嗚呼、生臭や、生臭や。
其れも其の浄土眞宗の永代墓には金輪際入れぬとさう仰る訳の其の分別こそが生臭や。
だからソコんとこは、本来なれば無一物。
人間は何も持って無ひのであるからほんたうはイチローも真央ちゃんも何も持って無ひ。
持って無ひのに持って居る。
とさう考へる人間の認識其のものが倒錯の極みなのさ。
でもみんなには所詮其れが分からなひ。
みんなはさうして獣になってるから決して其れが分からなひのだ。
獣=悪魔=👿だよ。
😸じゃあ無ひよ、其の👿だよ。
みんなはさうして所詮は動物なのさ。
動物だからみんなはすぐに👩に飛び付く。
さらに大金にも群がりたがる。
でもソコんとこはおまへも一億円呉れといつも言ってるだらう?
確かに言ってますよ。
でもわたくしに必要な一億は其れはソフトランディングする為の大金ですよ。
ソフトランディング?
さうしておまへは世を捨て人間を捨て山へ籠らうとして居るな。
さうなんです。
要するに其の世捨ての為の資金なので、其れを読者の方々にお布施して頂かうとさう云ふ訳だ。
おまへは其れを本気で考へて居るな!
まさか本気じゃあ無ひですよ。
タダ話をより嫌らしく面白く粉飾して居るだけのことだ。
まあさうだらうな、ワシもさうだらうなとは實は思って居た。
こんなバカバカしひ会話の間を持たせる為の作文上の手練手管であること位はとうの昔に気付ひて居た。
ところで今おまへは何を考へて居るのだ?
読者の方々は兎に角其れだけを早う知りたひのだ。
一刻も早う其の心の内容を吐露せよ。
其れも全部を吐け。
全てを曝け出しさうしてスッ裸になれ。
心の恥部を須らく此のネット上にブチまけるのだ!!
一体何をそんなに興奮して居るの?
第一此処は何でこんなに力が入ると言ひますか激高し易ひところなの?
結局は其れも其の手練手管としての書き方の問題でせうか?
無論のことさうですよ。
全ては作文上、創作上での計算ずくのことよ。
元より此処はわたくしの文學の場なのだ。
だから其のフィクションとしてのノンフィクション文學の場なのだ。
つべこべ言はずに早う裸になれ。
ヘヒ、分かり申した。
じゃあこんなんですうー。
ウヘェッ、汚ねへ。
しかも臭へ。
もうエエ、おまへの裸などもう誰も見たくは無ひ。
早うおまへの其の心の中をば開陳せよ。
ヘヒ、じゃあこんなんですうー。
アアー、クラクラクラクラ。
アアー、何だこの万華鏡のやうな超宇宙の様は。
まるで胎蔵界と金剛界が合はさったやうな此の色とりどりのさうして奥深ひ両極兼備での世界!
まるでキリスト教と佛教が融合したかのやうなおおまさに豪華絢爛たる桃源郷のことぞ!!
もしやコレぞかのエル・カンターレとしての神の領域のことでは無ひか?
ですから教祖様、さうして自らを神格化するのは是非止めて下され。
宗祖様も是非自らを神格化するのは止めて下され。
ズバリ申しますれば人間がじぶんを神格化する宗教こそが邪教です。
逆に正教とは、人間がじぶんを肥溜めに落とす宗教のことです。
つまりは人間をサイテーと見做す宗教のことだ。
ではおまへの奉ずる宗教は皆人間をサイテーと見做して居るとさう仰るのか?
さうです、佛教にせよキリスト教にせよ其れは然りです。
或は其の部分ではアニミズムなども其処に属するタヒプなのやもしれません。
但しアニミズムー神道も其処に含めるーには人間中心主義ー人間中心ーの価値観が御座りません。
其処では常に人間共は神々の僕です。
では佛教にせよキリスト教にせよ人間中心主義だとさう仰る?
實はさうなんです。
其れも佛陀御自身の教へとキリスト御自身の教へに於ひて其の人間中心主義がまさに成立して居やう。
でも人間中心主義はイケナヒので文化相対主義へ移行すべきだとおまへが尊敬する文化人類學者レヴィ・ストロースはかって述べたのでは無かったか?
まあ構造主義はまさに其の部分を批判して行った訳だ。
絶対的に規定される眞理など此の世には無く相対的文化的に構造がさう規定されて居るばかりなのだと。
ですが、所詮構造主義に人間を救ふことなどは出来ぬ訳だ。
ズバリ申しますれば本気でもって人間を救ふには人間中心主義の立場を取るより他に御座りません。
なのですが、仏陀による人間中心主義とキリストによる人間中心主義は対概念として成立するものだとも考へられやう。
佛陀の目的ー煩悩まみれの悪ひ世からの脱出=成道=成佛=涅槃=永遠の幸福の成就
キリストの目的-欲望まみれ(罪深ひ欲望)の悪ひ世からの脱出=神への帰依=天國=死後の永遠の幸福の成就
此処でよーく考へてみませう。
佛陀の目的とキリストの目的とは實は瓜二つなんです。
ですが違ひもまた御座ります。
最大の違ひは、佛陀の場合には其の永遠の幸福の成就=本質的な幸福の成就を必ずしも死後には置ひて居なひと云ふことだ。
でも別に死後の永遠の幸福の成就を否定して居る訳でも御座りません。
対してキリストの場合には其の永遠の幸福の成就=本質的な幸福の成就は必ずや死後に達成される必要がある。
なんとなれば最後の審判による生前の行ひによる魂の選別を受けねばならぬからなのだ。
なんですが、結局此の世から「逃げる」と云ふ意味ではほぼ一致して居るものと見ておくべきでせう。
但し同時に「逃げぬ」と云ふ価値も其処には醸成されて行く訳だ。ー「逃げる」⇔「逃げぬ」ー
佛教にせよキリスト教にせよ心を統御することにより眞に生きることを目指す其の教への内容です。
眞に生きるとは、現世を只楽しく明るく前向きに生きることではあり得ません。
現世を只楽しく明るく前向きに生きることを近代社会は奉じて来て居ますが其れは人間の抽象的な願望を具体化ー合理的に具体化ーしたことの結果によりさう人間が洗脳されたものでしか無ひ。
さうでは無く、人間が眞に生きるとは、現世を辛く苦しくもうほとんど死んで生きること其のものであるべきだ。
だからソッチの方がむしろ「正しひ」=「善」の捉へ方=善なる認識なのだ。
なので其れが分かって居なひ奴等は所詮は獣であるより他は無ひ。
其の「正しひ」=「善」とは、人間の観念がさう決めてさう「正しひ」=「善」と判断されるものには非ず。
前々から申して居りますやうに、「正しひ」=「善」とは「正しく無ひ」=「悪」との対概念なのだ。
だから其のやうな分別的概念の段階では「正しひ」=「善」であることを規定することがそも不可能となる。
さうでは無く急迫した其の罪への意識か又は其の無明への呵責の念が生じた時にのみ神佛への扉が開かれ其の時に初めて「正しひ」=「善」であることの価値が人間の心の中に生ずるのだ。
其処を平たく申しますれば、おバカ人間がおバカに罪を重ね煩悩まる出し、其の煩悩まみれでもって其れもスッ裸でもって踊り狂って居る其の様こそがまさに獣であり現代文明の實相であり實像です。
なので其の侭では地獄へ堕ちることからは絶対に免れ得ぬことでせう。
なので佛教にせよキリスト教にせよちゃんと地獄が用意されておりますよ。
其れも其の地獄とは嗚呼まさに此の現代文明の為に用意されたやうなものではありませぬか!
うはーあ、怖ひ。
何が怖ひってこんなに地獄が身近になるともう怖くて怖くてお外も歩けなひ。
いやだから最近は閉じ籠りの方々もまた多くなって居るやうですね。
ですから其れは当たり前のことで別に非難されるやうなことではありませんね。
さても其の「逃げぬ」と云ふ価値に就きもっと詳しく説明して下され。
宜しひ、では申しますよ。
佛陀の目的とは其れ即ち人間が自力にて獣ー煩悩まみれーであることを止め聖なる心の段階へ達しズバリ現象であることを離れることだ。
キリストの目的とは其れ即ち人間が他力ー神ーにて獣ー罪深さ其のものーであることから解放され聖なる心の段階へ達し現象であることを離れることだ。
其のキリスト教の場合でも現象であることを離れるのか?
まあ其の辺りでの厳密な解釈は教会にて確かめて来ねばなりませんが一応わたくしが現在理解するところでのものはさうしたことなのだ。
さうして天國へと再生され神の御元で永遠に生きると云ふことは霊的な次元での現象であり此の物質的な次元での現象とは元より異なって居やう筈。
佛陀の目的→成佛を目指す
キリストの目的→天國を目指す
此のどちらもが實は現世利益的な目的ではありません。
むしろ現世利益を徹底的に排除したところに生ずる価値観の成就を共に表して居ることだらう。
つまりは共に現世を半分死んで生きる訳です。
僧侶の方々、また神父様、其れにさうした本職の方々に準ずるやうな信心深ひ方々ならば其の「半分死んで生きる」ことの意義が理解されやう筈だ。
ところが、巷は相変はらず獣其のもの、其れも上は國會議員から下は幼稚園児に至る迄みんなでもってまさしくケモノだ、其れにいつもウンコたれだ、ほれ👩に飛び付け、やれ百万欲しひ、うはあ家だ、墓だ、社会的地位だ、コレでもってオレラはもう安泰だー。
ばか、さうかうするうちにかくて社会が崩壊の危機に存しておりますがな。
ですから其の馬鹿は死んでも治りませぬ。
哀しひ哉人間の馬鹿はたとへ死んでも治らんのです。
其の死んでも治らん罪をまた無明を、御救ひ下さる佛陀やキリストの方を向くことは意外と困難です。
何故なら現代人がもうほとんど動物化=獣化されて来て居るからなのだった。
そんな獣共は宗教を理解出来ぬ心の状態にあるが故にむしろ其れをシャットアウト致します。
其の聖なる心のあり方がむしろ己の心のあり方にとり煙たひものなので其れがじぶんの心に入り込むことを毛嫌ひさへ致します。
グ~オウ、ギャワオオウー。
ああ、今日もまた獣人間共が其処らで吠へまくって居るな。
其れにつけてもイヤな光景だねへ。
もはや哀しみを通り越して痛ひね、さう何処かが何だか痛ひ。
アア、胸が痛ひ、心が苦しひ。
もう死ぬ、死ぬるぞ、もはや涅槃が眞近だぞ。
ひょっとして宗教詩人さんは生きて居るうちにはや解脱なさったのか?
いや、さうでは無ひ。
あくまで人間は解脱出来ぬと云ふことを了解したに止まる。
自力にて解脱出来ぬからこそ宗教は皆他力本願化して行ったのであらう。
では他力救済は必然として齎されしことなのですか?
無論のこと其れは必然です。
其処で重要なことは、
自力救済⇔他力救済
であることなのだ。
其れは救済と云ふ概念の二元分離ですので、あくまで対立であると共に関連付けられても居ます。
つまりは相剋し尚且つ相即する関係にあり単独にて成り立つ概念規定には非ず、です。
なる程、すると自力救済を奉ずる古ひタイプの法解釈と大乗思想はまた相剋し尚且つ相即する関係にある訳だ。
其れにキリスト教もまた其の他力救済の中にしかと含まれて行く訳だ。
重要なことは其処での優劣は基本的に論じられぬと云ふこととなります。
絶対に正しひ教へ=正教と云ふものが實は存在して居りません。
でも問題が切迫した場合には宗教の正邪もまた決められるのですね?
だからまさに其の正しき宗教が佛教及びキリスト教だとさう申して居ります。
其れもエル・カンターレなどでは無く?
さうエル・カンターレなどでは無ひ。
全く、かの人間共はほぼ永遠に生臭ひ。
其の様やまるでアホじゃねへのか?
もう其の様や哀しみを通り越して痛ひ。
ああ痛ひよ、こんなに宗教詩人の心が腐ってる。
いや痛んでる。
宗教詩人さん、是非死ななひで下され。
是非此の侭御説法を続けて頂きたひ。
此の腐った世の中には心の飢へた人々が沢山居ます。
其の方々にどうかお示し下され。
其の狭き門より入る神の世界を。
いや、違った。
其の永平寺の門より入る佛の世界を。
分かり申した。
アナタが其処まで殊勝な心掛けにて我が心中の門を敲ひた。
其の仏道修行への門をたった今さうして叩かれた。
さらば門は開かれやう。
眞理は今此処に説かれやう。
だがおまへはかの永平寺を私物化して居るな!
此の魔道の佛教徒めが!
さてもおまへは一体誰だ?
おまへは眞理を食ひものにして栄へる👿だな!
實はさうなんです、かうして常に悪魔は居ます。
神又は佛⇔👿
重要なことは事實として此の現實が其のやうに分かれ常に相剋し且つ相即して居ると云ふことなのだ。
なので人間の強欲ー👿ーがあればまた他方に神佛がおはすと云ふことなのです。
逆に言へば神佛がおはすが故に悪魔もまた現象して来ざるを得なひ。
人間の心とは其のやうな善悪としての複合物なのです。
なのでじぶんだけが善の存在である、か又はじぶんだけが持ってる、又はじぶんだけが正しひとさう考へがちなのは實は須らくが誤りでの認識です。
正しくはじぶんもまた誤りに陥ることがある不完全な人間なので神や佛に是非救って頂きたひ、と云ふ認識でもって丁度良ひ位のものです。
尤も本来ならば釈尊がお説きになられた自力救済でも勿論宜しひのですが、其れは人間にとり事實上不可能に近ひ認識なので他力救済にて救って頂く他無ひのであります。
では大乗各派もまた〇なのですね?
勿論〇です。
キリスト教もまた〇なのですね?
勿論〇です。
では✖なのは一体何でせうか?
✖だとも決め切れぬのですが、現世利益的な宗教には是非気を付けるべきだと個人的には思ふ。
特に壺を売り付けたり高額なお布施を要求する宗教は結局のところインチキ宗教でせう。
まるでアンタみたひな宗教と云ふことですね。
さうでした、どうもすみませんでした。
でもわたくしのはあくまで文學なのでまだ一銭も貰って居ません。
其れも何で購読料を払はなひのだ、其れも毎回毎回読み逃げしやがって。
また読者に対し酷ひことを言ひましたね。
いへ、其の読者様こそが神様です。
また其れは単なる比喩、形容では無く眞實にわたくしにとっての神様なのだ。
其れもわたくしをしてかうしてネットラヒターの一人にして下さった神様だ。
アアまるで神様、佛様、読者様だ。
何ともお世辞の上手ひ奴だな。
でも其れが本音なのだよ。
ところでおまへは何故其の神の読者に対し説法するのだ?
いやだから其れが文學なのです。
文學はまた宗教とは違ふのだ。
其の他力救済が〇なのであれば、其の浄土眞宗の永代供養墓でも良さそうなものだがさてもおまへは一体何に拘って居るのだ?
其れはズバリ禅に対し拘って居るのです。
さうか、でも禅など馬の糞なのだらう、ならばもう捨てちまへ、そんなのは。
でも其れはイヤです。
イヤ?
イヤ。
人間が所詮は動物である、👿=獣であるのであれば、昨今に於ける社会破壊の様相にも妙に合点がいくと云ふものだ。
其の人間の行ひが獣臭ひのを何とか治せませんのですか?
いやだから其れは人間が抽象的に規定される欲を理性的に抑へることで止められるのです。
ですが其の理性もまた二元分離してまさに逆方向でもって使はれて仕舞って居る訳だ。
さうか、結局は二律背反の世界、まさにアムビバレンツな不均衡へと文明世界の全ては吸ひ込まれて行くのですね。
其の背反するものにも様々があり其の違ひを理解するだけでもまさに大変なのだ。【矛盾】と【二律背反】と【パラドックス】の意味の違いと使い方の例文
ー矛盾と二律背反とパラドックスの違いを分かりやすく言うと、矛盾は二つの物事の辻褄が合わないこと、二律背反は正反対の意味の二つの命題がどちらも正しいこと、パラドックスは正しいようで間違いなこと、または間違いなようで正しいことを意味しているという違いです。ー【矛盾】と【二律背反】と【パラドックス】の意味の違いと使い方の例文より
其の二律背反と云ふものがまさに此の現象界を規定する矛盾律と云ふか根本での問題であるやうに思はれて参ります。
現象界とは畢竟其の二律背反としての塊なのだらうか?
ー
二律背反とは
二律背反とは、正反対の意味の二つの命題の根拠がどちらも同じくらい正しく、どちらか一方に決定することができず、両方認めなければいけない状態のことを意味しています。
ややこしい意味ですが、それもそのはずで、二律背反という言葉は、主に哲学の分野で使われるアンチノミーという言葉の訳語で、日常生活ではほとんど使われない傾向があります。
二律背反では、命題「AはBである」が二つあり、反対のことが言われているため、同時には成立しません。これだけだと矛盾のようですが、ふつう、矛盾と二律背反とは意味が異なります。
二律背反の例
二律背反のもっとも有名な例である、哲学者イマヌエル・カントのもので考えると、二律背反が矛盾と違うことが分かりやすくなります。カントは4つのアンチノミーを提示しましたが、ここではその1つを使って考えていきます。
カントの時代、世界に果てがあるのかないのかというのが、大きな問題となっていました。そんな時カントは、「世界は時間的に始まりと終わりがあり、空間的に限定される」と「世界は時間的にも空間的にも限定されている」という二律背反を提示しました。
この二律背反でカントが言いたかったこと、つまり意図が、二律背反という言葉の意味にとって重要です。カントは、ごく簡単に言ってしまえば、どちらが正しいことなのかは決定できないのだから、争っても無益であると説いたのです。
ここで矛盾の意味を確認しておくと、矛盾とはある人の意見や言動に首尾一貫性がないことです。カントは、別々の人々がそれぞれ一貫性をもって主張している、相反する二つの主張に、少なくとも彼の時代の観測技術やデータでは決着がつけられないと説いたのです。
結論としては、矛盾の場合をごく簡単に考えれば、ある人が前後で食い違ったことを言って一貫性がないことを意味していて、二律背反の場合は、主張Aの人と主張Bの人が、それぞれどちらも正しいので、どちらかに決めることができない時のことを言います。ー【矛盾】と【二律背反】と【パラドックス】の意味の違いと使い方の例文より
ーどちらが正しいことなのかは決定できないのだから、争っても無益である。ー
ー結論としては、矛盾の場合をごく簡単に考えれば、ある人が前後で食い違ったことを言って一貫性がないことを意味していて、二律背反の場合は、主張Aの人と主張Bの人が、それぞれどちらも正しいので、どちらかに決めることができない時のことを言います。ー以上より
ー正命題(有限説)「世界(宇宙)は時間的に始まりをもち、空間的に見ても限界によって囲まれている」
反命題(無限説)「世界(宇宙)は始まりをもたず、空間におけるいかなる限界ももたない。時間的にも空間的にも無限であるー宇宙は無限か、有限か カントの出した「答え」より
ーこのように、有限説も無限説も誤っていて、どちらも「正しい」とはいえなくなってしまいました。宇宙は有限か無限かという問いは、決して答えの出ない問い、つまりアンチノミーだということになります。ー宇宙は無限か、有限か カントの出した「答え」より
左様に背理法にて矛盾が証明されアンチノミーには答へが出なくなって仕舞ひます。
同時に其処には論理的思考即ち理性による限界点が指し示されて居るかのやうだ。
正命題(有限説)⇔反命題(無限説)
①宇宙は無限か、有限か
②物質を分解すると、これ以上分解できない究極要素に至れるか否か
③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか
④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か
ー宇宙は無限か、有限か カントの出した「答え」より
尚わたくしの現在の理解では正命題と反命題はまた相剋し相即するのではなかろうかと思ふ。
また其れは論理的には成立し得ぬものが實は此の世に於ける大部分を占めて居り其処からの作用なり何なりにて形作られて居るものの方が實はより大きひのではなからうか。
其れが神秘主義なのかまたさうでは無ひのか其れさへも分からぬのだけれど、つまりは文學者の自己否定を認める分左様な考へ方をあへて其処に選択して居る訳だ。
かうした形而上學上の問ひは元より宗教の課題では無く何故ならば宗教は人間による思考と行ひをまさに正す為にあるものだからなのだ。
つまりは世界がどうあれ、まさに獣の如くに抽象的な価値の追求を行へば早晩人間の社会は窮地へと追ひ込まれやう。
其の窮地は人間の社会其れ自体が拵へるのであり他のものが其処に導く訳では無くつまりは全てが自業自得としての縁起の結果なのだ。
なので今まさに進みつつあるコロナ苦、此れがまさに其の人間の欲望の追求による自己崩壊への端緒であらう。
ーカントは、この第一のアンチノミーを、矛盾対当ではなく反対対当であるとし、両方とも偽の命題なのだということによって、このアンチノミーを解消してしまうのである。
対立関係にはまた、両方とも真でありうるものがある。カントはそれを小反対対当といった。そうしたうえで、四対のアンチノミーのうち、第一と第二は反対対当、第三と第四は小反対対当であるとして、これら四つのアンチノミーがは、理性の誤謬による産物なのだというのである。
では何故、理性はこのような誤謬に陥るのか。それは、先に誤謬推論のところで指摘したのと同じような過ちを、理性が犯すからだとカントは言う。しかしカントにとって、こうした誤謬は理性にとっては避けがたいものなのである。
世界の時間的な端緒と言い、空間的な限界と言い、それらは直感によってとらえられるものではなく、あくまでも理性による推論の産物である。その推論の産物に過ぎないものが、あたかも客観的な実在として存在するように考える、ここに誤謬の原因がひそんでいるのだとカントは言うわけなのだ。我々にとって世界とは、あくまでも現象としてあらわれる限りでのものにすぎない。それをあたかも、現象を超越した物自体としてとらえるところに、そもそもの問題の端緒がある、というわけである。ーカントのアンチノミー(二律背反)より
其の現象は實在するものでは無ひと遥か昔に釈尊が見抜ひて居た訳だ。
まさに其れはじぶんによる錯覚のお話にて實在しなひのにも関はらず其処に大きな価値を置ひて仕舞ふことで人間は誤った認識に達して仕舞ひ易ひ。
と云ふか普通はさうしてみんなが誤るのだ。
其の誤りをこそ正せと仰ったのが釈迦とキリストだった訳だ。
現象は左様に何処にも拘るべきところの無ひ誤謬其のものなのだ。
でもまさに今見へてますが、此れが世界の全てで、であるからして墓も家も都市も人生もより大きひ方が良ひのですう。
ばか。
そんな錯覚などより小さくなくてどうするのだ?
おまへは實在などして居なひのでたった今より何カ月も断食して死に至るべきだ。
あー、言ったな、つひに言ったな、人権無視の発言を。
おまへの正体は我我常識人を惑はす👿だらう。
だから悪魔が居るから反対方向にまた神がおはすのだ。
第一悪魔は堕天使でもってして元々は神の眷属だった筈だぞ。
なので兎に角関係が深ひ、むしろほとんど親類である。
さうしてとどのつまりは相剋し且つ相即しておる。
神⇔👿
ーところで、カントにおいては、アンチノミー論は理性の否定的な活動を示すものであったが、それを理性の肯定的な活動と捉えた思想家がいる。ヘーゲルである。ヘーゲルの弁証法は、カントのアンチノミー論を踏まえたものなのである。ーカントのアンチノミー(二律背反)より
尚わたくしはかのヘーゲルが大嫌ひだ。
其れもかのデカルトと並び大嫌ひなのだ。
そんなヘーゲルの理性肯定論こそはまさに頭がおかしひぞ。
わたくしはかうして好き嫌いがハッキリして居り其れ故にか意思決定の方もどう思はれやうがズバッと出すタヒプなのだ。
なのだが此の世には論理にては割り切れぬ何かが確かにある。
でも急迫した問題に関しては常に正邪、善悪の区別を其れこそ選択的に選び取ることが出来やう。
此のコロナ苦にせよ地球温暖化の問題にせよ其れは社会が犯した選択の誤りを如實に示すものだ。
人類よ其のばかを止めて早う断食せよ。
其の即身成佛への長きに亘る断食の道のりを一度位は考へてみよ。
ではおまへ自身がさうして即身成佛したらどうか?
いやわたくしは一応は何でも食ひますのでなかなか死にゃあしなひですよ。
其れにわたしゃあばかでも無ひしコロナ苦にせよ地球温暖化の問題にせよまるで関知してなど居りません。
エッ?
社会のみんながかうして苦しんでるのにまるで関知せずか?
エエ、知りませんのですよ、そんなコトまるでもってして知らんはな。
一体其れは何故だ?
かうして社会が嫌ひだからだよ。
其れに人間も嫌ひなんだやう。
でもおまへコロナに罹ったら一体どうするのだ?
🏥で助けて貰ひます。
でもおまへを助ける🏥など何処にも無ひぞ。
いや、其れをやると人権無視でもって即社会はわたくしから訴へられますよ。
さうか、ではたとへ👿でも助けねばならんのだな。
其れもまた厄介なことだのう、つくづく厄介な奴だのう。
みなさん、気を付けませう。
かうして宗教家のやうなフリをしつつ世を乱すやうな思想を語る輩が必ずや居るものです。
ところでエル・カンターレこそは最高神なのですか?
知りません、そんなコトは。
其れに興味もまるで無ひのだし。
でも其の幸福の科学のポスターは良く共産党のポスターと共に貼ってあったりも致します。
結局貧乏家が其れを貼ってるのでせうか?
いや必ずしも貧乏家が其れを貼ってる訳では無く社会の現状を変へたひ向きが其れを貼ってるのではなからうか。
でも幸福の科学も共産党も共に社会を変へられずに結局はコロナウヒルスによりさうして社会がやられて行くのです。
其の壊滅の様を見ながらひょっとして喜んだりして居なひか?
其れもわあ!とかへへへとか言ひつつ喜んでるのだらう?
金輪際喜んでなど居ません。
でも、結局は、
うふふふふふふふ、
ふふのふ、…なのですかねー。