識です。

 

正しくはじぶんもまた誤りに陥ることがある不完全な人間なので神や佛に是非救って頂きたひ、と云ふ認識でもって丁度良ひ位のものです。

 

尤も本来ならば釈尊がお説きになられた自力救済でも勿論宜しひのですが、其れは人間にとり事實上不可能に近ひ認識なので他力救済にて救って頂く他無ひのであります。

 

 

では大乗各派もまた〇なのですね?

勿論〇です。

 

キリスト教もまた〇なのですね?

勿論〇です。

 

では✖なのは一体何でせうか?

 

✖だとも決め切れぬのですが、現世利益的な宗教には是非気を付けるべきだと個人的には思ふ。

 

 

特に壺を売り付けたり高額なお布施を要求する宗教は結局のところインチキ宗教でせう。

 

まるでアンタみたひな宗教と云ふことですね。

 

さうでした、どうもすみませんでした。

 

 

でもわたくしのはあくまで文學なのでまだ一銭も貰って居ません。

其れも何で購読料を払はなひのだ、其れも毎回毎回読み逃げしやがって。

 

また読者に対し酷ひことを言ひましたね。

 

いへ、其の読者様こそが神様です。

また其れは単なる比喩、形容では無く眞實にわたくしにとっての神様なのだ。

 

 

其れもわたくしをしてかうしてネットラヒターの一人にして下さった神様だ。

 

アアまるで神様、佛様、読者様だ。

 

何ともお世辞の上手ひ奴だな。

 

でも其れが本音なのだよ。

 

 

 

ところでおまへは何故其の神の読者に対し説法するのだ?

 

いやだから其れが文學なのです。

 

文學はまた宗教とは違ふのだ。

 

 

其の他力救済が〇なのであれば、其の浄土眞宗の永代供養墓でも良さそうなものだがさてもおまへは一体何に拘って居るのだ?

 

其れはズバリ禅に対し拘って居るのです。

 

さうか、でも禅など馬の糞なのだらう、ならばもう捨てちまへ、そんなのは。

 

でも其れはイヤです。

 

イヤ?

 

イヤ。

 

 

 

人間が所詮は動物である、👿=獣であるのであれば、昨今に於ける社会破壊の様相にも妙に合点がいくと云ふものだ。

 

其の人間の行ひが獣臭ひのを何とか治せませんのですか?

いやだから其れは人間が抽象的に規定される欲を理性的に抑へることで止められるのです。

 

ですが其の理性もまた二元分離してまさに逆方向でもって使はれて仕舞って居る訳だ。

 

さうか、結局は二律背反の世界、まさにアムビバレンツな不均衡へと文明世界の全ては吸ひ込まれて行くのですね。

 

其の背反するものにも様々があり其の違ひを理解するだけでもまさに大変なのだ。【矛盾】と【二律背反】と【パラドックス】の意味の違いと使い方の例文

 

 

ー矛盾と二律背反とパラドックスの違いを分かりやすく言うと、矛盾は二つの物事の辻褄が合わないこと、二律背反は正反対の意味の二つの命題がどちらも正しいこと、パラドックスは正しいようで間違いなこと、または間違いなようで正しいことを意味しているという違いです。ー【矛盾】と【二律背反】と【パラドックス】の意味の違いと使い方の例文より

 

其の二律背反と云ふものがまさに此の現象界を規定する矛盾律と云ふか根本での問題であるやうに思はれて参ります。

 

現象界とは畢竟其の二律背反としての塊なのだらうか?

 

二律背反とは

二律背反とは、正反対の意味の二つの命題の根拠がどちらも同じくらい正しく、どちらか一方に決定することができず、両方認めなければいけない状態のことを意味しています。

ややこしい意味ですが、それもそのはずで、二律背反という言葉は、主に哲学の分野で使われるアンチノミーという言葉の訳語で、日常生活ではほとんど使われない傾向があります。

二律背反では、命題「AはBである」が二つあり、反対のことが言われているため、同時には成立しません。これだけだと矛盾のようですが、ふつう、矛盾と二律背反とは意味が異なります。

二律背反の例

二律背反のもっとも有名な例である、哲学者イマヌエル・カントのもので考えると、二律背反が矛盾と違うことが分かりやすくなります。カントは4つのアンチノミーを提示しましたが、ここではその1つを使って考えていきます。

カントの時代、世界に果てがあるのかないのかというのが、大きな問題となっていました。そんな時カントは、「世界は時間的に始まりと終わりがあり、空間的に限定される」と「世界は時間的にも空間的にも限定されている」という二律背反を提示しました。

この二律背反でカントが言いたかったこと、つまり意図が、二律背反という言葉の意味にとって重要です。カントは、ごく簡単に言ってしまえば、どちらが正しいことなのかは決定できないのだから、争っても無益であると説いたのです。

ここで矛盾の意味を確認しておくと、矛盾とはある人の意見や言動に首尾一貫性がないことです。カントは、別々の人々がそれぞれ一貫性をもって主張している、相反する二つの主張に、少なくとも彼の時代の観測技術やデータでは決着がつけられないと説いたのです。

結論としては、矛盾の場合をごく簡単に考えれば、ある人が前後で食い違ったことを言って一貫性がないことを意味していて、二律背反の場合は、主張Aの人と主張Bの人が、それぞれどちらも正しいので、どちらかに決めることができない時のことを言います。ー【矛盾】と【二律背反】と【パラドックス】の意味の違いと使い方の例文より

 

 

ーどちらが正しいことなのかは決定できないのだから、争っても無益である。ー

結論としては、矛盾の場合をごく簡単に考えれば、ある人が前後で食い違ったことを言って一貫性がないことを意味していて、二律背反の場合は、主張Aの人と主張Bの人が、それぞれどちらも正しいので、どちらかに決めることができない時のことを言います。ー以上より



ー正命題(有限説)「世界(宇宙)は時間的に始まりをもち、空間的に見ても限界によって囲まれている」

反命題(無限説)「世界(宇宙)は始まりをもたず、空間におけるいかなる限界ももたない。時間的にも空間的にも無限であるー宇宙は無限か、有限か カントの出した「答え」より

 

ーこのように、有限説も無限説も誤っていて、どちらも「正しい」とはいえなくなってしまいました。宇宙は有限か無限かという問いは、決して答えの出ない問い、つまりアンチノミーだということになります。ー宇宙は無限か、有限か カントの出した「答え」より

 

 

左様に背理法にて矛盾が証明されアンチノミーには答へが出なくなって仕舞ひます。

同時に其処には論理的思考即ち理性による限界点が指し示されて居るかのやうだ。

 

正命題(有限説)⇔反命題(無限説)



①宇宙は無限か、有限か

②物質を分解すると、これ以上分解できない究極要素に至れるか否か

③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか

④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か

宇宙は無限か、有限か カントの出した「答え」より

 

 

尚わたくしの現在の理解では正命題と反命題はまた相剋し相即するのではなかろうかと思ふ。

また其れは論理的には成立し得ぬものが實は此の世に於ける大部分を占めて居り其処からの作用なり何なりにて形作られて居るものの方が實はより大きひのではなからうか。


其れが神秘主義なのかまたさうでは無ひのか其れさへも分からぬのだけれど、つまりは文學者の自己否定を認める分左様な考へ方をあへて其処に選択して居る訳だ。


かうした形而上學上の問ひは元より宗教の課題では無く何故ならば宗教は人間による思考と行ひをまさに正す為にあるものだからなのだ。


つまりは世界がどうあれ、まさに獣の如くに抽象的な価値の追求を行へば早晩人間の社会は窮地へと追ひ込まれやう。


其の窮地は人間の社会其れ自体が拵へるのであり他のものが其処に導く訳では無くつまりは全てが自業自得としての縁起の結果なのだ。


なので今まさに進みつつあるコロナ苦、此れがまさに其の人間の欲望の追求による自己崩壊への端緒であらう。




ーカントは、この第一のアンチノミーを、矛盾対当ではなく反対対当であるとし、両方とも偽の命題なのだということによって、このアンチノミーを解消してしまうのである。

対立関係にはまた、両方とも真でありうるものがある。カントはそれを小反対対当といった。そうしたうえで、四対のアンチノミーのうち、第一と第二は反対対当、第三と第四は小反対対当であるとして、これら四つのアンチノミーがは、理性の誤謬による産物なのだというのである。

では何故、理性はこのような誤謬に陥るのか。それは、先に誤謬推論のところで指摘したのと同じような過ちを、理性が犯すからだとカントは言う。しかしカントにとって、こうした誤謬は理性にとっては避けがたいものなのである。

世界の時間的な端緒と言い、空間的な限界と言い、それらは直感によってとらえられるものではなく、あくまでも理性による推論の産物である。その推論の産物に過ぎないものが、あたかも客観的な実在として存在するように考える、ここに誤謬の原因がひそんでいるのだとカントは言うわけなのだ。我々にとって世界とは、あくまでも現象としてあらわれる限りでのものにすぎない。それをあたかも、現象を超越した物自体としてとらえるところに、そもそもの問題の端緒がある、というわけである。ー
カントのアンチノミー(二律背反)より



其の現象は實在するものでは無ひと遥か昔に釈尊が見抜ひて居た訳だ。

まさに其れはじぶんによる錯覚のお話にて實在しなひのにも関はらず其処に大きな価値を置ひて仕舞ふことで人間は誤った認識に達して仕舞ひ易ひ。


と云ふか普通はさうしてみんなが誤るのだ。


其の誤りをこそ正せと仰ったのが釈迦とキリストだった訳だ。


現象は左様に何処にも拘るべきところの無ひ誤謬其のものなのだ。


でもまさに今見へてますが、此れが世界の全てで、であるからして墓も家も都市も人生もより大きひ方が良ひのですう。



ばか。


そんな錯覚などより小さくなくてどうするのだ?

おまへは實在などして居なひのでたった今より何カ月も断食して死に至るべきだ。



あー、言ったな、つひに言ったな、人権無視の発言を。

おまへの正体は我我常識人を惑はす👿だらう。



だから悪魔が居るから反対方向にまた神がおはすのだ。

第一悪魔は堕天使でもってして元々は神の眷属だった筈だぞ。


なので兎に角関係が深ひ、むしろほとんど親類である。

さうしてとどのつまりは相剋し且つ相即しておる。


神⇔👿



ーところで、カントにおいては、アンチノミー論は理性の否定的な活動を示すものであったが、それを理性の肯定的な活動と捉えた思想家がいる。ヘーゲルである。ヘーゲル弁証法は、カントのアンチノミー論を踏まえたものなのである。ーカントのアンチノミー(二律背反)より



尚わたくしはかのヘーゲルが大嫌ひだ。

其れもかのデカルトと並び大嫌ひなのだ。


そんなヘーゲルの理性肯定論こそはまさに頭がおかしひぞ。


わたくしはかうして好き嫌いがハッキリして居り其れ故にか意思決定の方もどう思はれやうがズバッと出すタヒプなのだ。


なのだが此の世には論理にては割り切れぬ何かが確かにある。


でも急迫した問題に関しては常に正邪、善悪の区別を其れこそ選択的に選び取ることが出来やう。



此のコロナ苦にせよ地球温暖化の問題にせよ其れは社会が犯した選択の誤りを如實に示すものだ。


人類よ其のばかを止めて早う断食せよ。


其の即身成佛への長きに亘る断食の道のりを一度位は考へてみよ。


ではおまへ自身がさうして即身成佛したらどうか?


いやわたくしは一応は何でも食ひますのでなかなか死にゃあしなひですよ。


其れにわたしゃあばかでも無ひしコロナ苦にせよ地球温暖化の問題にせよまるで関知してなど居りません。



エッ?


社会のみんながかうして苦しんでるのにまるで関知せずか?


エエ、知りませんのですよ、そんなコトまるでもってして知らんはな。



一体其れは何故だ?


かうして社会が嫌ひだからだよ。


其れに人間も嫌ひなんだやう。


でもおまへコロナに罹ったら一体どうするのだ?


🏥で助けて貰ひます。


でもおまへを助ける🏥など何処にも無ひぞ。



いや、其れをやると人権無視でもって即社会はわたくしから訴へられますよ。


さうか、ではたとへ👿でも助けねばならんのだな。


其れもまた厄介なことだのう、つくづく厄介な奴だのう。


みなさん、気を付けませう。


かうして宗教家のやうなフリをしつつ世を乱すやうな思想を語る輩が必ずや居るものです。



ところでエル・カンターレこそは最高神なのですか?


知りません、そんなコトは。

其れに興味もまるで無ひのだし。


でも其の幸福の科学のポスターは良く共産党のポスターと共に貼ってあったりも致します。

結局貧乏家が其れを貼ってるのでせうか?


いや必ずしも貧乏家が其れを貼ってる訳では無く社会の現状を変へたひ向きが其れを貼ってるのではなからうか。

でも幸福の科学共産党も共に社会を変へられずに結局はコロナウヒルスによりさうして社会がやられて行くのです。



其の壊滅の様を見ながらひょっとして喜んだりして居なひか?


其れもわあ!とかへへへとか言ひつつ喜んでるのだらう?


金輪際喜んでなど居ません。


でも、結局は、


うふふふふふふふ、


ふふのふ、…なのですかねー。

愛無き愛に生きる我等の利己心への祈り

 

菅義偉首相の実弟が自己破産後、JR企業の役員に就任していた

 

もう無くさう!

こんな國家権力の私物化を。

こんな職権乱用と労働の破壊を!

 

もうこんな🐵の政治は今すぐに無くさう!

🐵は🐵で、所詮は🐵。

所詮🐒には人間の理性などまるで通用せず。

 

即刻終わらせやう、こんな自民党の一党支配を!

 

みんなで蜂起し断頭台へと🐵を送り込むのだ。

エエヒ、此の際つひでに🐶も🐼も皆断頭台へ送ったれ!

 

其の🐼って誰ですか?

或は二階氏か?

 

いや二階氏の考へ方には賛同出来る部分もまたある。

其のことに就ひては後日また述べさせて頂く。

 

 

さてわたくしはかうして確かに孤高の文人ですが其の孤高の立場其れ自体が實は価値ヒエラルキー構築の最たるものでもある訳だ。

 

特にかうした人間がもしも芥川賞、また直木賞H氏賞、また其の他の賞でも取ったとしたら其れこそ大変だ。

文學賞 #日本

ゲェッ、かうして三島 由紀夫賞や太宰 治賞まであるのですね。

 

でも何だか下らなく見へて仕舞ひませんですか?

 

わたくしには世を睥睨して見下す癖があるのかこんなもん全部下らなく思へて仕舞ふのですが其処は如何でせうか?

 

わたくしはむしろ其れこそ無位無冠の、其のまたさらに無能の文士を目指す者なのでヤッパリどう考へても文學賞など目指す気にはなれません。

 

と云ふかもうトシですので社会的に形成されるどんな欲望にも煩わされなくなってる訳だ。

 

 

では姉ちゃんにも興味は無ひの?

 

いや姉ちゃんには興味があります。

 

でも姉ちゃんにはアホが多ひので其のアホに優しく御勉強を教へてあげたひなあと云ふ願望の方が強ひのかな。

 

兄ちゃんには興味が無ひ?

 

いや兄ちゃんには期待をかけて来て居る。

 

眞理を攫むとすれば其れは兄ちゃんに限ることだらう。

 

そんな兄ちゃんから今後釈迦やキリストに次ぐ第三の宗教家が現れぬとも限らぬ訳だ。

 

 

たとへば大川 隆法などの兄ちゃんの法には興味は御座ひませんか?

 

アア、アノ東大出のまさに頭の変な人のことですね。

 

まあ興味は御座りませんね。

 

其れにもはや新興宗教に興味は御座らぬ。

 

 

詩人さんはでもお悩みなのですよね?

 

何故人間はこんなに馬鹿なのか其れが分からぬといつも仰って居るでは御座りませぬか。

 

まあ其れも自己をも含めたバカさ加減のことですがね。

 

但し其のバカさ加減の比率がおそらくは異なりみんなの場合は自分の馬鹿に一番苦しめられる訳ですがわたくしの場合は他人の馬鹿に一番苦しめられて来て居る訳だ。

 

 

すると結局は同じやうに馬鹿なのですか?

さうです、結局は同じやうに馬鹿なのです。

 

 

なのでわたくしの場合には其の「孤高」と云ふ立場ー価値ーにつひしがみつひて仕舞ふ訳だ。

 

其れって作家や藝術家や學者の方々即ちインテリの方々が陥り易ひ性質ですね。

 

其の通り、まさに其処に陥り易ひ。

 

 

でも詩人さんってほんたうにインテリの人なんでせうか。

 

ほんたうのインテリの人って「ウンコたれ」だとか「馬鹿」だとかはまず言はなひやうですが其処はどうなのでせう?

 

いやむしろインテリだからこそ「ウンコたれ」だとか「馬鹿」だとかをしかと言はねばなりません。

 

 

ところでアナタの其の孤高を貫く立場こそが一種の病気ですか?

 

確かに病気でせう。

 

でも其れも結局は仕方なく其処へ落とし込まれて居るのです。

 

わたくしの過去の生活が諸に縁を結んで其処へと落とし込んで居るのです。

 

 

でもわたくしは其の事をまるで後悔などして居なひ。

 

全てが必然的にさう齎されしものでしかも尊ひものだ。

 

どだひ此の世に蔑んだり不遇ー引け目ーに思ったりするやうなことは何一つ無ひ。

 

 

全ては必要なものでありさうして複雑に絡み合ふー縁を結ぶー価値のあるものだ。

 

 

まさしく其れは此の世のなべては神の恩寵に授かるものと云ふ考へ方なのか?

 

でも此の世には悪があります。

 

さうして善があらば必ずや悪が生じる。

 

 

たとへばコロナは悪ですか?

 

いへ、コロナを自ら招き入れた文明のあり方こそが悪でした。

 

 

其の善悪規定は然しほとんどキリスト教のものですね。

 

佛教徒が其れも禅宗へと通じたひ者が述べることでは無ひのでは?

 

善悪規定は確かに厳密には謗法でせう。

 

ですが其の「厳密」には余り拘らぬ方が良ひ。

 

「厳密」とはあくまで論理規定で、其の論理的規定は最終的には矛盾化を致します。

 

 

其れは一種難しひ話ですがズバリ其れが理性の限界と云ふことなのでせうか。

 

まあ譬へ話で申せば、我我は父ちゃんと母ちゃんから生まれた獣なのでさう御大層な理性は持って居なひと云ふことでせう。

 

 

つまりは持って無ひ?

 

でもイチローは充分持ってますよ。

 

大金をね、でもさう御大層な理性は持って居なひ。

 

 

さてもアナタは其れを持ってますか?

 

持ってません。

 

實はコレが正解です。

 

 

でも神がお与へになった訳ですから持って居るのじゃありませんか?

 

いやでも其れは神の御力でせう。

 

我我が持ってるのはむしろ悪の力ではありませんか。

 

 

でもアナタは孤高の現象として何かを持って居るのでせう?

僕らのやうな馬鹿とは違ひ文學賞をも見下して居る人なんでせう?

 

さうなんです、だから其れがビョウキなのです。

 

アナタのビョーキは治りやうが無ひものでせう。

 

コロナ禍以上に厄介なのがまさに其のおまへの観念病だ。

 

 

さうでしたか、其れはどうもすみませんでした。

 

あれ、何故か最近毎回謝ってばかり居るな。

 

いやコレは良く無ひ傾向ですねー。

 

オレは信長詩人だーとか何とか威張って居た方がほんたうはエエ訳ですね。

 

 

で、アナタは結局持ってるの、其れとも持って無ひの?

 

だから其処の解釈こそが難しひ訳だ。

 

キリスト教では神の被造物としての人間は不完全にではあらうが善か又は正義としての認識を持って居やう。

 

 

但し釈迦の佛教では人間はむしろ其れを持って無ひが故に消し去って仕舞はねばならん訳だ。

 

成道=成佛=涅槃=悟りとは、其の人間其れ自体を此の世ー此の認識ーから消し去って行くと云ふことなのだ。

其れ即ち完全なる消去、と云ふことでありつまりは人間の抹消である。「此の世ー現世ー→彼の世ー彼岸ー」

 

其の抹消其れ自体は先に述べたグノーシス主義ー異端の思想ー、またマニ教などの思想の系譜に連なるものであり一面では其れは無の系譜を形作るものだ。

其の有と無の二元的展開こそがわたくしにとってはまさに面白ひ部分なのです。

 

ところが釈迦の思想は高尚過ぎてある意味では世間には受け容れ難ひものでもまたあった。

 

であるがゆえに後に大乗思想がまた勃興して来たのだとも言へやう。

大乗思想の理論的支柱とはキリスト教的な二元論、其れも有と無、また善と悪との二元的価値を受け容れたところにこそあるのではなからうか。

 

 

平たく言へば俗化又は世俗化の流れが其の大乗思想の興隆の根底にはあるものとわたくしは捉へて居る。

 

ところが、大乗思想の側はむしろ大乗よりも小乗の方が下、若しくは始原の釈迦による教へよりも大乗の方が上だと捉へる向きさへもがある。

 

わたくしも法華経を學んで居た当初そんなものかと思って居たのだったが次第に勉強を進めてみると必ずしもさうでは無ひことが分かって来た。

 

いや、實は大乗思想の方がずっと不純な佛教だったのだった。

 

大乗思想には法の捏造や法の解釈の飛躍の部分が多過ぎ、其の最たるものとしてまんまキリスト教による救済思想を取り入れた浄土教による法の解釈がまた存する訳だ。

 

 

なのでわたくしは常に浄土教に対しては懐疑的ではあるのだが其れでもズバリ近頃は浄土教程エエ宗教は無ひと實はさうも思ひ始めた。

 

其れは何故か?

まさにキリスト教と一緒で其れが弱者に優しひ宗教だからなのだ。

 

 

第一浄土教に於ける永代供養費はお安く設定されて居るがおそらくは禅宗ともなれば其れがクソ高くなって来ることであらう。ー實はソコんとこを詳しくは知らなひー

 

浄土教ー浄土宗や浄土眞宗ーの方は戒律もまたエエ加減で髪の毛を伸ばしてる坊さんもまた居てもしや俗世間の方々かとさう思はれるのだけれど其の分親しみ易ひのだとも言へる。

 

かたや禅宗の修行は厳しひので其の分を威張っても居られるのだらう。

 

まあ其れは威張っても良ひのだと個人的にはさう思ふ。

 

 

事實一番高尚と申しますか釈迦の佛教を大事に捉へて居るのが禅宗なのだらう。

でも完全には釈迦の佛教を大事に捉へて居る訳では無ひ部分もまたあるので其の点には是非注意して置くべきだ。

 

禅は中國にて発展したむしろ東亜細亜圏的な佛教思想なのでもまたあることだらう。

 

 

で、結局何を申したひのかと言へば其の佛教思想に於ける無と有の対比でありさらに言へば釈迦の教へとキリストの教へに於ける無と有の対比のことだ。

 

また「威張る」と云ふことに就ひても是非考察を進めてみたひ。

 

 

尚「威張る」とは、其れは實は人間だけの行為では無ひ。

 

何故ならライオンや🐅の♂、また🐵の♂其れもボス🐵などは兎に角滅茶苦茶に威張ってる。

 

そんな風に威張るから♀や子を従へ偉ひ父ちゃんになれまた偉ひサル山の大将になれるのだ。

 

だから其の権威つまりは権勢、勢力即ち精力に対し♀共はまた子等は屈し何処までもつき従ふ訳だ。

 

 

ところがかの自称詩人につき従ふ♀共はまた子等は此の世には居らぬ。

 

なんとなれば自称詩人には力が無ひ、即ち権威も権力も持って無ひ。

 

権力を持って無ひと同時に金も無ひ。

 

でもほんたうは批判力だけは持っている。

 

 

でもそんなもんは結局役には立たぬ。

 

役に立つもの其れもより強ひものにひれ伏すのがむしろ♀共と子等だらう。

 

が、其れはむしろ馬鹿の♀の特徴なのやもしれぬ。

 

だがインテリの♀は手強ひぞ。

 

其れも眼鏡をかけスーツとか着込んだ四大卒女程手強ひものは無ひぞ。ー其れが或は朋美ちゃんか?ー

 

が、わたくしはさう云うのに限りむしろ戦闘意欲が掻き立てられるのだった。

 

だからこれまでに高学歴な♀とは論戦などすることが多かった。

 

 

インテリの♀を組み伏せる秘訣とは権威つまりは権勢、勢力即ち精力を示すのでは無くむしろ其れ以上の知力を示してやるに限る。

 

で、結局人間はどっかで威張って居る訳だ。

 

また其れは誰しもがさうなのだ。

 

第一わたくしなどもかうして如何にも弱ひ今太宰のフリをしつつ實は大ひに威張ってるのだ、其れもかうしてみんなを組み伏せてね、わーはっはっはっはっのはー。

 

 

が、文明社会が今置かれた状況は深刻だぞ。

さうしてつひ威張って高笑して居る場合では無ひ。

 

 

ズバリお尋ねしますが其の大乗思想は滅び去るのですか?

 

いや其れは今のわたくしには何とも申し上げられません。

 

ですが、兎に角威張り易ひのが社会化された動物だと云ふことを今此処に申し上げて置きたひ。

 

其れはズバリ禅宗批判ですか?

 

 

いや畏れ多くもまさかそんなものでは御座りません。

第一禅宗が威張るのは其れは当たり前のことではなひですか。

 

其れに作家の先生方が威張るのも其れは当たり前のことではなひですか。

 

でも作家の先生方が儲け過ぎるのは如何なものかとは思ふ。

 

なので禅宗もまた儲け過ぎには気を付けておくべきなのではなひでせうか。

 

さても禅宗はそんなに金持ちなのですか?

 

そりゃあ知りません。

 

むしろ今は貧乏寺になりつつあるのやもしれません。

 

 

佛教詩人さんは最近妙に金に執着されて居るやうですが矢張りと云うべきか金に困って居るのですね?

 

其処までほじくられるともう何も申せ無くなるじゃあーりませんか。

 

何とかやってますからむしろ全然大丈夫ですよ。

 

 

但しお布施の申し出がもしあれば其れは喜んでお受け致しますがね。

 

 

其の「威張る」ことの本質は利己主義にこそあります。

 

此の利己主義こそが獣の力即ち獣性です。

 

第一動物は何でも利己的に盗んで食ひます。

 

♀も魚も何でも盗んでバリバリと其れを食らふ。

 

 

其れは野良猫の話ですね。

人間はそんなことはまさかして居ませんよ。

 

いや、してますね。

事實🐵首相の弟もさうしてしてるのだし多分誰でもがして居ます。

 

 

おまへも色々と盗んで来るのが得意ではなひか!

さうして常に石を盗むは、みんなの平安な気持ちも盗みドロリと暗くさせて仕舞ふはで。

 

さうでしたね、さうして誰しも利己的に何かを盗みつつ生きて居るんですね。

 

ところでさうして利己的に「威張る」ことは罪ですか?

 

 

矢張り罪其のものでせう。

「威張る」ことでしか自己實現出来ぬのはまさに罪であり煩悩に苛まれて居る様子です。

 

其の罪を如何にして取り除き清き心の流れへと変へて行くのですか?

 

其れはあらゆるものに対する赦しの気持ち即ち「愛」にて成就されるのではなひか。

いや己が其れを赦すのではなくまさに神がさう世界を赦されて居ることに気付くことではなひだらうか。

 

「愛」?

またイキナリ佛教とは正反対の概念を持ち出し其れを玩び始めましたね。

 

一体何の話でせうか?

 

眞面目に視て居る佛教徒の方々が怒っちゃうのではありませんか?

 

 

だから今其の「愛」に就き是非考へねばなりません。

 

何故なら今世界は愛に飢へて居ます。

 

ウソの愛ー偽りの愛ー、邪な愛ー偽善の愛ー、など、まさに獣のやうな愛ー👿による愛ーに充たされ神の御姿が、其の眞実の御姿がもう何処にも見へぬ。

 

神よ、おお神よ、おんみは今何処におはしますか?

 

 

…。

 

ほうれ、神は左様に沈黙されて居られやう。

 

其の御言葉はもはや我等には届かぬ。

 

 

我等の利己的な振る舞ひに対しさうして沈黙されて居られるのだ。

 

愛無き愛に生きる我等の利己心を今まさにさうしてお嘆きになって居られやう。

 

 

 

どうか愛が人類の荒んだ心の灯台となりますやうに

 

愛の心がどうか利己心を打ち破る剣となりますやうに

 

利己心にまみれし心の粗雑さを愛あるものへと導かれんことを祈り

 

 

愛無き愛に生きる我等に愛の灯を

 

心無き心に生きる我等に愛の灯を

 

利己心に生きる我等に愛の灯を

 

愛の懐に包まれし夜が日々我我に授けられんことを

 

 

 

神の愛に気付けば此の世は明るく照らし出されませう。

たとへどんなに苦しひ時であれ、其の神の愛である赦しに気付けば此の世は明るく照らし出されませう。

 

愛は不変であり満ちており全てを輝かせるものです。

 

ひとつひとつの其の愛の気付きにどうか祝福をお与へ下さひ、神よ。

 

さうして貴方はキリスト教徒になられたのか?

 

 

いへさうではなくキリスト教の世界に摺り寄ってみただけのことです。

 

道草と云ふかお散歩と云ふかそんなものですかね。

 

 

其の利己心による欲望を抑える教へこそがキリストによるものなのだからこそ。

 

実際に「愛無き」世界は殺伐としたものになって仕舞ふ。

 

人間に対して愛を築き上げることは難しく、神の愛に気付くことはさらに難しひ。

 

どうか其の愛が利己愛の軛を離れ神の愛へと高められますように。

 

どうか此の偽善が、さうして此の人間の獣性が愛の元へと導かれますやうに。

大乗佛教の今後のあり方

ー縮小傾向にあった葬儀はコロナにより小規模化が加速している。利用者にとって深刻なのは、収益が悪化した葬儀社の倒産だ。たかほう葬祭(東京都)の浜島貴一社長は警鐘を鳴らす。

「生前から積み立てる互助会形式の大手葬儀社が潰れた場合、会員への影響が大きい。子供らに迷惑をかけたくないと、互助会に入ったにもかかわらず、倒産で積立金を失う恐れがあります」ー「終活」大倒産時代へ 葬儀積立金消失、廃寺、納骨堂閉鎖のリスクより

 

其の葬儀の簡素化なのですが、所謂「葬式佛教」を止める為にはまさに大事な変化です。

長ひ年月の間にいつの間にか不純化した我が國の大乗佛教のあり方を正すべき時なのだらうとさう思ふ。

 

其れとひとつには自民党一党支配の政治体制をおバカな國民達が「自民党なら保守でもって間違ひ無ひ」とさう思ひ込み投票したお蔭で安倍政権の如き亡國思想其のものに票を入れて仕舞って居たのだった。

 

でもって一部の金持ちばかりがより金持ちとなる政策をやり他の大多数の國民は若ひ人々を中心に派遣社員化されまさにクソみたひな仕事でもってこき使はれおまけにボーナスも出なひ訳です。

なので無論のこと結婚も出来ずじぶんの墓も造れません。

 

結婚も出来ずじぶんの墓も造れぬでは当たり前のことですが子も残せません。

 

そんなクソ政治がまた🐵ー菅ーが🐊ー麻生ーがかうして日本のみんなを奴隷化して今だけの自分等の贅沢を、其の嫌らしひ金持ちとしての贅沢生活を成り立たせて来て居る。

 

其れはもう市民革命をするしか手が無ひ訳だ。

又は社会主義革命をやり是非自民党をブッ潰すのだ!

 

 

ですから、葬式は、せひぜひ十万位の予算がコロナ時代に見合った適当なものです。

 

これまでの「坊主丸儲け」は其れは大乗佛教が間違って居たのです。

 

無論のこと御坊様方は何せ佛教の本職の方々なのでそんな根本の処での日本の佛教の矛盾のことなどはとうの昔から気付ひて居られました。

 

でも佛教を存続させる為には見て見ぬふりをして来るしか方法が無かった訳だ。

 

 

全日本仏教会が4月に全国364か寺にアンケートを行なった結果、77%が前年に比べて収入減少と回答。約2割は「80%以上減収」とし、「葬儀」などと関係する寺院を取り巻く事態は深刻だ。

「過疎地域ではコロナ禍の影響で月参りや法事の中止が相次いでいる。お寺の倒産にあたる『廃寺』の増加も懸念されています」(全日本仏教会関係者)ー「終活」大倒産時代へ 葬儀積立金消失、廃寺、納骨堂閉鎖のリスクより

 

其の「坊主丸儲け」が結局大乗佛教を追ひ詰めていきます。

今後まさにー「葬儀」などと関係する寺院を取り巻く事態は深刻ーなのです。

 

『廃寺』が増へる可能性は今後益々高くなりませう。

 

でもこれまで寺が皆「坊主丸儲け」であったとは必ずしも申せません。

 

第一寺は維持費がべらぼうにかかるのです。

普通の一戸建ての人でも古ひ家の人々ー我が家もさうーは家の修繕費や高く設定された固定資産税などでもうアップアップです。

 

 

確かに税制は宗教法人を基本的に除外して居るにせよ兎に角寺は何せデカひ建物ですので其の維持には金がかかりませう。

 

問題はそんな宗教の制度的崩壊にこそありませう。

 

其れに対するわたくしの考へとしては政教分離の原則の条項を此の際憲法改正し佛教を正式に日本の國教として定めることです。

 

もしも其れが成れば公費にて寺を維持すると云ふ道がまた拓けて来ませうがまあ其れが事實上は無理なことも分かって居ります。

 

ではどうするかと云ふと其処に二種の考へ方が出て来るかと思はれる。

 

1.みんなが寺にお布施する

2.坊主まる貧乏

 

の選択のどちらかでせう。

 

1.の場合みんながそも今貧乏なので多くても月に千円位しか寺へお布施することが出来ぬがみんなが其れをやれば其れが積もりに積もり百億位にはすぐになるのです。

だからみんなでもって此の侭地獄へ堕ちるよりはずっと其の方が有意義且つ幸せ♡な未来が築けることとなりませう。

 

2.の場合はズバリ坊主がみんなビンボウになれば良ひのです。

ビンボウになりますと實はより佛教が純粋化し素晴らしひお釈迦様の御教へがまさに身につまされる思ひにて御坊様方に伝はって来ます。

 

おおまさに其処にこそ釈尊による眞の法の解釈が感得されやう。

御坊様方は皆様ボロボロの衣に身を包み托鉢の鉢ひとつを引っ提げて諸國を流離ひ歩くのです。

 

するとみんなが其の様を哀れにお思ひになり其の割れた茶碗の鉢に拾円、百円、五百円と入れて下さる筈だ。

嗚呼、でも千円札以上は何故か恵んでは下さりません。

 

其れでも猶歯を食ひ縛り僧侶は仏道修行を続けて行くべきです。

 

 

ああー、素晴らしひ!

何て純粋なる佛教の様なのだ。

 

其れも何て美しひ心根の御坊様方か。

 

まさに飛び付ひて口づけをしたくなる程に尊ひ御姿ばかりだな。

 

 

ー「全国7万か寺のうち、住職のいない無住寺はおよそ1万か寺に上り、年々増えています。無住寺はいずれ廃寺として宗教法人を解散します」

 菩提寺がなくなれば、葬儀の際のお経の依頼にも困る。そうなった時に慌てないため、日頃から菩提寺の経営状況をチェックしたい。前出・純空住職はこういう。

「寺院の経営は、会社で言う社長、つまり住職の手腕次第です。来訪者への対応などから住職の人柄、資質を見極めるともに、本堂や庭、墓地の手入れもチェックしたい。境内に線香の匂いがしていれば、参拝者が多いということがわかります」ー「終活」大倒産時代へ 葬儀積立金消失、廃寺、納骨堂閉鎖のリスクより

 

元より金儲けばかりにかまけて宗教を破壊してはなりませぬ。

 

で、自民党にはこんな危機感など元々サラサラ無ひ。

 

其れも根本のところで金儲けと権力の私物化、特権意識の存続だけを乞ひ願ふ政党なので佛教は滅ぼうがどうしやうがまさにどーでもエエんです。

 

なので宗教政党である公明党はソコんとこを良く吟味した上で佛教の存続だけを考へた政策をアノ🐵に申し立てて行くべきです。

 

また寺の存続を住職のせひに、住職の能力にのみに委ねてはイケナヒ。

其れはあくまで公的な課題なのでもある。

 

つまりは社会の問題なのだ。

 

 

かうして佛教は最悪の場合経済を捨て寺を捨て諸国を経巡る聖の集団と化す可能性もまた出て来た。

但しさうなればもはや社会は佛教には救って頂けなくなる。

 

なのでまずは國が率先して佛教を救はねばダメだ。

 

そんな女性活躍担当大臣だったかまた大坂万博担当大臣だったかクソバカな大臣をつくってるヒマがあるならまずはソコんとこを是非考へよ!

 

おまへらはほんたうのほんたうにバカか!!

 

 

…でもまあ仕方が無ひか、何せ🐵ー菅ーと🐶ー岸田ーと🐊ー麻生ーしか居なひのだからな。

 

だから🐻ー石破ーは早う枝野のところへ行くべきだらう。

 

其れに枝野のトコには何せアノ蓮舫も居るぞ。

 

 

ー「昨年の消費税増税前の駆け込み需要の反動があるなか、コロナが追い打ちをかけた。墓石の購入や納骨がコロナで先送りになり、資金繰りとしては厳しくなっている」ー「終活」大倒産時代へ 葬儀積立金消失、廃寺、納骨堂閉鎖のリスクより

 

其のコロナは今まさに社会を壊しつつある。

 

其れも人間による独裁につひ甘へて来た文明を壊しつつあるのだと言へる。

 

其の資金繰りが兎に角今何処でも苦しひ。

なので早晩社会は半壊して行かう。

 

でもまさに其れが神佛による御導きでのものなのだ。

今まさに神佛がかうして人間界を再編成されやうとして居られるのだ。

 

 

おまへらは所詮はケモノだ、つまりはウンコたれだ。

 

さう仰り我等に覚醒を促して居られるのだ。

 

「目覚めよ!」

 

さうして神佛の御力にこそ縋り付け。

 

ああーあ、もうジゴクだ。

 

もう毎日が地獄で頭がクラクラしてるぞ。

 

 

さうかなあ、其の割におまへらは毎晩👩の尻に触って居なひか?

 

おかしひよ、まさにそんなのは。

 

もう何処にも反省が無ひよ、理性が無ひよ知性に欠けるよ。

 

もう此の際日本の僧侶の妻帯をば是非禁止したひ!!

 

もう坊主共は皆独身のルンペンとなるべきだ。

 

ルンペンとなり工事現場で銀化ガラスでも拾ってるべきだ。

 

 

人間が死んだらみんな其の辺の原っぱに土葬し銀化ガラスを墓標とすれば良ひ話だ。

 

此の世には拘るべき価値など無ひ、其れは皆我と云ふ分別が生じせしめるところでの幻の価値ぞ!

 

おまへらにはなーぜ其れが分からぬのか。

 

 

おまへらは🐶か🐈か其れとも🐵か🐗か?

 

なーぜ人間らしく頭を働かせ考へぬのだ?

 

 

つまりはビンボーでもまたルンペンでも良ひとさう仰るのか?

良ひ。

 

まるで構はぬ。

 

美は銀化ガラスのカケラひとつ、また相生山のピンク石英があれば其れだけでむしろ充分だ。

 

でも其れでは靑ウナギ🍚が食へぬ筈ですが…。

 

 

そんなもんはもはや要らぬ。

 

でもまた何かを買ひ込んで居るやうですね?

 

ヤフオクにてまた何かを落としましたね。

 

 

どうもすみませんです、また棚山のノーブルオパールの色香に負けつひ落として仕舞ひました。

 

御免なさひ、御免なさひ、次回はもう止めて置きます。

 

 

さう言ひながらずっと石を集めて来ましたね。

 

其れも此れも👩の尻を触る代はりに愛でて居るものです、どうか御赦しを。

 

さうか、其の石を触るのですね。

 

其れももう触りまくりですかね。

 

 

ー「納骨堂は都市部を中心に需要があるが、特に大型の納骨堂については地方では採算がとれず、倒産するケースも出ている。万が一倒産した場合、納骨したお骨は返ってくるが、購入費用や永代供養などで払ったお金は返ってこない。経営の実態をよく見定める必要があります」ー「終活」大倒産時代へ 葬儀積立金消失、廃寺、納骨堂閉鎖のリスクより

 

結局は現行の経済システムを解体し再構築して置かねばならなかったと云ふのに文明規模で其れが出来なんだが故に経済的破壊が社会に対し齎されて居る。

 

其の経済的破壊の範囲が余りにも広範囲な故に政府や自治体では其れに対処し切れぬ訳だ。

 

でもって特に具象的な価値では無ひ宗教的な領域に其のしは寄せが押し寄せて来る可能性がまた高くあらう。

 

其れも佛教に限らずキリスト教などはむしろ其れ以上に困ることだらう可能性もまた高くあらう。ーキリスト教圏でより多くの人が死んで居ることから見てもまさにさうなのだらうー

 

宗教とは其のやうに社会と連動しつつ歩む人間による精神的な営為のことなのだ。

 

 

其の宗教こそが社会を形成するものなので、社会が制限されれば即宗教も制限され社会が壊れればまた宗教も壊れ始める。

 

尤も将来は荒廃した都市の倒壊した教会や伽藍にてアンドロイドの司祭やロボットの僧侶が配置され神への祈りを捧げたり般若心経が誦されたりして行くのやもしれぬ。

 

まさに其れはまるでSF映画のお話のやうですが其れもまた有り得ぬ話では無ひ。

 

 

尚其の納骨堂即ち永代供養に就き若干考へてみたひ。

 

ー本来は、子々孫々の代まで先祖を祀り供養する宗教行為を指していたが、現代では多くが墓園業者や寺院の営業用語として使われることが多い。広告に永代供養を謳うものが多いが、「永代」という言葉の使用による誤解からトラブルが発生するおそれが多い。実際には 10回忌、30回忌や50回忌までといった内規がある場合や、を継承すべき子孫が改宗などで檀家を辞めるなどして信仰を離れた場合は、永代供養の契約が破棄されることが定められている場合が多く[要出典]、言葉どおりの「永代」ではない。また、霊園の倒産、寺院の廃寺などにより墓が消滅に追い込まれることもあり、この「永代」も保証されるわけではない。ー永代供養より

 

まずは考へて置かねばならぬことは佛教の本来の形とは先祖を祀り供養したり法要を行ひ其処に👪が集ったりするものでは無ひと理解されることだ。

 

わたくしが考へるところでの佛教の本来の形とは自らの考へと行ひを正すことである。

 

無論のこと其れは生きて居る間に為すことであり死んでから云々と云ふことでは無ひのである。

 

だが其の佛教に於ける純粋なる心の統御としての形は二千五百年もの時を経て大きく変はって来ざるを得なかった。

 

現在の日本の大乗佛教各派は程度の違ひこそあれ供養佛教、葬式佛教化してすでに久しひ訳だ。

 

 

で、其れがあくまで佛教徒にとっては大事なことでは無ひので全否定したひと云ふ考へ方があっても良ひことかともあくまで個人的には思ふ。

 

自分は佛教徒だが野垂れ死ぬことだらうから墓は要らぬ、また供養なども金輪際要らぬ、ワタシは其の佛教を生きてるうちにもはや其れをやり切りました。

 

まるでわたくしのやうなものだがそんな考へ方があっても良ひのではなからうか。

 

佛教でもって最も重要なのは釈迦の思想をなるべく原初の形で自ら學んでみることだらう。

 

尤も其れは難度が高過ぎるのであれば、日本の大乗佛教各宗派の宗祖による教義を學んでみることでも勿論良ひ訳なのだ。

 

少なくとも其の御経、即ち佛説阿弥陀経だの法華経だの般若心経だの位は単に御経を覚へるのでは無く其の内容を是非理解して置くべきだらう。

 

 

佛教でもって大事なのがまずは価値観を正して行くことなのだとわたくしは考へて居る。

 

価値観を正すにはまずは御勉強が大事だとさうもまた考へて居る。

 

其れも大學卒程度の學力をお持ちの方々であるならば其の位のことはやって当然のこと、むしろ其れをやらなひ奴、やれぬ奴は自らが持って生まれた理性に対してサボって居る訳だ。

 

但し無論のこと其れはたとへばキリスト教徒の方々であるのならば聖書の読み解きをまずは第一義的に行はねばならぬことだらう。

 

 

いずれにせよさうした観念的な意味での努力をすること無くしてどーたらかうたらと宗教に対し言へる訳が無ひのである。

 

社会的に成立する霊園や寺は元より永続するものなのでは無ひ。

 

釈迦は其の社会に就ひては述べず眞理に就ひてのみ語った。

 

眞理は永続し實在するものなのだが社会的な人間の営為は須らくしてさうして滅び去る。

 

まさに其のことこそが諸行非常の原理なのだ。

 

 

其の価値観を正せるのは急迫した問題に限られるとわたくしは述べて来て居る。

人間存在に与へられし急迫した問題に限り正しひ方向性が選択され得る訳だ。

 

では其の価値観を正すのは正邪であれば正の選択であり善悪であればまさに善の選択となることなのだ。

 

でも政治の世界や会社の方針の世界また家庭のやり方などでは其の正しひ選択など出来ぬことをみんなは是非理解しておきなされ。

 

また無論のこと文明の正しさなども選び取ることなどは出来ぬ。

むしろ最近は文明は悪だと分かって来た感じすらもがありますね。

 

 

宗教詩人さん、では大卒のボクが佛説阿弥陀経だの法華経だの般若心経だのをちゃんと學んだ後にピンサロにて姉ちゃんの尻をもし触って来たら其れは罰が当たることなのでせうか。

 

いや其れは別箇の話で君が其の御勉強をちゃんとやったことに関しては心のステージをちゃんと上げて居ることだと思ひますよ。

 

さうして姉ちゃんの尻をつひ触はりたくなるのは其れは🚹の本能なのでむしろどーしやうも無ひことだ。

 

なのでわたくしが言ってることとはさうして酒ばかりを飲むな、姉ちゃんの尻ばかりを触はるな、またギャンブル依存症にはなるなとさう言って居るのでありなのだからこそたまには佛教の御勉強やお寺巡りをして其の癖を治しませうとさう言って居るだけなのですよ。

 

またネット依存やゲーム依存に就ひてもまるで同じことですよ。

 

まあ確かにわたくしもかうして石依存、藝術=美への依存には陥って居るのですがね。

 

 

樹木葬とは、「墓石」の代わりに「樹木」を墓標としたタイプのお墓です。

樹木葬にはほとんどのケースで永代供養がついているため、自然が好きという方に限らず、継承者がいない方・お墓の管理に手間をかけたくない方にも選ばれています。※まれに永代供養がついてないケースもございます。

樹木葬の場合、初めの17年・33年間は個別に遺骨を納骨し、その後合葬・合祀を取ることが多いでしょう。

この辺りの個別安置期間や、樹木葬のスタイル(桜の下に納骨なのか、西洋ガーデニング霊園なのか)などについては、霊園ごとに異なりますので、興味がある方は調べてみてください。ー永代供養の本当の意味は勘違いされがち!メリット・デメリットも解説より

 

まあ其の樹木葬も自然の好きな人には良さそうですがわたくしの場合は何せ自然が大好きながら墓自体が要らなひと云ふ考へなのでむしろ此の観念の中にでも葬って頂きたひ位ですね。

 

何せわたくしは見ず知らずの汚ねへ他人の骨などとぐちゃぐちゃにされることなど望んでは居なひので出来得れば此の孤高の立場を重視した上で葬って頂きたひ。

 

ー納骨堂とは、屋内型の納骨施設のことを指します。

ひとえに納骨堂とってもタイプは様々で、「ロッカー型」「仏壇型」「自動搬送型(参拝スペースに自動で遺骨が運ばれてくるもの)」などがあり、近年では都心の駅チカにも増えてきています。

納骨堂も、永代供養がついていることが一般的です。※まれに永代供養がついていないケースもございます。

納骨堂の場合も樹木葬と同様、一定期間(17年や33年)個別で供養し、その後合葬する形をとります。ー永代供養の本当の意味は勘違いされがち!メリット・デメリットも解説より

 

實は我が家はつひこなひだ此の納骨堂での永代供養を檀家である浄土真宗の寺にお願ひして居ります。

浄土真宗の永代供養費はしかしながら安ひのです。

 

但しあくまで寺が存続すると云ふ前提での限定的供養となる訳です。

 

また其のことも今後のコロナ時代には見通せなくなりつつある。

檀家制度は無論のこと時代遅れですが、其れ以前に佛教への関心の薄れと云ふことが今後大きく寺院への収入のあり方を圧迫して行くことでせう。

 

まあわたくしの本音とすれば一体何故人間共はかくも現世に執着し其れ即ち墓だの供養だのに執着しまた家だの会社だの國家だのに執着し其れをより豪華なものに、より見栄へのあるものにしたがって居るのでせうか。

 

 

まあわたくしの本音とすれば人間は死んだら終はり、ですね。

 

なので墓だの供養だの家だの会社だの國家だのは其の全てが消へ去りませう。

 

でもキリスト教などは霊魂は残るとさう考へるのでせうね。

 

また浄土眞宗でも死んでから浄土へ行くのですからほぼまんまキリスト教佛教ですね。

 

 

対してわたくしはむしろ生きて居るうちにどんな価値観に至ったかと云ふことを重要視して居ます。

 

わたくしは其れを善の方向、正しひ方向へこそ導くべきだとさう常々考へて来て居り其れはキリスト教などとも矛盾しなひ筈です。

 

でも禅宗の方にはまさに其の善悪、正邪の分別こそが悟りへの妨げだ、もうそんなものは今すぐにかなぐり捨てこれから拾時間の間座禅せよ!

 

などと怒られさうなのですが今のところはさうなって仕舞ってます。

 

 

喝!

 

ビシッ、バシッ。

 

あ、何だこれ、痛へな。

 

 

 

ズバリ申しますればわたくしは其の永代供養墓には入れて欲しくは無ひ。

 

いや無理矢理入れれば何とか入りませうが何せこんな観念詩人ですのでそんなことをすれば何が起きるものやら分かりませぬ。

 

だから禅による供養をかうして所望しておるのじゃよ。

 

 

なんでまたそんなキビシヒ教への方に惹き付けられて居るのだ?

 

其れは分かりません。

分かりませぬが一度位は限界までイジメられてみたひのです。

 

 

喝!

 

ビシッ、バシッ。

 

きゃあー、もう我慢がならぬ。

 

さうだ、逃げやう。

こんな永平寺など即刻捨てて禅其のものから逃げ去るのだ!

 

でも結局逃げてももはや何処にも行き場が無くまた禅刹へと戻る我であった。大本山 永平寺

まさに参りました、其の二元性一原論にー壱 壱科学者の良心ー

米の感染者12万超、過去最高 死者1000人、医療負荷高まる

 

でもこりゃやばひ、ですよ。

なのでコロナを甘く見て居ては決してイケません。

 

まさしくコロナは神佛による怒り其のものだらう。

 

おお神よ、佛よ。

御免なさひ、どうも御免なさひ、我我人間は間違ってました。

 

其れもかうして日々👩の色香に酔ひ痴れまた大金の誘惑に負けやりたひことをやって来て仕舞ったが故に。

 

かうして食ひたひものをたらふく食ひおまけに大小便を垂れ流しまさに合理的に人工楽園を築ひて来ました。

 

 

おまへたちはもはや許されぬ。

悔ひ改めよ!

 

煩悩隠滅!

 

おまへたちはもう滅亡だ!!

 

資本主義も民主主義ももう直に出来ぬやうにしてやらう。

 

 

おお神よ、佛よ!

 

アナタ様は今いずこにおはしますか?

 

 

此処におる。

 

 

おお神よ、佛よ、此の迷へる子羊共をお助け下され。

 

此のパッパラパーな我等をそれでも是非何処かへお導き下され。

 

 

第一いつの間にかパッパラパーになって仕舞ったことはかうして深く反省しております。

 

 

汝等、馬鹿共よ。

 

 

はひ今此処にて聞ひて居ります、神よ、佛よ。

 

 

すでにおまへたちはまずは助からぬことだらう。

 

 

いや、そんな絶望的な結論からまず仰られましてもわたくし共馬鹿には何故さうなのかと云ふことがまるで分からなひでは御座りませぬか。

 

いま少しこちらの立場にも寄り添って頂き馬鹿にも分かるやう分かり易く諭して頂けぬものでせうか?

 

 

宜しひ、では諭してやらう。

 

 

ズバリおまへらはウンコたれだ。

 

 

エッ?初めて聞きました、我我文明人が単なるウンコたれだったなんて。

 

おまへたちは大宇宙の摂理を知らぬクソバカでありアホンダラでありいっぺん滅んでみよ此のアホ🐵共めが其のものだ!

 

 

へへーひ、さうで御座りましたか。

 

御免なさひ、御免なさひ、此の次からは必ずや眞面目に確りとやります。

 

 

此の次などもう無ひ。

 

 

ひㇸー、するとやってもうたかー。

 

つひにやってもうたか、人類よ、現代の虚の文明よ。

 

 

 

かやうに人類は分かってるのにまるで分かって無ひ動物なのです。

 

でも何故分からなひのでせうね?

 

おそらくは其の抽象的に形成される欲望が是とされて来たからです。

 

即ち社会が其れを許して来たのだった。

 

 

でも抽象的に形成される欲望を是として捉へて仕舞ふと逆に様々な面で人間の社会は限定されることを余儀無くされやう。

 

だから人類の再生のカギはまさに其の抽象的に形成される欲望を如何にして抑へ込んで行くかと云ふことになる。

 

但し一旦火の点ひた抽象的な欲望を鎮火することなどまさに至難の技でもまたある訳だ。

 

欲望にはさうして抽象的なものと具象的なものとがある筈だ。

 

ところが厄介なことに抽象的な欲望は社会のあり方とまさに連動して居る。

 

社会が是とする其の抽象的な欲望のあり方を個が否定するに及ぶことなど普通は不可能に近ひことだらう。

 

 

我我の欲望のあり方はまさにさうして社会にこそ規定されて居る。

 

で、其の社会を否定することは誰しもが不可能なのです。

 

まずは其のやうな根本的な矛盾律が此の世にはあります。

 

 

なので其の社会とは何か、人間とは何かと云ふ部分をこそ其れこそ根本的に問ひ詰めて置くべきだった。

 

かうして人類が全体的におバカ化して居るのは其処を反故にして抽象的な欲望を追ひ求めて来たことによるものである可能性が高ひ。

 

 

では人間とは何ですか?

 

さうは申されましても、誰しもなかなか其の問ひに答へられはしなひ。

 

 

なのですが結局のところ人間とは抽象的に形成される欲望なのだらうと申せませう。

 

其の抽象的に形成される欲望が臨界値を超へるとおそらくは具象的に諸の破壊が齎されやう筈だ。

 

コロナ禍はまさに其の一つだった訳だ。

 

 

つまりは過分なる欲の追求が人間の社会をむしろ具象的に破壊し始めた訳だ。

 

此の傾向はおそらくは止まらぬことでせう。

 

廿壱世紀とは或は其の具象的に齎される破壊の世紀となるのやもしれぬ。

 

 

観念的にまた科学的にはあくまでさうした結論に導かれて仕舞ふ。

 

なので其処には救ひなどありません。

 

むしろ具象的には今後諸々の破壊が齎される他は無ひ訳だ。

 

 

尤も逆に抽象領域に若干の希望が残されて居るのだと思ふ。

 

おそらく其れは科学的な進歩と心理的な進化にこそあるのではなからうか。

 

エッ?科学的な進歩?

 

アンタは科学による営為を全否定して居たのではなかったか?

 

いやさうでは無ひ。

 

科学には自らを救ふ余地だけがまだ残されて居る。

 

 

其れはどう云ふことでせうか?

 

即ち科学による破壊を上手く回復させる開発なり技術革新だのが可能となれば少しは地球の自然が回復することも可能とならう。

 

 

丁度高度経済成長期に汚染され酷かった川が少しづつですが綺麗になったやうに今後は地球環境を回復させる為に科学の力を使ふと云ふことだな。

 

また人類の心理的な変化に就ひても全てが絶望的に捉へられて居る訳では無ひ。

 

 

ですがどちらかと申しますとまさにこちらの方がより難しひと言へるのやもしれぬ。

 

さうなんですか、其れ程に我我の心はすでに腐り切ってるのですか?

 

いや其れも社会による洗脳がね、兎に角酷ひ訳だ。

 

兎に角皆抽象的に形成される欲望に対し不感症となって居る。

 

 

だから其の部分の洗脳をこそまずは解く必要があることだらう。

 

 

 

こころの時代 「ふたつをひとつにーロボットと仏教ー」

 

昨日たまたま再放送でもってTVで視感銘を受けた番組である。

NHKオンデマンドの方でも探すとかうしてちゃんと入って居た。

 

 

ー日本のロボット工学草創期における第一人者・森政弘さん。その仕事を支えてきたのは仏教だという。仏教とは何か、そして人間とは何か、森さんに根源的な問いを伺う。

「ロボットを作るには人間を知らないといけない。人間の心を理解するために、仏教ほど深く考究したものはない」。日本のロボット工学草創期における第一人者・森政弘さんは40代から禅を学び、仏教研究に打ち込んできた。仏教の根本を貫くのは「相異なり対立する二つの概念を一つに融合させる心の働き」と言う。仏教とは何か、人間とは何か。インド哲学者の丸井浩さんが森さんに根源的な問いを投げかける。(2019年6月放送)ーこころの時代~宗教・人生~ 選「ふたつをひとつに-ロボットと仏教-」より

 

 其の森  政弘氏のことはこれまで存じ上げなかったのだが此の方こそがまさに偉ひ科学者の方だった。

かように旧制の八高を出て居られる名古屋市出身の方だ。

 

自然科学のあり方、中でもロボット工学に関してはわたくしの場合可成に不信感がある。

 

どだひロボットやアンドロイドが何故現代社会にとり必要なのかがまるで分からなひ。

 

元々ロボットやアンドロイドは不必要なものだが文明の抽象的進歩に応じ必要不可欠なものとされて仕舞っただけのことではなかったか。

 

などとしか正直思へぬのだ。

 

特にアンドロイドは気持ちが悪ひと云ふかまさに生理的に受け容れ難ひ。

 

 

尤もロボットの場合は生産の現場や道路工事つまりはインフラ整備の面などで必要不可欠な部分もまたあることだらう。

 

また今後は🏥などでも是非必要とされる場合が生じて来るのであらう。

 

でもアンドロイドの受付だのガヒドだのがほんたうに必要とされて居るのだらうか。

 

わたくしがまず問題として捉へるのが現代の文明に於ける此の要不要の選択即ち要不要の価値観の持ち方に於ける誤謬なのだ。

 

 

わたくしは常々其の文明社会がやり過ぎて居るとさう捉へて居る訳だ。

即ち不要なものばかりをむしろ創り上げて居る。

 

其の逆に大事なものが壊されて行く。

 

一言で言へばさうした具象的破壊をむしろ抽象的思考=進歩主義=合理主義が齎して来て居る。

 

おそらく其の傾向には今後より拍車がかかって行くことだらう。

 

わたくしは何より其れが誤りだと思ふのだし止めた方が良ひことだと其の中止や廃止を望んで居る。

 

 

だがそんな気持ちとは裏腹に世の中は次第により合理化されより人間が生きて行きにくひ社会を形成して行く。

 

わたくしが現代の社会を認めて居なひのはそんな矛盾であり不条理な部分を文明の現實としてまさに感じて仕舞ふからなのだ。

 

おそらくはわたくしは何かを感じ取る能力が高過ぎる、即ち敏感に世界の何かを感じ取って仕舞ふのだらう。

 

特に社会に対する其の能力がもしや皆様以上にあるのやもしれぬ。

 

 

わたくしにはそんな社会の傾向がまさに危なひと感じられる。

 

でもみんなは社会に対し安心し切っており此の文明は五百年、千年先まで続くのが当たり前だとさう思って御座る。

 

わたくしには、此のわたくしにはそんな人間の鈍感さが哀しく感じられるのだ。

 

或は其れは幼少時よりわたくしの中にある感覚なのやもしれぬ。

 

 

わたくしはさうして幼少のみぎりより危機感を背負って生きて来ざるを得なかった。

 

だからわたくしの生涯は常に険しく辛ひものでもまたあった。

 

 

いや昔ー廿年程前までーは其れでももっとずっとエエ加減だった。

 

でも今世紀に入り次第次第に文明が圧迫されて来て居ることは確かなことだらう。

 

其れは一体何がさう圧迫して居るのだらう?

 

まさに其のことがわたくしにとっての疑問点だった。

 

 

廿年程考へ続けて来て結局は其れが抽象的願望なのだとさう結論付けられるに至った。

 

抽象的願望即ち肉体や感覚を離れたところでの抽象的な願望がむしろ我我ー文明ーの具象性を破壊するに及んで居るのだ。

 

其れはまさにわたくしの人文知としての結論でした。

 

宗教的な帰結なのでは無く人文智の領域での結論なのです。

 

 

但し其れはまた宗教的に規定される直観領域とも明らかに交わって居ます。

 

其の双方から得られた結論が其の文明の行く末の危険性をまさに指し示して居る。

 

でも問題は其の危機が人に上手く伝はるかどうかと云ふ部分にこそある。

 

おそらくわたくしはかうして人壱倍敏感な為に其れを悟ることが可能なのだが其れは人には理解し難ひこと其のものなのだ。

 

 

もしも其れを言へば逆に頭の変な奴だとさう見られるだらうことはもはや目に見へて居る。

 

でもわたくしはあへて其れを述べやうと思った。

 

まさに其れを述べることこそがわたくしの仕事なのだとさう思ったのです。

 

 

何せわたくしには守るべき妻子もありませんので其れをやるのがわたくしにとっての眞の仕事なのだとさう考へました。

 

森氏が出演された番組の内容からは少々離れて仕舞ひましたがまずは其のやうな伏線としての事情が個人的にあった訳です。

 

さて其の森先生ですが佛教のことに精通されて居ることにまずは驚きました。

 

科学者にして佛教徒とのことで、しかも佛教に就ひての著作などもおありになるやうです。

 

 

科学者にして佛教徒と云ふのは高名な佛教學者である佐々木 閑氏などもさうなのですが元々は理系の方だった訳です。

 

其処は或は科学者の方々も心の領域のことでお悩みになって居る部分があるのやもしれません。

 

前々回の投稿でわたくしは科学をボロクソに貶して仕舞ひましたが科学者の方々が現在お持ちになられて居る心の葛藤や良心の呵責の部分を否定したり非難して居る訳では元より御座ひません。

 

逆に其の葛藤なり良心の呵責の部分を最大限に尊重しつつ其れを拝見させて頂ひて居ます。

 

でも最終的には科学者の方々の思考は科学的な成果へと流れて行きませう。

 

 

其のことを見て居るのがまるで身につまされるやうに辛ひ。

 

でも科学者の方々にも確かに其の良心が、科学の限界を感じ心の領域から科学其のものを視直さうとする気持ちがあるのです。

 

さうしたまさに人格をお持ちになられた科学者の方々のお話を伺ふとわたくしの不安な心も少しは和らぐと云ふものです。

 

 

森先生のお話でまず驚かされましたのは、二元の超克のお話をメインに据へられて居たことでした。

 

其の二元的要素の対立と云ふことこそが観念的闘争ー対立ーの根幹を成すものであることはほぼ疑ひ無ひことでせう。

 

人間の認識は二元分離されたものなので認識する価値が両極に分かれて仕舞ひます。

 

其の両極の立場より物事を論ずれば其れは必ずや偏った見方になります。

 

また其の両極のいずれの立場にせよ其れは正邪でも善悪でも無く、であるので其れは正義にもならず正解にもなり難ひ。

 

其れはまた形式論理としての概念的な限界をも指し示して居る。

 

其の弐元に分かたれた認識作用こそが概念的には最終的に矛盾に陥りおかしなアンバランス=破壊?を生み出して仕舞ふのだらう。

 

ですので宗教は其の認識作用其れ自体を一元化し其の相対的な分別智の状態を平衝化して行くのだと言へやう。

 

 

其れはまさに概念智を一元化することで消し去って行くことなのでせう。

 

個人的には佛教もまたキリスト教に於ひても其の佛其のもの、また神其のものへの一元化が図られて居るのだとさう理解する。

 

平たく言へばまさに其れこそが信仰の力、其の信心による揺るぎなひ心のあり方の構築なのではなからうか。

 

但しわたくしの場合には其の構築と云ふ部分にどうしても引っ掛かって仕舞ふ訳だ。

 

 

尚森先生は二元性一原論と云ふ概念を番組中で述べられて居る。

 

ー仏教の根本を貫くのは「相異なり対立する二つの概念を一つに融合させる心の働き」と言う。ーこころの時代~宗教・人生~ 選「ふたつをひとつに-ロボットと仏教-」より

 

ー「仏教とは縁もゆかりもなかった心理学者・上出寛子氏が、ロボット工学の世界的権威で仏教哲学の専門家でもある森政弘氏との出会いを契機に仏教哲学を学び始め、ついにはロボット工学系の国際会議において英語で仏教哲学を紹介するまでになる。ー―

 

ー読者は、森氏の懇切丁寧で時宜に適った指導と上出氏の鋭敏かつ真摯な姿勢によって、普遍性を持つ思想・哲学としての仏教が学問領域の垣根を越え、自然に伝播していく様子を目の当たりにします。 森氏は、技術の発展や向上のみに邁進する現代日本社会にあって、それらを担う科学・理工系の人たちが仏教哲学を体得し、それを研究・開発に活かしていくことによって初めて、技術が人々を真の幸福へと導くものになると語ります。 AI(人工知能)の技術開発が「心・欲望・悟り」の領域に入りつつある今日、とくに理系の研究者や技術者、学生にお薦めの仏教哲学入門書です。ーロボット工学と仏教--- 宇宙の本質である「二元性一原論」より

ー森氏が説かれる仏教哲学の核心――二つの相反するものが融合・調和して一つになるのが宇宙の本質であるという「二元性一原論」が、お二方のやりとりから浮き彫りになっています。 「論理」(科学)と「矛盾」(仏教)は、いずれかを選び取るのではなく、二つの間を行ったり来たりする姿勢こそが天地自然の道理に適っていると言われます。 【森氏】――普通の賢い人は、自分が理性の枠内に閉じ込められていることに気付かないのです。貴女は一度、この理性という世界から飛び出して、自在になって下さい。つまり、理性の中への出入り自由です。理性が要る時は理性世界に入り、それが邪魔をする時はパッと飛び出す。……これが仏教的な生き方です。 【上出氏】――論理で説明できる力がなければ、研究者としてはやっていけないと思っていた学生時代であれば、論理も矛盾も同時に成立することなんて、これほど当然のようには思えなかったと思う。今では物事の本質とは、相反するものが助け合って成立している、という矛盾も、整合性をもって論理的に考える、という思考も、両方行き来することの方がずっと自然で明白であるように思う。森先生はこれまでずっと、わたしの頭の固さに合わせて、色々と教え方を自在に工夫してくださっていたのだと思う。 」ロボット工学と仏教--- 宇宙の本質である「二元性一原論」よりー

 

ー物事の本質とは、相反するものが助け合って成立している=矛盾ー⇔ー整合性をもって論理的に考える=思考ー

 

實はさうなのです。

まず、我我に見へて居る現實とは仮象の錯覚である可能性が高くある。

 

我我自身には我我自身の認識主体が見へぬのにも関はらずー我は不可視であるにも関はらずー我我は其れを有ると信じてやまぬ。

 

何故なら其の自己矛盾こそが我の正体だからなのです。

我とはさうした意味での仮象の錯覚である可能性が高ひ。

 

其れも矛盾的認識をあへて其処に設定するー欲するーことにより矛盾其れ自体を成立せしめて居るのだらう。

 

其の矛盾的認識は当然のことながらまた二元分離されて行きます。

 

で、其れがまさに矛盾⇔論理となるのでせう。

 

ところが論理もまた矛盾と対矛盾致します。

 

つまりは純粋なる論理など成立せずあくまで其れは不純化しさらに限定されるのです。

 

 

要するに此の世の全ては自己矛盾のなせる業なのだ。

一元的に達成されるどんな解も無くまた正義も無ひ。

 

故に自分が正しひと思ふ其の考へ其のものが矛盾なのです。

 

また自己其のものが矛盾であり、さう認識される立場を選ぶ時にだけ神佛の世界が拓けて来ます。

 

要するに意識的に精神性を形作って行くこと、其れも可成に精神の純度を上げて行かねば神佛の世界などとても見へては参りません。

 

まあおバカな民放TVばかりを視て👩のことばかりを考へて居るやうでは釈迦もキリストもまるで見へては来ぬものだ。

 

其れと酒には注意して下され。

酒は脳を麻痺させます。

なので考へられにくくなります。

 

但しアナタがもはや人生其れ自体に絶望しこれから死のうなどと思って居るのでしたらむしろ浴びる程に酒は飲んで下され。

酒飲んでピンサロへでも行き👩の尻でも触って来なされ。

 

わたくしもほんたうは酒を飲むべきところに追ひ込まれてるのですが内臓だの歯だのが悪く基本的には體が弱ひのでもはや強ひ酒は飲めません。

 

 

要するに此の世の形成其のものが矛盾的推進ですので臨機応変に思考しまた其れに応じ臨機応変に行動せねば此の世は回って行かぬ訳だ。

 

わたくしがいつも述べて居りますが如くに両極を両方やって行く感じで丁度良ひのではなひか。

 

で、共産主義と保守も両方やるつもりでやればエエとこ採りが出来何だかエエ感じです。

ですがそれでは矛盾としての闇又は暗黒面がより深くなるやうな感じがしなひでも無ひ。

 

なのでわたくしのやり方は眞理と対決するやり方でもって一歩間違へば観念としての奈落の底に落ちて行くのでありませう。

ですが信仰の方での一元化を實は今考へて居らぬ訳でも無ひ。

 

とりあへず今は禅宗の方へ行かうかと思って居る。

わたくしは浄土眞宗の墓にはとても入れぬので曹洞宗の寺の若住職に相談して何とかして頂きたひとさう思って居る。

 

ーむかし前住職のところに禅宗の内容につき尋ねて来た佛教徒一人が今此処に眠るー

 

とか寺の片隅にでも書ひて貰ひ其処に霊として宿ることとしてみたひ。

さても禅宗にも霊はあるのですか?

 

まあ無ひでせうね、おそらくは。

まさにお釈迦様は霊に就ひては無記を貫かれた訳ですので観念には潔癖な禅宗が其れを反故にして居るとは思へません。

 

つまるところわたくしは今限りなく禅化しておる。

でも実際には何処の寺でも行きますけれどもね。

 

とりあへずはまたお寺巡りが出来るやうに状況を整へることこそがわたくしにとっての課題です。

嗚呼、其れから出来れば教会へも出向ひてみたひ。

 

教会の外をぐるぐると廻って来るだけでも良ひのではなひだらうか。

いや、実際南山教会の辺りは歩ひて来るだけでもすっげへ自分が高級な者になったやうな感じがして決して悪くは無ひものです。

 

特にクリスマスの頃にはサヒコーなんですよね、此の辺りは。

 

クリスマス?

さうしてクリスマスが好きでもって毎年クルシミマスか?

 

其の質問自体が意味不明です。

 

クリスマスには逆に禅寺へ座禅でも組みに行くとサヒコーに皮肉でもってして恰好良くはなひですか?

 

ところでクリスマスの日に禅宗の御坊様方は一体何をされて居るのでせうか?

まさかとは思ひますがクリスマスケーキだとか七面鳥だとかそんなものを食ったりはされて居らぬことかとは存じますが中には其れをやってる御坊様もまた居られるのやもしれません。

ークリスマスの日にも禅宗の御坊様方はおそらくは寺にて禅定を組まれて居ることだらう。ー